ガールズ&パンツァー ~ 大洗は大砲鳥の夢を見るか ~   作:松ノ木ほまれ

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アァ、来るは亡霊の潮流よ
プロローグ<前>


Hänschen klein ging allein In die weite Welt hinein.

<一人で旅立つハンス坊や 一人きりで世界の旅へ出発だ>

 

Stock und Hut steht ihm gut Ist gar wohlgemut.

<杖と帽子がよく似合う、大喜びのハンス坊や>

 

Aber Mutter weinet sehr,Hat ja nun kein Hänschen mehr.

<でも、別れを悲しむママは泣き出した>

 

"Wünsch dir Glück", sagt ihr Blick,"Kehr nur bald zurück !"

<"良い旅をして戻れ"とママの瞳は語ってる>

 

 

 

~ 約二十年前の記憶 ~

 

 

「待って! 行かないで!」

 

 後ろから声が聞こえる。悲痛で、耳にこびり付く甲高い声。

 きっとこの先、自分を永劫苦しめ、自責という名の地獄へつなぎ止める鎖のような声が、6時の方向から聞こえてくる。脚が止まりそうになったが、止める事は許されない。

 声の主にはまだわからない、しがらみのために進む脚。まるで、鉄球がくくりつけられたかのように重い。

 

「お乗りください、お嬢様」

「……わかっています」

 

 眼前に待つ黒い車は、あの声の主にどう見えているのだろう。

 少なくとも今の自分にとっては、戻りたくないが半分、戻らねばならないと思っているのが半分である、複雑な情が湧く場所へ向かう車。きっと声の主には、自分をゲットーかそれ以上のナニカに連れて行かんとする『Kaf.305』に見えているのかもしれない。

 

(あの子には、そう思われても仕方がありませんね)

 

 声の主、"あの子"にとっては違っても、世間からしてみれば間違っていたのは明らかに自分なのだから。どれ程多くの大人達、友人達に迷惑をかけてしまったかを、思い知らされている。これは自分にとって負うべき罰。

 

(あの子に罪は無い。だと言うのに)

「まって、まってぇ……」

 

 甲高い声に歪みが混じり始める。涙声に変わっていく、愛しい声。距離がそれ以上、近づいてくる事は無かった。誰かに、抱きかかえられ止められたから。

 振り返る事はしない。今振り返ってしまえば、声の主を止めた者と交わした約束も覚悟も、全て不意になってしまう。その者もきっと自分と同じように、心を押し殺して、唇を噛みしめているから。張り裂けそうな感情を抑え付けているのだから。

 左右の庭木から聞こえてくる蝉の声が、これ程までに忌々しく感じた事も、生を受けてから初めてのことになるだろう。

 

「お嬢様」

 

 淡々とした声が聞こえる。車の後部ドアを開いて、待っている初老の男の声だ。

 その眼も、揺らいでいる。さもありなん。初老の男にしてみても、何を好き好んでこんな"鬼の所行"に等しい光景を見なければならないのだろう。

 この中で表情を変えていない者がいるとするならば、きっと……

 

「早く乗りなさい」

「……はい、御婆様」

 

 後部ドアの先、車内で待っていた老年の女ただ独りだけ。

 その出で立ち、表情から眼に至るまでが、まるで南極の氷塊が如き冷たさを備えた人であった。紛れもなく、自分の祖母にあたる方。"我が家"であった空間の中で常に、自分にとって避けようも無い重圧をかけ続けてきた、忌々しくも尊敬すべき大先輩。そして自分を紛れもない"名戦車乗り"に育て上げてくれた人。

 これ程までに、人に怒りの感情を抱いたことが今まであったろうか?

 

「何です、その眼は」

「いえ、何も」

 

 その眼に、射すくめられる。今の自分に、口答え出来る資格があるとも思っていない。そう思ってしまう事に吐き気がする。この人の血だ、紛れもなく。

 大学生の身でありながら子を作った我が身、事実が世に出回る可能性を全て潰し、こうして我が元にやってきた。その意味も、苦労も、わかってしまうのだ。

 若気の至りで犯した過ちが、この身に降りかからない結末を用意した。感情では理解したくない"許し"。

 後部座席に身を乗り入れる。そしてまだ後方から聞こえてくる、「やだぁ!」というか細くなっていく声。

 

「「 ………… 」」

 

 老女は、自分の顔――正確には頬をつたう熱い液体に眼をくれて、少しの間沈黙していた。ソレにすら、燃えるような憎しみの情が湧いてくる。それを知ってか、老女は続けた。

 

「まぁ、憎いでしょうとも。ですが、貴女の名が墜ちる事を防いだ点でも、差し引いてあまりある筈」

「はい……おっしゃる通りです」

「貴女がかの者に抱いた思いまで、否定しようと言うのではありません。私にとってもあの子は初の"曾孫"です。私とて――」

 

 そんな事くらいわかっている。そのつもりなら、きっとどんな手を使ってでも『あの子』が存在する事すら許さなかっただろうから。今日この日までの、あの子が生まれてから過ごした一抹の幸せな生活も存在しなかった。

 こんな結末に至った『原因』が、きっとこの方の逆鱗に触れたのだから。

 

「ですがあの子は()()()、我が家を継ぐ事もできない。それに」

「あの子の父親は――」

「……フゥ。戦車道とは真逆、あの()()()()()()の道にいる者」

 

 あの道。きっとこの方は、我が祖母はそこが最も気にくわなかった。間違い無くそうだ。戦車道の"乙女の嗜み"たる武道の道を邁進してきた祖母にとって見れば、今あの子を抱いて止めている人。

 あの子の父親。彼がいた"道"は到底嗜みから程遠い、武道と呼びたくない世界。きっと祖母は今もそう思っているし、考えを改めるつもりもないのだろう。そして自分は、そんな祖母が護ってきた家の一人娘。

 唯一の跡継ぎ。

 連れ戻しにかかってくるのは目に見えていた。

 

「お家、立場。それを考えられない貴女では無いと思っていましたが、侮っていました。……それ程までに入れあげるとは」

「申し訳、ありません」

 

 ドアが閉められた。泣きわめく子の声が、聞こえにくくなる。

 それは、自分にとっても、あの子にとっても"断絶"を意味するものだ。これから先、きっとあの子の行く先と、自分の生きる道が交わる事は起こらないだろうから。

 

<……まっで、待っでぇ、おがぁ……>

 

 後ろを振り返ってはならない。心に決めた筈だ、あの人とも幾度となく話し合って、自分に言い聞かせて。握りしめた掌に食い込む爪の感触すらも鈍り、流れ出てきた血の赤色を見やり、視界がぼやけていたのを実感する。

 頬を伝い、流れ出てくる涙に濡れた顔は今、どれ程の有様となっているだろう。

 

(ごめんなさい、ごめんなさい)

「忘れないように、あの子を泣かせたのは"貴女"なのです」

 

 祖母は、それ以上言葉を発する事は無かった。『人を狂わせる』とはよく出来た言葉だ。家の事も、今まで築き上げて来たキャリアも何もかもどうでも良くなった()()に脳を焼かれ、気づいた時には既に全てが手遅れだった。

 それはきっと彼も同じ。だから、祖母からの『便りという名の通告』が来た時に、話し合って、ようやく冷静さを取り戻せたとも言える。

 

<……おがぁざん!!>

 

 これからあの子は、どんな道に行くのだろう。

 ホワイトカラーか、ブルーカラーか。はたまた別の選択をするのだろうか。それを側で見てやる事の出来ない我が身を呪う。父親と同じ選択をするとは、思っていない。あの子は優しい子である。

 

 あの()()()()()に進む事は無いと信じたい。

 

 車が進み始めた。後ろを振り返りたい欲求を必死に抑え付けながら、遠ざかっていく声。あの子に罪は無い。恨まれるかも知れない、いやきっと……生涯恨まれて、責められて、追い詰められたとしてもきっと足りはしない。あの子にとっては。

 

<――っ! ――ッ!!>

 

 遠ざかる声が、聞こえなくなってくる。それに比例して、心の中から思い出としてこびり付いた、声が脳裏に響き渡る。幸せだった時間の思い出が、呪いとして降りかかってくるなぞ、思いもしなかった。

 『おかえり』の言葉から『ごちそうさま』、そして『お休みなさい』と、日々の中で当たり前に聞く文言が、胸元に突き刺さってくる。

 もう、あの声が聞けなくなる。

 声変わりを経て、大人になっていくのを見る事も、叶わない。

 蝉の声が響き、木々の間から日が差し込む街道の中、子供の泣き声と車の音が流れる僅かな瞬間。この一時だけ、夏である事すら当事者の頭のなかからかき消していく。

 

  もし、天の采配、運命の悪戯があるとして

 

あの子が自分の前に現れる事があるのなら

 

 その眼には何が宿っているのだろう。その手には何を握っているのだろうか。

 

(ごめんなさい、どうか何時までも健やかに……)

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

Sieben Jahr, trüb und klar,Hänschen in der Ferne war.

<七年間、ハンス坊やは異国にいた>

 

Da besinnt sich das Kind,Eilet heim geschwind.

<ある日、彼は考えた。大急ぎでお家へ帰ろう、と>

 

Doch nun ist's kein Hänschen mehr,Nein, ein großer Hans ist er,

<でも彼はもう大人。立派な若者になっていた>

 

Braun gebrannt Stirn und Hand.Wird er wohl erkannt ?

<日に焼けた手と顔。ママはハンスとわかるかな?>

 

 

 

 ~ 約二十年の時を経て 太平洋上 某所 ~

 

 

 また()()()の夢だ。

 朝日が昇り始める直前の、独特な明るさがカーテンの隙間から差し込んでいる。いつの間にやら出来ていた涙の跡。このこびり付くような感覚は、青年となった今になってもなお慣れない。

 ベッドから身を起こして、洗面台へと真っ直ぐ向かい顔を洗う。気分をサッパリさせた後に、部屋の冷蔵庫から牛乳を取り出した。

 これが朝のルーチン。朝の腕立て伏せとクランプ。その後かっこむ酢キャベツ(Sauerkraut)とソーセージ。汗を出したら、シャワーで流す。いたって健全な一日の始まりだ。だが今日は、何時もの一日とは違う。

 

「今日は、入港か」

 

 カレンダーにつけてある丸印を見てぼやく。そう、今日は学園艦の入港日、その意味する所は、上陸休暇だ。艦内の皆が皆、人によって程度は違うが浮き足立つのが目に浮かぶようである。

 かくいう自分も、その1人。仲間には珍しがられるかもしれないが。

 『偏屈者』という自覚はある。日頃は仲間とつるまず、筋トレと訓練ばっかりしている変人。きっと自分の()()以外を見た人間からの評価はそんなものだ。普段の休暇も、陸上に降りる事無く『愛機』の訓練に費やすことが殆どで、それ以外はトレーニングと、他校の使用する機体の勉強。

 陸上に降りたとしても、他の面子と一緒に遊ぶ事もせず、山登りをするなど、自分でも自覚はしているが"変わっている"と思う。

 直属の仲間や、親しい上役の面々以外からしてみれば、"戦場が家族"のような偏屈者にしか写らない筈だ。

 新聞を読む習慣も欠かさなかったので、話題において行かれるという事は無かったのは幸いと言って良いのだろうか?

 

「……"今日"のはとっておくか」

「また『戦車道』の記事か?」

「まぁな」

「お前が色恋にも興味があるとは驚きだ」

「やかましい。それにそんな意図じゃ無いよ、小僧(ブービ)

 

 学園内で購読している新聞の第一面を見て、貼り付け帳に保存しようとする。それを見たルームメイトに、女子がそんなに気になるかと言われた。流石に心外だ。自分に色恋をする資格があるのかどうかすらわからないし、現を抜かす暇も無い。

 【"大洗女子学園"、"大学選抜チーム"を破る!!】

 と大きく描かれた記事と、女子生徒達が写る写真。それを数年前から始めた貼り付け帳へと切り貼りしていく。それが、同室の者には奇妙に写るらしい。

 

「前は【黒森峰】だったのに、今は【大洗】ね。意外とミーハー?」

「……うるさい」

 

 ルームメイトも新聞は読んでいる、だから女子の学ぶ『戦車道』の記事も、どの学校に注目しているかも大凡予想して言ってくる。さすがに意地悪じゃないかとは思うが、これも日頃の行いという原因がある故に、文句も言えない。

 ぶっきらぼうな言葉だけ返して、制服を着て、コートに手を伸ばす。既に外出の準備は前日に整えていた。今はこの口うるさい同室人から逃れようと思う。

 

「今日は【雲仙岳】にでも昇るのか?」

「海挟んでるじゃないか、島原市だぞソコは。折角熊本にまで来たんだ、街中へ行く」

「お前が?」

 

 やはり、"おおかた何処か山登りにでも行くのだ"と思われる。そう振る舞ってきたのは自分だ。しかし、珍獣を見るような眼をされた事には遺憾の意をとなえたい。

 

「お前、俺をマシーンか何かだとでも?」

「他の連中ほどじゃ無いけど」

「俺も血の通った人間だよ……ちょっとひねくれてるだけだ」

 

 制服の胸元で光る()()()()()に目をやって、少し時間をおき青年は部屋を後にした。

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

Sieben Jahr, trüb und klar,Hänschen in der Ferne war.

<七年間、ハンス坊やは異国にいた>

 

Da besinnt sich das Kind,Eilet heim geschwind.

<ある日、彼は考えた。大急ぎでお家へ帰ろう、と>

 

Doch nun ist's kein Hänschen mehr,Nein, ein großer Hans ist er,

<でも彼はもう大人。立派な若者になっていた>

 

Braun gebrannt Stirn und Hand.Wird er wohl erkannt ?

<日に焼けた手と顔。ママはハンスとわかるかな?>

 

 

 

  ~ 熊本県 某所 ~

 

 

 季節以上に、肌寒い日の事だった。

 のどかな町並みの一角に、屋敷が建っている。この地域に住む人間であれば誰もが知っている、名門の苗字が門前に掲げられていた。【西住家】の屋敷に、インターホンの音が響く。

 

「あら、今日はお客様の予定なんてあったかしら」

 

 屋敷の使用人として働く、"井手上菊代"は首をかしげながら、門へと歩いて行く。家の主である"西住しほ"は、奥の部屋で書類とにらめっこしている。戦車道のプロリーグ設置にむけて、また話を摺り合わせねばならないと頭を悩ませている頃だろう。

 そもそも、来客の予定があるとは菊代も聞いていない。あれば必ず、しほから言づてが一日の始めなり、昼食の時にあるからだ。

 

「……はぁい、どなたですか?」

 

 そう言って菊代は門を少しだけ押し開ける。

 眼にまず入ったのは、ブルーグレーの『通常勤務服上衣(トゥーフロック)』だった。右胸のポケット上部に、銀糸の刺繍で作られた鷲章。ゴールデンイエローの台布に、銀糸の柏葉、そして翼が三つ。肩章もこれまだゴールデンイエローの台布と、あしらわれた銀モールの上に星が二つついている。

 そして左側。左右に伸びた柏葉と、中心の据えられている"翼の生えた爆弾"のようなシンボル。これは勲章か。

 

(これは確か、"空"の……)

 

 確かこの設えはかつてのドイツ、それも『空軍(ルフトヴァッフェ)』のものだった筈だ。陸、というより戦車にちなんだものならばともかく、菊代の記憶では詳細まではわからない。

 戦車に絡まない方面の知識は、それこそ触った程度だったから。

 しかしそれ以上に、この場に感じる違和感は何だ。何時の間に博物館に来たというのだろう。脳裏に一つの単語が思い浮かんだが、今は胸の内にしまい込む。

 

「突然のご無礼、申し訳ありません」

 

 凜とした声が聞こえる。威圧的な外見とは裏腹に、温和で優しい声色であった。

 菊代の前に立つ青年は、その声色に似合う柔らかい表情と眼をもっている。その佇まいに、少し警戒心を緩めた。

 

「私は、現在港に停泊しております学園艦、【ライヒ】より参りました。

 『雨流いずる』と申します。西住流家元、西住しほ殿はおられましょうや」

「家主は奥に。ですが、面会のお約束は」

「……何も」

 

 青年は悪心をもって来た訳では無い。それは菊代の直感がそう告げているが、アポの無い者をおいそれと屋敷へあげるわけにはいかない。それは青年とてわかっている様子だ。後ろ手に組んだ姿勢を崩さないまま、表情も変えていないものの、やや不安げな様子である事はわかる。

 

「無礼を承知ながら、ご当主へお会いしたく。

 『雨流』が来た、と言付いていただければと」

「――? それだけでよろしいのでしたら」

 

 何とも奇妙な事を言う青年だ。菊代はそう思った。当主、しほならわかるとでも?

 無条件の信頼に近いものを、この屋敷の主に持っているらしい。しかし、長らく西住家に仕えて来たが、その姓には聞き覚えが無い。聞いた事も無い、という方が正確だと思う。

 "鉄"という単語を人間にしたが如く、不動の女とも見える当代の西住家当主・西住しほの口から、その姓が聞こえたことなぞ一度も無く、家内の書面に関しても、見た記憶が存在しなかった。

 付け加えて言うならば、今の西住家長女・まほの通う黒森峰女学園時代にも、聞いた覚えが無いものだ。

 

 それでなお、あの姿勢を崩さない青年。

 

 気になって来た。まだ妖しい部分が多分にあるが、当主に話だけでもしてみようか。

 青年には、門前に立たせたままなのは心苦しいので、玄関の前で待って貰う事にした。そこまで通し、青年に待つよう伝えると、奥の間にいたしほの元へ向かう。

 一つだけ引っかかる事があるとするならば、菊代は大学時代のしほを知らない。その時期の彼女は強化選手として大学にて戦車道に邁進していた筈だし、自分もまだ西住家に使用人として入ってないタイミング。その頃の縁者か何かなのだろうか。

 

「家元、よろしいでしょうか」

 奥の間の襖を開けて、菊代は中にいるしほへ声をかけた。しほは目線だけ彼女に向けて言う。

「先ほどのインターホン? 今日は来客の予定は無い筈だけれど」

「突然と申していました。二十代前半頃の男性です。港に停泊している学園から参ったと」

「……【ライヒ】ですか」

 眉をしかめ、考え込むようなトーンでしほは答える。男子校からわざわざ、女子の武道たる戦車道の家に何用なのか。それを考えるようでいて、少し思い当たる部分があるようなそぶりも見せる。

「もしや、先日聞いた"男女混合競技"の事かしら」

「それは、学生が話しに来るとは思えません」

「でしょうね。なら一体何の用なのかしら」

「……『雨流』と名乗ればわかると」

 

 そう、菊代が言った時、しほの表情は一変した。

 

―― カラン

 

 万年筆を取り落としたのが菊代の目に映った。しほの右手が震えている。眉間の皺も瞬時に消え、顔全体に困惑・戸惑いの色が散っていく。脳が情報の処理を拒否したのか、目線が正面から外れ、部屋の隅や天井に向いたり、菊代の方を向いたり、明後日の方向を向く。

 

「……えっ?」

 

 口から出たのは、そのただ一言。

 響いた声音もまた、震えていた。怯えにも似た何か。事態を飲み込めない、というよりは飲み込みたくないかのような、そんな顔もしていた。菊代も、初めて見る"西住しほ"の様子に戸惑いを隠せない。口にこそしなかったが、彼女もまたしほと同じような事を言いそうになった。しほのその戸惑いように。

 黒森峰女学園が全国大会連覇を逃したと聞いた時も、当代の次女・西住みほが転校を決めて家を去ったときも、『鋼の心』を崩さなかった女傑が、何かすがるものを探しているような顔をしていたのだから。瞳孔が揺れている。目の焦点が合っていないのが、ハッキリと見て取れた。

 

「……青年にはお帰りいただきましょう」

「ま、待って」

 菊代の言葉に、ようやく平静を取り戻したらしい。未だ表情は不安に染まった色をしているが、手の震えが小さくなっていた。

「客間に通して頂戴。それと」

「それと?」

「今日の来客……その青年の事は、他言無用よ。特に"あの子達"には」

 

 菊代は、自分の眉が少し反応するのをとめられなかった。

 この瞬間に、"西住しほ"が真っ先に"娘達"の事を口にする。この意味は何だ?

 だがこれ以上追及する時間は無さそうだ、とも思う。しほは真っ直ぐ、菊代の目を見据えていたからだ、まだ少し揺れている眼で。

 

  <―― 今は何も聞かないで>

 

 と受け取る他にどうせよというのか。

 踏み込んではならない領域の話らしい事は、この様子を見れば解る。ずかずかと踏み入るほど野暮な女では無いつもりだ。菊代は黙礼で返し、玄関まで戻り青年を呼びに行く。

 

「お待たせいたしました、客間へご案内いたします」

「恐縮です」

 

 菊代の招きに従って、青年がブーツを脱いだ。

 

……ガコッ

 

 木目の床に似合わぬ、鈍くごつい音が響いた。右足を下ろした時の事である。菊代は思わず青年の右脚、脛のあたりに目をやった。裾のあたりが不自然な程にぶかぶかだったのだ。いや、違う。正確にはぶかぶかに見えた、という方がいい。

 成人男性の脛があるべき部分が少し細い。それと、見えているのは肌というにはあまりにも金属質で。

 

 

 青年の右足は ―― 義足であった。

 

 

Eins, zwei, drei gehen vorbei,Wissen nicht, wer das wohl sei.

<故郷の人々も、誰も彼だとわからない>

 

Schwester spricht:" Welch Gesicht",Kennt den Bruder nicht.

<兄だとわからず妹も言う、『この人 だぁれ?』>

 

Doch da kommt das Mütterlein,Schaut ihm kaum ins Aug hinein,Spricht sie schon

<するとママがやって来て、目を合わせた瞬間叫んだ>

 

"Hans, mein Sohn ! Grüß dich Gott, mein Sohn !"

< 『ハンス、私の息子! よく帰ってきたね!』 >

 

 

 

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