気づいたら、走っていた。
観覧室の扉を押し開けて、廊下を駆け抜けて、階段を二段飛ばしで駆け下りる。
ぱこん、と足元で間の抜けた音がした。右のサンダルが脱げて、階段をころころと転がっていく。
拾う暇なんてない。片方だけ裸足のまま、そのまま走った。床が冷たい。足の裏に、小石みたいなざらつきが食い込む。
「ママ待って! 速い、速いってば!」
後ろから、ルビーの声が追いかけてくる。転がっていった私のサンダルを拾ったらしくて、ぶんぶん振り回しながら走ってくる気配がした。
「ルビー、走るな! 転ぶ!」
「アイ! 階段、階段っ! 飛ぶんじゃないわよ! 危ないってば!」
アクアの声。ミヤコさんの声。かつかつかつ、と鳴る、ヒールの音。
ごめんね。あとで、いくらでも怒られるから。
でも、今は、待てないの。
息が、あがる。胸の奥が、焼けるみたいに熱い。足がもつれそうになる。運動なんて、本当は得意じゃないのに。
それでも、止まれなかった。
走りながら、私は、ずっと思い出していた。
あの子のことを。
出会ってから、今日までの、ぜんぶを。
◇
最初に見たのは、瞳だった。
部屋のドアを開けた瞬間、言葉が出なくなった。
黒い髪の、小さな男の子。背筋をこわばらせて立っていて、その目が、深くて、昏くて。
泣いて、泣いて、泣き続けて、涙が枯れた頃に鏡で見た、光を失った私の目と、同じだった。
——この子は、あの日の私だ。
そう思った途端、いつもの嘘がすらすら出てこなくなって、慌てて笑顔を貼りつけた。
「ご、ごめんね〜。あまりにも可愛くて、言葉が出なかったよ〜」
嘘じゃない、という部分だけが、少しだけ本当だった。
「えっと……真珠です」
蝋燭の火が風に揺れるような、か細い声だった。
私はしゃがんで、目線を合わせた。
「今日から姉弟だね、真珠くん。お姉ちゃんでいいよ」
「……お姉ちゃん」
「うん。よくできました」
頭を撫でると、強張っていた肩が、ほんの少しだけゆるんだ。
小さな頭だった。私の掌に、すっぽり収まってしまった。その小さな身体が、いつか、私の世界のぜんぶを、包んでしまうなんて。思いもしなかった。
あの頃の私は、「アイシテル」の意味を知らなかった。
ステージの上で何百回も言ったのに、口の中で転がるだけの、空っぽの音。
その空っぽの音を、いちばん近くで、嘘のかけらもない目で見つめていたのが、あの子だった。
◇
十六で、お腹に命ができた。
怖かったのは、世間のことじゃない。バレても、炎上しても、社長がなんとかしてくれるでしょ、くらいには思っていた。
私が怖かったのは、たったひとつ。
産まれてくるこの子たちを、愛せなかったらどうしよう。
お母さんに愛された記憶がない。手を上げられて、最後は迎えにも来てもらえなくて、そのまま捨てられた。そんな欠陥品みたいな私が、ちゃんと「母親」になれるのか。腕に抱いたとき、何も湧いてこなかったら。また、顔だけにこにこ貼りつけて、「アイシテル」と言うのか。
夜、ひとりでお腹を撫でていると、その想像が、冷たい刃物みたいに胸に刺さった。
そんな夜だった。
社長に怒鳴られたあとの事務所で、ソファの端に膝を抱えて、私は「大丈夫だよ〜」と笑っていた。マグカップを持った真珠くんが、隣に座った。ココアの甘い匂い。器を両側から包む、小さな手。
「お姉ちゃん、嘘はだめだよ」
見抜かれた、と思った。
あの子の瞳には、嘘がひとかけらもない。だから、私の嘘は、全部そこに映ってしまう。
「僕は、お姉ちゃんのことを嫌いにならないよ」
胸の奥で、固く凍りついていたものが、音を立てて溶けた。
……ずるいよね。
七歳の子が、どうしてそんなことを、真顔で言えるんだろう。
その日、私は初めて、味方ができた。
この子が隣にいてくれるなら、怖いままでも、進める気がした。
診察室で、先生に「相応の覚悟が必要だよ」って言われた日もそう。社長が眉間にしわを寄せて、空気がずしんと重くなった日。
椅子の端っこに、小さな手が、ちょこんと置かれた。
「家族が増えると、すごく楽しいよ。僕も前は一人だったけど、ミヤコさんやおじちゃん、それにお姉ちゃんに出会ってから、毎日がすごく楽しい」
どんな理屈も、どんな覚悟も、あの一言には勝てなかった。あの小さな手が、私の「怖い」を、少しずつ、ほどいてくれている。
産むことを決めて、連れていかれたのは、山あいの小さな町だった。
窓の向こうは、濃い緑の稜線。夜になると、星が、信じられないくらいたくさん出た。
入院中の毎日は退屈で、でも、真珠くんが来る日だけは、特別だった。
「お姉ちゃん。体調は大丈夫?」
「大丈夫だよ〜。真珠くんが入れてくれるココアがあれば、百年生きられる」
「それは、言いすぎだと思う」
ココアの甘い匂いが、白い病室を、ゆっくり塗り替えていく。
私は、それがだいすきだった。
出産の少し前の夜、私はあの子に、お腹の子たちの名前を教えた。
「真珠くんの名前を、少しだけ真似たんだよ。宝石の名前。真珠くんみたいに、優しい子になってほしいから」
あの子は、目をまるくした。それから、照れくさそうに視線を落として、小さく言った。
「……僕、そんなに優しくないよ」
「優しいよ。お姉ちゃんが言うんだから、間違いない」
ココアのカップを持つ手が、ほんの少しだけ、震えていた。
出産の日、社長には止められた。
それでも私は、真珠くんに、近くにいてほしかった。
分娩室の白い光。看護師さんたちの声。
痛くて、怖くて、天井がぐるぐる回って。波みたいに押し寄せる痛みの合間に、私は手を伸ばした。その手を、小さな手が、ぎゅっと握り返してくれた。
「お姉ちゃん」
「……大丈夫、だよ」
「うん。ここにいるよ」
嘘の「大丈夫」じゃなかった。あの子の手が、そこにあったから。
産声が、部屋に響いた。
一人。もう一人。
汗でぐしゃぐしゃの私の胸の上に、小さくて、あたたかくて、壊れそうなものが、ふたつ、そっと置かれた。
あ、と思った。
胸の奥で、何かが、ぱちんと弾けた。
何も湧いてこなかったら、どうしよう。そう思っていたのに。
胸の奥から、あふれて、止まらなかった。名前のつかない熱が、全部、この子たちに向かっていく。
——あいしてる。
初めて、口の中で転がるだけじゃない音がした。
それが「愛」だと、まだ私は、ちゃんとは分かっていなかったけれど。
「真珠くん。この子たち、抱っこしてみる?」
「いいの?」
看護師さんに手伝ってもらいながら、あの子は、恐る恐る、赤ちゃんを抱いた。首を支えて、落とさないように胸に寄せる。目を丸くして、それから、ゆっくり瞬きをした。
「そう、お兄ちゃん。よろしくね」
「お兄ちゃん……」
「うん。今日から真珠くんは、この子たちのお兄ちゃんだよ」
あの子の目尻が、ふわりと温かくなるのを、私は見た。
昏かった瞳に、初めて、小さな光が灯った気がした。
「お姉ちゃん。ありがとう」
お礼を言うのは、私のほうなのに。
あの子が何を思っていたのかは、今でも、すべてはわからない。
それでも、私は、あの子の手の温度を、一生忘れないと決めた。
◇
それからの毎日は、全部、宝物みたいだった。
一緒に、卵焼きを作った日。
踏み台に乗った真珠くんが、真剣な顔で菜箸を握って、私はフライパンの前で腕まくりをした。
「お姉ちゃん、卵は、こうやって割るんだよ」
真珠くんが、私の手を、そっと包んだ。こつん、とボウルの縁に当てて、ぱきっ、と殻が割れる。殻が、白身と一緒に、ちゃぽん、と落ちた。
「あ」
「入った」
「入っちゃったね」
ふたりで顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。
「お姉ちゃん、火、強いよ」
「だいじょうぶだいじょうぶ、任せて」
案の定、焦げた。見事に、真っ黒に。
「……苦いね」
「……苦いね」
顔を見合わせて、今度は、肩を震わせて笑った。
真珠くんは、苦いのに、残さず、きれいに食べてくれた。
アクアもルビーも、焦げた卵焼きを「おいしい」と食べてくれた。あれは絶対、気を遣ってくれた味だった。それでも、嬉しかった。私が作ったご飯を、この子たちに食べさせたい。家族に憧れていた私にとって、それは、ずっと夢だったから。
一緒に、出かけた日。
帽子、マスク、大きなサングラス。完璧な変装で出た商店街で、私は真珠くんの手を、ぎゅっと握って歩いた。
「お姉ちゃん、逆に目立ってる」
「えー、そんなことないよ。ほら、誰も気づいてない」
「みんな見てるよ。あやしい人だなって」
「ひどい」
あの子の手は、まだ小さかったけれど、私の指をちゃんと握り返してくれた。コロッケを半分こして、ベンチで食べた。あの子が口の端にソースをつけていて、私は指で拭いてあげた。
「……自分でできるよ」
「いいの、いいの。お姉ちゃんの特権」
並んで、歩いた日。
夕焼けの帰り道、ふたつの影が、長く伸びていた。
影が重なるたびに、私は、歩く速さを少しだけ落とした。この時間が、終わらないでほしくて。
アクアとルビーの、授業参観。
行きたい。絶対に、行きたい。でも、私が行ったら、大騒ぎになる。
「だから、作戦会議をします」
リビングの床に正座して、私は宣言した。
真珠くんは、ソファに座って、頷いた。
「アクアとルビーの授業参観、見に行きたい」
「無理でしょ。母さんに止められてるよね」
「だから、こっそり行くの! 作戦会議!」
真珠くんは、はあ、とため息をついてから、ちゃんとメモ帳を取り出した。付き合いのいい子なのだ。
「作戦その一、変装。サングラスはやめる」
「えーっ、これがいちばん可愛いのに」
「可愛い人がいたら、逆に目立つと思う」
「えっ?」
「なんで、そんな純粋な『え?』が出てくるの」
やれやれと、真珠くんは大げさに首を振った。
「作戦その二、廊下の端っこ。声は出さない」
「出ちゃったらどうする?」
「僕が口を塞ぐ」
「真珠くん、頼もしい」
作戦は、完璧だった。
真珠くんが、ひょいと立ち上がって、壁に何かを貼った。
「それから、これ。小学校の見取り図。校門から一年生の教室まで、保護者の動線はこう。トイレの位置と、非常口は——」
「なんで見取り図持ってるの!?」
「念のため」
「念のためで持つものじゃないよ!」
授業参観の日、私たちは廊下の植木の陰に張りついて、窓越しに教室を覗いた。ルビーが手を挙げて、アクアが少し照れながら教科書を読み上げた。私は思わず「うわぁ」と声を漏らしそうになって、真珠くんの掌が、さっと私の口を覆った。
「——んぐ」
「しー。作戦その二」
顔が近かった。あの子の掌が、あたたかかった。
運動会の日は、もっと大変だった。
かけっこでアクアが一等賞を取ったとき、私は思わず立ち上がって「アクアー!」と叫んでしまった。
玉入れでルビーが両手を上げたとき、真珠くんまで一緒に、拍手をした。
「ママー! お兄ちゃーん!」
ルビーが、こっちに向かって、全力で手を振った。
保護者席が、ざわっとなった。
「あのー、ご家族の方ですか?」
先生に声をかけられた次の瞬間、背後に、人が立った。
「——何をしているの、あなたたち」
「あ、えっと、ミヤコさん、これは」
「何を、してるのと、聞いているの」
ミヤコさんだった。にっこり笑っているのに、目が、まったく笑っていない。
その日の夜、私と真珠くんは、並んで正座をした。
お説教は、二時間。
足がしびれてきたころ、真珠くんが、小声で言った。
「……お姉ちゃんのせいだよ」
「えー、でも楽しかったでしょ」
「……楽しかったけど」
しびれた足で顔を見合わせて、また、笑ってしまった。
「……アイ、何を笑っているの」
「ごめんなさい」
「あなたもよ、真珠」
「……はい」
怒られているのに、どうしようもなく、幸せだった。
私は、嘘のない笑顔を、あの家で、いくつも知った。
授業参観も運動会も、ミヤコさんがちゃっかりビデオに撮っていた。お説教が終わった夜、私たちは、リビングで、それを並んで見た。肩が、触れていた。昔は、私の肩のほうが高かったのに。
あたたかい、って思った。それ以上は、考えないことにした。
◇
いつから、だったんだろう。
あの子の頭を撫でるのに、背伸びをしなくなったのは。
逆だ。気づけば、少し顔を上げないと、目が合わなくなっていた。
真珠くんが中学生になる頃には、目線が、同じ高さに並んでいた。
「真珠くん、ちょっと待って。まだ早い」
「何が?」
「身長。お姉ちゃんの腕に収まるくらいが、ちょうどよかったのに」
「……それは、無理じゃないかな」
困ったように笑う顔は、変わらない。
変わらないのに、見上げる角度だけが、毎日、ほんの少しずつ、急になっていく。
制服のネクタイを、結んであげた朝もあった。
あの子が屈んで、私が首元に手を伸ばす。距離が、近い。石鹸の匂いと、整髪料の匂い。喉が動くのが見えた。
「……できた」
「ありがとう、お姉ちゃん」
その声が、少し、低かった。
ある朝のことだった。
キッチンで背中を向けていた私に、後ろから、声がした。
「姉さん」
低い声だった。
お姉ちゃん、じゃない。いつの間にか、「姉さん」になっていた。
喉の奥が、とくん、と鳴った。
「……なに、真珠くん」
「ココア、入れたよ」
差し出されたマグカップを持つ手が、骨ばっていた。指が長くて、関節がしっかりしていて、私の知っている小さな手じゃなかった。
その手が、私の指先に、ほんの少し触れた。
熱い、と思った。
カップが、じゃない。触れた指先が。
(いや、ちょっと待って)
(弟だよ? 弟。何をどきどきしてるの、私)
自分で自分にツッコミを入れて、ココアをひと口飲んだ。
甘かった。すごく。甘すぎて、顔が熱くなった。
それからだ。
あの子の全部が、目に入ってくるようになったのは。
寝癖がついたままの後頭部。
ココアを淹れるときの、慎重すぎる真剣な顔。
名前を呼ぶときの、少し低くなった声の、最後のひと息。
困ったときに頬をかく癖。
洗濯物をたたむときの、几帳面な指先。
私が笑うと、ふっとゆるむ、昏くて優しい目。
全部、好きだった。
どこを見ても、好きだった。
あの子の中に、嫌いなところなんて、ひとつも見つからなかった。
まだ、それが何なのかは、分からないふりをしていた。
分かってしまったら、きっと、戻れなくなるから。
◇
その日は、突然来た。
アクアとルビーが、帰ってこなかった。
その知らせを受けた瞬間、世界から、音が消えた。
床が抜けて、どこまでも落ちていくみたいだった。
事務所の電話が鳴るたびに、心臓が跳ねた。ミヤコさんの声が硬くなって、社長が部屋の中を歩き回って、私は何もできなかった。ソファに座っていることしか、できなかった。
指先が冷たい。何度も、何度も、握っては開いた。
私は母親なのに。
あの子たちを産んだのに。
暗い場所で泣いているかもしれないあの子たちに、手が、届かない。
事務所の奥の部屋で、膝を抱えて、泣いた。
泣いて、泣いて、涙が枯れても、まだ出てきた。
私が幸せになろうとするたびに、誰かが傷つく。真珠くんが刺されたのも、アクアとルビーが攫われたのも、きっと、そう。
嘘の仮面が、うまく引き出せない。アイドルの顔が、作れない。
「ごめんね、真珠くん。全部、私が悪いんだ」
そう言った私の隣に、いつの間にか、真珠くんが座っていた。
ココアの甘い匂いが、部屋を満たしていく。
嗅ぎ慣れた、優しい匂い。小さな頃から、ずっと、変わらない。
手渡されたカップを、両手で包んだ。あたたかい。
「姉さんは、優しいよね」
「……」
「僕は、姉さんがいたから、生きたいと思ったよ。姉さんが抱きしめてくれたから、前を向けたんだ」
ひと口飲んだら、乾いた喉に、甘さが広がった。
そして、真珠くんが、そっと、私を抱きしめた。
……あれ。
昔よりも、ずっと大きな身体だった。線は細いけれど、鍛えられているのが、腕の中からわかる。
私と変わらない背丈なのに、私を、すっぽり包んでしまう。
あの小さな手が、私の背中に回っている。子どもをあやすみたいに優しく、でも、たしかに、男の子の手で。
——男の子なんだ。
改めて、思い知らされた。
頬が熱くなって、胸の鼓動が、早くなって、戸惑った。
「二人は、必ず連れて帰るから」
耳元で、静かな声がした。
「だから、今は休んで」
……あれ。
なんだか、眠くなってきて。
まぶたが、重い。ココア、まだ、全部飲めてない。
真珠くんの顔が、ぼやけていく。いつか見た、あの悲しそうな顔だった。
ありがとう、って、ちゃんと言えたかな。
それが、最後の記憶。
目が覚めたのは、ミヤコさんの声が聞こえたからだった。
青い顔で、メモを握りしめていた。
『ごめんなさい。行ってきます』
それだけの、メモ。
空になったカップと、錠剤の殻。ミヤコさんが、眠れない夜のために、お医者さんから処方してもらっていた薬。
「あの子……私たちのココアに、」
ミヤコさんが、言葉を詰まらせる。
優しいココアの甘さが、舌の奥によみがえった。
あれは、嘘だったんだ。
私たちを、巻き込まないための。傷つけないための。
世界でいちばん優しい、嘘。
いってらっしゃいも、言えなかった。
私は、眠っていたから。
待つ夜は、長かった。
時計の針がひとつ進むたびに、心臓が止まりかけた。
両手を組んで、祈ることしか、できなかった。
神様にも、星にも、誰にでも。
お願い。あの子たちを、返して。
お願い。あの子を、無事に、帰して。
空が、白み始めたころ。
玄関の扉が、ゆっくり、開いた。
制服はぼろぼろで、腕も、頬も、血だらけで。ルビーを背負って、アクアの手を引いて。
ふたりとも、泣き腫らした顔で、でも、ちゃんと、生きている。
「アイ」
「ママ」
私は、ふたりを、力いっぱい抱きしめた。
小さな身体の温度と、泣きじゃくる声に、ようやく、息が戻る。「無事でいてくれて、よかった」って、何度も、何度も、言った。
その後ろで、ミヤコさんの声がした。
「……おかえりなさい、真珠」
「た、ただいま、母さん」
言わなきゃ。おかえり、って。
でも、腕の中の双子の重みで、喉が詰まって、声が出なかった。
いってらっしゃいも、おかえりも、私は、あの子に、言いそびれた。
それから、ミヤコさんの長い長いお説教が始まった。
正座した真珠くんは、見たことがないくらい、小さくなっていた。
笑顔で、静かに、淡々と。あれは、怖い。……怒ったミヤコさんは、本当に怖い。
ようやく、お説教が終わって、ミヤコさんが部屋を出ていく。
残された真珠くんが、ほっと息を吐く、その隙に。
「真珠くーん。おいで〜」
私は、満面の笑みで、手招きした。
びくっ、と肩が揺れる。
「わ、わ〜、姉さん。今日は元気だねぇ」
「うん。誰かさんが、よく眠らせてくれたからね〜。お陰で元気百倍だよ〜」
目は、笑っていなかったと思う。たぶん。
怒っていた。本当に。眠らされたことも、置いていかれたことも。
でも。
隣に座らせて、髪を撫でていたら、怒りは、ぽろぽろと溶けていった。
疲れきった顔。目元の傷。血のにじんだ包帯。
「ありがとね。アクアとルビーを連れ戻してくれて」
「……あたりまえ、だよ」
「ほら、いいから。膝、貸してあげる」
「ちょ、」
抵抗する力も、もう、残っていなかったんだと思う。私の膝に頭を預けて、真珠くんは、あっという間に眠ってしまった。
すぅすぅ、と静かな寝息。
幼い頃と同じ寝顔なのに、頬の線は、もう子どもじゃなかった。
傷のある目元を、そっと撫でる。
私の知ってる「弟」の大きさじゃなかった。
傷だらけで、土と血の匂いがして、それなのに、どこまでも温かい。
あぁ、と思った。
私が、ずっと「アイシテル」だと思っていたもの。
ファンに向けて言う、空っぽの音。社長やミヤコさんに向ける、家族への安心。アクアとルビーに向ける、胸が張り裂けそうな愛しさ。
どれとも、ちがう。
この人にだけ向けてしまう、この熱は。
「どんどん大きくなって、かっこよくなるね」
小さな声が、勝手にこぼれた。
「初めて会ったときは、あんなに小さかったのに。いつの間にか、私より大きくなって。守ってあげなきゃって思ってたのに、気づいたら、守られてて」
眠る顔を、じっと見つめた。
ミヤコさんに叱られている背中を見て、安心したんだ。何も変わっていない。あの昏くて優しい男の子が、そこにいた。
「君が起きてるときに、愛してるって言えるのは、まだまだ先になりそうだよ」
そう囁いて、私は身を屈め、あの子の額に、そっと唇を落とした。
祈りみたいなキスだった。
「……ごめんね。欲張りなお姉ちゃんで」
まだ、君の隣に立てるほど、強くないから。
自覚したら、止まらなくなっちゃいそうだから。
ああ、そうか。
私が何度も言ってきた、あのカタカナの「アイシテル」は、
きっと、この気持ちをまだ知らなかったから、空っぽだったんだ。
愛してる。
ちゃんと中身のある言葉になった。
もう、弟としては、この子を見られない。
◇
廊下の角を、曲がった。
息が、苦しい。足の裏が、痛い。
でも、止まれない。
一昨日も、そうだった。
通路で、血を吐いて、困ったように笑って、あの子が「ただいま」って言ってくれたのに。
私は、また、何も返せなかった。怖かったから。あの子の中にある、私の知らない何かが、怖かったから。
でも、今日は、見たよ。
あの子の瞳に灯った、満月みたいな光を。
暴力と、武の違いも。あの子が、自分と向き合ったことも。ぜんぶ。
今日こそ。
今度こそ、一番に言うって、決めたんだ。
関係者用の通路の向こうで、扉が開いた。
係員さんの肩を借りて、ふらふらと歩いてくる。顔はぱんぱんに腫れて、額には大きなガーゼ。左手首のテーピングは、血で赤く滲んでいた。一歩踏み出すたびに、どこかが痛むのか、眉がぴくりと寄る。
それでも、自分の足で、歩いていた。
真珠くんが、顔を上げた。
私を見つけて——笑った。
困ったような笑顔じゃない。
何かを隠す笑顔でも、誤魔化す笑顔でもない。
腫れた頬を引きつらせながら、それでも、まっすぐに。
小さな手で、私の指を握りしめた日と、「お姉ちゃんのことを嫌いにならないよ」と言ってくれたときと、同じ笑顔だった。
「……ただいま、姉さん」
ああ。言わなきゃ。
喉の奥が熱くて、声がうまく出ない。それでも、絞り出した。
「——おかえり、真珠くん」
声が、震えた。
涙で、あの子の顔が、ぼやける。
駆け寄って、抱きしめたかった。でも、肋骨が。全身が。どこを触っても痛そうで、伸ばした手が、宙で止まる。
迷っていたら、あの子のほうから、ふらりと、一歩、近づいてきた。
額が、こつん、と私の肩に乗った。
その重さが、どうしようもなく愛おしかった。
私は、そっと、あの子の頭を包んだ。
小さかった頭が、今は、私の掌にもう収まらない。それでも、指で、髪をゆっくり梳いた。
血と汗の匂い。それでも、ちゃんと、あたたかい。
「……姉さん」
「うん?」
「サンダル、片方ないよ」
一瞬、何を言われたのか、わからなかった。
それから、ぷっ、と吹き出した。
「今それ言う!?」
「だって、裸足」
「真珠くんのせいでしょ!」
肩の上で、真珠くんが、くつくつと笑った。笑ったせいで肋骨に響いたらしくて、「いっ……」と小さく呻く。
「笑うからだよ」
「姉さんが、裸足だから」
「もう!」
ふたりで、肩を震わせて笑った。
涙が、ぽろぽろ、止まらなかった。笑いながら、泣いていた。
笑いが、静かに、落ち着いていく。
真珠くんの額が、まだ、私の肩に乗っている。
私は、あの子の耳元に、そっと、唇を寄せた。
全部、好きだ。
寝癖も、ココアも、困ったときに頬をかく癖も、今日の腫れた顔も。強いところも、強がるところも、弱いところも。名前を呼ぶ低い声も。私の掌に、もう収まらない頭の重さも。
「真珠くん」
「……うん」
ずっと、しまっておいた言葉。
あの夜、膝の上で眠るあなたに、言えなかった言葉。
「——愛してる」
声に出した。
空っぽじゃない音で。何年も、何年も、胸の奥で育ててきた、たったひとつの言葉を。
真珠くんの身体が、ぴたり、と固まった。
それから、耳の先が、じわじわと、赤く染まっていく。
肩から額が離れて、あの子が、ゆっくり顔を上げる。目をまるくして、首を、少しだけ傾けた。
「……え」
意味を、探している顔だった。
それが、愛おしくて、おかしくて、泣きたくなる。
固まったまま、動かない。口が、ぱくぱく、開いたり閉じたりしている。
……可愛い。
どうしよう。可愛すぎる。
世界一強い人が、私の一言で、固まってる。
私は、笑いながら、涙をぬぐった。
私が、ずっと、待つから。
この気持ちの本当の意味を、この子が、わかるまで。
ゆっくりで、いいよ。真珠くん。
あの子は、まだ、恋を知らない。
それでも、胸のあたりを、不思議そうに、掌で押さえていた。あたたかい何かを、確かめるみたいに。
それで、十分だった。
そのとき、後ろから、足音がした。
どたどたと、ばたばたと、息を切らした足音が、三つ。
「ずるい! ママだけ! 私もぎゅーする!」
ルビーが、私のサンダルを握りしめたまま、突っ込んできた。
「ぐっ」
「ルビー、そこ、折れてる」
「えっ、うそ、ごめん! どこ!?」
「……たぶん、全部」
「全部!?」
息を切らして、ミヤコさんが、追いついてきた。髪は乱れて、顔は真っ白で、目だけが真っ赤だった。
「……おかえり、真珠。心配させた分、あとでたっぷりお説教だからね」
アクアが、少し離れたところで、乱暴に目元を拭った。
「……おかえり、兄さん。……かっこよかった」
最後のほうは、ほとんど聞き取れないくらい小さかった。
背中に、ルビーの小さな手と、ミヤコさんの手が、順番に重なる。
真珠くんの肩に、アクアの手が、そっと置かれた。
手が、いくつも、重なっていた。