錆びた流星はまた昇る   作:小千小掘

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お久しぶりです。完全オリジナルエピソードともなるとめっちゃ時間かかりました。長くなりそうなので前後編にします。


第4話―1

 現在闘争の渦中にあるベリウス地方は、その大部分が雪化粧を纏っている。枯れた大地には、永遠の冬だ。

 しかし、氷河にも溶岩洞があるように。砂漠にもオアシスがあるように。ベリウスにも例外となるスポットは存在する。

 

「へいへーい! もっと飛ばせーい、びゅびゅーーん、ってなあ!」

 

 荒れた砂丘を走る一台の車、狭い空間を理性の崩壊した大声が鳴り響く。

 後部座席に座るゴードは、両拳を突き上げて――恐らく彼の脳内で流れているであろう陽気なリズムに乗っていた。

 助手席に座る621は表情一つ変えることがない。しかしその瞳は、僅かな憂慮を潜めていた。

 呆れや胡乱ではない。確かな、憂慮。

 

「気にする必要はない。コイツはもう、()()()()()

「……」

 

 傍らの運転手(ハンドラー)から窺い知れることはない。こちらを気遣ってか、単なる拒絶か、意図的にひた隠していることだけは理解できた。

 

「……覚えておくといい、621」

 

 それでも、一切のことを開示しない心苦しさを払拭するために、彼は教訓めいたことを語る。

 

「人は忘れられない生き物だ。本質的に無関係な過去が己を縛り、否応なく現実を不幸にする」

「……」

「そうなった時、残された逃げ道は、きっとろくでもない」

『おれには、よくわからない』

 

 過去なんて、どこかに置いてきた。逃げ道なんて、考えたこともない。

 だが、

 

「やーいウォルター、運転なら俺に任せとけよお。ACみたいにパパっと着くぜ? 地獄の果てへの直行便さ! あっひゃっひゃっひゃー!」

「……」

『わからないよ、ゴード』

 

 どうしてか、彼はまだ遠くにいるのだと、漠然たる寂寥感を錯覚した。

 ただの頼れる兄貴とは違う、ゴードの別の側面。

 その背景が微かに覗いた、数時間前のドックでの会話が、頭から離れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第4話 レッドガン部隊往訪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あれ』

 

 珍しく、何も無い時間をレイヴンが自らつついた。

 

『二人共、どこか行くの?』

 

 未だ機微の薄い彼でも違和感を覚えることができたのは、あからさまに二人が見慣れないことをしていたからだ。

 常備する杖も相まって元々フォーマルな見てくれのウォルターだが、今はその装いが一層整っている。まさに他所行き。

 ゴードはと言うと、

 

「んだよぉ……おれがっ、旅行に行くってったら、なんだってんだよぉお!」

『ゴード?』

「あぁ、あれか〜。どーせそこら辺うろついてる女を狙っちまうんじゃねえかとかなんとか思ってんだろう? 安心しろ! おれが撃ち抜くのは機械だけ、だぜっ」

 

 こちらが何を言うより早く、一方的に支離滅裂な言動をしている。度々ふらついていて、普段の頼もしさはまるでなく、肩を貸してやるべきかとまで思えるほどだった。

 生憎、その程度の支えにすらなってやれないが。

 

「コイツのことは気にするな。これは、一種の……うーん……」

『病気なの?』

「いや、そうではない。…………酒だ」

 

 酔っぱらいだった。

 改めてまじまじと見ると、彼の両手にはそれぞれボトルが握られており、今も鈍器のように振り回している。

 ゴードが飲酒を嗜んでいるとは初耳だ。そもそもうちは十全なパーツを仕入れる金すら足りない貧乏傭兵。おまけに、聞けば酒は贅沢品で、フィーカで妥協されるのが一般的らしい。このような体たらくが許されていいのだろうか。

 あくまで新米傭兵としての関心が、レイヴンに質問をさせた。

 

『旅行って?』

「……昨日、レッドガンを騙し討ちした件について、お詫びと見舞いに行く」

 

 ひ弱な表情筋が愁眉を作る。

 さすがのレイヴンとて、一介の独立傭兵が企業の拠点へ顔を出すことの異質さは察せられた。

 ウォルターもゴードも、ミシガンと面識があるかのような発言が度々あった。それが要因の一つだろうか。

 

『挨拶するのに、お酒を飲んでいいの?』

 

 とすると、問題は至ってシンプル。よりにもよってこのタイミングで飲酒をするというのは無礼というか不適切というか、とにかく間違っていることなのではないか。

 

「……コイツは、これでいい」

『なんで?』

()()()()()()()

 

 重々しい表情から発せられたのは、衝撃の事実だった。

 

「俺やお前以外とは、顔を見合わせただけで吐いてしまう。人間不信――対人恐怖と言ったところか」

「……」

「今ではマシになったほうだ。どうでもいいと思っている相手とも、目を合わせなければ会話できる。始めの頃は、俺や友人たちとも向き合えなかった」

 

 他人の顔をまともに見れない。そんなこと、平生のゴードからはとても考えられなかった。

 昨日の作戦ではレッドガンとも気さくに弁舌に興じていた。本当に「人の顔を見る」という行為そのものが無理なのだろう。

 それを誤魔化すために。他人を意識の外に持っていくために。

 ……違う。どうしても意識してしまう自分を戒めるためなのかもしれない。

 

『ゴードに何があったの?』

「……それは、俺が答えるべきことではない。彼自身がお前に打ち明ける時を待つしかない」

 

 少なくとも、ウォルターは事情を知っているようだ。浅からぬ因縁に苛まれているであろう二人に、自分はまだ踏め込めないのだと悟る。

 こうなってしまっては、ハンドラーの言うことに従うしかない。

 

「ただ、今日の場合は飲み過ぎだ。毎度こんな千鳥足になっているわけではない」

 

 視線をゴードに戻すと、彼はボトルを角に見立てて、ガニ股で足踏みをしている。「俺は今、誰よりも輝いてるぅ! アイ・アム・エトワーーールゥッ!」

 

「……」

 

 とても不安だった。狂乱の限りを尽くす今のゴードからは底知れぬ異常性が感じられる。

 果たして、レイヴンは一つの提案に至った。

 

『おれも行く』

「何? お前には留守を頼むつもりだったが」

『レッドガンを騙したのは、おれも同じだから』

「だが……」

『仲間外れは、いやだ』

 

 ウォルターは目を見開き、悔やんだような表情を滲ませる。

 第一に、ゴードが心配なのは本当だ。歩行もままならない621では邪魔になってしまう可能性は理解している。しかし、せめて見て見ぬふりをしたくなかった。兄貴分らしくないところを見たいとかではなく、そういうのを知ることが許されない間柄でいたくないというか――一種のプライドに近い感覚。

 第二に、レッドガンの面々を目にしたいというのも嘘ではない。自分の知っている顔は二人だけ。正直それでも構わないが、特に二人と面識のあるミシガンには興味があった。

 自分のまだ知らない、重要な過去の手がかりを握っているかもしれない。

 ACでの戦闘以外で、ここまで頭が回ったのは初めてのことだ。我ながららしくないが……うん、上手く考えられたと思う。

 

「……わかった。ただし、俺かこいつの側を離れるな。このご時世、部外者が歓迎されることなどそうそうないからな」

『うん。ありがとう、ウォルター』

 

 何かと応えてくれるハンドラーに感謝しつつ、その厚意に甘えた自分を、今回ばかりはズルいと呪ってしまった。

 

 

 

 

 べリウス西部。ボナ・デア砂丘。

 雪の代わりに砂嵐が吹き荒れる大地は、大きい粒で一層視界が悪い。窓の外に広がる殺風景。

 やがてにわかに、巨大なシルエットが浮かび上がった。

 車は一直線でそこに向かう。手前の検問所で引き留められた。

 

「『地獄行きの流星』。ミシガンに伝えればわかる」

 

 対応に出た男は内線で連絡を取る。すぐに「通ってよし」との宣告を受けた。

 

「うおおおすげえ! 砂糖が舞ってるー! あれが塩で、あれがコショウ! 全部持ち帰ってやるぜ!」

 

 駐車場に着くや否や、ゴードがわけのわからないことを言いながら飛び出した。ウォルターは溜息混じりにドアを開け、621をホイールチェアに乗せる。

 時折、砂利が口の中を不快にする。反射的に舌が出て、眉間に皴が寄った。

 それを、ウォルターは見逃さなかったのだろう。

 

「少しの辛抱だ。中は空調も効いている」

 

 

 

 

 

「二時間早いぞ! ハンドラー・ウォルター」

 

 最初に出迎えたのは、ほんの少し白髪の混じった小柄な男だった。

 一見ウォルターと歳は変わらないが、それは日頃のトレーニングから成る隆々な筋骨が錯覚させているだけで、実年齢はもう二回りほど上だろう。

 何より、その背格好以上の威厳と貫禄が、仁王立ちから感じられた。

 初めて顔を合わせたレイヴンにもわかる。恐らくこの男こそが、

 

「遅れるよりはいいだろう」

「早すぎても失礼だとは思わんか?」

「知らん。遅すぎることばかりだったものでな」

「フン、たくましくなりおって。俺はその手のジョークに乗れるほど黒くないぞ」

 

 彼らなりな挨拶なのだろう。ゴードも酷い勢いで割って入る。

 

「水臭いじゃなーいミシガンさーん。俺へのラブコールはお預け〜?」

「馴れ馴れしく触れるな馬鹿者、お前はあまりに酒臭い!」

「ひっさしぶりの再会よ! オンラインじゃできないスキンシップ、いいじゃない!」

「溺れている貴様ほど面倒な男はおらんな。ウォルター、少しは改善の努力をしろ!」

「時間が解決することだ、ミシガン……」

 

 理屈としてはわかっているのか、それ以上彼は愚痴を吐き出すことはしなかった。

 その皺が寄ってなお鋭い目が、こちらを向いた。

 

「貴様がG13レイヴンだな? レッドガンの総長を務めている、ミシガンだ。昨日はお互い、世話になったな」

 

 自己紹介を終えると手が伸びる。微動だにしない621の手をそっと握り、緩く振った。

 

『G13、です。レイヴン、です。えっと、これはなに?』

「握手を知らないか。『よろしく』や『頑張ろう』を示す礼儀作法の一つだ。嫌いなヤツ以外には、困った時これをしておけば何とかなる!」

 

 対人のマナーなど知る由もなかった。外に出なければ知れなかったこと――。

 握手、か。覚えておこう。

 

「ウォルター貴様、このくらいのことも教えてやれないで子守ができるか!」

「俺は……ママゴトをしたいわけではない」

「貴様が選んだことだ、最低限の責任は取れ。大好きだろう?」

「彼にはまだ必要ないと思っただけだ。必要であるべきではないと」

 

 ウォルターの自虐的な言葉に取り合うことはなく、ミシガンは再び話の矛先をレイヴンに向ける。忙しい人だ。

 

「訓練生だけでは飽き足らず、我々レッドガンまで食い散らそうとする暴食家が、こんな年端もいかない小僧とは。幼い猟犬の餌にされる恥辱。役立たず共への手解きも、まだまだぬるかったようだな」

『でも、やっぱり強かったよ。レッドガンは』

「ほう、お世辞の仕方は学んでいるのか。ウォルターの入れ知恵か貴様なりの処世術かは知らんが、ますます面目が立たなくなる、困ったものだ!」

 

 とても困ったとは思えない溌剌とした物言いだ。そのすがすがしさに少し戸惑うものの、やりにくさは感じない。

 

「ミシガン。事前に連絡していた通りだが」

「わかっている。貴様は俺に付いてこい。療養室への案内はうちの役立たずに任せる。――G6!」

 

 ミシガンの背後から現れたのは、黒い髪をはねかせた精悍な顔立ちの青年だ。表情からは活気が滲んでおり、歳はレイヴンとゴードの間くらいの印象を受ける。

 

「手はず通りだ。腑抜け共に屈辱の立役者をお披露目してこい!」

「了解です。ミシガン総長ッ!」

 

 古臭い敬礼だ。礼儀正しさ以上に、ミシガンに対する純真な敬意が先行しているように感じる。

 老人二人が去ったあと、G6はホイールチェアのハンドルを握った。

 

「歩きながら失礼する。先程総長からご紹介あずかった、コールサインG6レッドだ。貴様らのような独立傭兵の相手をしている」

 

 所謂ブリーフィング担当。何度かベイラムの依頼を受けたゴードは聞き覚えある声だろうが、レイヴンにとっては完全な初対面となる。

 

「モンキー・ゴード。貴様には名指しでの依頼もさせてもらった。本来ランク外の傭兵には異例なことだが、さすがミシガン総長直々に推薦されただけのことはある。期待以上の活躍に感謝しよう」

 

 あくまで詳細までは聞かないというスタンスらしい。独立傭兵にはそれぞれの事情がある。成った経緯も、続ける理由も、まちまちだ。どれだけ個人に壮絶な物語があったとしても、所詮ありきたりで、雇い主には関係ない。

 あるいは、同僚にさえ――。

 

「金が欲しいんだ! 酒も女も金で買うってのが俺の夢よ!」

「コイツは大丈夫なのか? 薬か何かは、」

『やってない。お酒』

 

 初めて交わす言葉がこんな悲しい形になるとは思っていなかった。

 彼も同じように思ったようで、咳払いで仕切り直す。

 

「貴様はレイヴンだったな。貴様には大きな損害を負わされているが……今の時代、それは割り切らねばならん。この場ではあくまで、G13として迎えよう!」

 

 レイヴンは実のところ、ベイラムに敵対的な行為しか働いていない。MT部隊、訓練生、ナンバー持ち、最後については騙し討ち。歓迎される謂れはないと重々承知だった。

 しかしこうして来訪を受け入れてくれたのは――ウォルターとゴードの顔を立てるとか、レイヴンにコールサインを与えたミシガンに免じてとか、本当に時代が寛容にしたとか、要因は色々あるだろうが――嬉しかった。

 

「貴様はこの男とどういう関係なんだ? ただの同僚か?」

『ゴードは』

「……」

『兄弟って、ゴードは呼んでる』

 

 兄弟。その表現が意味するところは判然としない。同僚と何が違うのか。

 ただ、何か齟齬があってはならないと、そのまま引用することにした。

 

「そうか……お前は、彼に護られているんだな」

『まもる?』

「ああ。兄とは、そういうものだ」

『レッドも、兄なの?』

「妹がいる。俺がここに入ったのも、半分は兄妹を養うためだ」

 

 兄妹のために戦う……。

 ゴードと出会ったその日に調べた。兄弟とは家族関係の一つで、同じ親を持つ身近な間柄らしい。

 自分たちに当てはめるとしたら……ゴードは兄で、ウォルターは親?

 もしそうだとしたら、確かに良いものかもしれない。

 

『ゴードもレッドも、大変なんだね』

「子供に心配されるとはな……辛気臭い話が過ぎた! そろそろ先輩方の療養室に着く。挨拶の言葉は考えておけ」

 

 この男は悪い人ではない。621は、レッドに対して少しだけ好感を抱いた。

 

 

 

 

 

 その一室には、二人だけが横たわっていた。恐らくレッドガン部隊専用の療養所なのだろう。

 

「なんだレッド。客を呼んだなんて聞いてねぇぞ」

 

 太い声を発したのは、黒いリーゼントが特徴的な男だ。

 

「はい、ヴォルタ先輩。ミシガン総長から『これはサプライズだ!』とのお達しでして」

「あの野郎。誰の誕生日でもねぇってのに」

 

 そう毒づくのは、金髪の坊主頭。

 前者がヴォルタで、後者がイグアス。どちらも誇示するようにガラが悪い。

 

「で、一体そいつらが俺らに何の用だってんだ」

「こちらはモンキー・ゴード。こちらがG13レイヴン。先日の作戦についてお詫びと見舞いをしたいとのことで、」

「はぁ!? 野良犬がっ、いっ……」

 

 ガバッと身を起こしたイグアスはすぐに脇腹を押さえて倒れ伏す。

 

「どういう風の吹き回しだよ。間違えてお仲間を撃っちまいましたすみません。ってか? 舐めやがって」

 

 ヴォルタもやはりいい顔はしない。

 

「やーだよ男を舐めるなんて気持ち悪ーい。そんなことより酒飲もうぜ酒。みんなでパーっとお疲れ様ってよお!」

「怪我人に飲酒を勧めないでくれ、モンキー・ゴード」

「おいおい、こんなイカれたやつに俺は殺されかけたってのか……」

 

 よく見ると、ヴォルタの治療の痕跡は全身至るところにあり、イグアスと比較しても大変痛ましかった。ゴードにはよほど酷く叩きのめされたらしい。

 スキットルをひらひらと揺らすゴードは無視して、イグアスが慎重にベッドから降りた。

 

「クソ、こんなガキに俺は……いいか野良犬、この前のはラッキーパンチがあたっただけだ。しっかりタイマン張れば、同じようにはいかねぇぞ」

『野良犬。おれ、野良犬が何か聞いたんだ。飼い主のいない犬って言ってた』

 

 こちらが声を発すると、それが「らしさ」のない声だからか、怪訝な表情に変わった。

 

『でも、飼い主っていうのがよくわからなくてそれも聞いた。そしたら、動物を飼って育てる人って教えてくれた』

「おい……野良犬てめぇ、」

『育ててくれる人はいるよ。ゴードとウォルターがいる。だから、おれは野良犬じゃない』

「……」

『そもそもおれ、犬じゃない』

「……ッ、だったら!」

 

 覚束ない足取りで目の前まで来ると、621の胸倉を掴んだ。

 僅かに、座面から身体が浮いた。

 

「てめぇのそれは何なんだ! まともに歩けやしねぇ、自分の口で喋れもしねぇ、どうせ飯も食えねぇんだろ。できないことや知らないことだらけのてめぇが、俺と同じ人間だと? 自惚れんじゃねえ!」

「い、イグアス先輩。落ち着いてください!」

 

 取り乱したレッドが宥めるも、イグアスは取り合うこともなく、少年を睨み続けている。

 ただ無垢な、灰色の瞳。悲しいほどの空虚が、そこにある。イグアスとは明確に違い、敵意も憎悪もない。

 交錯する視線。まるで異なる二人は、しかし奇妙な感覚に取り憑かれる。

 

『本当のことを言っただけだ。なんで怒る?』

「俺は……お前とは違う。クソッタレな犬畜生なんかに、見下される筋合いはねぇんだよッ」

『見下してない。イグアスは、何に怒っている?』

「……!」

 

 そのむず痒さに、果たしてイグアスは耐えられなかった。あろうことか、無抵抗な621に拳を振り上げる。

 

「わかったような口を、叩くんじゃねえ!」

 

 手加減はなかった。簡素な室内に、乱暴な音が響く。肌が肌を突く惨い音。

 ……しかし、621が苦痛に悶えることはなかった。その頬には、傷一つない。

 イグアスの拳は、大きな掌に受け止められていた。

 

「おい」

 

 別人が入ってきたのだと錯覚してしまうような、低い声。

 

「あんま過ぎた真似は、しない方が身のためだぜ?」

 

 落ち着き払った様子に鬼気迫る顔を貼り付けて、ゴードはイグアスを見つめていた。

 彼は空いてる方の手でグビグビと酒を呷る。

 

「俺のいる前で可愛い弟に手を上げようとする度胸は大したもんだ。だが、それが何を招くかをわかってないのは危機管理がなってねえ」

「放せ、このっ……」

「お前をいたぶるのは、まだだったな」

「……ッ! ぐ、あぁっ……!」

 

 イグアスの拳に、切り揃えられていない爪が深く食い込む。じんわりと血が滲み出てきた。

 苦悶の声があがる。イグアスが膝をついたところで、ようやく解かれた。

 

「てなわけで。こいつを傷つけたらもうACに乗れなくなっちまうから気を付けろよー。怪我人は大人しく寝とけ」

「……は? ちょ、え、待てゴード!」

 

 ふらふらと退室したゴードを、案内役が慌てて追いかける。このまま迷子になられては色々と困るのだから当然だ。

 瞬く間に、三人の沈黙が生まれた。

 それを破ったのは、ヴォルタの溜息だ。

 

「……どうすんだよ。またおっ始めんのか? 多分ヤツがすっ飛んでくるぜ。なんでか、それくらいできちまうような、物騒で得体の知れねぇ男だった」

「……」

「相手はガキだ、さすがにマズイだろ。ミシガンも黙っちゃいないはずだ」

 

 興が削がれたのか、結果的にゴードの警告に従い、イグアスはベッドに戻る。

 彼もわかっているのだ。こんなもの、ただの八つ当たりでしかない。

 ラッキーなんてまやかしだ。もしレイヴンが本気で殺しに来ていたら、間違いなく自分は死んでいた。イグアスが鼻で嗤ったはずの信条に、命を見逃されたも同然だった。そこに運もクソもない。

 その事実が、途方もなく気に入らなかった。まして、そんな恥辱を与えたのが木偶や案山子と相違ないひ弱な子供なのだと知って、なおのことプライドが許せなかった。

 この少年は野良犬ではない。そんなことはわかっている。しかし、それでもそう呼び続けるのは単に侮蔑の言葉を探した結果で――。

 自分は、こんな雑種よりはマシなんだと、あるかもわからない高見に縋っているに過ぎない。

 そして、その葛藤を自ずと解消できるほど人は単純ではなく、殊イグアスは賢くない。だから、こうして頭を抱えることしかできずにいる。

 

『イグアス』

 

 無機質で、不快な音声が響く。

 自動運転に切り替え。COMの事務的な宣言に続いて車輪の回る音がする。

 顔を上げると、傍らに幼い顔があった。

 無知で無垢で、既に手を血で染めた少年の。

 

「……なんだよ」

『ごめん』

「あ?」

『イグアスが怒ったのはよくわからないけど、多分おれのせいだから』

「……そういうところがイラつくんだ。散々人を惨めにして満足かよ」

『イグアスは惨めじゃない。見下してもいない』

 

 キッと、再び敵意を向ける。

 

「テメェ、」

『おれが勝てたのはゴードとウォルターが教えてくれたから。あと、武器をくれた人がいたから。それがなかったら、絶対負けてた』

 

 この少年にはAC以外に能がない。だからきっと、誰かを貶して満たされようなんて考えない。

 その素直さが、こんなにも苛立たせる。

 

『ありがとう。イグアスのおかげで強くなれた。お礼、言いたかったんだ』

 

 無表情から紡がれる言葉の純粋さをどう受け取るべきかわからない。

 初めてのことに、戸惑わずにはいられない。

 

「……慰めなんざいらねぇよ」

『慰めじゃない。おれは本当のことしか言ってない」

「生意気なガキがッ。てめぇがいると治るもんも治らねぇ。とっとと出てけ」

『うん。またね』

 

「また」会うつもりか。図々しくて能天気なガキだ。

 レイヴンはノロノロと部屋を出る直前、ヴォルタにも声を掛けた。

 

『それ、差し入れ。です。三人で選んだので、気に入ってもらえたら良い、です』

「ハッ……敬語を使いてぇならもっと勉強しろ。必要ないとは思うがな」

 

 見送った後、ヴォルタはデスクに置かれた包装を開封する。

 

「ガキに気を遣わるたぁ、可哀想になあイグアス」

「……うるせぇ」

「ま、どのみち暫く、俺らの尻に根が張るのはコックピットじゃねえ、このベッドだ。こういう時くらい気長に休んどこうぜ。上司のデケェ声がないってのも貴重な時間だ」

 

 ヴォルタが袋の中身を投げつけてきた。咄嗟に掴む、重い衝撃に顔を顰めた。

 

「殺されかけたやつらのご厚意に甘えてな」

「……はぁ。ホントクソみてぇな残念会だぜ」

 

 嗤うヴォルタと呆れるイグアス。二人はレッドガンに押し込まれる以前からの悪友だ。

 届けてもらったグラスを彼らが掲げ合うことになるのは、ほんの数分後のことである。

 

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