前触れのない訪問を受けたオキーフは、眉をひそめてこちらを出迎えた。
苦言を聞く前に、口を開いた。――大規模な鹵獲作戦の後だ。こちらの用件は、もうおおよそ予想しているだろう。
「オキーフ長官、2回目の、情報提供をお願いします」
きっと死人のような顔色をしていたからだろう。オキーフは苦々しい顔をしたが、今回は拒むことなく部屋に迎え入れた。
部屋の中は極端に物が少なく、奇妙なほど整然と片付いていた。自分の部屋とよく似ている。
椅子を勧められ、のろのろと腰を下ろした。
「……内容は」
「“ファクトリー”に関する情報を。既に、お手元にお持ちですよね」
“再教育センター”の情報は、調べればすぐに内容が知れた。だが、“ファクトリー”はほとんど噂に近いような存在で、確かな情報を得ることは出来なかったのだ。
オキーフがため息をつく。ややあって、端末へデータが送られてきた。
いっそ恐ろしい気持ちになりながら、それをひとつずつ確かめていく。
捕虜への人体実験。ACのパーツとしての人間の機能。脳だけでは無人AIと大差ないという結論。人体から視覚や聴覚を削っての実験、それらの有意差。手や、足や、神経や内臓、ありとあらゆる機能を削って最適解を導き出そうとする過程と計画。吐き気がするほど非人道的な、それらのすべてに目を通した。
スネイルが主体の実験だ。その協力者に、フロイトの名が記されている。
読み終えて、両手で顔を覆い、大きく息を吐いた。
――本当に、今まで、何を見てきたのだろう。
どこか倫理観の壊れている人間だとは思っていた。それでも正直なところ、まさかここまでとは思っていなかったのだ。
「殺し方」を選ぶことの是非。
相容れないだろうという再三の警告。
オキーフの言葉は、ずっと、これを指し示していた。
「……私が、これを、知らなかったのは……」
「……ああ。俺の差配だ」
唇を噛み締めた。どうして、と詰め寄りそうな感情を、無理矢理に抑え込む。
「お前は受け入れられないだろうと判断した。……お前の律儀さは知っているが、これを知った状態で、これだけ長い間ここにいられたとは思えない。お前の戦力は貴重だ。アーキバスとしては、安全策をとらざるを得なかった」
それは、正しい判断だったのだろう。
それでも、どうして、と感情が叫んでいた。
受け入れられなかった。許容できなかった。生命として存在している以上、脳だけになったとしても意識がないとは思えない。何らかの指向性を持たされているとしても、そこには個が存在する。自由のきかない監獄に閉じ込められる恐怖は痛いほどに知っている。
こんなものに手を貸したのかと思うと、絶望に目の前が真っ暗になった。
けれど同時に、その「倫理観」への疑いも持っている。
殺すこと、拷問を行うこと、洗脳を施すこと。どれだって十分に非人道的だ。だというのに、自分がどうしても許せないと感じているのは、かつて自分が絶望した一点でしかない。それが本当に正しいのかどうか、判断はつかなかった。
倫理観、ではないのかもしれない。
これは、ただの嫌悪だ。
「……オキーフ長官は、どう思っているんですか。こんなもの……私は……」
「……何もしてこなかった以上、俺に話せる善悪はない」
「それでも、教えてください。貴方から見て、これは許容すべきことなんですか。私は……私は、できるなら、今すぐにでも、全部、叩き潰してやりたい……!」
血を吐くような言葉に、オキーフは応えなかった。
どのくらいの時間が過ぎただろう。ことりと音を立て、テーブルにカップが置かれる。
コーヒーの香りがした。
「飲まなくてもいい。手に取れ」
強く促す言葉に、のろのろと手を伸ばした。
冷え切った指先に温度が染み渡っていく。なんだかとても、泣きたい気分になったが、涙は出なかった。
腰を下ろしたオキーフが、ため息のような声で言った。
「……本音を言えば、お前がここまで苦しむとは思っていなかった。ラスティの見立ての方が当たっていたようだ。もっと……そうだな、純粋に怒りを持つように思っていたんだが……どうにも、自罰的に見える」
「……そうかもしれません。……滑稽ですよね」
「自虐はやめておけ。……正直なところ、俺も『ファクトリー』については否定的だ。あれはさすがに、度を超している」
泣き出しそうな気持ちで、オキーフを見た。
途方もない安堵感だった。それと同時に、絶望も深まる。
「……こんな仕事をしている人間には、どうあがいても二面性がある。良い父親であるホーキンスは解放戦線の連中を容赦なく罠にかける人間で、お前にとって面倒見の良いメーテルリンクも敵対者からすれば計算高い殺人者だ。……フロイトもそれと変わりない。お前が見ていたフロイトに、嘘はないはずだ」
「……ええ。単純に、私が見えていなかっただけです」
オキーフが怪訝な顔をする。下手な苦笑いで首を振った。
「以前言ったこと、覚えていますか。私がACに乗れなくなったら、って」
「……ああ……。……おい、まさか……」
「多分、切り刻んでACに詰め込むつもりですよ。あの口ぶりからすると」
何の悪意も害意もなく、ただ単純に可能性だけを信じて。
今はまだ完成された技術ではないだろう。それでも、無人AIと異なる「何か」を保つ方法を見いだすことが出来たなら――間違いなく、ためらいさえなく、そうするだろう。こちらの感情などお構いなしに。
唸り声をこぼしたオキーフが、頭痛を堪えるように親指で眉間を押さえた。
「……私は、それは、無理なので。……駄目だったんだなって、そう思います」
出会って一年近くが経つ。
変えようとしなかった。変わろうとしなかった。そのつけが、今きているのかもしれない。
ただ、変えようとして変えられたのかといえば――きっと、それは無理だったのだろうとも思う。
誰が悪いのかだとか、何が原因かなどではなくて、変えようがないのだ。家が建ったあとに土台を変えられないのと同じように。
大きく息を吐いて、感傷を押し込めた。
顔を上げてオキーフを見据える。
「オキーフ長官。私は、ファクトリーを消し去りたい。……私自身が材料になりたくないからだけではなくて、そんな『殺し方』があることが、私が生きていく上で、どうしても許容できないんです。絶対に、完全に潰してしまいたい。そのためには、今ここを離れるのではなく、十分な計画が必要になると考えています。……手を貸していただけませんか」
「……無茶を言う。俺はV.Ⅲなんだが、理解しているか?」
「ええ。ですが、
睨み合いは、さして長い時間ではなかった。
オキーフがかぶりを振る。だめか、と唇を噛んだ。
「……お前は俺を買いかぶりすぎだ。俺は、ただ選ばずに見ているだけにすぎない」
「構いません。それが私と敵対するものでないのなら。駄目なら、一人で暴れるだけです」
「それは脅しか?」
「まさか。不穏分子は監視下においておきたいタイプかな、とは思っていますが」
それでも、すぐには答えが出なかったのだろう。
オキーフは眉間に皺を寄せたまま、何度か視線をさまよわせたが――やがて、がしがしと後ろ頭を掻いてから、こちらを見た。
「……わかった。この件に関して、協力を約束しよう」
肩の力が抜けた。
カップを落としそうなほど指先が震えていたので、零してしまわないうちに、テーブルの上に戻す。
「ありがとうございます……。対価は、どうしましょう」
「俺はお前に“完全な形で”情報を提供すると約束した。そのうちだ」
「でも」
「構わん。詫びだとでも思ってくれ」
謝るようなことではないだろうに、律儀なのはどちらだろう。
ありがとうございます、と、もう一度、ひび割れたような声で呟いた。
「それにしても……解放戦線の件、どこで勘付いた?」
「いえ、実は、ブラフだったんです。だいたいの嫌疑は把握していそうだというのと、ラスティとはかなり気心が知れているようだったので」
やられたな、と苦笑したオキーフに、こちらもぎこちなく笑い返した。
オキーフの部屋を後にして、鈍い足取りで拠点の中を歩いた。
行くあてもなく、人の気配をなんとなく避けているうち、普段は足を伸ばさない端の区画にたどり着いていた。窓際に置かれたベンチを見つけ、疲れを思い出して腰を下ろす。
窓ガラスにもたれかかって、降り続ける雨をぼんやりと眺めた。
上空の気温が高いのか、雪ではなく雨が降っていた。黒々とした夜の中に雨音だけが響いている。
とても、静かだ。
端末はすべて自室に置いてきた。フロイトとの接し方を決められない今、手元に連絡手段を置いておくことはできなかったからだ。
やることに目先を向けて感情を落ち着けたはいいものの、まだ、いつもどおりに振る舞える自信はなかった。
わからないのだ。
正直なところ、失望した。自分が知らなかっただけなのに、勝手に裏切られたような気持ちにもなった。けれど逆に、いかにもあの男らしい話だとも思ってしまうのだ。
見ているものはひとつだけ。誰よりも楽しんで生きている。それが、他者を顧みない性質を持っていると、ずっと知っていたはずだ。
いっそのこと、嫌いになれたらよかった。
そんな人だと思わなかった、と、ありきたりな台詞を吐いて、離れられたなら楽だった。
それなのに、ともに過ごした時間の記憶が、そうさせてくれない。
胸の中にある感情はまだ熱を持っていて、とてもではないが切り捨てられそうにない。
(……私は、どうしたいんだろう)
離れていくことは決めている。敵対する覚悟もある。
けれど、その日がまだ先にあるせいで、今このときにどうするべきなのかは、考えてもなかなか答えが出なかった。
フロイトにとっての自分が、様々な意味で特別であることはもう否定しない。けれど、大事な無二であることと、ねじのはずれた倫理観を以て人体実験の材料にすることが、両立してしまえるものだとは思わなかった。
――普通は思わないだろう。「大切にする」のベクトルがずれすぎていて、わけがわからない。
愛着のある旧い機械を修繕して長く使うみたいに、人間に対しても同じスタンスでいるのだろうか。それもやっぱり、わけがわからない。理解が及ばない。
おかしな関係性だとは自覚していたけれど、こんなにも、普通であることが恋しくなるとは思わなかった。
どのくらいそうしていたのだろう。足音が近づいてきて、目を開けた。
眉根を寄せたメーテルリンクが、怒ったような足取りで近づいてくる。
「レイヴン、こんなところでどうしたの。連絡が取れないって聞いたよ」
「……うん」
「……レイヴン?」
心配して顔を覗き込むメーテルリンクの肩口に、無言で寄り掛かった。
あたたかかった。
困惑する雰囲気に苦笑しながら、掠れた声を絞り出す。
「……何でもないの。……本当に、なんにも。ちょっと、一人になりたかっただけ」
何かを言いかけたメーテルリンクが、ややあって、諦めたようにため息をついた。
「……そう。わかった、適当に誤魔化しておく」
「……うん」
「間違ってもこんなところで寝ないでよ。おかしな奴だっているんだから」
「うん」
気遣わしげな顔をしたまま、メーテルリンクが身を起こした。
何も聞かずに、そっとしておいてくれるその選択が、本当に嬉しかった。そんな彼女だから甘えてしまったのだ。
途方もない借りが出来てしまった。きっと彼女は、そんなこと、思ってもいないのだろうが。
再び一人になって、ようやく寒さを自覚して、もう一度目を伏せた。消灯時間が訪れ、通路の灯りが落ちる。いっそう静かになったかのようだった。
歌うような雨音に耳を傾けて、何だか苦笑が浮かんだ。どれだけ自分を甘やかす気だろう。
好きなだけ鬱々と考えることができたためか、ぼんやり悲嘆に暮れるのもあきてきた。
感傷的にもほどがある。こんなもの、可哀想な自分に浸っているだけだ。今まで知ろうともしなかったくせに、アーキバスの行う非道のすべてに正義感を発揮しているわけでもないくせに、おこがましいとしか言いようがない。
問題は何ひとつ解決していないし、答えも出ていないけれど、少なくとも泣きわめきたくなるような感情ではなくなった。
こうしている間にも捕虜がどんな扱いを受けているのかと考えると、腹の底がぞわりとしたが――急いでそれを打ち消した。
今できることはまだ何もない。考えてはいけない。
波打っていた感情に始末がつくと、今度は、次にすべき仕事について気になってくる。
オキーフの協力を得られたのは幸いだった。実際に彼が背任するかどうかはともかく、情報と時間を得られた。当面はとにかく、アーキバスのスタッフに頼らず戦うための準備が必要だ。武装の調整に弾の調達や充填、機体の修理。オールマインドの件が気にかかるため、独立傭兵支援組織に依頼するのはできるだけ避けたい。出来る範囲は自分でまかなえないか試して、あとは個人で人を雇うべきだろう。少なくとも設備の整ったベースヘリが欲しい。それから、スネイルに警戒されない細工も必要だ。
つらつらと考えているうち、道筋が大分見えてきた。疲労も溜まっているからか、少し眠気が漂ってくる。
とはいえ、まだフロイトと顔を合わせたくはない。メッセージへの返信を完全に放棄してしまっているので、もしかしたら訝しんで部屋に来るかもしれない。
早寝早起き健康優良児のフロイトのことだ。25時くらいまで粘れば大丈夫だろう。
(……明日までには、言い訳を考えて……ちゃんと普通に……。……普通って、どんなのだっけ……)
どうにも気が重くなってきた。窓ガラスにこめかみを押し当てる。
また足音が聞こえたので、ため息を殺してそちらに目を向けた。
消灯時間は過ぎているので、この一画はすっかり暗がりになっている。外の灯りがほんの少しの視界を与えるばかりだ。
それでも、見間違えることはない。今一番会いたくない相手が、そこに立っていた。
「フロイト……」
どうして、と喉まで出かかった。
メーテルリンクに売られたか――いや、それはない、と自分で打ち消す。まさか見つけ出されるとは思わなかったが、そういえば、こうと決めたら妙な行動力のある男だった。
いつもどおり、と胸中で唱えて、口を開く。
「偶然……じゃないか。探していたの?」
「ああ」
「よくわかったわね、こんなところ」
「警備室で探させた」
そういえば、道中にいくつか監視カメラがあった。その映像を調べさせたのだろう。巻き込まれた気の毒な社員に、内心で謝った。
心配したのか文句を言いたかったのかはしらないが、その行動力は、できれば別の場面で発揮して貰いたいものだ。
ため息を吐いて、腰を上げた。
「もう戻るわ。……おやすみなさい」
まだどんな顔をしてどんな言葉を口にすれば良いのか、気持ちが定まっていない。
逃げを打とうとしたが、すれ違いざまに腕を掴まれた。
「まあ待て、どうして俺が探したと思ってる」
「さあ。心配でもしてくれたのかしら」
我ながら、なんとも可愛げのない言い方になった。失敗した、と思ったところへ、少し考えるような間を置いたフロイトが頷いた。
「……そうだな、それもある。前回が前回だ」
まさかそんな返事があるとは思っていなかった。虚を突かれたような気持ちで、フロイトを見る。
前回、というと、メッセージを返さなかったときのことだろうか。ウォッチポイントを襲撃したときの話だ。
あのときは、音信不通のうえ生死不明になっていたのだった。随分昔のことのように思える。
「それで? お前がそんな顔をしている理由は何だ」
「……別に、何もないわ」
「ウォルターが新しい猟犬を飼ったと聞いたが」
原因が放った的外れな発言に、思わず脱力しそうになった。
スネイルめ、と内心で悪態をつく。口の軽いことだ。それにしても、まさかそちらだと思うとは。
「……そうね、寂しくって泣きそうになっていたのかもね。慰めてくれなくても大丈夫よ。じゃあ、おやすみなさい」
振り払おうとした手は離れなかった。
こちらが心を乱している諸悪の根源が、夜の闇にとけながら訊ねてくる。
「そうでないなら、俺か? 言いたいことがあるなら言えばいい」
「だから、何もないの。貴方に言うことなんて、本当に何も」
言って聞くなら最初からそうしている。
スネイルの小言と同じように、どうせただ「聞くだけ」だ。受け入れるわけじゃない。
ちゃんと聞いてくれる相手なら、あのとき絞り出した反論が、あんなに響かないわけがない。
だったら、言うべきではない。これから先の計画の妨げになるだけだ。
本音を言ってどうなる。ファクトリーが気に入らない、自分が材料になるのも嫌だし他人がされるのも嫌だと、一緒に潰してくれとでも? ――無理だ。頷くわけがない。
腕を掴んだままのフロイトが、怪訝そうに言った。
「何を拗ねてるんだ」
「すっ――!?」
引っぱたいてやろうかと思った。言うに事欠いて、いくら何でも拗ねるなどという内容ではないはずだ。
「どの口がそんなことを言うの……! 離してよ、貴方に話すことなんて何もないわ!」
「言わずに察しろはいかにも女だな」
「ご心配なく、察して欲しいなんて欠片も思ってないから!」
「御託はいい。さっさと吐け」
「しつこい……! 何の権利があって言ってるのよ!」
まんまと挑発に乗ってしまった。情けなさに歯噛みしながら、フロイトを睨みつける。わかっている。こんなもの、何かありますと言っているようなものだ。
固く掴まれた腕を引き寄せられる。逃がすつもりのない目が、外のわずかな灯りを映してこちらを見下ろしていた。
「いいか」
言い聞かせるように、フロイトが口を開いた。
「俺はお前に、一生傍にいろとは言わない。俺に従えとも言わない。お前はお前の生き方をすれば良い。離れるというならそれも許容する。だが、俺から逃げることだけは許さない」
寛容なようでいて、それとは真反対の、執着に近い声だった。
「俺たちの間に相容れないものがあるなら、戦って決めればいい。お前が勝てばお前の好きにしろ。俺が勝てば、俺の好きにする。それなら
勝手な言い分だというのに、一瞬、揺らいだ。
それを賭けて戦ったとしたら、望みが叶えられるのだろうかと考えた。すぐに、無理だと否定する。もしフロイトが承諾しても、スネイルが頷かない。そして、ヴェスパーを動かしているのはスネイルだ。
アーキバスを捨ててこちらについてくれと言ったら――それこそ、無理だ。飼い犬に向かない戦闘狂がヴェスパーの首席に大人しく収まっているのは、それだけの利益があるからだ。上回るような何かを用意できない。
それでも、何かを言う必要があった。
ぐらぐらと揺れる感情の中で考える。出しても良いものを。……聞いて欲しい、最低限の本音を。
「……わたし、は」
声が掠れた。こみ上げる衝動が、喉を詰まらせた。
大きく息を吐く。意識して、いつも通りの口調で、言った。
「じゃあ、聞くけど……。私がACのパーツにはなりたくないと言って、勝負に勝つとするわ。それで、実際に負傷してACに乗れなくなったら、約束を破らないでいられる? 本当に?」
即答しようとしたフロイトの胸先に、指を突きつけた。
「よく考えて。反射で返事をしないで」
フロイトが言葉を飲み込み、渋々といった様子で考える。
大した時間もなく、視線を空に上げた。
「――でしょう!? 知ってた! だから言うことなんてないって言ったのよ!」
「……俺より俺のことをわかってるんじゃないか」
「考えずに喋ってるから嘘になるのよ。スネイルの気持ちがようやくわかったわ」
腕を掴む手が緩む。ばつの悪そうな態度はめずらしくて、苦笑が浮かんだ。
この後に及んで、こんな気持ちになるとは思わなかった。
ため息と諦め混じりに、先を続ける。
「だから結局のところ……私が貴方より先に、そんな状況にならないようにするしかないのよね」
「……わかった。せいぜいそうしてくれ」
「逆だったとしても私は無理だから、お望みならスネイルにちゃんと頼んでおいて。……まあ、同じじゃなくて彼が発狂する姿が見えるけど」
「わからないだろう。ACでも同じような五感を獲得できるようになるかもしれない。それだったらお前だって」
「それを魅力的な提案だと思ってるの、たぶん貴方くらいよ。スネイルも、自分がそうなるのはいやがると思うわ。残念ね」
そして、それは決して現実にはならない。屍の山を積み上げるその前に、潰してみせる。
お互いの望みがただのエゴなら、フロイトの言うとおり、後は力で結論を出せばいい。
はっきりした目標を持ったのは久しぶりだ。軋むものはまだ胸の奥に巣くっていたが、それでも、馬鹿馬鹿しいやりとりが出来たのは安心材料だった。
雨はまだ降り続けている。
残り時間は、そう多くない。