僕は一般人です   作:~のほほん~

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姉として

 

宮崎県・高千穂。

山あいの町を包む空気は、朝にわずかな冷えを残しながらも昼すぎには湿り気を帯び、窓の外では遠くの水田からカエルの低い合唱が続いている。谷を渡る風が、病院の白い外壁にぶつかってはやわらかく回り、消毒薬の匂いのする廊下を抜けていく。

 

その病院の一室で、一人の男が勤めていた。男の名は雨宮吾郎。産婦人科医である。

そして今、彼は――

 

「アイィィィィ!!」

 

病室で推し活をしていた。

 

ベッド脇のテレビに接続した古びたプレイヤーが唸り、画面の中では若いアイドルたちがスポットライトの粒子を浴びて踊っている。ユニット名はB小町。ここ四年、吾郎は仕事の合間を縫って彼女たちを追いかけ続けている。その中心で、まばゆい光の核のように立つ少女――星野アイに、彼は声にならない歓声を飲み込んだ。

 

「くぅぅぅぅ、この可愛さを間近で拝みたかった……!」

 

もう一度言っておこう。雨宮吾郎は、今、病室で推し活をしている。

白衣のポケットからのぞくペンライト(もちろん本物のライブでは使用済み)を胸ポケットに押し込み、彼は画面へと身を乗り出した。

 

「先生、頭おかしくなりましたか?」

 

ドアの隙間から顔をのぞかせたのは、長年この病院で働く看護師だ。呆れ顔だが、口調はどこか慣れている。

 

「いや、正常だが?」

 

「一度、頭の病院にかかることをおすすめします」

 

「そこまで⁉」

 

看護師は肩を竦め、淡々と続けた。

 

「常識的に考えて、患者さんの病室でアイドルのDVDを流すのはおかしいでしょう」

 

「ふー、わかっていないな。私の医師としての見解では、美しいものを見るのは健康に良いんだよ」

 

決め顔で言い切る吾郎に、看護師は「はいはい」と流しかけ――ふと、何かを思い出したようにスマートフォンを取り出した。

 

「そうですか。そういえば先生……これ」

 

画面を差し出され、吾郎は目を落とす。そこには無機質なフォントが冷たく並んでいた。

 

――アイドルグループ B小町 活動休止のお知らせ

 

視界の端が暗くなる。心臓の鼓動が一拍抜け、次の瞬間にドクンと重く跳ねた。

騒がしかったステージの音は、電源を落としたわけでもないのに、急に遠く、小さく思えた。

 

吾郎はその場で、灰になった。

 

閑話休題。

 

 

 

 

なんやかんやあって(実際には、廊下の自販機でアイスコーヒーを手にし、無言で飲み干し、二杯目を買うか五分悩んでやめた)、昼休みは終わり、吾郎は白衣の裾をさばいて持ち場に戻る。

診察室のドアには、どこか寄る辺ない女性たちが順番を待っている。産婦人科は患者の大半が女性だ。男性医師は「誠実であること」だけでは越えづらい壁に向き合わざるを得ない。言葉一つ、視線一つが、ときに誤解の種になる。誤解は炎上し、炎上は訴訟に変わる。

だから彼は、威風堂々と、やましい影のない所作でいる必要があった――ほんとうは、どれほど動揺していようとも。

 

ドアが開く。

吾郎の視界に飛び込んできたのは、世界の彩度を一段引き上げる顔だった。

 

(ア、アイ! え、妊娠!? てか隣の子供は誰?)

 

頭の中が高速回転し、そして盛大に空回りした。

目の前にいるのは、自分の推し活相手。B小町の絶対的エースにして不動のセンター、星野アイ。さっき活動休止の文字を見て胸がざわついたばかりの少女が、現実の質量を伴って目の前に立っている。

 

吾郎は咳払い一つ。医師の矜持で気持ちを立て直し、いつもの声で問うた。

 

「えーと、あなたは親御さん?」

 

隣に座る金髪の男に視線を向ける。男は困ったように眉尻を下げた。

 

「いえ、俺は……身元引受人みたいなもので」

 

「そうですか。では、その子は?」

 

吾郎は男の反対側、椅子にちょこんと座る少年へ目をやる。つぶらな瞳がまっすぐこちらを見返した。

 

「この子も同じようなものです。……あのー、もしかして、ものすごい便秘ということは?」

 

「だとしたら、死んでますねぇ」

 

乾いたツッコミに、少年が苦笑し、金髪の男は肩を落とした。その空気を破るように、アイが明るい声で割り込む。

 

「大丈夫! そっちは順調だよ」

 

「とりあえず検査をしてみないことには分かりません。準備してきますね」

 

吾郎は立ち上がり、手際よく説明を添えてから検査へ回した。

 

 

「検査結果ですが……二十週ですね。しかも、双子です」

 

「双子」「二十週」

 

アイと金髪の男が、それぞれ別の温度で同じ言葉を復唱する。

アイの瞳には驚きと、うっすらとした期待。男の顔には計算と不安が半々に浮かぶ。相反する感情が、診察室の空気を満たしていく。

 

吾郎は机上のモニターに映る超音波画像に視線を落とす。

 

「なぁ、アイ。本気で産む気か? 十六で妊娠出産なんて世に広まれば、お前も、うちの事務所も終わりだぞ」

 

言葉が冷たく響いたのは、彼が冷酷だからではない。現実が容赦ないからだ。

アイは少しだけ視線を落とし、すぐに吾郎を見た。

 

「先生はどう思う?」

 

「最終的な決定権は君にある。よく考えて決めてほしい。君の体格だと、骨盤の発育がまだ完全ではない可能性が高い。難産になるリスクもある。双子ならなおさらだ。相応の覚悟が必要になる」

 

「覚悟……」

 

沈黙が、薄い紙のように診察室一面に広がる。

十六歳の少女に「決断」を求める――それは、大人である自分の臆病さを突きつけられる瞬間でもある。護るべき年齢の子どもに、選択の重みを委ねる。その矛盾を、吾郎はこれまで何度も呑み込んできた。

 

社会にはルールがある。ルールの檻の中で、取れる最良を選ぶ。それが職業倫理だと信じてきた。

だからこそ、予想もしない方向から飛び込んだ一言は、胸の奥で鈍く光った。

 

「家族が増えるのは、駄目なことなの?」

 

「え?」

 

振り向くと、少年がいた。

椅子の端っこに小さな手を置き、彼はまっすぐ言葉を続ける。

 

「家族が増えると、すごく楽しいよ? 僕も前は一人だったけど、ミヤコさんやおじちゃん、それにお姉ちゃんに出会ってから、毎日がすごく楽しい」

 

無邪気――たった三文字に宿る、恐ろしいほどの強度。

彼の言葉には責任の鎖も打算の錘もない。未来の損得勘定に拘束されない代わりに、「今」を素手でつかむ力がある。

 

「ふ、ふふ……あはははは」

 

「せんせ?」

 

突然笑い出した吾郎に、三人はそろって目を丸くした。

だが、笑いのあとの呼吸は、彼にとって初心へとつながる一本の糸だった。

 

「君の言う通りだね。ただね、僕は医者として無責任なことは言えないんだ」

 

「そうなんだ?」

 

「ああ。だからこそ――産まれてくる子たちのことも考えて決めてほしい、という気持ちは変わらない。でも、ありがとう。君のおかげで、大事なことを思い出せた」

 

「先生?」

 

吾郎は少年の目を見て、静かに言った。

 

「良いお子さんですね」

 

金髪の男が、誇らしげに微笑む。

 

「ええ。自慢の息子ですよ」

 

大きな手が、少年の髪を乱雑に――けれど優しく撫でる。少年は目を細めて、それを受け止めた。血で結ばれていなくても、たしかにそこに親子の絆があった。

 

 

夕刻。

屋上のフェンスにもたれて、吾郎は一人、薄い空の色の変化を見上げていた。日が落ちれば、ここは星の名所になる。高千穂の夜空は、都会のそれとは比べものにならない。闇は黒ではなく、山の稜線の濃さを残した紺色で、そこに粉砂糖のような星がまんべんなく撒かれる。

遠く、峡谷の方角からは川面を撫でる風の音。遅れて、神楽の練習だろうか、太鼓の響きが一度だけ聞こえ、すぐに消えた。

 

少年の言葉が、吾郎の胸で反芻される。

母は、彼を産んだときに亡くなった。育ててくれた祖母に、感謝はあっても恨みはない。――ただ、外科医になりたかった夢を諦めるきっかけを作ったのもまた、祖母だった。

 

「まあ、僕の意思が弱かっただけなんだけどな」

 

祖母の敷いたレールに「恩返し」という言葉を重ね、彼は産婦人科を選んだ。最初は真摯だった。今も真摯でありたいと願っている。

それでも、年齢による偏見、父親不在の現実、望まれない妊娠、望んでも叶わない妊娠――その全てを受け止める現場にいるうちに、心のどこかが砂漠化していったのかもしれない。

 

「僕も、まだまだだなぁ」

 

吐いた息は、夜気にすぐ混じって消えた。

 

「――あれ、せんせ」

 

振り向くと、フェンスの向こうではなくこちら側に、星野アイが立っていた。

白いカーディガン。膨らみはまだ目立たない。けれど、その両腕が自然とお腹を庇うように組まれているのを、吾郎は見逃さなかった。

 

「星野さん。夜風が体に障りますよ」

 

「だいじょぶだいじょぶ。真珠君が厚着にしてくれたし。それに、せっかくこんなにきれいな星が見られるんだから、見ておかないと損だよ」

 

「そうですか。……真珠君、というのは、さっきの子の名前ですか?」

 

「うん! そうなんだ~。可愛いでしょ」

 

「ええ。とても。いい子ですね」

 

「そうなの。真珠君はただ可愛いだけじゃないの。いい子だし、優しいし、頭もいいんだよ?」

 

「はは。星野さんは、弟さんのことが大好きなんですね」

 

吾郎が何気なく口にした言葉は、どこにも落ち度のない常套句だった。

それでもアイは、ほんの一瞬だけ返事に詰まる。そのためらいは、すぐに明るい声にかき消された。

 

「私って、家族がいないんだ」

 

「え?」

 

「施設育ちでさ。家族って、なんなのか分からないんだよね」

 

吾郎は言葉を選ぶ。星の光が彼女の横顔に細い輪郭を描く。

 

「……」

 

「妊娠したときは、怖かった。でも、真珠君が隣で励ましてくれた。味方で居てくれた。……でも私、欲張りだからさ。この子たちを、生んであげたいんだ」

 

彼女はお腹にそっと手を当てた。その仕草は、祈りのように静かで美しかった。

 

「だから、東京を離れてここへ?」

 

「――あれ? 私、せんせに仕事の話ってしたっけ?」

 

しまった、という顔を自覚しながら、吾郎は一拍置いて微笑んだ。

この町で医者という肩書は、思っている以上に目立つ。噂も情報も、病院の廊下から商店街へ、みるみる広がる。

 

「元担当の子が、あなたのファンでしてね」

 

「へー、だからか。私の溢れ出るオーラのせいかと思ったよ」

 

「それもありますけどね」

 

(自信家、かわいい)

心の中だけで、こっそり頷く。

 

風が、フェンスを鳴らす。会話が一度だけ途切れ、木々の葉擦れだけが間を埋めた。

 

「……じゃあ、アイドルは諦めるんですか?」

 

問いながら、吾郎は自分の言葉に微かな苦味を感じていた。産婦人科医として、命と仕事を天秤にかけさせることのやるせなさ。それでも双子を育てていく現実を思えば――。

 

「ううん。公表はしないよ? 隠し通す。絶対に。賑やかな家族を作って、アイドルとしてももっと有名になって、真珠君をもっと笑顔にしてあげたいから」

 

星の光よりも強い確信が、その瞳に宿っていた。

吾郎は息をついた。どこか羨ましさにも似た熱が胸に濃くなる。

 

「そうですか。少し、真珠君が羨ましいですね」

 

「え、せんせってロリコン?」

 

「誰かに聞かれたら洒落にならないからやめてください」

 

(……診察前に病室でDVD鑑賞してたの、看護師にバレてたらもっと洒落にならないな)

 

胃の辺りがきゅっと痛み、吾郎は慌てて話題を切り替える。

 

「アイドルってさ、『偶像』なんだ。どんなに辛くても、ステージの上ではキラキラと輝く生き物――って、ずっと思ってた」

 

アイは星空を見上げたまま、ぽつりとこぼす。

静けさのせいか、それとも彼女の声の芯がよく通るからか、言葉は空に溶けずに耳に落ちてきた。

 

「私のことを、絶対に嫌いにならないでいてくれる人がいる。嘘は、とびきりの愛。だけどね、いつかその嘘を、本物にしたいんだ」

 

「……そうか」

 

カメラ越しに見続けた顔より、目の前の横顔は、少しだけ幼く、ずっと強かった。

誇らしさと決意。それから、どうしようもないほどの温度が確かにあった。

 

(ファンとしては複雑なんだけどね。……和解させられたよ、今の一言で)

 

写真には残せない。だけど、網膜の奥に焼き付いた。

偶像であり続けようとしたアイドルは――今、この瞬間だけは――ただの少女として、夜空に一番星を探していた。

 

彼女の名前は、星野アイ。

最強無敵のアイドルとしてではなく、一人の少女として、彼女は今、夜の天幕にひときわ早く灯る一番星と重なり、確かに、そこに輝いている。

 




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