幾らか問題がスッキリして、心なしか肩の荷が下りた気もする土曜日。
俺は気分転換を兼ねて、先日営業再開した大田さんのゴルフ場に向かった。
家から徒歩で20分ほど掛かる慣れた道のりを歩きつつ、俺は結局部屋の机の引き出しにしまったまま使い道を決められずにいるチケットについて思考を巡らせる。
月曜日までは一緒に行く相手がいなくて、いっそのこと両親に渡そうかと思っていたが、現時点ではまた違う考えが俺の中にあった。
渚を連れて行くのはアリかもしれない。そんな考えだ。
保健室の件以降、俺は渚を避ける事を(半ばなし崩し的にだが)やめた。朝の登校も一緒に行き、家庭内での会話も増えた。
それと同時に、渚も俺に保健室に連れて行ってもらった事を何度も夕飯の場で嬉しそうに、父さんよりも母さんに対して話していた。
普段よりもずっと仲睦まじそうに俺について会話を弾ませる母さんと渚の姿を見て、父さんもちょっと珍しそうにしていたのを見て、俺は思いついた。
これからも俺が渚と一緒に過ごす時間を増やしていけば、それをきっかけに渚と母さんの関係に変化が生じるのではないかと。
俺が渚との交流を深めて、渚を喜ばせる事で、それが結果的に母さんとの交流を増やし、母さんへの殺意を無くす事に繋がれば──我ながら、だいぶふわっとした論拠なのは否めないが、何せ渚が母さんを殺そうと思った理由が分からない現状では、場当たり的だとしても、試せる手段は試すべきだ。
と言うワケで、このプランに対する俺の中にある迷いや躊躇いをスッキリさせる意味も込めて、無抵抗な白球をブッ叩きにゴルフ場に向かっているのであった。
地図アプリも必要ないほど知り尽くした道を半ば無意識に歩き、問題なく目的地まで残り10分ちょいと言った所で、俺は視界の先に見慣れない物を視認する。
「あの、何度も言ってますケド、無理ですって」
「だから、どうしてダメなのよ!」
「……ん?」
大通り沿いに歩いていると、前方にあるたい焼き屋さんで店員と客の間にひと悶着が起きている様だ。
「支払いならこれで出来るでしょう? それとも、私に出すものは無いっていうワケ?」
「ですから、当店では現金以外の支払いは出来ないんですって……」
「今の時代にそんな前時代的な店があるワケないでしょ? 馬鹿にしないでくれる」
「そういわれましてもぉ……」
どうやら、クレジットカード支払いが無理な店相手に、無茶を通して道理を引っ込ませようとしてる客がいるらしい。
気持ちは分からないでもない、クレジットカードは持ってないけど、今時スマートフォンのタッチ決済すら出来ない店に対して不便だと思う事は俺にもある。
今日みたいに休日のお昼に、食券制のラーメン屋だと現金が足りない時に諦める事もあるから。
だが、無理だと明確に分かってるにも関わらずいつまでもごねるのは時間と労力の無駄だろうに。
余程、たい焼きを口にしたいんだろうけども、これじゃあ単なる悪質クレーマーだ。
「もうっ! どうしてこんな店が今も平然と潰れずに残ってるのよ!」
遂には営業してる事そのものにまで文句をつけ始めたクレーマー。
随分と駄々をこねるなぁと思いつつ、その容姿を見れば幾らか納得してしまう。
クレーマーは、恐らく夢見と同じか──あるいはそれよりも幼い風貌の少女だからだ。
身長は渚よりもずっと低くて、白いワンピースを着ており、腰まで届く外人さながらのブロンドヘアーをツインテールにまとめている。
まるでおとぎ話から飛び出してきたかの様なその風貌は、クレーマーでさえなければ人の目を言い意味で奪う端麗さを持っていた。
が、クレーマーなので普通に関わりたくない相手でしかないワケで。
俺も出来れば避けて通りたいが、進行方向の都合で店の前を通るしかない。
なので、目を付けられない事を祈りながら素通りするのであった。
「──ちょっとそこのアナタ」
──素通り、するので、あった。
「ちょっと、待ちなさいって」
──素通り、を、するので、
「待てって言ってんでしょ!」
「ぐぇ」
服の後ろ裾を思い切り引っ張られて、喉元が閉まり足が止まった。
「このアタシが声掛けてるんだから、ちゃんと聞きなさいよ!」
「──ゲホッ、ゴホッ…………畜生、何でだ」
「ん? 何か言った?」
素直に迂回するべきだった。
クレカ払いを押し付けようとする非常識な少女の後ろを素通りなんて、考えが甘かったのだ。
「ねぇ、アタシここの庶民が食べるお菓子に興味があるのに、今時現金で払えって言うのよ。信じられないわよね?」
俺の状態なんてお構いなしに、クレーマー少女はつらつらと自分の事情を説明し始める。
「このままじゃアタシは買えない。そしたら困るわよね?」
「はぁ……そうかもねぇ」
「でしょ? だから代わりにアナタが払ってくれないかしら」
「マジかよ」
すげえ事言い出したなと思うのが半分。
でもクレーマーならこの位ハチャメチャな事言うよなと、納得が半分。
とにかく、俺はこの瞬間、夢見や渚とは全くベクトルの違う厄介な女に絡まれてしまったのだった。
「どうしてこうなる」
「?
「いいから、口の中の物をちゃんと食べなさいな」
本当ならとっくにゴルフ場に着いてるはずだが、俺が居るのはたい焼き屋の最寄りにある公園。
ベンチに座り、隣に居る金髪少女がはむはむとたい焼きを頬張る姿を見ている。
あの後、傲岸不遜の極みと呼べる傍若無人な態度と
その上、1個だけ買えばいいかと思いきや『全部の味を試したい』なんて事も言い放ち、ゴルフ代と自販機で何か買える程度の金しか持ち合わせていない俺の財布はすっからかんに。
「……はぁ」
もはや一旦帰宅して再度ゴルフ場に──なんて気分にもならず、重苦しいため息が出る。
それが耳に入ったからか、金髪少女は食べる手を止めて、不満そうに言った。
「何よ、アタシの役に立てたのがそんなに不満なワケ?」
聡明なことで、と言い返したかったが、面倒くさいのでパス。
「役に立ったことで得られる恩恵が良く分からないもので」
「何言ってるのよ。役に立てた事が既に恩恵にあたるじゃない」
「君、義務教育は受けてる?」
「はぁ? 急に何」
「受けてるなら鎌倉幕府くらいは習ってるよな? それじゃあ、幕府と御家人はどんな関係で成り立ってたかは覚えてるか?」
「だから、さっきから何が言いたいの?」
「御恩と奉公があってこそ、幕府に御家人は付き従うんだ。つまり、
やや早口でまくし立てると、怪訝な顔をしながらも、言いたい事を理解したらしい金髪少女は、少し納得したようにしながら頷いた。
「つまり、アタシの奴隷になりたいと」
「凄い解釈だな!?」
「え、違うの?」
「全く正解と掠ってすらないね!」
このたい焼き少女は、異次元の読解力を持ち合わせているらしい。
しょうがないので、もうこの際面倒くさいとか考えずに火の玉ストレートで言ってやる。
「たい焼き買う現金すら持ってなかったおチビちゃんに、役に立てて光栄とか思うワケないだろ」
「な──何ですってぇ!」
食べかけのたい焼き(ずんだ餡味)を急いで口にかっ込んでから立ち上がり、キッと睨みながら言った。
「誰がチビッ子よ! 『年の割に成長止まってる』よ! 『ジェットコースター乗れないねぇ』よ!」
「いや、どれも言ってない……」
「アタシが誰か分からないって言ったわね? 良いわ、本来なら不敬罪で即刻
そう言って、自身の薄い胸に右手を当てて、口元に食べかすを残したドヤ顔を見せながら少女はようやく自分の名前を名乗り上げた。
「アタシは綾小路咲夜! 本当ならアナタ程度の庶民が顔を合わせる機会すらない、正真正銘の貴族よ!」
「あ、綾小路っ!?」
「ふふ、流石に恐れおののいた様ね。これでアタシとの立場の差が──」
「芸人さんか何か?」
「──何でよぉ!!」
「分からないなら、スマートフォンで調べなさい!」
「え……帰ってからで良いか?」
「い・ま! 今調べるの! NOW! ほら早く!」
俺が綾小路家をまるで知らなかった事に腹を立てたのか、今すぐに検索しろと言って聞かない。
プンスカと怒る所作は可愛いが、ちょっと既にもう帰りたくなってる。金も無いし。
「分かった分かった……えっと、“綾小路”“金持ち”とかで良いかな」
「雑な調べ方ねぇ……」
いちいちうるさいなぁもう。
取り敢えずそれらしいワードを入力してみたが、意外にも検索上位のwiki先生がそれらしいページを出してくれた。
“綾小路グループ”とあるが、きっとこれだろう。
えぇっと、何々……。
綾小路グループ。
代々綾小路家当主が実権を握る世襲性の企業グループ。
史料が少ないため詳細は不明だが、起源は安土桃山、あるいは江戸時代初期に興った豪商。
もしくは、長崎の出島町人とも言われている。
明治維新後の近代化の波に乗り、主に重工業を中心とした西洋諸国とのビジネス展開で大きく発展。
“最も新しい大財閥”として、日本5大財閥の一角を担い、日本の発展に大きく貢献した。
戦後のGHQによる財閥解体の際も、唯一戦勝国側と独自のパイプを持っていた事で、どの旧財閥よりも早い復興を成し遂げ、その後の冷戦や戦争特需の勢いのままグループは戦前の勢いすら超えて急成長を成し遂げ、主戦場である重化学工業のみならず、経済や政治にも多大な影響力を持つ。
今や綾小路家は日本が世界に誇る、“戦後の財閥”と呼べるだろう。
…………マジか。
ちょっと金持ちなだけだろと思ってたら、ちょっとどころでは無い。
その600倍も凄いことが、wikiさんには書かれてあった。
「ふふっ、どうやら今度こそ、目の前の人間が何者かを理解できたみたいね」
満足そうに腕を組みながら満面の笑顔で話す金髪少女──改め、綾小路咲夜。
「君が、ここに書かれてる綾小路財閥のご令嬢だって?」
「その通りよ。分かったならさっきまでのアタシに対する態度を──」
「そんな凄い家の子がたい焼き一つ買えないのか?」
「なんでさっきより無礼になるのよ!!」
笑顔が一瞬で怒り眉に変わるのがちょっと面白くなってきた。
「いやでも、嘘は言ってない……」
「今どきキャッシュレス対応してないあの店がおかしいだけよ! アタシは悪くない」
「えー、金持ち自称するなら現金で何万かは持ってるものでは」
「だから、自称じゃなくて事実だってばー!」
ヤバい、ちょっとこの子面白い。
でも揶揄うのはここまでにした方が良いか。本当に金持ちのご令嬢だとして、あんまり怒りを買い過ぎると後でどんな制裁を食らうか分かったものでは無いし。
「ごめん、ちょっとたい焼きネタ擦り過ぎた。君が綾小路家の人だっていうのは信じてるよ。わざわざリスキーな嘘を吐く意味も無いだろうし」
「本当でしょうね……?」
「本当本当。というか、だからこそ聞くけど、そんな家の子が何で一人でうろついてたワケ?」
特にこの辺は、今俺達が居るこの公園からも分かる通り繁華街から少し離れた、庶民の住宅街的なエリアだ。
幾つかは立派で敷地の広い一軒家が建ってるが、綾小路家の住宅がある様な場所では無いはず。
「……別に、アタシがどんな理由でどこに居たって勝手でしょ」
おや、どうにもこの質問は聞かれたくない話題だったらしい。
瞬間的に脳裏に浮かんできたのは、映画『ローマの休日』だった。
欧州の由緒正しい王族の王女が、ふとした切っ掛けで周りの目を盗んでローマの街に行き、そこで偶然出会った一般人とローマの街を巡る……という20世紀を代表する屈指の名作だけど、すぐにその認識を振り払った。
綾小路咲夜はその身長や容姿風貌から可愛らしさこそあるが、オードリー・ヘップバーン演じるアン女王の様な気品の高さは感じない。
決して俗っぽいわけじゃないけどな。
それに俺だって、主役を演じたグレゴリー・ペックの様にビチッとスーツが似合うダンディでハンサムな男とは程遠いしね。
それはそれとして、綾小路咲夜が1人っきりでこんな場所に居る状況には、王女が抜け出すのと似た、そこはかとない面倒ごとの雰囲気を感じ取れる。
幸いにも今日は、夢見の気配をどこにも感じない。なので後から『あの女は誰?』と恐ろしい追及をされる事はなさそうだが、そうじゃなくても最近は考え事が多いんだ。
君子危うきになんとやら。トラブルになりかねない事柄には、自ら身を引くのが一番です。
「──そっか、分かった」
「え?」
「じゃあ、俺はここでおいとまするよ。さよなら」
すくっと立ち上がり、早足でベンチを去ろうとする俺に、慌てて綾小路が引き留める様に言った。
「ま、待ちなさいよ! そこは普通もう少し質問してくる所じゃないの!?」
「いやいや、よそ様の……ましてや貴族である綾小路家のご令嬢のご事情に、一庶民である俺なんかが踏み込むなんてそんな。恐れ多い……」
「さっきまで思いっきりバカにしてたじゃな──ってこら、逃げるな! 話くらい聞きなさいよ!」
最初に人の質問突っぱねたくせによく言う!
「困ってる女子が居たら助けるのが男でしょ!?」
「庶民の間では知らない相手と必要以上に付き合うなってルールがあるんですよ……袖掴まないで貰えますかっ」
「離したら絶対に逃げるじゃない! だいたいそんなルールよりも、アタシの方を優先しなさいよっ……!」
「うわぁ引っ張るな伸びる伸びる!」
思ったよりしっかりと服を掴むので、引きはがすのは無理だと諦める事にした。
「分かった! 分かりましたから! 逃げないし事情も聴くから、一旦手を放してくれ、はなしてください!」
「……嘘ついたら酷いんだからね」
ジトッと睨みながら、緩やかに指を離す咲夜。
一瞬だけ、ここから逃走したらどんな反応をするのか見てみたくなったが、好奇心に殺されるのは猫だけで十分なので、考えるだけにとどめる事にした。
「それで? 結局、君は何がどうして一人きりで居るわけです? 綾小路家のご令嬢なんだから、お付きの者が100人や1000人は居るんじゃ」
「ふり幅大きすぎでしょ……首相のSPだってそんなに構えないわよ」
あ、こういう細かい所にツッコミ入れてくるんだ。
謎に感心してしまった。
「確かに普段なら何人か付けてあるけど、今は居ないと思うわ」
「それはまた、なんで」
「逃げたからよ」
「え?」
「だから、逃げたの。こっそりと、ひそかに、隠密にね」
何故か得意げに話す咲夜だったが、そもそもの話、何からどうして逃げたというのか。それが分からない。
幸いにもこちらから追及するまでも無く、それらの疑問については彼女の口から続けて説明された。
「近いうちに
「まさか、それを抜け出したと?」
「正解。どの会社の人も、少しでも自分達に利権が回るようにっておべっか使って、堅苦しい建前やらご機嫌取りばかりで退屈だったんだもの。4回も繰り返したらウンザリしちゃって」
それは確かに、聞いてるだけでもウンザリしそうな絵面だ。
「だから、お手洗いに行くふりをして抜け出しちゃった。そのせいでスマートフォンも鞄も置きっぱなしにしちゃって、でも財布があるから問題ないと思ってたのに……ホント、何でこのご時世に現金支払いしか出来ない店が存続できてるのよ! おかげで恥をかいちゃったじゃない」
後半の発言についてはあんまり同感出来ないけど、なるほど確かに、お金持ちのお嬢様ならではの事情がありありと込められたいきさつだった。
「大変なんだな。教えてくれてありがとう。それじゃあ」
「ええ。聞いてくれてありがとうね。──って、待ちなさいよ! しれっと帰ろうとしないで!」
「──ちっ」
敏い奴め。話の流れで帰るのは無理だったか。
「全く、油断も隙もないんだから…………とにかく、アタシが今どんな状況か、アナタ十分理解できたはずよね?」
「まぁ……はい。迷子のネコさんみたいな感じの」
「へんてこな例えは要らないわよ。分かってるなら、次にアタシが求める物が何かも、分かってるでしょう?」
「……スマートフォンなら貸すから、これでSPでも執事でも呼んでくれれば」
「そうじゃなくて! 暇なの! 全然知らない場所でどこに何があるか分からないし、ただ歩いてるだけで退屈に殺されそうなの! だからどうにかして!」
「…………えぇ」
「物凄く露骨に嫌そうな顔するわね!?」
どうにかして! と言うからにはつまり、
けれども、綾小路家のお嬢様を連れて歩いて、万が一怪我なんて負わせたら大変な目に遭うのは間違いない。
それが無くても、もし女の子と2人でいるところを夢見に見られたりでもしたら、あるいは夢見の友達に見られて話が届いたりなんて事があれば……ダメだ。想像するだけで胃が痛くなる。
やはり丁重にお断りするしかない。
露骨に拒否してもまたムキになるだろうから、ちょっと話をこねくり回して言いくるめる方向で行こう。
「悪いけどさ、この流れで喜ぶ人あんまり居ないと思うんだ」
「ならアナタがなりなさいよ、パイオニアに」
「おぉ、急にカッコいい風なこと言うじゃんか」
しまった、今の返しが結構面白いくて、同行したくなっちゃったぞ。
「え、えっと、そもそもこの街は貴族が楽しめる様には出来て無くって」
「庶民の娯楽を体験できるってワケね。新鮮じゃない」
「き、きっと、君の普段享受してる娯楽の下位互換にしかならないと思うんだ」
「庶民なりの工夫があるって事でしょ? 構わないわよ。むしろ今後の予行演習として最適ね」
「つまらなかったら──」
「アナタが面白くしなさいな。面白くもない世の中を面白くするのが、庶民の特技じゃない」
コイツ無敵か?
まいった、普通に会話してて楽しいかもしれない。
「…………分かった。けど、どうしても問題が一つあって」
「何よ?」
「金が無い」
「……は?」
何を言ってるのコイツ? みたいな顔で俺をポカンと見つめる咲夜。
「金がもう財布に無いんだよ、元々小銭しか入れてないから、さっきの鯛焼きですっからかんだ。だから、どこに案内しようにも金が無くて無理だって事」
きっとやんごとなきお嬢様だ、移動手段に徒歩なんて庶民的な物は選ばないだろう。
普段ならお付きの人が運転する車で移動するのだろうが、俺はまだ運転免許すら無い年齢だし、自転車の2人乗りは中2の時転んで大怪我した日から絶対しないと決めてる。
となれば必然、公共交通機関を頼る他ないが、バス一駅分の金すらもう無いわけで、つまりは詰みという状況。
移動費が何とかなるとしても、お嬢様を楽しませる娯楽施設なんてもっぱら金銭のやり取りが必要な施設しかないのだから、やはり金だ。
「一度家に戻ってお金用意してくるから、少しここで待っててくれるか」
もちろん、戻ってくる気などさらさら無い。
金が無いからすぐに案内はできない、という真実の先に嘘を塗りつける。
これなら俺がこの場を離れる事の正当性が生まれるし、その後俺がどこに帰ったか知るよしも無い咲夜は、俺を追いかける事もできない。
完璧とまでは言えないが、きっとこれで無事に面倒ごとを回避出来るハズ──そう思っていた俺に咲夜は呆れた顔で言った。
「何よ、そんな細かい事が問題だって言うの? 別に良いわよ、必要な金なら、たい焼きのお返しでアタシが払うから」
右手の人差し指と中指の間に煌めく黒色のカードを挟んで見せつけながら、さらっと俺の思惑を粉砕せしめた。
と同時に、そんな咲夜の仕草がまたもカッコいいなと感じてしまった俺は、本当にチョロいかもしれない。
そしていよいよをもって、俺が咲夜から逃げる手段や手立ては皆無になった。
「参った。降参だ。もう逃げる手段が無くなった」
「やっぱり逃げる気満々だったんじゃない。……それで、アナタ名前は?」
「え?」
このままずっと庶民呼ばわりされるのだと思ってた俺は、思わぬ問い掛けに拍子抜けした。
「何よ、名前くらい聞くでしょ。この後一緒に行動するんだから名前聞くの位普通でしょ? だいたい、アタシは名前教えてるのに、アナタは言わないなんておかしいじゃない」
「た、確かにそうだよな」
思えばここまでの会話で、俺達は満足にお互いの自己紹介すら済ませて居なかったのだから、凄いコミュニケーションだった。
「野々原来栖だ、呼びやすい方で呼んでくれ」
「そう。ならさっそく案内を始めなさい、来栖」
「あぁ、はい……」
容赦なく名前呼び捨てなのね──そう心の中でボヤキながら、俺はさっそくスマートフォンでどこに行こうか、行き先を調べたのだった。