「それであっくん、今日はどこに連れて行ってくれるの?」
言う前は抵抗感のあった名前でも、何度か口にしていく内に慣れるらしい。渚はとても自然に俺をその名前で呼んだ。
「今日は平日だし、事前に遅くなる事は伝えてるけど、あんまり長く出歩いてると
「そんな所、あったっけ?」
「繁華街には何でもあるぞ──ところで、事前に聞いておくけど」
「??」
「動物アレルギーは無かったよな?」
「──あっくん! この子凄い人懐っこい!」
足元に近づいて来るスナネコに興奮しながら、渚が喜色満面の笑みを浮かべる。
「この子も狐みたいで可愛い……ねぇあっくん、この子はなんていう名前なの?」
「フェネックだね。耳長くて可愛いよな」
「うん!」
精神年齢がぐっと幼くなったようにはしゃぐ渚。
どうやら、初めての動物カフェは大正解の様だ。
俺達の住むこの街で2つある動物カフェの内、渚が好みそうな動物が多い方を選んだ甲斐があった。
ここの動物達は珍しい種類の子がいるのもだが、何より人馴れしてる子が多い。スタッフさん達の動物に対する真摯な態度と、少し高めな料金により悪質な客が来ない環境が可能にした高い動物たちのサービスは、初心者の心を容易に掴む。
「えさや──ごはんもあげられるけど、やってみる?」
「できるの!? それなら一緒にやろうよ!」
「分かった。……すみません店員さん、2名お願いします」
店員さんに注文して、ほどなく渡された2人分の餌を渚に預ける。
餌やりの手順とルールを聞いて、店員さんが実際に見せてくれたやり方で俺達も各々が食べさせたい子のもとに向かう。
「わぁ……」
自分の手のひらに乗せた餌を、舌先でちろちろと口に運ぶフェネックに渚は声も無く感動している。
「舌がちょっと当たってくすぐったい……おにい──あっくんは誰にあげるの?」
「俺は──んっ」
誰にあげようか考えようとした矢先に、目の前に近づいてきた動物と目が合った。
キンカジューと呼ばれる、アライグマの仲間だと店員さんが横で教えてくれる。どうやらこのカフェ一番の食いしん坊らしく、その特徴的なクリクリの黒目はまっすぐ俺に向けられており、『僕にちょうだい』と主張してくる。
正直見た目はあんまり好きではないが……自分を可愛いと信じてやまない仕草が妙に愛らしく、あげたくなってしまった。
「ほら、お食べよ──あっ!」
渚とは違い、専用の器に入れて目の前に置くと、すんすん匂いを嗅いでから口に咥えて、そのまま専用のツリーに登っていった。
「逃げられちゃったね」
「……そういう習性なんだよきっと」
どうせなら目の前で食べてる姿を見たかったけど。
「あはは! 悔しがってる!」
無邪気に笑う渚の笑顔を見る事が出来たから、それで良しとする事に、決めた。
「それじゃあ、今日はここまで」
「うん、ありがとうあっくん。……また明日ね」
「あぁ、またな」
今日の『恋人ごっこ』はお終い。
渚を家の前まで見送ってから、俺は荷物を残してきた夢見の家に戻る。
妹を自分も暮らす家まで見送って、従妹の家に寄ってから再度帰宅する……なんとも変な行動だが、果たして今後何回これを繰り返す事になるのだろうか。
今日のカフェ代もそうだが、幾ら『恋人ごっこ』の疑似デートだとしても、妹に金を出させるワケにもいかないので、出費の面も気になる。
渚は『読モで少しは稼いでるから私も出すよ』と言ってくれるが、そこはほら、兄の沽券に関わるので話は別だ。
まぁ、定期的に短期バイトと月のお小遣いで貯金は結構あるから、向こう一ヶ月は毎日デートしても問題ない。
何より、そんな長い間ストーカーの方が我慢できないだろう。今日も盗撮の様な目立つ行動は取らなくても、放課後に渚が家に帰らず駅に行き、
そんな姿を今日から何度も何度も目にして、耐えられるわけがない。
ひょっとしたら、渚から離れて一人で歩いてる今、暗がりの広がる道で犯人が俺を襲う事だってあり得るんだ。
念のため、背後や曲がり角に細心の注意を払いつつ、出来るだけ街灯と人目の付く道を選んで進むが──幸いな事に襲撃者の気配は微塵も無く、夢見の家までたどり着いた。
安堵と期待外れ、どちらとも取れるため息を軽く吐いて、俺は今日二度目になる夢見の家の玄関を開けて──。
「おかしくない?」
「なにもおかしくない」
──早々、眼前にハサミを突き付けられた。
「いやおかしいよね、犯人騙すだけじゃない。どうして普通にイチャイチャデートしてるの?」
「そういう作戦だからな」
「“あっくん”て何? そんな呼び方まで変える意味あった?」
「どこで会話盗み聞きしてるかも分かんないし」
「小動物にご飯あげて楽しかった? 渚ちゃんかわいかった?」
「渚は可愛かったけど、キンカジューはブサイクだったよ」
笑顔で──表情の造形を表現するだけなら百点満点の『笑顔』を浮かべて詰問する夢見。
一つ一つ冷静に返答していくが、さっきからハサミの切っ先が右目の下に当たりそうで、気が気じゃない。
「落ち着け夢見、そもそもこの作戦を提案したのは誰だ」
「そういう事を言ってんじゃないのよ!」
「──っ」
夢見がこんな風にキレ散らかすのは随分と久しい。
正直、渚と『恋人ごっこ』をすると決めた時からこの展開は覚悟していたが、分かっていても気が竦みそうになる。
けれど、同時に俺はこの作戦が絶対に成功する事を確信した。
ストーカーを騙して、キレさせて過激な手段を選ばせるのが、そもそもの目的。
であるならば、俺が知る中で最もストーカーの極みである夢見がキレ散らかす位やらなきゃ、姿の見えない相手に効果があるかなんて分からない。
嘘だと分かっていても、夢見は冷静さを保てないでいる。
裏事情なんてまるで分ってない犯人の心情など、想像に難くない。もやもやなんて可愛い表現じゃ到底収まらない地獄の様な気分だろう。
今まさに、俺に危害を加えかねない夢見が目の前に居ても、
「何嗤ってるの? 何がおかしいのよ、黙ってないで何か言いなさいよ!」
──しかし、まさか自分が提案した作戦に、ここまでキレる人間が存在するとは。
ある一定のラインを越えると、思考に一切の整合性が無くなるこの
だが、先ほども言及した通りこの状態の夢見を見るのは初めてじゃない。
だから怖くない──なんて事はあり得ないが、かと言ってこちらが臆してる事を素直にアピールするのは利口じゃない。
夢見は激情の中に居ても、俺に返事を求めている。
それはつまり、彼女は次の行動を、この場の流れを俺に委ねているという事。
この場の、少なくともこの瞬間のイニシアチブを握っているのは、実は俺なんだ。
恐怖で思考を埋め尽くしてる状態では気づけないが、夢見はまだそれだけ『冷静』であり、俺と対話する気がある。
だから、先に結論を述べさせてもらえば、俺はこの後絶対に死なない。
そもそも、夢見が完全にキレていたなら、わざわざ家まで我慢する事も無く、この家に着くまでのどこかで俺は拉致監禁されているんだから。
とは言え、ゆっくり言葉を紡いでいてもそれが夢見の耳に届くことは無い。対話する気があっても、聞く耳は無いのだから。
いかなる正論も、欺瞞も、この状態の彼女の前ではみな等しく戯言。
──であるならば。
──
「ハサミ、邪魔」
「なに言って──んんぅ!?」
邪魔なハサミをさっと手ではらって、俺はまっすぐ夢見の唇に自分のを重ねた。
キス、接吻、口づけ、口吸、ベーゼ、エトセトラエトセトラ──表現は多岐に渡るが、それをした。
それこそ、本来なら先ほど夢見がキレてた『恋人』がやる様な行為だが、俺が夢見にするそれには、ラブもロマンスもまるでない。
頭に血がのぼってる怒れた女の血を更にイカれた行為でのぼらせて、黙らせるだけの手段でしかないからだ。
いつかインターネットの片隅で見た『うるせー口だな、塞いでやるよ』。
噴飯物の背筋に寒気が走る様なそれと、やってる事は何ら変わらない。
だが、そんな糞みたいな行為が、だからこそ、今この状況では
「──っ……おにぃ、ちゃん?」
持っていたハサミはいつの間にか玄関の床に落ちていて、夢見も追随する様に力なくぺたりと、女の子すわりで崩れ落ちる。
一瞬どころじゃない、何十秒も触れ合った唇をようやっと離した時、目の前に居るのは
狂った相手には、こちらも同じ位に狂った事をしなきゃ通用しない。
そこまでしてようやく、“まともな言葉”は人間の耳に届くのだ。
「何度も言うよ、夢見」
俺を見上げる夢見の瞳をじっと見て、俺は言葉を続ける。
「この作戦を提案したのは君だ。そして俺は君を信用してる」
「…………はい」
「俺が渚と本当の恋人みたいに振舞うのは、あくまでも夢見の作戦だからだ。それ以上の理由も、気持ちも俺には無い」
「…………はい」
「だから、夢見も俺を信じて?」
そっと右手を伸ばし、夢見の頬を優しく撫でる。
まるで先ほどのカフェにいた小動物の様に、俺の手を受け入れる夢見。
「これからも、犯人が出てくるまで渚と『ごっこ』のデートは続けるけど、
「…………はい」
前の返事と同じ言葉に加えて、こくんと頷く夢見。
もうそこには、いっさいの狂気が消え去っていた。
玄関口の茶番を終えて、着替えなおした俺は荷物を確認しつつ言う。
「盗聴器の類い、仕組んでないよね?」
「……もう、意地悪言わないでよ」
夢見はいまだに上気させた顔で壁に身体を預けて、覇気なく答えた。
意地悪ではなく、過去の行いから生じる当然の疑惑だが、ざっと調べた感じでは鞄も制服も、問題なさそうだ。
前は制服のボタンに仕込まれてたからな。あれには気づいた瞬間ビビった、普通に制服着てトイレもするのに。
「──それじゃ、俺はもう帰るよ」
「うん……あっ、お従兄ちゃん」
「ん?」
靴を履いて出ようとした俺を呼び止める夢見は、手を身体の前に組んでもじもじとしながら、気恥ずかしそうに言った。
「あの……さっきの、またしてくれる?」
「それは、
「もう、またそういう事言うんだから……」
じとっと俺を睨むが、すぐにパッと目を逸らす。
ホントもう、良くここまで変わり身が激しいもんだと思うが、それをごまかす様に表情を柔らかくして、俺は夢見の問いに答える。
「そうだね。夢見が今日みたいに怖い事しないで、ちゃんと渚のストーカー捕まえる事が出来た時には……また考えるよ」
「考えるだけぇ?」
「──一緒に頑張ろうな、夢見」
「……うん、でも分かった。もう今日みたいな事はしないね、あたしお従兄ちゃんの事、信じてるから」
「ありがとう。……じゃ、また明日な」
「うん、また明日──おやすみ、お従兄ちゃん」
寂しげに手を振る夢見に同じ手振りをして、俺はようやく小鳥遊家を後にするのだった。
──そうして、数分後。帰り道途中にある公園の公衆便所にて。
「うぅぅおええええ!」
我慢しきれなくなった吐き気に身を任せて、俺は胃の中の全てを吐瀉物として吐き出す。
吐いて、吐いて、吐き出して吐き尽くして、何も残ってないのにそれでも吐き出す行為だけは繰り返して、俺はひたすら涙を流して身体から『夢見』を排出する。
よく、我慢したと思う。
着替えてる途中で何度も限界を超えたが、噴き上がろうとする物を痛みに悶えつつ、完全に家から離れるまで必死に堪えた。
いい加減、嘔吐に食道が痛みを主張した辺りでトイレの水を流して吐くのをやめて、汚らしいトイレの地面に座り込む。
小便と大便の匂いが染みついて鼻を刺すが、それでも唇にまだ残る感触に比べればマシという物。
まるで、蛆虫とキスした時の様な果てしない不快感。目的のためだけに自分を汚す嫌悪感。
泣きたくなって、ともすれば死にたくなるほど惨めだが、決して嗚咽だけが漏らさない様にして、俺はよろよろと立ち上がる。
「我慢しろ、我慢しろ……これは必要な事なんだ」
ファーストキスなんてとっくに捧げてる。
今更誰とキスしようが、必要とあらば誰とでも出来る。
それなのに、今こうして極端に弱っているのは、俺に覚悟が足りないからだ。
果たさなければならない目的の為に、幾らでもこの身を捧げ、汚れても構わない──そういう信念が弱いから。
夢見は必要だ。
たとえ俺を蝕む毒の側面を持っていようと、味方にし続ける意味と価値が、彼女にはある。
「だから、このトイレを出たら、弱い来栖はお終い。いつも通りの、強くてカッコいい野々原来栖に戻る」
自分にそう言い聞かせて、俺はトイレを出る。
「──よし、帰るか」
言い聞かせた通りの自分に戻って、俺は自分がトイレでした事など一切無かったことの様に、平然と帰路に戻った。
結論から言うと、この作戦は初日からやはり大成功だった。
俺が夢見の家に戻る途中、渚のスマートフォンには鬼の様にメッセージが届いたらしい。
メッセージは一部スクショして、あとは相手アカウントをブロック&DMも削除した渚が、帰宅後の俺に教えてくれた。
『誰あいつ』
『なんで手繋いでのる』
『わかれろ』
今までと明らかに違い、相手の焦りと余裕の無さが滲み出ている。
『誤字で“? ”を“る”って打ってる。ホント、どこまで焦ってるのって感じだよね』
本来なら恐怖や嫌悪が優先するはずが、余程今までの溜飲が下がったのか、渚はむしろ楽しそうですらあった。
この調子なら、2回目のデート後にでも馬脚を現すだろう──そんな風に気楽に思ってたのだが。
意外にも、このあとのストーカーは辛抱強かった。
翌日、翌々日とデートを重ね、土日を挟んで月曜日も、犯人は姿を見せない。
もしかして渚が彼氏を作った事に失望したか、案外素直に諦めてストーカーをやめたのかもしれない。
そんな可能性も考えたが、初回から数えて7回目から、ストーカーから今までと違う趣のメッセージが届く様になる。
『ここ数日見てたけど、相手はかなり遊んでる奴だと思う』
『渚の事本当に好きだと思う奴しか隣にいるべきじゃない』
『相手社会人だし、君を若い女としか見てない最低な奴だ、騙されないで』
なんと、渚の目を覚まさせる方向にシフトしたらしい。
これには渚だけじゃなく俺や夢見も笑ったが、肝心の直接的な手段が遠のいた気もして、ヤキモキする事にもなった。
それでもコレは一種の現実逃避であり、同時に限界も近いハズと夢見が言うので、作戦を変える事無く続けている。
経過はあくまでも順調であり、今のところ大きな問題は無い。
──だが、これとはまた別の話で、問題が一つ生まれた。
作戦決行初日から、俺と渚のあまりにもリアルな恋人ごっこに我慢できなくなってた夢見。
彼女の家で詰問された時は咄嗟の判断で事なきを得たが、その後が良くなかった。
夢見にキスをするのは、あの場では最も確実な手段に違いない。
しかし、それは夢見にとっても同様では無かった。
過ぎた薬が劇薬となり、果ては毒となる様に。
あのキスは彼女の暴走を止めて、その後の凶行を封じ込める事には成功したが、それだけに納まらなかった。
つまり何があったかと言うと、夢見は以前よりも積極的に俺を求める様になってしまった。
もちろんあの夜以降、夢見とキスはおろか手に触れる事も無い。
夢見もそう言った行動は拒否される事を理解していて、かつ無理やり迫る事もしない。
その代わり、毎夜毎夜、寝る前に通話を求めてきたのだ。
いわゆる寝落ち通話、恋人同士がやる事の一つ。
どうも渚が恋人ごっこをしてる事に我慢はするか、自分も似た様な行為をしたいらしい。
拒否して夢見がまた暴走しても困るが、常習化されると電話代がかさみ、スマホ代を払ってくれてる両親に悪いので、あくまで作戦期間中のみという条件で応じた。
会話内容は日によって様々で、通話時間も1時間から3時間とバラバラ。
別に夢見に都合の良い甘い事を囁くわけでも無いし、実は結構会話上手なので、結構素直に楽しい。
しかし、これの何が問題かと言えば、睡眠時間だ。
夜遅くから始めるから、終わる頃には必ず日付が変わってる。
両親の様な社会人なら耐えられるんだろうが、まだ学生の身分に睡眠時間6時間未満は正直言ってだいぶキツい。
それは彼女も同じはずだが、どうやら恋する乙女はその辺の野郎よりも強靭らしい。
作戦開始してもうすぐ2週間が近づく2回目の金曜日。今日もも放課後にデートの予定があるし、気をしっかり持たなきゃいけないのだが。
「……ふわぁぁぁ」
我ながら情けない声で、長々とした欠伸が出てしまう。
昨日もお互いのクラスメイトの話題で、夜中2時まで盛り上がってしまい、まともに寝ていない。
おかげで1限間目の古典はほぼほぼ眠ってしまってた。
何とか舟をこいで教師に目を付けられる事は無かったけれど、ノートには『ミミズが這ったような字』を更に水に滲ませた様な、悲惨な有様だ。
今日も放課後遅くまで外出だし、夜中からは夢見と通話が待ってるので、授業の内容はどうにか自分で埋めないといけない。
こういう時、普段なら真っ先に足立からノートを見せて貰う所だが、今日は体調不良で休んでアテに出来ない。
それなら前の席の人に頼んで見せて貰うだけ。今は離席してるので、2限目が始まる前に戻ってきたタイミングで声を掛けようと思う。
「……くわぁ」
それにしても今日は普段より欠伸が多い。
流石に疲れが溜まってきたかな……明日は土曜日だし、たっぷり休む時間があるのが幸いだ。
──そんな事を考えていたら、
「眠そうね」
隣の席の荒川さんが、俺の顔を見ながら言った。
「さっきの授業、野々原君ずっと寝てたでしょ」
「あ、やっぱ委員長にはバレてた?」
「バレバレよ。……ホントもう、いつ声掛けようかと思ってたくらい」
眉を小さくしかめながら、呆れたように言う。
「よりによってクラス委員長の私の横で寝てるんだもの、もしかして、嫌がらせのつもりだったりする?」
「まさか、そんなワケないじゃないか」
「ふぅん、どうかしらね」
あらぬ疑いを掛けられてしまったが、確かに自分の評判にも関わるし、荒川さんが困るのは本当の話。
「本当にごめん、最近寝つきが悪いってだけで、委員長を困らせようって気は微塵も無いんだ」
「くくっ、分かってるわよ。そんなに焦らなくても平気」
口元に手をやって上品に笑う荒川さんは、髪型や雰囲気も相まって昭和のご令嬢然としているが、つまりはからかわれたという事か。
「……酷いなぁ、意外と意地悪なんだな、委員長は」
「不貞腐れないで。これでも本当にひやひやしてたんだもの、これくらいはかまわないでしょう?」
「ん……まぁ、確かに」
迷惑だと思ってなくとも、迷惑をかけた事には変わらない。
この位の意地悪にもならない些細な物で許されたなら、むしろありがたいと思うべきか。
「それより、その様子だとマトモにノートも書けてないんじゃない?」
「あー、実はね。結構ヒエログリフといい勝負してる」
「つまりまるで読めないって事ね。……なら、はい」
荒川さんは2枚のルーズリーフを俺に差し出してきた。
受け取って何かを確認すると、なんと先ほどの授業で荒川さんがまとめていたノートだった。
「え! 良いのか?」
「前にも言ったでしょ? 成績が落ちると私も困るの。ただし、この業間休みの間だけよ」
「それで充分だよ! 助かる!」
次の授業まで残り7分弱。そのくらいあれば、書かれた内容を書き写す事くらい造作もない。
A4サイズの裏表にしっかり書き込まれてこそいるが、文字が綺麗で読みやすく余白を活かしてる結果そうなってるだけで、非常に書きやすい。
7分の内、書き写すのに掛ったのは僅か3分半ほど。それだけでもいかに要点のまとまったノートなのかがうかがい知れるものだろう。
「サンキュー、ホントに助かったよ。これからもお世話になりたい位だ」
「駄目よ。そんな事したら、ますます授業中寝るじゃない」
「いやいや、そんなワケ。ならせめて、ノートの書き方くらいは教えて欲しいな。委員長の、書き写しながらでも授業の流れが大まかに分かるくらい、凄い丁寧にまとまってたし」
「それくらいなら、良いけど。……そもそも、なんで今日はそんなに眠いの? さっきは寝つきがどうこうって言い訳してたけど」
「あはは……まぁ、プライベートで色々あってな」
従妹が眠くなるまで毎晩毎夜通話してるからなんて言ったら、2度とノート見せて貰えなそうなので言えない。
いや、ノートの件が無くともこんな話おいそれと口に出来ないけど。
「もしかして、前に話してた遠くから写真撮ってくる従妹さんが理由とか?」
「──ッ!?」
「あら、当てずっぽうで言ってみたけど、当たりだった?」
不覚な事に、心読まれたのかと思うくらいピンポイントに図星を突かれて、取り付く島もなかった。
幸いな事に、寝落ち通話の件までは流石にバレる要素が無いから、素直に夢見が関連してる事
「いや凄いな、よく分かったね……」
「最近野々原君から聞いた話で、一番インパクトあったから。何があったのか詳しく聴く気は無いけど、喧嘩でもしたの?」
「いやいや、関係は結構良好だよ。お陰様でよそ様の親戚付き合いよりも距離が近いから」
「確かに、わざわざ中等部校舎から写真を撮るなんて事、私の周りでは貴方からしか聞かないわね」
そもそも、核家族化が極致に達してる現代で、イトコ同士が校舎は違えど同じ学園に通ってるという例も多くないと思う。
まぁ、わが学園は屈指のマンモス校であるから、全体を見たらその限りでは無いかもだが。
「妹さんとも仲が良いの?」
「いや、渚とは──普通かな。俺ほど仲良くは無いみたいだ」
本当はそこそこ嫌ってるレベルだと勝手に思ってるが、ここでいう事じゃない。
「そうなの? 彼女、色んな人と仲良くしてるから、同性のイトコ相手でも同じだと思ってた」
「ん? 渚の事結構知ってる感じ?」
「あら、言ってなかった?」
荒川さんの語り口が、過去に見てきたような実感を伴ってるから気になって聞いたら、逆に小さく驚きながら答えた。
「私、去年は同じクラスだったのよ。野の──紛らわしいから今だけ渚さんって呼ぶけど、彼女とは」
「あぁ、そうなの!」
まさかの縁だった。それなら実感があっても納得という物。
「コミュニケーション能力の高さはピカ一よね、渚さん。そういう点では、野々原君とは似てないかも」
「はは……足立にも前、似た様な事言われたよ。双子だからって何もかも似るわけじゃないさ」
「でしょうね。あと関係ないけど足立君って
「それは確実!」
以前から思ってた事を自分以外の口から聞けると、やたら嬉しくなってしまうよな。
まぁ、足立が俺を利用としてるなら、俺もノート見せて貰ったりそこそこ利用するだけだが。絶対に渚には会わせないけど。
「いやでもビックリだな。もっと前から話してくれたら良かったのに」
「えぇ、そうね……でも、別に彼女は私の事、覚えてないだろうし」
「ん……そうなのか?」
「良く会話する関係とかじゃ無かったから。今の私と野々原君みたいに、席が近い時があっただけ」
「──
俺がそういうと、ハッとしたように一瞬だけ目を大きくしてから、荒川さんは困った様に小さく微笑んだ。
「……野々原君も、結構言い当てるの上手ね」
「詳しく聴く気は無いよ、言いたくなきゃ別に」
「そんな大層な話では無いわ。ただ、当時の私、少し虐められてたの」
「いや、それは気軽に話していい事じゃ無いだろう」
いきなり話の内容がハードになってしまい、思わず背筋をピンと伸ばしてしまう。
そんな俺の反応を面白そうに見ながら、自虐──にしては随分と懐かしそうな表情をしながら、荒川さんは言う。
「厳密にいえば、もう少しで『虐めの対象になりそうだった』かしらね。それを渚さんが助けてくれたの」
「本当かよ、アイツが?」
そんな話、聞いた事無い。渚はクラスの出来事を主に父さんに向けてよく話す子だ。
それでも荒川さんの話は初耳。いじめを止めるなんて勇気のいる行動を、渚が父さんに黙ったままでいるだろうか。
俺の驚く顔を見て胸中を察した。
なんて事は無いだろうが、くすっと笑いつつ荒川さんの話は続く。
「きっと、彼女はそんなつもり無かったんでしょうね。でも当時クラスの女子の1グループに無視され始めた私に、席の近い彼女は色々話しかけてくれて、自然と彼女が作るグループの輪に入れたの」
「だから、委員長に悪いことしようと企ててたグループは、何もできなくなったんだな」
「少なくとも、私にとってはそう。彼女とはクラスが変わって以降付き合いは無いけど、去年同じクラスの子とはこのクラスでも仲が良いわ。……だから、私にとって渚さんは恩人みたいなもの」
もう彼女は私の事、覚えちゃいないでしょうけど。──最後にそう言って自嘲気味に笑う荒川さんは、口で言ってる以上に渚に感謝しているようだった。
「……知らなかったな。あいつ、そういう所あったんだ」
「そのくらい、些細な──当たり前の事なのよ、彼女にとっては。お陰で恩返しする暇もないけど」
恩返し──それこそ、渚が聞いたら背中が痒くなりそうな気もするが、学園生活の大きな分岐点で手を差し伸べてくれたことは、荒川さんにとって大きな出来事だったろう。
なんなら、改めて俺から渚と会わせようか──そう思った矢先、ふと思い至ってしまう。
「もしかして委員長、俺にノート貸してくれたりってのは」
「──ふふっ、遠回りの恩返し、になるのかしらね」
「……恩恵を受けるのが俺じゃあ、おかしな話だな」
やっぱり、そういう事だったか。
思い返せば、彼女は以前から何かと俺の事を気にかけてくれてたから、まさかと思ったが。
「これは、俺からもあいつに感謝しないと、ダメかもな」
「そうね。2人で感謝していきましょ」
「宗教みたいでちょっと嫌だな」
「そういう事言う」
そう言って2人で笑うと、それが会話のオチだと言わんばかりに学園のチャイムが鳴り出し、時間に忠実な事で知られる数学科の千代田先生が姿を見せたのだった。
──次の授業は数学だったな。絶対に眠れないや。
その日の放課後。今日は電車に乗って、隣街の映画館に行ってきた。
映画館は俺達の街にもあるが、今回は渚と昔から見てるハリウッド映画の新作なので、カスタムスピーカーによる最高の音質&音響を楽しめる映画館にしたかった。
当然、放課後からの映画鑑賞になるから帰りの時間も普段よりずっと遅い。
だが、両親にはデートの件は当然隠してつつ、映画を観に行くと話してるので、問題は無かった。
「いやぁ、音凄かったな」
「うん、私もう普通の映画館じゃ満足できないかも」
時刻はもうすぐ22時半。街灯に照らされた夜道を並んで歩きながらする会話は当然映画についてだが、想像よりはるかに映画館のサウンドが素晴らしく、内容よりそっちの方に話題を持ってかれている。
「分かる。撃鉄を引く音すら繊細に聴こえるって、サブスクで配信されても絶対物足りなくなる奴だよアレは」
「あっくんは昔からアクションと特撮は映画館で観ろって言ってるもん、尚更だよね」
映画館とは映像と、それ以上に音を楽しむものだというのが俺の心情だが──あんなのを知ってからは並みの映画館すら楽しめるか分からない。
「上映期間中に最低でも1回──いや、3回は観直さないと後悔する」
「それはちょっとやりすぎだよ……」
その後も、普段より幾分かゆっくりめな歩調で、俺達は手を握りながら歩く。
話題も音響からやっと映画本編に移り、それも我が家が見えてきそうな辺りで話す事が尽きた。
別に会話しないと場が持たないとか、気まずいなんて思う様な関係でも無い。
このまま普段通り自宅の前で一旦解散か、そう思っていたら──。
「ねぇ、あっくん……いつまで続くのかな。この生活」
不安げな声で、渚がそう言った。
「それは、犯人が出てくるまでだろ」
「でも、もう何日もこうしてるのに、出てこないよ?」
「明らかに焦ってるだろ? 最初の頃と比べて」
「そうだけど……でも、私のためにあっくん、ずっと時間とお金を使ってるじゃない」
「……渚」
俺の手を握っている、渚の力が強くなった。
「私、あっくん──お兄ちゃんにして貰ってるばっかりだよ。お兄ちゃんに迷惑かけてるのに、今日だって楽しくって……」
「良いんだよ、それで」
「良くないよ! こんなの、私ばかり──」
「良いんだ。だって、これはデートなんだぞ?」
渚の言葉を断ち切るように、語勢を強めて俺は言う。
「これは、俺がエスコートしてるデートなんだ。そして渚は俺の恋人なんだから、金も時間も掛けたくなって当然だし、どうせ掛けるなら楽しんで貰いたいに決まってる」
「…………
「関係ない」
「──お兄ちゃんって、たまに凄くカッコよくなるよね」
「いつもカッコいいみたいだぞ、この前も告られた」
「そういう調子に乗るところはカッコ悪い」
「どっちだよ」
「……どっちもだね」
そう言って笑う渚の声には、もう先程までの様な不安は残っていなかった。
「──それじゃあ、今週はここまでだな」
「うん、いつもありがとう、お兄ちゃん」
「こら、さっきから呼び方間違ってるぞ」
溜まっていた不安を吐き出せて油断してるのか、すっかり普段の呼び方に戻っている。
すると渚は小さく首を横に振り、俺の言葉を否定した。
「ううん、間違ってないよ。だって」
そう言って一歩近づくと、そっと俺の首元に手を回し──、
「お兄ちゃんは──」
渚の瞳が目と鼻の先──それよりも0に近い距離まで近づいて。
俺の頬に、渚の唇が触れた。
「──キスすると思った?」
直後、とたたっと数歩下がり、いたずらに微笑みながら渚が言った。
「……一瞬、焦った」
「これでもしストーカーが見てたら、絶対キスしてるって勘違いするでしょ? 明日にでも襲ってくるかもね?」
「だからってお前、急に──本当ビックリしたよ」
「最近ずっと
楽しそうに、とても愉しそうに、渚はくっくと口元に手を当てて笑う。
いつから勝負になったんだとか、家の前でやるのはマズいだろとか、色々言いたい事はあったけど。
反則だ。渚が楽しそうにしてるだけで、そういった言葉が全部どうでもよくなったんだから。
「じゃあ、また後でね。ストーカーの反応が来たら、すぐに教えるから」
「……ん」
お互いに軽く別れの挨拶を済ませて、渚は軽快な足取りで家の中に入っていき、俺は踵を返す。
「──はぁ」
家から離れつつ、俺は自分の胸に手を当てる。
心臓は、あり得ない位に強く速く鼓動を打っている。
夢見にキスをした時の様な不快感と嫌悪感とは違う、正真正銘の──世間一般で言うなら“ドキドキ”と表現するモノ。
まさかそれを、渚と言う家族相手に抱いてしまうとは、思っても居なかった。
通常ならあってはならない感情。唾棄すべき情動。否定される動揺。
「──役にのめり込み過ぎたか」
舞台で恋人を演じる役者達は、それが演技だと分かっていてもお互いを本気で好きになってしまう場合があると聞いた事がある。
自分達を『恋人同士』だと認識し、それが長く続く事で次第に現実と誤認するらしいが。
今の俺も、それと似た様な状況に陥ってるようだ。
「これじゃあ、夢見の事を言えないな」
自分で自分に課した役割に吞まれるんじゃ、情けない。
次に渚の顔を見るまでに、フィクションに浸食されかかった自分の認識を修正しないと。
あぁ、それこそまた怒り狂った夢見をみれば、覚めるかもしれない。
決して本人には言えない事を冗談交じりに考えながら、夢見の家までトコトコ歩く。
家と小鳥遊家の往復も、既に日常になり掛けている。
渚の不安を反芻するワケでは無いが、確かにいつまでこの日々が続くんだろうな。
この日々が終わる。つまり、非日常と呼ぶべき出来事が起こる日は果たして何時──、
「……あっ」
前方、進行方向。推定7メートル先。
街灯と街灯の狭間、両端から届く僅かな明かりと濃厚な暗がりの中に、
夜だからではなく、元から真っ黒なジャージ。
頭がすっぽり隠れるフード。
口元を隠すマスクと、目元を覆うサングラス。
誰がどう見ても不審者。
そして。
俺が待ち望んだ非日常。
「やっと……というか、遅ぇよ。動くのが」
お前のせいで、俺は寝不足に苦しむ羽目になったんだ。
そんなどうでもいい事は頭の片隅に置いて、俺は久しい友人を歓迎する様に言った。
「お前が、
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