僕は一般人です   作:~のほほん~

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おかえり

 

 

 

 

 気づいたら、走っていた。

 

 観覧室の扉を押し開けて、廊下を駆け抜けて、階段を二段飛ばしで駆け下りる。

 ぱこん、と足元で間の抜けた音がした。右のサンダルが脱げて、階段をころころと転がっていく。

 拾う暇なんてない。片方だけ裸足のまま、そのまま走った。床が冷たい。足の裏に、小石みたいなざらつきが食い込む。

 

「ママ待って! 速い、速いってば!」

 

 後ろから、ルビーの声が追いかけてくる。転がっていった私のサンダルを拾ったらしくて、ぶんぶん振り回しながら走ってくる気配がした。

 

「ルビー、走るな! 転ぶ!」

 

「アイ! 階段、階段っ! 飛ぶんじゃないわよ! 危ないってば!」

 

 アクアの声。ミヤコさんの声。かつかつかつ、と鳴る、ヒールの音。

 ごめんね。あとで、いくらでも怒られるから。

 でも、今は、待てないの。

 

 息が、あがる。胸の奥が、焼けるみたいに熱い。足がもつれそうになる。運動なんて、本当は得意じゃないのに。

 それでも、止まれなかった。

 走りながら、私は、ずっと思い出していた。

 あの子のことを。

 出会ってから、今日までの、ぜんぶを。

 

◇

 

 最初に見たのは、瞳だった。

 

 部屋のドアを開けた瞬間、言葉が出なくなった。

 黒い髪の、小さな男の子。背筋をこわばらせて立っていて、その目が、深くて、昏くて。

 泣いて、泣いて、泣き続けて、涙が枯れた頃に鏡で見た、光を失った私の目と、同じだった。

 

 ——この子は、あの日の私だ。

 

 そう思った途端、いつもの嘘がすらすら出てこなくなって、慌てて笑顔を貼りつけた。

 

「ご、ごめんね〜。あまりにも可愛くて、言葉が出なかったよ〜」

 

 嘘じゃない、という部分だけが、少しだけ本当だった。

 

「えっと……真珠です」

 

 蝋燭の火が風に揺れるような、か細い声だった。

 私はしゃがんで、目線を合わせた。

 

「今日から姉弟だね、真珠くん。お姉ちゃんでいいよ」

 

「……お姉ちゃん」

 

「うん。よくできました」

 

 頭を撫でると、強張っていた肩が、ほんの少しだけゆるんだ。

 小さな頭だった。私の掌に、すっぽり収まってしまった。その小さな身体が、いつか、私の世界のぜんぶを、包んでしまうなんて。思いもしなかった。

 

 あの頃の私は、「アイシテル」の意味を知らなかった。

 ステージの上で何百回も言ったのに、口の中で転がるだけの、空っぽの音。

 その空っぽの音を、いちばん近くで、嘘のかけらもない目で見つめていたのが、あの子だった。

 

◇

 

 十六で、お腹に命ができた。

 

 怖かったのは、世間のことじゃない。バレても、炎上しても、社長がなんとかしてくれるでしょ、くらいには思っていた。

 私が怖かったのは、たったひとつ。

 

 産まれてくるこの子たちを、愛せなかったらどうしよう。

 

 お母さんに愛された記憶がない。手を上げられて、最後は迎えにも来てもらえなくて、そのまま捨てられた。そんな欠陥品みたいな私が、ちゃんと「母親」になれるのか。腕に抱いたとき、何も湧いてこなかったら。また、顔だけにこにこ貼りつけて、「アイシテル」と言うのか。

 夜、ひとりでお腹を撫でていると、その想像が、冷たい刃物みたいに胸に刺さった。

 

 そんな夜だった。

 

 社長に怒鳴られたあとの事務所で、ソファの端に膝を抱えて、私は「大丈夫だよ〜」と笑っていた。マグカップを持った真珠くんが、隣に座った。ココアの甘い匂い。器を両側から包む、小さな手。

 

「お姉ちゃん、嘘はだめだよ」

 

 見抜かれた、と思った。

 あの子の瞳には、嘘がひとかけらもない。だから、私の嘘は、全部そこに映ってしまう。

 

「僕は、お姉ちゃんのことを嫌いにならないよ」

 

 胸の奥で、固く凍りついていたものが、音を立てて溶けた。

 

 ……ずるいよね。

 七歳の子が、どうしてそんなことを、真顔で言えるんだろう。

 

 その日、私は初めて、味方ができた。

 この子が隣にいてくれるなら、怖いままでも、進める気がした。

 

 診察室で、先生に「相応の覚悟が必要だよ」って言われた日もそう。社長が眉間にしわを寄せて、空気がずしんと重くなった日。

 椅子の端っこに、小さな手が、ちょこんと置かれた。

 

「家族が増えると、すごく楽しいよ。僕も前は一人だったけど、ミヤコさんやおじちゃん、それにお姉ちゃんに出会ってから、毎日がすごく楽しい」

 

 どんな理屈も、どんな覚悟も、あの一言には勝てなかった。あの小さな手が、私の「怖い」を、少しずつ、ほどいてくれている。

 

 産むことを決めて、連れていかれたのは、山あいの小さな町だった。

 窓の向こうは、濃い緑の稜線。夜になると、星が、信じられないくらいたくさん出た。

 入院中の毎日は退屈で、でも、真珠くんが来る日だけは、特別だった。

 

「お姉ちゃん。体調は大丈夫?」

 

「大丈夫だよ〜。真珠くんが入れてくれるココアがあれば、百年生きられる」

 

「それは、言いすぎだと思う」

 

 ココアの甘い匂いが、白い病室を、ゆっくり塗り替えていく。

 私は、それがだいすきだった。

 

 出産の少し前の夜、私はあの子に、お腹の子たちの名前を教えた。

 

「真珠くんの名前を、少しだけ真似たんだよ。宝石の名前。真珠くんみたいに、優しい子になってほしいから」

 

 あの子は、目をまるくした。それから、照れくさそうに視線を落として、小さく言った。

 

「……僕、そんなに優しくないよ」

 

「優しいよ。お姉ちゃんが言うんだから、間違いない」

 

 ココアのカップを持つ手が、ほんの少しだけ、震えていた。

 

 出産の日、社長には止められた。

 それでも私は、真珠くんに、近くにいてほしかった。

 

 分娩室の白い光。看護師さんたちの声。

 痛くて、怖くて、天井がぐるぐる回って。波みたいに押し寄せる痛みの合間に、私は手を伸ばした。その手を、小さな手が、ぎゅっと握り返してくれた。

 

「お姉ちゃん」

 

「……大丈夫、だよ」

 

「うん。ここにいるよ」

 

 嘘の「大丈夫」じゃなかった。あの子の手が、そこにあったから。

 

 産声が、部屋に響いた。

 一人。もう一人。

 

 汗でぐしゃぐしゃの私の胸の上に、小さくて、あたたかくて、壊れそうなものが、ふたつ、そっと置かれた。

 

 あ、と思った。

 

 胸の奥で、何かが、ぱちんと弾けた。

 何も湧いてこなかったら、どうしよう。そう思っていたのに。

 胸の奥から、あふれて、止まらなかった。名前のつかない熱が、全部、この子たちに向かっていく。

 

 ——あいしてる。

 

 初めて、口の中で転がるだけじゃない音がした。

 それが「愛」だと、まだ私は、ちゃんとは分かっていなかったけれど。

 

「真珠くん。この子たち、抱っこしてみる?」

 

「いいの?」

 

 看護師さんに手伝ってもらいながら、あの子は、恐る恐る、赤ちゃんを抱いた。首を支えて、落とさないように胸に寄せる。目を丸くして、それから、ゆっくり瞬きをした。

 

「そう、お兄ちゃん。よろしくね」

 

「お兄ちゃん……」

 

「うん。今日から真珠くんは、この子たちのお兄ちゃんだよ」

 

 あの子の目尻が、ふわりと温かくなるのを、私は見た。

 昏かった瞳に、初めて、小さな光が灯った気がした。

 

「お姉ちゃん。ありがとう」

 

 お礼を言うのは、私のほうなのに。

 

 あの子が何を思っていたのかは、今でも、すべてはわからない。

 それでも、私は、あの子の手の温度を、一生忘れないと決めた。

 

◇

 

 それからの毎日は、全部、宝物みたいだった。

 

 一緒に、卵焼きを作った日。

 踏み台に乗った真珠くんが、真剣な顔で菜箸を握って、私はフライパンの前で腕まくりをした。

 

「お姉ちゃん、卵は、こうやって割るんだよ」

 

 真珠くんが、私の手を、そっと包んだ。こつん、とボウルの縁に当てて、ぱきっ、と殻が割れる。殻が、白身と一緒に、ちゃぽん、と落ちた。

 

「あ」

 

「入った」

 

「入っちゃったね」

 

 ふたりで顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。

 

「お姉ちゃん、火、強いよ」

 

「だいじょうぶだいじょうぶ、任せて」

 

 案の定、焦げた。見事に、真っ黒に。

 

「……苦いね」

 

「……苦いね」

 

 顔を見合わせて、今度は、肩を震わせて笑った。

 真珠くんは、苦いのに、残さず、きれいに食べてくれた。

 

 アクアもルビーも、焦げた卵焼きを「おいしい」と食べてくれた。あれは絶対、気を遣ってくれた味だった。それでも、嬉しかった。私が作ったご飯を、この子たちに食べさせたい。家族に憧れていた私にとって、それは、ずっと夢だったから。

 

 一緒に、出かけた日。

 帽子、マスク、大きなサングラス。完璧な変装で出た商店街で、私は真珠くんの手を、ぎゅっと握って歩いた。

 

「お姉ちゃん、逆に目立ってる」

 

「えー、そんなことないよ。ほら、誰も気づいてない」

 

「みんな見てるよ。あやしい人だなって」

 

「ひどい」

 

 あの子の手は、まだ小さかったけれど、私の指をちゃんと握り返してくれた。コロッケを半分こして、ベンチで食べた。あの子が口の端にソースをつけていて、私は指で拭いてあげた。

 

「……自分でできるよ」

 

「いいの、いいの。お姉ちゃんの特権」

 

 並んで、歩いた日。

 夕焼けの帰り道、ふたつの影が、長く伸びていた。

 影が重なるたびに、私は、歩く速さを少しだけ落とした。この時間が、終わらないでほしくて。

 

 アクアとルビーの、授業参観。

 行きたい。絶対に、行きたい。でも、私が行ったら、大騒ぎになる。

 

「だから、作戦会議をします」

 

 リビングの床に正座して、私は宣言した。

 真珠くんは、ソファに座って、頷いた。

 

「アクアとルビーの授業参観、見に行きたい」

 

「無理でしょ。母さんに止められてるよね」

 

「だから、こっそり行くの! 作戦会議!」

 

 真珠くんは、はあ、とため息をついてから、ちゃんとメモ帳を取り出した。付き合いのいい子なのだ。

 

「作戦その一、変装。サングラスはやめる」

 

「えーっ、これがいちばん可愛いのに」

 

「可愛い人がいたら、逆に目立つと思う」

 

「えっ?」

 

「なんで、そんな純粋な『え?』が出てくるの」

 

 やれやれと、真珠くんは大げさに首を振った。

 

「作戦その二、廊下の端っこ。声は出さない」

 

「出ちゃったらどうする?」

 

「僕が口を塞ぐ」

 

「真珠くん、頼もしい」

 

 作戦は、完璧だった。

 真珠くんが、ひょいと立ち上がって、壁に何かを貼った。

 

「それから、これ。小学校の見取り図。校門から一年生の教室まで、保護者の動線はこう。トイレの位置と、非常口は——」

 

「なんで見取り図持ってるの!?」

 

「念のため」

 

「念のためで持つものじゃないよ!」

 

 授業参観の日、私たちは廊下の植木の陰に張りついて、窓越しに教室を覗いた。ルビーが手を挙げて、アクアが少し照れながら教科書を読み上げた。私は思わず「うわぁ」と声を漏らしそうになって、真珠くんの掌が、さっと私の口を覆った。

 

「——んぐ」

 

「しー。作戦その二」

 

 顔が近かった。あの子の掌が、あたたかかった。

 

 運動会の日は、もっと大変だった。

 かけっこでアクアが一等賞を取ったとき、私は思わず立ち上がって「アクアー!」と叫んでしまった。

 玉入れでルビーが両手を上げたとき、真珠くんまで一緒に、拍手をした。

 

「ママー! お兄ちゃーん!」

 

 ルビーが、こっちに向かって、全力で手を振った。

 保護者席が、ざわっとなった。

 

「あのー、ご家族の方ですか?」

 

 先生に声をかけられた次の瞬間、背後に、人が立った。

 

「——何をしているの、あなたたち」

 

「あ、えっと、ミヤコさん、これは」

 

「何を、してるのと、聞いているの」

 

 ミヤコさんだった。にっこり笑っているのに、目が、まったく笑っていない。

 

 その日の夜、私と真珠くんは、並んで正座をした。

 お説教は、二時間。

 足がしびれてきたころ、真珠くんが、小声で言った。

 

「……お姉ちゃんのせいだよ」

 

「えー、でも楽しかったでしょ」

 

「……楽しかったけど」

 

 しびれた足で顔を見合わせて、また、笑ってしまった。

 

「……アイ、何を笑っているの」

 

「ごめんなさい」

 

「あなたもよ、真珠」

 

「……はい」

 

 怒られているのに、どうしようもなく、幸せだった。

 私は、嘘のない笑顔を、あの家で、いくつも知った。

 

 授業参観も運動会も、ミヤコさんがちゃっかりビデオに撮っていた。お説教が終わった夜、私たちは、リビングで、それを並んで見た。肩が、触れていた。昔は、私の肩のほうが高かったのに。

 あたたかい、って思った。それ以上は、考えないことにした。

 

◇

 

 いつから、だったんだろう。

 

 あの子の頭を撫でるのに、背伸びをしなくなったのは。

 逆だ。気づけば、少し顔を上げないと、目が合わなくなっていた。

 

 真珠くんが中学生になる頃には、目線が、同じ高さに並んでいた。

 

「真珠くん、ちょっと待って。まだ早い」

 

「何が?」

 

「身長。お姉ちゃんの腕に収まるくらいが、ちょうどよかったのに」

 

「……それは、無理じゃないかな」

 

 困ったように笑う顔は、変わらない。

 変わらないのに、見上げる角度だけが、毎日、ほんの少しずつ、急になっていく。

 

 制服のネクタイを、結んであげた朝もあった。

 あの子が屈んで、私が首元に手を伸ばす。距離が、近い。石鹸の匂いと、整髪料の匂い。喉が動くのが見えた。

 

「……できた」

 

「ありがとう、お姉ちゃん」

 

 その声が、少し、低かった。

 

 ある朝のことだった。

 キッチンで背中を向けていた私に、後ろから、声がした。

 

「姉さん」

 

 低い声だった。

 

 お姉ちゃん、じゃない。いつの間にか、「姉さん」になっていた。

 喉の奥が、とくん、と鳴った。

 

「……なに、真珠くん」

 

「ココア、入れたよ」

 

 差し出されたマグカップを持つ手が、骨ばっていた。指が長くて、関節がしっかりしていて、私の知っている小さな手じゃなかった。

 その手が、私の指先に、ほんの少し触れた。

 

 熱い、と思った。

 カップが、じゃない。触れた指先が。

 

(いや、ちょっと待って)

 

(弟だよ? 弟。何をどきどきしてるの、私)

 

 自分で自分にツッコミを入れて、ココアをひと口飲んだ。

 甘かった。すごく。甘すぎて、顔が熱くなった。

 

 それからだ。

 あの子の全部が、目に入ってくるようになったのは。

 

 寝癖がついたままの後頭部。

 ココアを淹れるときの、慎重すぎる真剣な顔。

 名前を呼ぶときの、少し低くなった声の、最後のひと息。

 困ったときに頬をかく癖。

 洗濯物をたたむときの、几帳面な指先。

 私が笑うと、ふっとゆるむ、昏くて優しい目。

 

 全部、好きだった。

 どこを見ても、好きだった。

 あの子の中に、嫌いなところなんて、ひとつも見つからなかった。

 

 まだ、それが何なのかは、分からないふりをしていた。

 分かってしまったら、きっと、戻れなくなるから。

 

◇

 

 その日は、突然来た。

 

 アクアとルビーが、帰ってこなかった。

 

 その知らせを受けた瞬間、世界から、音が消えた。

 床が抜けて、どこまでも落ちていくみたいだった。

 

 事務所の電話が鳴るたびに、心臓が跳ねた。ミヤコさんの声が硬くなって、社長が部屋の中を歩き回って、私は何もできなかった。ソファに座っていることしか、できなかった。

 指先が冷たい。何度も、何度も、握っては開いた。

 

 私は母親なのに。

 あの子たちを産んだのに。

 暗い場所で泣いているかもしれないあの子たちに、手が、届かない。

 

 事務所の奥の部屋で、膝を抱えて、泣いた。

 泣いて、泣いて、涙が枯れても、まだ出てきた。

 私が幸せになろうとするたびに、誰かが傷つく。真珠くんが刺されたのも、アクアとルビーが攫われたのも、きっと、そう。

 嘘の仮面が、うまく引き出せない。アイドルの顔が、作れない。

 

「ごめんね、真珠くん。全部、私が悪いんだ」

 

 そう言った私の隣に、いつの間にか、真珠くんが座っていた。

 

 ココアの甘い匂いが、部屋を満たしていく。

 嗅ぎ慣れた、優しい匂い。小さな頃から、ずっと、変わらない。

 手渡されたカップを、両手で包んだ。あたたかい。

 

「姉さんは、優しいよね」

 

「……」

 

「僕は、姉さんがいたから、生きたいと思ったよ。姉さんが抱きしめてくれたから、前を向けたんだ」

 

 ひと口飲んだら、乾いた喉に、甘さが広がった。

 そして、真珠くんが、そっと、私を抱きしめた。

 

 ……あれ。

 

 昔よりも、ずっと大きな身体だった。線は細いけれど、鍛えられているのが、腕の中からわかる。

 私と変わらない背丈なのに、私を、すっぽり包んでしまう。

 あの小さな手が、私の背中に回っている。子どもをあやすみたいに優しく、でも、たしかに、男の子の手で。

 

 ——男の子なんだ。

 

 改めて、思い知らされた。

 頬が熱くなって、胸の鼓動が、早くなって、戸惑った。

 

「二人は、必ず連れて帰るから」

 

 耳元で、静かな声がした。

 

「だから、今は休んで」

 

 ……あれ。

 なんだか、眠くなってきて。

 まぶたが、重い。ココア、まだ、全部飲めてない。

 真珠くんの顔が、ぼやけていく。いつか見た、あの悲しそうな顔だった。

 

 ありがとう、って、ちゃんと言えたかな。

 それが、最後の記憶。

 

 目が覚めたのは、ミヤコさんの声が聞こえたからだった。

 青い顔で、メモを握りしめていた。

 

『ごめんなさい。行ってきます』

 

 それだけの、メモ。

 空になったカップと、錠剤の殻。ミヤコさんが、眠れない夜のために、お医者さんから処方してもらっていた薬。

 

「あの子……私たちのココアに、」

 

 ミヤコさんが、言葉を詰まらせる。

 

 優しいココアの甘さが、舌の奥によみがえった。

 あれは、嘘だったんだ。

 私たちを、巻き込まないための。傷つけないための。

 世界でいちばん優しい、嘘。

 

 いってらっしゃいも、言えなかった。

 私は、眠っていたから。

 

 待つ夜は、長かった。

 時計の針がひとつ進むたびに、心臓が止まりかけた。

 両手を組んで、祈ることしか、できなかった。

 神様にも、星にも、誰にでも。

 お願い。あの子たちを、返して。

 お願い。あの子を、無事に、帰して。

 

 空が、白み始めたころ。

 玄関の扉が、ゆっくり、開いた。

 

 制服はぼろぼろで、腕も、頬も、血だらけで。ルビーを背負って、アクアの手を引いて。

 ふたりとも、泣き腫らした顔で、でも、ちゃんと、生きている。

 

「アイ」

 

「ママ」

 

 私は、ふたりを、力いっぱい抱きしめた。

 小さな身体の温度と、泣きじゃくる声に、ようやく、息が戻る。「無事でいてくれて、よかった」って、何度も、何度も、言った。

 

 その後ろで、ミヤコさんの声がした。

 

「……おかえりなさい、真珠」

 

「た、ただいま、母さん」

 

 言わなきゃ。おかえり、って。

 でも、腕の中の双子の重みで、喉が詰まって、声が出なかった。

 いってらっしゃいも、おかえりも、私は、あの子に、言いそびれた。

 

 それから、ミヤコさんの長い長いお説教が始まった。

 正座した真珠くんは、見たことがないくらい、小さくなっていた。

 笑顔で、静かに、淡々と。あれは、怖い。……怒ったミヤコさんは、本当に怖い。

 

 ようやく、お説教が終わって、ミヤコさんが部屋を出ていく。

 残された真珠くんが、ほっと息を吐く、その隙に。

 

「真珠くーん。おいで〜」

 

 私は、満面の笑みで、手招きした。

 びくっ、と肩が揺れる。

 

「わ、わ〜、姉さん。今日は元気だねぇ」

 

「うん。誰かさんが、よく眠らせてくれたからね〜。お陰で元気百倍だよ〜」

 

 目は、笑っていなかったと思う。たぶん。

 怒っていた。本当に。眠らされたことも、置いていかれたことも。

 

 でも。

 

 隣に座らせて、髪を撫でていたら、怒りは、ぽろぽろと溶けていった。

 疲れきった顔。目元の傷。血のにじんだ包帯。

 

「ありがとね。アクアとルビーを連れ戻してくれて」

 

「……あたりまえ、だよ」

 

「ほら、いいから。膝、貸してあげる」

 

「ちょ、」

 

 抵抗する力も、もう、残っていなかったんだと思う。私の膝に頭を預けて、真珠くんは、あっという間に眠ってしまった。

 

 すぅすぅ、と静かな寝息。

 幼い頃と同じ寝顔なのに、頬の線は、もう子どもじゃなかった。

 傷のある目元を、そっと撫でる。

 

 私の知ってる「弟」の大きさじゃなかった。

 傷だらけで、土と血の匂いがして、それなのに、どこまでも温かい。

 

 あぁ、と思った。

 

 私が、ずっと「アイシテル」だと思っていたもの。

 ファンに向けて言う、空っぽの音。社長やミヤコさんに向ける、家族への安心。アクアとルビーに向ける、胸が張り裂けそうな愛しさ。

 

 どれとも、ちがう。

 この人にだけ向けてしまう、この熱は。

 

「どんどん大きくなって、かっこよくなるね」

 

 小さな声が、勝手にこぼれた。

 

「初めて会ったときは、あんなに小さかったのに。いつの間にか、私より大きくなって。守ってあげなきゃって思ってたのに、気づいたら、守られてて」

 

 眠る顔を、じっと見つめた。

 ミヤコさんに叱られている背中を見て、安心したんだ。何も変わっていない。あの昏くて優しい男の子が、そこにいた。

 

「君が起きてるときに、愛してるって言えるのは、まだまだ先になりそうだよ」

 

 そう囁いて、私は身を屈め、あの子の額に、そっと唇を落とした。

 祈りみたいなキスだった。

 

「……ごめんね。欲張りなお姉ちゃんで」

 

 まだ、君の隣に立てるほど、強くないから。

 自覚したら、止まらなくなっちゃいそうだから。

 

 ああ、そうか。

 

 私が何度も言ってきた、あのカタカナの「アイシテル」は、

 きっと、この気持ちをまだ知らなかったから、空っぽだったんだ。

 

 愛してる。

 ちゃんと中身のある言葉になった。

 もう、弟としては、この子を見られない。

 

◇

 

 廊下の角を、曲がった。

 

 息が、苦しい。足の裏が、痛い。

 でも、止まれない。

 

 一昨日も、そうだった。

 通路で、血を吐いて、困ったように笑って、あの子が「ただいま」って言ってくれたのに。

 私は、また、何も返せなかった。怖かったから。あの子の中にある、私の知らない何かが、怖かったから。

 

 でも、今日は、見たよ。

 あの子の瞳に灯った、満月みたいな光を。

 暴力と、武の違いも。あの子が、自分と向き合ったことも。ぜんぶ。

 

 今日こそ。

 今度こそ、一番に言うって、決めたんだ。

 

 関係者用の通路の向こうで、扉が開いた。

 係員さんの肩を借りて、ふらふらと歩いてくる。顔はぱんぱんに腫れて、額には大きなガーゼ。左手首のテーピングは、血で赤く滲んでいた。一歩踏み出すたびに、どこかが痛むのか、眉がぴくりと寄る。

 それでも、自分の足で、歩いていた。

 

 真珠くんが、顔を上げた。

 私を見つけて——笑った。

 

 困ったような笑顔じゃない。

 何かを隠す笑顔でも、誤魔化す笑顔でもない。

 腫れた頬を引きつらせながら、それでも、まっすぐに。

 小さな手で、私の指を握りしめた日と、「お姉ちゃんのことを嫌いにならないよ」と言ってくれたときと、同じ笑顔だった。

 

「……ただいま、姉さん」

 

 ああ。言わなきゃ。

 

 喉の奥が熱くて、声がうまく出ない。それでも、絞り出した。

 

「——おかえり、真珠くん」

 

 声が、震えた。

 涙で、あの子の顔が、ぼやける。

 

 駆け寄って、抱きしめたかった。でも、肋骨が。全身が。どこを触っても痛そうで、伸ばした手が、宙で止まる。

 迷っていたら、あの子のほうから、ふらりと、一歩、近づいてきた。

 

 額が、こつん、と私の肩に乗った。

 その重さが、どうしようもなく愛おしかった。

 

 私は、そっと、あの子の頭を包んだ。

 小さかった頭が、今は、私の掌にもう収まらない。それでも、指で、髪をゆっくり梳いた。

 血と汗の匂い。それでも、ちゃんと、あたたかい。

 

「……姉さん」

 

「うん?」

 

「サンダル、片方ないよ」

 

 一瞬、何を言われたのか、わからなかった。

 それから、ぷっ、と吹き出した。

 

「今それ言う!?」

 

「だって、裸足」

 

「真珠くんのせいでしょ!」

 

 肩の上で、真珠くんが、くつくつと笑った。笑ったせいで肋骨に響いたらしくて、「いっ……」と小さく呻く。

 

「笑うからだよ」

 

「姉さんが、裸足だから」

 

「もう!」

 

 ふたりで、肩を震わせて笑った。

 涙が、ぽろぽろ、止まらなかった。笑いながら、泣いていた。

 

 笑いが、静かに、落ち着いていく。

 真珠くんの額が、まだ、私の肩に乗っている。

 私は、あの子の耳元に、そっと、唇を寄せた。

 

 全部、好きだ。

 寝癖も、ココアも、困ったときに頬をかく癖も、今日の腫れた顔も。強いところも、強がるところも、弱いところも。名前を呼ぶ低い声も。私の掌に、もう収まらない頭の重さも。

 

「真珠くん」

 

「……うん」

 

 ずっと、しまっておいた言葉。

 あの夜、膝の上で眠るあなたに、言えなかった言葉。

 

「——愛してる」

 

 声に出した。

 空っぽじゃない音で。何年も、何年も、胸の奥で育ててきた、たったひとつの言葉を。

 

 真珠くんの身体が、ぴたり、と固まった。

 

 それから、耳の先が、じわじわと、赤く染まっていく。

 肩から額が離れて、あの子が、ゆっくり顔を上げる。目をまるくして、首を、少しだけ傾けた。

 

「……え」

 

 意味を、探している顔だった。

 それが、愛おしくて、おかしくて、泣きたくなる。

 固まったまま、動かない。口が、ぱくぱく、開いたり閉じたりしている。

 

 ……可愛い。

 どうしよう。可愛すぎる。

 世界一強い人が、私の一言で、固まってる。

 

 私は、笑いながら、涙をぬぐった。

 

 私が、ずっと、待つから。

 この気持ちの本当の意味を、この子が、わかるまで。

 ゆっくりで、いいよ。真珠くん。

 

 あの子は、まだ、恋を知らない。

 それでも、胸のあたりを、不思議そうに、掌で押さえていた。あたたかい何かを、確かめるみたいに。

 それで、十分だった。

 

 そのとき、後ろから、足音がした。

 どたどたと、ばたばたと、息を切らした足音が、三つ。

 

「ずるい! ママだけ! 私もぎゅーする!」

 

 ルビーが、私のサンダルを握りしめたまま、突っ込んできた。

 

「ぐっ」

 

「ルビー、そこ、折れてる」

 

「えっ、うそ、ごめん! どこ!?」

 

「……たぶん、全部」

 

「全部!?」

 

 息を切らして、ミヤコさんが、追いついてきた。髪は乱れて、顔は真っ白で、目だけが真っ赤だった。

 

「……おかえり、真珠。心配させた分、あとでたっぷりお説教だからね」

 

 アクアが、少し離れたところで、乱暴に目元を拭った。

 

「……おかえり、兄さん。……かっこよかった」

 

 最後のほうは、ほとんど聞き取れないくらい小さかった。

 背中に、ルビーの小さな手と、ミヤコさんの手が、順番に重なる。

 真珠くんの肩に、アクアの手が、そっと置かれた。

 

 手が、いくつも、重なっていた。

 

 

 

 

 

 

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