三月も中頃を迎えたある日。
瀬戸内海の畔、かつて大阪平野という名前のついていた広い草原の枯草は、冷たい初春の雨によって濡れていた。雨雲は分厚く、鼠色を通り越して真っ黒なそれは、空を覆い尽くして激しい雨を降らす。時折、昼間とは思えないほどの闇の中で、青白い光が自然の力を見せつけるように咆哮を上げ、空気を揺らした。
北風は枯草を波立たせた。蛇行する川沿いに広がる森の木に混じるまだ蕾の固い桜の木は、幹から枝先までを大きくしならせ、地面に張った根で必死に堪える。風をしなやかにかわす柳も、髪の毛のような細い枝の先を、まるで何かに引っ張られているように同じ方向に向けていた。
雨はこの草原の西、その昔神戸と呼ばれた都市のあった場所に位置する、直径四十キロの透明な筍型の要塞都市『
周囲の土地から幅約百メートル、底の見えないほど深い堀によって隔離されたこの要塞都市では、雀蜂の巣のように多層構造をした街は、筍型の透明なケースに覆われている。それによって雨の遮られた中の空間では、人々は豪雨だろうがいつも通りの生活を送っている。ケースに沿って螺旋状に街を昇る高速道路では車の光が、街を環状に走る路線では列車の光が、光点となって顕微鏡で観察された水中の微生物のように動き回っていた。
地下五層、地上七層。人工の地面を地上に地下にと創った階層上の街は、その外から見るととても華やかだろう。最新技術がもたらした快適な生活は、この街に住まう者以外なら誰もが羨む物だった。
だが、周りの暗い草原とは真反対の、眩しい光に包まれた街の姿は、自然とは完全に街が切り離されたことを示す。その姿は、例え自然と人間の調和を訴える論者でない一般人も、技術の一方的な自然の制圧のような印象とそれへの違和感を感じるだろう。
暗い草原にそびえる街は、何処となく虚しかった。
風が一層強く吹き、雨が速度を増して落ちてくる。だが、夜牙はそんな事関係無しに、その光を周囲へと撒き散らしていた。
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第八区立元山中学校。四千万の人口を抱える夜牙市だが、その市民のうちこの名前を知らないのは、物心のついていない赤ん坊ぐらいだと思っても過言ではない。
夜牙市の北東に位置する第八区域、その地上部の端に位置するその中学校が有名な理由は、名だたるエリートを輩出し続けてきた名門校である事だ。元々難関私立中で有名だったが、約三十年前に公立に移行されても、その名前と輩出するエリートの数とその偉業は、決して輝きを衰えさせる事など無かった。
古いところでは、義体技術を確立させた天才技術者、電脳技術を飛躍的に向上させたプログラマー。近いところでは、現在の国のトップ、内閣総理大臣を務める政界の重鎮や、帝国軍を束ね指揮する大物軍人など。実業家にもこの中学校で学んだ者は多く、また同窓会を行えば、必ず学年に一人か二人かはSPを伴ってやって来るという。
学校の玄関には著名人のサインや写真。アスリートとして一流を極めた者からの、サイン入りの物品など、置ききれない寄贈品が所狭しと並ぶ。
それ故、卒業式では膨大な数の祝電が披露され、生徒たちが驚きつつもその紹介時間の長さにうんざりするのが、この学校の伝統となっている。
今年の卒業式も、元山中の洗礼を最後の最後に受けた生徒たちが、グラウンドで疲れた様子を見せながら歓談をしていた。
その様子を、たった一人で屋上から眺める少年がいた。
山吹セイ。彼は今日この中学校から巣立った、新しい卒業生の一員だった。制服の上からでもわかる大柄で締まった体や、派手過ぎない髪形などは、ごくごく一般の運動部所属の中学生だ。しかしそんな彼は、今は歓談の時間でありながらも、誰とも話を交わそうとせず、獲物を狙う鷹の様に同級生たちを見下ろしている。
彼は暫く視線をグラウンドに向けていたが、ゆっくりとそれを上に向ける。街の地上層の端に位置するこの中学校の屋上からは、時々光る雨雲の闇が見える。そして頭上に迫るのは、第二層の床部分。特殊合金製のそれには太陽光に近い光を発する照明が取り付けられ、街は晴れの日の様に柔らかな陽光が照らしていた。
眩しい光に目を細める彼は、頭上の床の圧迫感に溜息をつく。自らの心中と重なる身の窮屈さと、それに対する不安を吐き出すように。しかし、その鬱屈さは晴れない。
照明が少し光量を落とす。ここが、全て制御された鳥籠であるという感が更に増す。
彼が視線を校庭に戻した時、彼の背後十メートル程にある錆び付いた鉄の分厚い扉が、半ば無理矢理抉じ開けられるようにして鳴き、開いた。思考を遮られたセイは目だけを動かし、やって来た人間を確認する。
「いないと思ったらここにいたのね。やっぱり」
扉を開けた人間は、意外にかかった労力に滲んだ汗を少し拭いた後、軽く規則正しい足音を立ててセイに近づく。だが彼はそんな事気にも留めずに、一人の時と同じ姿勢を保っていた。しかしそれではやって来た人に申し訳ないと思ったのか、口だけ動かした。
「サクラか…」
対して、サクラと呼ばれた少女は「それだけ?」と不満を含んだ言葉を返した。そして近寄り難い雰囲気を持っていたセイの横に並ぶと、彼女よりも顔一つ分くらい高いところにあるセイの頭に手を乗せた。それでもセイは姿勢を崩さない。
色の抜けた短めの髪が特徴の村山サクラは、微動だにしない彼に言った。
「結局馴染めずじまいってことか、流石は弱虫セイちゃん。最後まで歪みないね」
挑発的過ぎる少女の言葉に、少女よりも体が一回りも二回りも大きいセイは、思考で落ち着いていたその心を、ようやく波立たされた。そして普通の中学生よろしく、すかさず手を出す。
軽く振られたセイの手が、サクラが彼にするのと同じように彼女の頭の上に置かれた。しかし、少々強めの衝撃は、彼女に軽い痛みとなって伝わる。サクラは彼の頭から手を放し、自分の頭の上のセイの手に重ねるように置きなおした。
「いったあ~、なんですぐに手が出るかな~」
「そんな大袈裟にリアクションとるなよ」セイはそう言いながら、彼女の頭を少し乱暴に撫でた。セイもサクラも、幸せそうな顔をしていた。
少しして、サクラが落ち着いたのを視界の端で捉え、セイはゆっくりと話し始める。
「確かに馴染めなかったけどな、俺も好きで一人でいるわけじゃない」
表情と声に真剣さと悲しみが乗ったのを悟ったサクラは、暗い表情をした。
「分かってるよ、さっきはあんなこと言ったけど、私もセイの事言えたもんじゃないからね」
二人は顔を見合わせると、互いに自嘲的な笑みを浮かべ、互いを鼻で笑った。
「ヒトという生き物が、ネットという非生物を取り込んで進化したこの時代、未だその恩恵、電脳化を受けられない"旧人類"の俺らはことごとく阻害されてきた。授業の足を引っ張り、話題についていけなくて、楽しみも共有できなかったし」
「しかも体育とかになると、まだまだ電脳で体を動かす事に慣れていない他の子達よりも良い成績出しちゃうから、恨まれる…」
先ほどの様子が嘘のように、仲良く話す山吹セイ、村山サクラ。二人とも、ネットが多くのヒトの意識を直接繋ぎ、人類の意識レベルでの一体化が始まったこの時代には珍しく、全くの電脳化を施してはいなかった。
理由は、単に金が無い。生身の脳に特殊な音波を当て、薬を使ってその一部を変異させる昨今の電脳化には、多額の費用が掛かる。彼らの家族にはその費用を支払うだけの経済力も資産も無かった。
それがもたらしたのは、彼らへの無意味な誹謗中傷と不必要な苦労。電脳化前提で進むハイペース授業に、生身の脳がついていくのには限界がある。二人ともかなりの苦労と時間を代償にしてテストの順位こそ上位だったものの、時間を経た後の記憶の残留量には雲泥の差が出た。
死に物狂いの努力をしても結果など無い、絶望的な状況を共有する二人は、いつしか他との交わりを避け、今日の様に二人っきりでいる事が多くなった。それも続くことかれこれ二年以上、そうなれば互いの考えていることなど、大体わかる。
「そういえば…」
「セイと同じ高校よ、何度聞くつもりかな?」
一瞬、「またやってしまった」といった心持ちでサクラの言葉を彼は受け取った。だが数えきれないほど体験した、サクラの先読みに、自分に寄り添ってくれているという安心感に安堵の表情を浮かべ、セイは彼女の頭に乗せていた手を下ろす。
暫く行く当てもなく振られていた手だったが、サクラの華奢な手がそれを握る。彼も驚くことなく、ゆっくりと握り返してあげると、サクラがセイの顔の方を見て言った。
「ずっと一緒にいてよ、セイ」
セイもサクラの方に澄んだ目を向けて言った。
「俺もだ、サクラ」
いつもなら授業の終わりを知らせる、しかし今日は無駄なチャイムが鳴った。いつもと変わらない時間に鳴った音には、いつもよりくぐもって聞こえるように思えた。
小説家になろうにも投稿している、オリジナル作品です。
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