「もしもし夢見、こっちの状況見えてる?」
『うん、大丈夫。やっと出て来たね』
視認した瞬間、スマートフォンで夢見に電話を掛ける。
どこから見てるかは分からないが、きちんと状況は把握してくれてる様だ。
『ちなみにお従兄ちゃん、さっきのは──』
「もちろんほっぺだ、ガチじゃない」
『なら良いけど……渚ちゃん、ああいう事もするんだから。今後は要注意かも』
「そんな事より、俺はどうすればいい?」
『どうするも何も、お従兄ちゃんもう話しかけてるじゃない。その調子でいこ』
つまりは、何もかも俺次第ってワケか。
良いね、分かりやすくてシンプル。ひたすら面倒だけど。
引き続き何処かからモニタリングを頼み、電源は切らないままスマホをしまうと、俺は再度ストーカーに対して煽るように言った。
「どうした、何黙っちゃってんの! 渚相手にはあんな一方的に文章送るのにリアルじゃだんまり?」
安い挑発も良いところだが、当初の夢見が予想した1週間を大きく越えて我慢して、それでも遂に姿を見せる位フラストレーションが溜まってる相手には、それで充分。
何か支離滅裂な事を言い返すか、もしくは直接暴力に訴えてくる位の行動は期待できる。
相手が何かしてくるのを待つんじゃなく、無理やり引き出す。
そうする事で次に俺が取るべき適切な行動を決める。
渚とのデートで少なくない出費を重ね、やっとの事で釣れた本命なんだ。今夜決着を付けるつもりで行くさ。
「おいおい、ホントに黙ってるだけじゃ電柱と変わらないって。何か用があるから俺の前に出て来たんでしょ? こっち来て話してみろよ。聞くからさ」
万が一でも素性がバレない様に、声色を変えながら挑発を続ける。
貧相なボキャブラリーから、少しでも相手の理性を揺らがせるに足る言い回しを重ねた。
「あ、もしかしていざ俺の前に出てくるとカッコ良すぎて足が竦んじゃった感じ? 自分より俺の方が渚の男に相応しいって、本能で理解しちゃった?」
言ってる自分で『馬鹿じゃないの』と思いつつも、遠目からでも分かるほど相手の肩がぴくっと動いたのを確認して、間違ってないと確信する。
「ごめんね、君の方が先に好きだったかもしれないけどさぁ。あいつが惚れたのは俺なんだよ。君は渚の意識の外。……だから諦めようよ、この先君が何をしたって、あいつが君を見る事はあり得ないんだし」
「──ッ!」
渚が自分を見る事は無い。その言葉が相手の最後の一線を越えさせたのだろう。
遂にストーカーはその足を一歩前進させた。
さあ、相手は目の前に現れてもビビる所か挑発を繰り返す男だぞ、お前はどうする?
怒鳴り散らすか?
その手ぶらな拳を握りしめて殴りかかるか?
それとも、踏み込んだと思わせて踵を返し、逃走するか?
期待にも近い心持ちで一挙手一投足を見る。
すると、ストーカーは左手をジャージのポケットに突っ込んで、しまっていたのだろう何かを取り出した。
近づくにつれて強くなる街灯の明かりが照らしてくれたそれは、鈍い反射光を伴って自身が何者かを主張する。
それは紛れもなく──包丁であった。
「──ひゅっ」
へたくそな奴が吹くサックスの様な声と共に、一瞬で俺の脳が弾き出した次に取るべき行動は、その場からの逃走。
踵を返すのはストーカーではなく、さっきまで煽り散らかしていた俺の方。
勢いよく背中を見せた走り出した俺を、当然ストーカーは逃さない。
肩越しに背後をちらっと覗けば、視界の隅でこちらを追いかける姿が見える。
「──夢見、向こうは殺す気だ! 殺意!」
スマホを落とさないように細心の注意を払いながら、俺は夢見に現状を報告する。
『うん分かってる!
「あぁ! 用意しててくれよな」
短い会話でお互い次にすべき行動を確認して、俺は今度こそ通話を切ってスマホを持ったまま走り続ける。
元々距離があったのと、向こうが俺より足が速くないのが幸いして、追い付かれる心配はそこまでない。
もっとも、突き放して逃げ切ってしまうワケにもいかない為、ある程度の距離を保ったまま逃げる必要はあるが。
「や、止めろ、くんな!」
ワザとらしく怯えた反応も見せてやれ。
刃物を持って追いかけてくる程だ、俺の逃げる様もビビってる言葉も、殺意と嗜虐心を刺激するだけで、それが演技だとは分からないだろう。
何度か曲がったり路地に入ったりを繰り返して、俺は事前に決めていた幾つかのルートから、もっともひと気のない空き地がある場所へ向かう。
そうだ、こんな状況を予想せずにいるワケがないだろう。
相手が取るだろう行動の中で、それこそ殺人なんてのは最初に考えた。ただでさえ味方が縛りさえなきゃ殺人も厭わない思考回路してるんだ、警戒は当然するし、対策だって用意する。
それに正直、殺意なんて強烈な感情を持ってくれてる方が、下手に逃げられずに済むだけありがたい。
“絶対に捕まらない”という厳しい必須条件付きだが、普段は逃げ隠れてるストーカーが、向こうから積極的に追いかけてくれるんだからな。
そう。まさに今この瞬間がそうであるように。
三十六計逃げるに如かずなんて言葉があるが、逃げた先に三十七個目の策が用意される事も、歴史の中では少なくない。
俺を追いかける事に意識を向けるあまり、ストーカーは自分が蜘蛛の巣の中に自ら飛び込んでる事に気づかず、その発想の種すら無いだろう。
「──はぁ、はぁ、はぁ…………あ゛ぁ!」
だから俺が
「……っ」
相変わらず一切声を発さないのは驚きだが、向こうも走り続けて流石に息が上がっているのか、地べたに四つん這いとなってる俺を見てすぐには襲わず、呼吸を落ち着かせながらゆっくりと歩いて来る。
向こうからすれば待ちに待った瞬間が近づいているが、生憎、それはこちらにとっても同じだった。
「今だ! 夢見!!」
「っ!」
その場で叫ぶ俺を見て、これが罠だと気づいたに違いない。
しかし、今更気づいたところでもう遅い。罠を罠だと公言するのは、既に相手が手遅れになっているからだ。
──つまりは。
「はぁーい、お従兄ちゃん♪」
「!?!?!??!」
いつの間にかストーカーの背後でスタンバっていた、夢見に気づけなかった時点で、もう終わっていた。
「あたしのお従兄ちゃんにぃ、手ぇ出そうとしてんじゃないわよ!」
殺意と怒号を飛ばしながら、夢見は散髪用ハサミの長い切っ先を、ストーカーの顔面目掛けて突き出す。
意識の外から突如向けられた敵意に反応が遅れたストーカーは、飛び掛かってくる夢見に対して一切の迎撃が取れない。
「死ねぇええええ!」
ハサミの先はストーカーの顔面を捉える、迎撃も対応も間に合わないのだから必然だ。
しかし、その後の動きでストーカーは思いのほか健闘して見せた。
「あれっ、外しちゃった?」
惚けていればハサミが顔に突き刺さる──理解するより本能で察したのか、咄嗟に身体を捻ったストーカーの機転が功を奏して、マスクを巻き込みながら頬を掠めるだけに留まった。
「ごめーんお従兄ちゃん、殺せなかった!」
「逆に良かったよ! ナチュラルに殺そうとするな恐ろ──物騒な奴だな!」
「冗談冗談、ちゃんと生け捕りにするつもりだったから怒らないで」
外したのが分かると、笑いながら──この状況でよく笑えるなと思うが──そう言って、すぐに俺のそばまで駆け寄り守ってくれる夢見。
それ自体はありがたいけど、絶対に冗談なんかでは無かった。危うく警察沙汰不可避の惨状になる所だった。
上手く躱したストーカーに感謝する羽目になるなんて、誰が思うだろうか。
「──っ」
しかし、同時に犯人を捕らえる絶好のチャンスを逃した事になる。
夢見のハサミには突き刺さったマスクと、それらに付着した血がぽたぽたと垂れていて、全くのノーダメージでは無かったが、さりとて行動不能とは程遠い状態。
今度は正面からの対峙になるが、そこで足を引っ張るのが俺だ。
本来では、俺の役割は囮。なので、追い付かれたら殺される状況の中で必死にここまで辿り着いた時点で、あとは武闘派の夢見がケリを付けるハズだった。
いや、包丁ないしナイフを持つ相手に、ハサミで拮抗できる夢見が本来おかしいのだが。
なんにせよ失敗してしまった今、無手の俺を守りながら捕まえるのは容易ではないだろう。
「お従兄ちゃん、良いよね?」
「仕方ないな。でもあんまり目立たないようにだぞ」
「うん、今度こそ任せて」
もっともそれは、ストーカーを
あんまり殺傷沙汰になると、『救済★病み倶楽部』の活動にも支障をきたす恐れがあるから避けたかったが、こうなってしまえば
刺し傷の4つか6つは増える事を、覚悟してもらおう。
「そういう事だからストーカーさん、ハチの巣になっちゃう前に捕まった方が良いと思うよー? このハサミ、すっごい切れるし刺さるから♪」
底抜けに明るく、楽しそうに、物騒な言葉を並べる夢見。
それを聞いたストーカーがどんな表情を浮かべてるかは、薄ボンヤリな月明りしか無い闇夜の中ではハッキリと分からない。
しかし、夢見が一歩踏み出す毎に一歩後退しているから、全力で警戒してるのは間違いなかった。
じりじりと蛇がカエルを狙うように、左右に追い詰めながら、夢見は脅迫まがいの言葉を投げかけ続ける。
「痛いと思うなー、今だって顔痛いでしょ? それより沢山プシャーってなって、ぎゃー! ってなるよ? 良いの?」
「……………………」
「ねぇ、どうなの? あたし、あなたに質問してるんだけど、聞いてる?」
「──っ」
夢見とストーカーの距離が3メートル程に狭まったとき、俺の距離からはよく聞こえないが、ストーカーが何かを呟いた。
「え、なに?」
上手く聞き取れなかったのは夢見も同じだったらしく、首を傾げて聞こえないジェスチャーをする。
その、ほんのちょっとばかり注意と関心がストーカー本人から逸れた瞬間。
「っ!」
ストーカーは野球選手さながらに腕を振りかぶり、思いっきり全力で包丁を投擲した。
意趣返しの様に決まった不意打ち、3メートルしか無い両者の間隔は、躱すのはおろか防御すら不可能な距離。
「──ちぃ!」
しかし、それすらも夢見の場合は話が別。
一体その小柄な体躯のどこにエネルギーが詰まっているのか、夢見はあろう事か自身に向かって真っすぐ飛んでくる刃物を、完全なタイミングで弾き飛ばして見せた。
ハサミに弾かれた包丁は、クルクルと回転しながら夢見の頭上を飛んでいく。
信じられない反射神経と動体視力が成した神業で、夢見は全く怯むことなくストーカーの不意打ちを無効化する事に成功した──
「うそでしょ!?」
包丁を弾いたその瞬間、夢見が見たのは、投げた方の反対側の手にもう一本包丁を持つ、ストーカーの姿。
ストーカーの用意周到さを侮っていた。向こうは包丁を2本所持していたのだ。
そして、1本目の投擲を完璧にいなした夢見に、勝てないと判断したのだろう、2本目の包丁もストーカーは勢いそのままに投げつけた。
「──きゃっ!?」
1本目ほどの速度こそないが、今度は正真正銘完全で完璧な不意打ちだ。
同じ様に包丁を弾く余裕は流石に無く、夢見は短い悲鳴をあげて尻もちをついて倒れた。
「夢見!?」
すぐに俺は夢見の方へ駆け寄るが、同時にストーカーは脱兎の如く俺達から逃げていく。
「大丈夫か、夢見!」
「う、うん。ちょっと掠っただけ」
そう話す夢見の言葉に嘘はなく、確かに上着の袖が少し切れてるだけで、出血してる様子も無かった。
2本目の包丁は夢見の後方に落ちていた。あのタイミングでも躱す事は出来たのか……ほっとすれば良いのか、驚愕すれば良いのか、感情の置きどころが分からない。
「それより、逃げちゃったから追いかけよう? まだ追いつ──うっ!」
立ち上がろうとした夢見だが、その表情が僅かに苦悶に染まる。
「足、痛むのか?」
「えへへ……ちょっとだけ失敗」
さしもの夢見であっても、躱すために幾らか無理な動きを取るしか無かった。
骨折なんて大げさな負傷では無いが、捻ってしまったのは間違いない。
「ごめんお従兄ちゃん、あたしは大丈夫だし、あいつも武器は無いはずだから。早く追いかけて?」
健気に笑いながら夢見はそういうが、俺としてはそこまで気楽に考えられない。
確かに犯人の足なら今からでも追いつくが、既に作戦通りにいかない状況で無理に深追いしても、果たして人目に付かず捕まえられるかは分からない。
なにより、ストーカーは夢見には武器が何本あっても勝てないと判断したから逃げたと思う。もし実はもう一本包丁ないし刃物を持っていたとしたら、返り討ちにあうのは確実。
「……追跡はしない。このまま夢見の家に行こう」
「え、でもお従兄ちゃん、せっかく──」
「ストーカーはほっといても今後必ず出てくる。それより──」
「ん?」
「──怪我が悪化したら嫌だろ」
そう言って、俺は夢見に背中を見せる。
いくら化け物じみた強さを持ってる夢見とは言え、こんな真っ暗な場所で一人きりにするのは心配だから──なんて、絶対に調子に乗るから言いたく無い。
「おんぶするから、早く乗って」
「お従兄ちゃん……ありがとうっ!」
もっと色々反対してくるかと思ったけど、かなり素直におんぶして来た。
「えへへへ~お従兄ちゃん大好きぃ。いい匂いする~」
「………………」
背中にやたらと柔らかい感触が当たるが、きっとわざと押し付けている。
反応したら喜ぶだろうし、絶対に無視するぞ。
幸いにも夢見の足は本当に軽くひねった程度で、無茶な戦闘は出来ないが(女子中学生に無茶な戦闘というワードが適用されるのもおかしいけど)、生活に支障はなさそうだ。
普段着に着替えて、明日以降の作戦を相談した後、もう無いとは思うが再度襲撃されないか警戒しつつ帰宅する。
「あっ、おかえりなさい来栖~!」
「遅かったね、夢見ちゃんの所で遊んできたか?」
時刻も時刻なので、両親は既にお酒が入って陽気になっていた。
夢見の家に寄ると伝えてたから、渚より遅く帰ってきても怪しまれずに済んだ。
「ごめんね、ちょっとテレビみて遅くなった」
それらしい言い訳をすれば、深く追及される事は無い。
このまま2階に行き、渚と明日について話をしよう──そう思っていたのだけど。
「来栖、ちょっとこっち来て話そう」
「うんうん、最近あまり一緒に話してないでしょ~」
「えっ……今? 俺飲めないよ?」
「飲ませないよー、ほらこっち来てきて! あっくんの隣座ろう!」
どうやら、普段よりも酔いが回ってるご様子。
本当ならダル絡み酒を振り切って階段を上りたい所だけど……。
「もう、少しだけだからね?」
「あぁ少しだけ少しだけ。お腹は空いてるか?」
「唐揚げあるよ、温める?」
「大丈夫! 大丈夫だから……」
今日は地味に死ぬかもしれない状況に身を置いてたし、こうやって何も知らない両親の居る空間に身を置いて、心を安心させるのもありだと思った。
もしかしたら、2人とも俺が普段と違う事をしてきたと、何となく感じて絡んでる可能性も──それは無いかなぁ?
「最近、よく夢見ちゃんと居るらしいじゃないか。もしかして付き合ってるのか?」
「もうあっくん! いきなりぶっ込み過ぎ」
「いやいや、付き合ってないから!」
肩に手を回されて、いきなり咽せるような事を聞かれたので全力で否定する。
「ごめんね来栖、あっくんたらずっとそのことばかり気にしてて……まだそう言う気分にはなれないのにね?」
酔ってるなりに、母さんが気を遣ってくれるのはありがたい。
しかし、俺が夢見と行動を共にしてる事に関心があるのは同じ様だ。
病み倶楽部の事がバレるのは避けたいし、それらしい理由で納得させないとダメかもな。
「最近、夢見の勉強見てやってるんだ。今日は家に教科書置き忘れて、月曜の課題に必要だったから探しに行ったんだけど」
「ん、その割には手ぶらじゃないか」
「そう、結局夢見の部屋にも無くてさ。多分俺の部屋にあるんだよね」
「あー、あるある。そういう勘違い。あたしも学生の頃よくあっくんの部屋にブルマとか置きっぱなしなの忘れてて、1日中部室や部屋を探した事あったよ~」
「……昔の父さんの部屋に、なんで母さんのブルマがあんの? ……いや、やっぱ聞かなかったことにする」
ろくでもない回答にしかならないと思うからな。
「そういう事で、俺はそろそろ部屋に戻って教科書の有無を明らかにしたいんだけど」
「えー、そんな事言わないでもうちょっと付き合ってよ。まだ良いじゃないか」
「こらこらあっくん、もうこの位にしておこう? ありがとうね来栖、おやすみ」
どうも今日は父さんの酔い方が悪いらしい。普段なら母さんの方が乱痴気になるのを父さんが止める側なのに。
「ありがとう母さん。おやすみなさい」
「うん、おやすみー」
「来栖ぅ! 夢見ちゃんもだけど、渚とも仲良くするんだよー」
「はいはい、分かったから」
顔を赤くしながら話す父さんは、さながら茹でたタコやカニみたいだ。
「父さんはミサキと上手く行かなかったけど、お前ならちゃんと渚ともやれるって信じてるからなぁ」
「え? 今なんて?」
父さんの口から聞き慣れない人の名前が聞こえた。
ミサキと言ったか? いったい誰なんだろう、父さんの元カノとかかな?
「あっくん。思ったより結構悪酔いしてるみたいだね」
「母さん、今父さんが言った人って」
「分からない。父さんの昔の友達かな? あっくんて昔から優柔不断で流されやすいところあったからさー」
「……そうか。分かった」
「来栖も、そういう所は絶対にお父さんと似ちゃだめだからね?」
にこやかに話す母さんは、いつも通りの雰囲気で俺にやんわりと忠告してきた。
けれど、ちょっとだけ違和感も残る雰囲気。
父さんと母さんは、これまでに充分と分かるくらいにラブラブであるのと同時に、絶対に浮気を許さない母さんの尻に敷かれてる関係にある。
職場の同僚や後輩の女の子の話なんかを口にすると、それが純粋に仕事の内容に関わる話であったとしても、ヤキモチや不満げな態度を見せたりする。
それなのに、今の母さんは全くそういった様子が無い。『ミサキ』という人物について全く触れずにいる。
喉に刺さった魚の小骨程度の違和感だったが、母さんが酔ってる父さんを無理やりリビングのソファに運んでいくので、もうそれ以上この違和感に関して母さんに聞く事は出来ないまま、俺は自分の部屋に戻っていくのだった。
「渚、起きてるか?」
一応両親から離れる言い訳にしてるので、一度部屋に戻って部屋着に着替えてから、渚の部屋の前に来た。
ドアノブを2回叩くと、部屋の中から『ちょっと待って』という声が聞こえた。
何かを片付ける音が聞こえて、数分ほど経ってからようやく、小さくドアを開けた隙間から顔を覗かせた。
「えへへ、ごめんね待たせて……入って良いよ?」
「本当に大丈夫か? 入れたく無い状況なら、俺の部屋でも良いが」
「大丈夫大丈夫! ちょっと押入れの物出してただけだから! 入って入って!」
渚は少し焦った様子を見せながらも、何やら自分も話したい事があったようで、腕を引っ張って部屋の中に招いてくれた。
部屋の中はアロマが焚かれていて、ラベンダーの香りに満ちていた。
噴射式のアロマディフューザーが勢いよく動いており、恐らく先ほど稼働させたばかりなんだろう。
俺が渚を部屋に招く時は香りとか気にした事ないけど、同じ行為でも性別が異なれば、気にする要素も変わるんだな。
もしかしたら俺が気づかないだけで、夢見も俺が家に行く時にだけ気をつけてる事があるのかな。
あの大きな家に一人暮らしだから、なかなか手が回らない所もありそうだ。特に地下のか──
「お兄ちゃん、先に私から見せたい物があるけど、良い?」
「──ん、分かった」
考え事に意識が没頭しかけた所にちょうどよく、渚から話題を振ってくれた。
渚はベッド前の椅子に腰掛けると、手でベッドに座るようにジェスチャーをして来たので、素直に渚の正面に座ってから言った。
「もしかして、またストーカーからDM来た?」
「うん、そうなんだけど……今回は今までの中で1番過激」
「どれどれ?」
何度も見てきたストーカーからの一方的な愛の囁きは、今までと大きく違っていた。
送られてきたのは文章ではなく1枚の画像。
過去には渚の盗撮写真を送ってくる事はあったが、渚が病み倶楽部に相談しに行った日を境にそれは無くなっていた。
久しぶりに送ってきた画像は渚を盗撮した物ではなく、真ん中に赤い字で何かが書かれた一枚のA4紙を撮影した物。
「なんだこれ──おっと……」
画像をタッチして拡大表示すると、それが下手な盗撮写真よりもはるかに気色悪い物だと分かった。
紙には『許さない。殺してやる』と、短く端的に殺意のこもったメッセージが書かれてあった。
それだけでも充分だが、更に恐ろしいのは使ってるインクが、ボールペンや色鉛筆の物では絶対にないと言う事。
線の太さがバラバラで、インクの濃い部分と薄い部分の差が大きい。
小学生がたっぷり墨汁に浸した筆で、殴り書きした様にも見える。だが、俺はこれが赤い墨汁なんて珍しい物で書かれた物じゃなく、もっと悍ましい物で書かれたのだと直感した。
赤いインクの正体は、血。
恐らくストーカー本人の血液、それを使ってこの怪文をしたためている。
気持ち悪いなんてレベルの話じゃない。これを見せたら流石に年金泥棒の警察だって動きそうなくらい、生理的嫌悪を引き出す代物だ。
「渚、お前こんなの送られて大丈夫なのかよ」
「平気……じゃないけど、正直今までの事を考えたら全然普通っていうか……悔しいけど納得しちゃって」
「あー分かる分かる。別に求めてないのに受け入れちゃうと負けた気になるよな」
こいつならこうするだろうな。という予測は、ある程度の関わりや交流の中で、相手に対する理解を経た上で培われる物。
それをストーカー相手に出来てしまうというのはつまり、一方的にメッセージを送られる日々の中で、曲がりなりにもストーカーに対する理解が自分の中で育まれた事を意味する。
「負けたっていうワケじゃ無いけど……ううん、負けたっていう言い方が合ってるかも」
「だよな。……これ送られたのが、20分前か。じゃあ多分さっき夢見につけられた傷口からの血で書いてるな」
「えっ、どういう事?」
「さっき、夢見の家に行く途中襲われたんだよストーカーに。夢見が助けてくれたんだけど、その時顔を怪我したんだ。これはたぶんその時の血だね」
「お、襲われたの!?」
「包丁2本持ってな。今まで我慢してた分、一気に解放してきたんだと思うわ。よほど渚のキスが効いたんだな」
よくよく考えるとかなり内容が重いから、少しでも空気が和らぐかと思って冗談を言ってみたが、渚からの反応は芳しくなかった。
「そんな冗談言ってる場合じゃないよ!」
「!?」
椅子がバタンと倒れるほど勢いよく立ち上がり、俺の顔を左右の手で挟み眉間に皺を寄せて、いつになく真剣な面持ちをして渚は詰め寄ってくる。
「お兄ちゃんは怪我しなかったの?」
「夢見が少し足捻ったけど、殺されかけた割には無事だったよ」
「本当に? 本っ当に、お兄ちゃんはどこも怪我してない?」
「大丈夫だから! というか、仮に怪我してたらこんな風にしてないだろ?」
渚の剣幕に押されながらも答えると、ようやく渚は顔から手を離して、再び椅子にぺたりと腰を落とす。
「そっかぁ、良かったぁ……本当に良かった」
そう話す渚の声は、いつになく弱々しく、もしかしなくとも涙声だった。
「お、おいおい、もしかして泣いてるのか? 大袈裟だぞ」
「ぐすっ……、大袈裟じゃないもん。ストーカーは包丁持ってたんでしょ? もしかしたら殺されてたかもしれないのに」
「最初からその可能性も考えてたから! 現に今こうして生きてるだろ?」
「でも……でも、しょうがないでしょ? 私のせいでお兄ちゃんが、殺されちゃうかもしれなかったんだから」
目元に浮かんだ涙を手の甲で拭いつつ、渚は言った。
そうやって本気で心配してくれるのは、正直言ってかなり嬉しい。
なおさら、このまま引き下がる事は出来ないな。
妹のストーカーが『気に入らなければ殺人も厭わない』タイプの狂人だと分かり、尚且つ渚に対して殺害予告じみたメッセージを送ってきた今、俺だって徹底的に思い知らせたくなってる。
今晩は俺が何も武器を持たない状態だったから足を引っ張ったが、次はそうはいかない。
夢見が足を負傷してる中、ストーカーに正義の鉄槌を下さるのは俺しかいないんだから。
「渚、ここまで来たらもう、向こうだって何も躊躇ったらしないと思う。決着つけよう、明日」
「明日って、土曜日だし時間はあるけど、何をするの?」
「少しだけ、渚に身体張って貰いたい。シンプルかつ確実な作戦があるんだ、乗ってくれるかな?」
「……それで、終わるの?」
「無理矢理でも終わらせてやるさ。可愛い妹を泣かせる奴なんて、こっちから殺してやる勢いで」
「……変なこと言わないで。それだとお兄ちゃんが捕まっちゃうでしょ」
度を過ぎた身の程を弁えない言葉は、人の笑いを誘うものだ。
渚も例に漏れず、くすくすと笑ってくれた。
「分かった、教えて? 私はどうすれば良いのか」
「本当にシンプルだよ、渚には──」
意を決してニカッと笑う渚に、俺も同じ表情で夢見と練った最終作戦を伝える。
足立や荒川さんには『あまり似てない』と言われる俺達だが、この瞬間だけは間違いなく『兄妹』のやり取りだったに違いない。
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