「それで、どこに行く気? 半端な場所だったら許さないわよ」
「それ、動き出す前に言って欲しかったな」
タクシーの中で遅すぎる警告を受けながら、向かう先は街の中心部から東京寄りにちょっと離れた場所にある施設。
綾小路家のご令嬢である咲夜なら、庶民には到底縁の無い様な贅の限りを、沢山経験しているに違いない。
大型ショッピングモールとか、水族館とか、美術館とか、ましてや神社仏閣なんて物にも満足するワケが無いのは、容易に想像できる。
だから、今回そう言った一般的な娯楽とは、些か趣の異なる場所へ行く事にした。
果たしてお嬢様のご興味に添えるかは分からないが、こと“退屈と鬱憤をスッキリさせる”という1点においては、間違いなく他の追随を許さないだろう場所だ。
「自信たっぷり、て顔ね?」
「自信って程じゃないが、多分気に入るぞ」
「???」
「行けばわかるって」
敢えてそれ以上の説明はせず、程なくしてタクシーは目的地に辿り着いた。
施設に入り、受付でメニューを選び、店員さんに案内された部屋に入る。
説明を受け、事の次第を全て理解した後、自分がどういう場所に連れて来られたのかを理解した咲夜は──、
「あはははは! 最ッ高! アナタ良いセンスしてるわ!」
頬を紅潮させ、金属バットを振り回しながら部屋の中にある物を手当たり次第にぶち壊していた。
「それは良かった!」
咲夜の反応に満足しながら俺もまた、同じ様に木刀で視界にある物をことごとく叩きつける。
そう、俺が咲夜を連れて来たのは、知る人ぞ知る首都圏の名所、東京にも数店舗ある『物を叩き壊しまくれる』アトラクション施設『GAMON』。
時間制限の中、電子レンジやテレビ、その他諸々を好き放題ぶっ壊せるという非常に治安とモラルの悪い、それでいて人間の誰もが持ち得る破壊衝動とストレスを発散できる空間を提供する。
如何にお金持ちの綾小路家──庶民のあらゆる娯楽の上位互換を満喫できる存在であろうと、お金の力である程度の横暴が利く立場であろうと。
この法治国家日本で生活する以上、文化的な国で生活している以上、法とモラルと秩序が尊ばれる以上、庶民の上位互換存在でも不可能な行為がある。
それは即ち、器物の破損。傍若無人な暴力の行使。
ことさら自分の物では無い、他人の管理する物を破壊する行為。
通常であれば憚られるそれが、この施設内に限っては推奨されるのだ。
如何に金持ちだろうと、何かを積極的に破壊出来る立場に浸れる機会なんて滅多に無いだろう。
実際にその予想は的中で、だからこそ、非常識かつ非日常的な空間を、鬱屈していた咲夜が退屈に感じるワケも無かった。
「あー! ここにアイアンあったらなあ!!」
お金持ちのお嬢さんが楽しめてるんだ、当たり前だが、庶民の俺だって楽しい。
使い慣れてる長物が無いことを惜しく思いながらも、ここぞとばかりに日頃のストレスを発散していく。
しっかり力を入れて握るとまだ手が痛むので全力で振るえないけど、それでも楽しい事には変わらない。
「ねえ来栖! ここは他にも何が出来るの? さっきメニュー表に色々書いてあったわよね!?」
冷蔵庫の扉を開けて、ゲシゲシと蹴りながら咲夜が聞いてくる。
それに対して、電子レンジを思い切り地面に叩きつけながら答えた。
「別料金かかるけど、斧を投げてダーツみたいな事も出来るってさ!」
「良いわね、面白そうじゃない! 後でそれもやるわよ!」
「良いけど綾小路、君そんなに暴れてたら体力無くなるんじゃないか?」
「問題ない……わよっ!!」
蹴り続けていた冷蔵庫の扉を、とうとう反対側にパッカリと蹴り飛ばして壊しながら、咲夜は頬に汗を流して、非常に良い笑顔を浮かべる。
「こういうの、今までは見るだけだったけど、自分でやるのも悪く無いわね! ドンドン壊すわよ!」
そう言って今度は花瓶をぶっ壊し始める咲夜を見ながら、俺は自分の目論見が大正解だったのを確信したのであった。
「はー、もうクタクタ。身体が熱いわ」
「お疲れ様でした」
GAMONでの破壊と暴力の時間をひとしきり楽しんでから、俺達は熱にほだされた体を冷やす意味も含めて、施設から歩いて15分ほど先にある川國海浜公園で休んでいた。
自販機で2人分の飲み物を買う程度の小銭はあるので、先に咲夜をベンチに座らせて、適当に買った方の1つを咲夜に渡す。
「ほら、庶民向け飲料だけど飲みなよ」
「あら、気が利くじゃない。……でも何よ『庶民向け飲料』って。幾らアタシでも自販機で売ってる物位飲むわよ」
「そうか、すまん」
「もう。……ちょっと待ちなさい、何よこれ」
咲夜は缶のプルを開ける前に、怪訝な顔を見せて言った。
「クエン酸配合レモンティー風しゅわしゅわスポーツドリンク? アナタ、こんな色の付いた泥水をアタシに飲ませようとしたわけ? 死にたいの?」
「いや、俺は飲んだことないんだがな。最近妹がやってるSNSで流行ってるらしくてさ。何でも完飲チャレンジとかで」
「絶対にマズいから成り立つチャレンジじゃないの!」
「お嬢様って、こういう突拍子もない物を喜んで口にする物なんじゃ」
「偏見まみれに程が──って、突拍子無いって分かってて渡したのね!?」
いかん、密かに反応を楽しみにしてたのがあっさりバレた。
こうなってはもう仕方ない。咲夜は俺が飲もうとしてた『ドクター〇ッパー』と強制的に取り換えられてしまった。
こっちもだいぶ人を選ぶ飲み物だと思うが、どうやら本場アメリカ滞在時に飲みなれてるらしく、こともなげに飲んで見せた。
対して、俺はと言うと、およそ人間が口にして良いとは思えない──現代文明と人間の味覚に真っ向から中指を立てる液体に、心の中で大粒の涙を零しながら相対する羽目に。
高所得者が甘い汁を吸い、平民は泥水を啜る。
奇しくも現代社会そのものと呼べる構図を前にして、一瞬でも革命の灯火が胸の中に点いたのを、果たして誰が責められるだろうか。
いや、まぁ、誰が悪いのかと言えば100%自業自得なので、革命も何もないんだけどな。
「ふぅ……心地いい風ね。ちょうどいい感じ」
咲夜の言う通り、ひとしきり遊び尽くして熱のこもった身体に、ひんやりとした潮風は天然の冷風のようだった。
「それにしても、アナタ随分とはしゃいでたわね?」
クスクスと笑いながら、揶揄うように咲夜が言う。
正直、その通りだと言う他ない。
途中からはもう、咲夜を楽しませるって考えは頭から消えてたのだから。
けれどそれを言うなら、咲夜だって人の事は言えないだろう。
「君も大概暴れてたと思うけど? ヘロヘロになって肩で息してるの何度も見たぞ」
「そ、それは……別に良いでしょ、そもそもアナタがアタシを楽しませるために連れてきたんだから!」
「確かに。……しっかり楽しんでくれた様で何よりだよ」
「むぅ、なんかアタシのこと子供扱いしてるかしら?」
「まさか、そんなこと」
「怪しいわね……言っておくけど、アタシは今年で17よ。来年になったら成人するんだから」
「え!? 13じゃなくて!?」
「──ッ! やっぱり子供扱いしてたじゃない!!」
ここで唐突に、そして今更に、綾小路咲夜の容姿について言及しよう。
渚よりも5センチ以上は低い背丈。髪型は腰より長い金髪ツインテール。真っ白なワンピースに慎ましい胸元。
高貴な、それでいて幼さを感じさせる彼女の雰囲気は、その眼付きの鋭ささえ度外視すれば、芽吹き始めた花の様な儚さすら感じさせる。そんな少女。
もっとも、彼女の実態は既に言った通り眼付きのみならず、発言や行動の鋭さと過激さによって、儚いどころか蜜を求めて寄ってきた昆虫を叩きのめす食虫植物と呼べる気質だが。
兎にも角にも、そんな性格と身体的特徴から、俺は咲夜の事を絶対に中学生だと思っていたのに、まさかの同級だった。
人を見た目で判断するなと義務教育の頃からさんざん道徳で習ってきたが、今日この瞬間改めて身をもって学ぶ事になってしまった。
「誰がちんちくりんよ! 万年未発達ボディよ!」
「言ってない! 流石にそこまで失礼な事は脳裏でかすりともしてないから!」
どうも、彼女が結構コンプレックスにしてる部分に触れてしまった。
悪意が無かったとはいえ、咲夜の地雷を踏んでしまった事には変わりないワケで。
こういう時は自分に非があろうと無かろうと、そもそも自分に非があると自認してるしてない問わず、『相手の気持ちを損なってしまった』という事実そのものに非を認めるべきだ。
「すまん……じゃないな、ごめんなさい。子供扱いは無いけど、確かに幾つかは歳下と思ってたよ。申し訳ない」
歩みを止めて斜め45度に頭を下げて、一切の捻りも無く謝意を見せる。
相手は綾小路家のご令嬢。
仮にここで本気の怒りを買ってしまえば最後、果たしてどんな目に遭うか──という様な、俗物かつ打算的な意味も込めた謝罪という点も決して否めない。
しかし、いずれにせよ、彼女に対して自身の非を認めてる事実には変わりない。
そしてその姿勢こそが、今最も正しい行いだった。
「……ふん、ここにアタシのSPが居なくて幸運だったわね。もし居たら今頃、酷かったんだから」
その言葉が冗談の類では無い事くらい、きっと小学生でも理解できる。
斜め45度の姿勢を直して、まっすぐになった背中をツーっと冷や汗が伝っていく。
「……ちなみに敢えて聞くけどさ。やっぱり綾小路家くらいになったら、人ひとりの殺人程度は簡単に誤魔化せるワケ?」
「もちろんよ。と言っても、国内はちょっと面倒だけどね」
──面倒なだけで問題はないのかよ。
「その顔、少しは身の程を弁えるべきって理解したみたいね。まぁ、今日は楽しかったから特別に許してあげるけど。今後は気を付けなさい」
「心から君の寛容さに感謝するよ」
と言っても、今日の出会いは偶然の産物。きっと明日から俺達がこうやって会話する事も無いけども。
だからこそ、この後の立ち振る舞いだけは本気で気をつけないとだが。
「この後はどうする? そろそろ夕方になるけど」
「あら、そう? もうそんな時間なのね。……じゃあ、
「そろそろ……何が?」
咲夜が何かを確信した雰囲気でそう呟いた途端、俺達が座るベンチの背後から第三者の声がした。
「お嬢様、探しましたよ」
年季を感じさせる、落ち着きのある声色。
間違いなく俺の人間関係から離れた人物であり、声の主が『誰』かは分からなくとも『何者』かは、振り返るまでも無く理解できた。
「…………早かったじゃない、流石ね」
ベンチから立ち上がり、ゆっくりと振り向いてそう言い返す咲夜。
遅れて俺もようやく咲夜の視線の先を追うと、そこにはやはり、彼女の執事に違いない初老の男性が佇んでいる。
「思いの外、楽しんでいるご様子でしたので、声をかける機会を伺っておりました」
「そう? 別にそんな事無かったと思うけど?」
「いえいえ、お嬢様が笑顔で同年代の者と会話する姿は中々見られないものですから」
「ちょ、ちょっと! コイツの前で変な事言わないで……、アンタも、爺やが変な事言ったからって勘違いしない事! 良いわね!?」
勘違いも何も、何をどう勘違いしろって話なんだが。
そこを問い質したら確実にめんどくさいと分かってるので、黙って頷くだけに留めた。
心なしか、咲夜が爺やと呼んでる執事さんから、値踏みされてる様な視線も感じるし。
まさに今こそ『沈黙は金』という古くからの言葉に倣うべきだ。
「さ、それではお嬢様。お迎えの車はあちらに。雷蔵様も待っておりますので」
「分かってるわよ、そんなに急かさないで」
そういうと、視線を俺に戻す咲夜。
「来栖、今日はよくやったわ。結構楽しかったわよ……庶民にしては、だけど」
そう言って、自分が飲み終えたドク〇の空き缶を押し付ける。
どうせ俺が片付ける事になると思ってたので、素直に受け取った。
「ありがとう……庶民だから素直に嬉しいよ。それに短い時間だったけど、俺も楽しかったよ。じゃあな」
「……えぇ。それじゃ、さようなら」
こうして、若干の唐突さと寂しさの残る、俺達の最後になるだろう会話は終わった。
咲夜はスタスタと迎えの車がある方向へと歩いて行き、俺もそんな彼女の背中を見送っていたが。
「時に、野々原来栖様」
「はい!?」
いつの間にか目と鼻の先に立っていた咲夜の執事さんに、耳元で声を駆けられて、トンデモないリアクションを晒してしまう。
「な、なんですか!?」
「本日は、お嬢様の急なわがままに応えていただき、誠にありがとうございます。遠くから見ていましたが、今日の様に終始楽しそうなお嬢様は、ここ暫く見ていなかったので」
「い、いや……全然、あの程度の事で」
普通に感謝されて困惑していると、何やら懐から長方形の封筒を取り出す執事さん。
それをすっと俺に差し出すと、俺が何かと尋ねるより先に言った。
「本日のたい焼き代です。お納めください」
「割と初めの方から見てたんですね」
それなら最初から咲夜を連れてってくれたらと思うが、使ったお金が戻ってきたのだし、良かったと思う事にする。した。
「ここから野々原様のご自宅までの移動費
「あぁ、はい……そんな、ご丁寧に。助かります」
「いえ、お嬢様の笑顔を見せて頂いた事に比べれば、端金の様な物です。……それでは、わたくしもここで失礼いたします。野々原様、また後ほど」
「はい……お気を付けてー」
まんま映画で見る様な所作で帰っていく執事さん。
その後ろ姿も見送り終えてから、ようやく『後ほども何も、これで最後だろ』というツッコミが出て来たのであった。
「……帰るか」
口に出して耳に届かせることで、脳みそを切り替える。
その前に、先ほど咲夜の執事さんに貰った封筒のお金を財布に入れよう。
「ん、あ?」
折口を開けて中身を見ると、すぐに違和感に気づいた。
俺が咲夜のたい焼き代に使ったのは、千円札3枚である。
たい焼きのやり取りをどこからか見て知ってた筈の執事さんが、たい焼き代を知らないのはあり得ないし、知ってるからこそ俺に返金してくれたのだから、当然の事、封筒には千円札の偉人が3枚分入ってるはず。
にも関わらず、俺が軽く中を覗いただけでも5枚の紙幣が確認できた。
とはいっても、多少は執事さんもどんぶり勘定でお金を用意したのだと思えば、納得は出来る。
最初から『帰りの移動費』も込みだと言ってくれてたからね。
いやはや、3千円消費して5千円になって戻って来るなんて、図らずもお得な出来事だった。
俺は年齢的にも将来的にも手を出す気は無いけど、ギャンブル依存症の人間が頻繁に口にする『~~円勝った』というのは、これに似た感覚──いやそれ以上のモノなんだろうか。
せっかくだし、家までは出来るだけ徒歩で歩いて、浮いた帰り賃で何か食べて行こうかな。
そんな事を考えつつ、封筒から完全に中身を取り出すと──。
入っていたのは、1万円札が5枚であった。
「飛行機で帰宅しろって言うのかよ!?」
あまりにも遅すぎるツッコミが、まもなく夕方を迎えようとする川國の空に虚しく響いた。
「……逆にどうしろって言うんだ。こんな大金持ってるの母さんにバレたら、説明が大変だぞ……」
恐らくは綾小路咲夜の護衛代、これも加味してのこの金額だったのだろう。そう自分を無理に納得させたけど、本当に親にバレたらどう説明すれば良いのか。
俺用の銀行口座に入れたら、口座管理が容易な母さんに即効バレる。
かと言って手元に残しても、きっと遊びに使いたくなるだろう。そうじゃ無くたって、細かな金の使い方や羽振りの良さで、渚や夢見に怪しまれる可能性は否めない。
隠すのが嫌だからと、素直に説明したところで、それはそれで果たして信じて貰えるかどうか。
高校生の身分、バイトもせず急に5万円は大金が過ぎる。怪しいバイトや犯罪行為に手を出してると疑われる方が先だろう。
「もういいや、取り敢えず帰る。帰ってから考える」
結論の先延ばしは人生において悪手にしかならんと知ってる俺だが、今回の様な不慣れなケースでは話が別だ。
こんな時、仲の良い友人が5人くらい居たら、ラウンド〇ンで一日全額奢りとかで気持ちよく、かつ、親にバレずに使えるのになぁ──思いもよらない方向で『友達』を持つ良さを知った矢先。
ふと、周囲の風景の変化に気付いた。
「……あ、あれ?」
海沿いの公園、その大前提は当然変わらない。
世界が異世界に変わったとか、無人になったとかなんて事は無く。むしろ逆で、周囲に人だかりが生まれていた。
それも、自分と年齢層が同じそうな容姿の男子が──しかも、ついこの間見た事もありそうな容姿の人物が何人も。
あれ、これマズいかも──なんて気づいても時すでに遅し。
あれよあれよという間に、ベンチの周囲を十数人のガラが非常に悪い男子達に囲まれていた。
こいつらが何者で、何故俺を囲んでるのか。理由は考えるまでも無く理解できた。
「君ら……
そう誰にでも無く尋ねると、俺の直線上に立ってた奴が一歩前に出て──その顔を見て更に確信したけど──怒りに染まった顔で言った。
「ああ、そうだよ。この糞野郎。まさかここにいると思ってなかったぜ」
そう語る男の名前は知らないが、顔はよく知っている。
左目に痛々しい包帯が巻かれているが、間違いない。先日俺と夢見で撃退した、不良グループのトップだった。
「えっと……その眼の包帯は、どうしたワケ?」
「何だお前、煽ってんのか」
「いやいやや」
このまま一斉に襲われたら確実に(良くて)半殺しにされるだろうから、うまく逃げるチャンスを作るための時間稼ぎに、本人的に一番引っ掛かりそうな部位を尋ねたが、これは正解だった。
「お前に、あとお前と一緒にいた糞女にやられた後、別のチームに襲撃喰らった時の怪我だよ」
「ああ、それは大変だったな。同情するよ」
煽ってピンチを誘発してる様に見えるかもしれないが、これもまた時間稼ぎの一種。
下手にビビってたり、謝罪の姿勢を見せたら、むしろこいつらのやる気の炎に薪をくべる様な物だ。ここはリスクを込みでも煽って見せた方が、リーダーの判断力を鈍らせる意味でも正しい。
けれども、最大の問題はここからどうやって逃げおおせるかだ。
人数から見て、単純な足の速さで逃げ切るのは厳しいだろう。仮に全員俺より足が遅い奴ばかりだったとして、この人数を撒けるだけの地理的知識が乏しい。
前に父さんに連れられて回らない寿司屋さんに行った時、そこにいたおじさまに言われた言葉で、今も印象深い言葉がある。
喧嘩をする際、喧嘩をするまでの判断に相手の人数が重要になると言う。
タイマン──つまり1対1であれば良し。2対1も実力差が明らかであれば良し。3対1はまず誰か1名を徹底的に痛めつけて、相手を怯ませた上ならよし。
だが、4人以上が喧嘩を売ってきたなら、どれだけ個々の実力差に開きがあろうと、抑え込まれてしまうので絶対に逃げろ。
当時は『酔ったおじさんが自慢話程度に語ってるな』と思ってたが、いざ自分が不良に囲まれる立場になると確かに、その通りだと思った。
数人程度ならどうにでもなりそうだが、十人以上に囲まれてると、武器でも無ければ袋叩きに遭う未来しか見えない。
なので、このようなどうしようもない状況に立たされた今、俺に出来る事はたった一つ。
奇しくもまぁ、これまた先述のすし屋のおじさんに教わった事だが、つまりは『一番影響力のありそうな奴に金的して、全力で逃げる』という物だ。
不良グループなんてのは、自己判断力に欠けた連中の集まり。カリスマ的存在の一存で成り立つ、強烈かつ脆弱な存在。
そんな集団のトップだけを徹底的に痛めつけ、あとはその隙を全力で逃げたら何とかなる。そういう算段だ。
なので、出来るだけリーダーを挑発して、自分の間合いまで来たら足で金玉を蹴り上げ、悶絶してる間に逃げるという作戦を立てた。
あるいは。金玉を蹴り敢えて悶絶させるところまでは同じでも、そこから迅速かつ徹底的にリーダーを痛めつけて、そいつの『強さ』という脆いブランドに付き従ってる仲間たちに『同じ目に遭いたくなかったらさっさと消えろ』と言い放つか。
前者をAプラン。後者をBプランとするが、どっちに転んでも物凄く大変な目に遭うのは間違いなかった。
「同情とかやっぱ舐めてんだろ、殺すぞお前」
案の定、挑発に乗っかったリーダー格の男がじりじりと俺に詰め寄って来る。
良いぞ、そのまま俺の間合いにまで来い。不良らしく至近距離で胸元を掴んできてもいい。
そうすれば、後はこっちのターンだ。
リスクが多分に含まれてる状況下とはいえ、望み通りの展開になってきたことにワクワクと興奮を覚えながら、一歩、また一歩とリーダーの男がこちらに近づいて来る。
数歩で完全に俺の間合いに入る──そんなタイミングで、事態は急変した。
「何してんだテメェこの野郎!!!!!!!!!!!!」
近くを走る自動車の走行音を掻き消すほどの怒号と共に、リーダー格の男の横っ面をライダーキックさながらに蹴り飛ばす男が1人。
俺とリーダー格の男に割り込むように、誰も気づけないほどの速さを纏って颯爽登場して見せた。
「──ぅぇ、ああ゛!?」
自身の身に何が起きたのか理解できないまま、吹き飛ばされるリーダー格の男。
それとは対照的に、俺は突如現れたそいつに、
視界に映ったその容貌、見間違えるはずもない。
黒髪の中に混じる、地毛の赤髪。好戦的かつ粗暴な目付き。
そして何より、
間違いない、俺の数少ない交友関係、それに当てはまる人物だった。
「
「応! 久しぶりじゃねえのクルス!」
なおかつ、間違いがなければ、関東で喧嘩最強の名を誇る男の名前であった。