621がV.Ⅸになるifルートの話   作:ikos

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前回の話でいかに作中フロイトに現行だと家庭適性がないかを実感していたのですが、
「じゃあ逆に針が振り切れて家庭的になったら、レイヴンの方がうまくついていけないんじゃない?」と思ってしまったところからの長期戦なお話です。

※開始時期は海越え前、もしくは直後
※フロイトとレイヴンが結婚して子沢山の家庭を築く話です、が、色々と戦争神経症的なものを消化できずになかなかすんなりうまく行かない感じの話。最後はハッピーエンドですが少々しんどい展開かも



もっとも昏きは夜明け前

 

 それは、青天の霹靂だった。

 

 何を言われたのか本当に理解できず、硬直した。脳に到達した情報がなかなか意味を結ばない。唖然とした声を出すまでに数秒かかった。

 

「……え?」

「つまり、主訴である眠気と頭痛は、妊娠の初期症状だということです」

 

 まさかの事態だった。

 女の体というものは男に比べて不自由が多い。こと生殖機能は生物としてなら必要な機能であるのだが、武力装置の生体パーツたる強化人間には無用でしかない。したがって、女性の強化手術のオプションには生殖機能を閉止するものがあり、ほぼ全例が適用を受ける。その前段階の行為が合意によるものだろうが非合意によるものだろうが、機能があることによってもたらされる不都合が大きすぎるからだ。

 当然、自分も例外ではない。

 ――だから、本当に想定外だったのだ。考えたことさえなかった。

 うまく頭が動かないまま、医者が蕩々と先を続けるのを聞いた。

 

「高濃度コーラルへの曝露による影響か、強化手術の不具合によるものか……原因は不明ですが、お察しのとおり正常な妊娠ではありません。早急に手術を行い、胎芽を保護する必要があります。これまでに前例のないことではありますが、アーキバスとしてはV.Ⅰ及びV.Ⅸの遺伝子の有用性に基づき――」

「……待って。あの、既定事項みたいに聞こえるんだけど……」

「混乱は理解しますが、時間がないのです、V.Ⅸ。既にV.Ⅰ並びにV.Ⅱへは別途報告済みです」

 

 思わず天井を仰いだ。久々に、人間扱いされない感覚を味わった気がする。

 まあ言っていることの意味はわかるのだが、まさか、迷う権利さえ与えられないとは。

 

 要は、「お子さんは希少で重要な被験体なので全力でこちらで育成しますね」という話だ。

 とりあえず拒むべきか、逃げるべきか、そもそもそんな方法で生まれさせるべきなのかと色々考えていたのだが――それらを全部ひっくり返したのは、当事者の一人でもあるヴェスパーの首席隊長だった。

 

「何を言ってるんだ? 俺の子だぞ、やるわけがないだろ」

 

 まさか、この男からそんな発言が出てくるとは思わなかった。

 培養計画を練っていた医療班と強化手術チームとクローン技術研究チーム(そんなものがあったことを初めて知ったが、採算が悪くて持て余されていたらしい)が、泡を食って真意を確認しようとする。当然、スネイルも異議を唱えた。

 

「いいですかフロイト。貴方は読んでいないかも知れませんが、アーキバスとの雇用契約書第19条72項に該当の文言が――」

「ああ、あの辺りなら解除条項を盛り込んでおいた。AC100機撃墜で適用が外れる」

「……は……!? 馬鹿な、私は把握していませんが!?」

「自分でやった。何回目かの勲章を貰ったときだな」

「なん……そ、れが、できるなら、他の仕事も……!」

「いつも面倒をやってくれて助かってる。ついでに俺の退職手続きも頼んだ」

「はあ!?」

 

 とうとうスネイルの声がひっくり返った。そろそろ卒倒しそうだ。

 あまりにも怒涛の展開だったので、慌てたのはこちらも同じだった。

 

「……え、待って、辞めるの!? ……貴方が!? なんで!?」

「お袋との約束だったんだよな。傭兵やるのは子どもができるまでって」

 

 聞けば、祖父に父に義兄までも経緯はそれぞれ戦場で命を落としたそうで、フロイトの母は女手一つで一家を抱えてずいぶんと苦労をしたらしい。AC乗りになると決めた我が子に、たったひとつだけ出したのがその条件だったのだという。

 要は、好きに生きるなら家族を巻き込むな、ということだ。真っ当すぎて涙が出る。

 

 あまりにも予想外だった。

 この男がそんな約束を呑んだことも、素直にそれを守ろうとしていることも。

 

 スネイルは当然ながら翻意させようと躍起になったが、既に綺麗さっぱり腹を括ってしまったらしいフロイトは聞く耳を持たなかった。

 仕事での怠惰が嘘のように着々と、ありとあらゆる手続きを進めていくので、スネイルが二重の意味で歯ぎしりしていた。気持ちはわかる。

 

「なあレイヴン。結婚許可証の申請なんだが、お前、どこかの市民コードがあるか?」

「え……どうだろう。本来のは死亡扱いになってるんだけど、ウォルターがもしかしたら……って、待って、結婚するの?」

「しないのか? 子どもができるならその方がいいだろ」

「えぇ……」

 

 なぜそんな当たり前のように予想外かつ一般的な判断を下していくのか。おまけに「許可証貰うのに結婚式がいるんだよな。ついでだからウォルターも呼ぶか?」などとのたまうものだから、本当に、意味がわからない。いつの間にか結婚式まですることになっている。

 

 ヴェスパーの番号付きは当然ながら概ね苦い顔をしていたが、ただ一人メーテルリンクだけは、苦笑気味に祝福してくれた。

 

「まあ正直、困る、っていうのが本音だけど……でも、おめでとう、レイヴン」

「……ありがとう」

「……うーん、まだ受け入れられてない感じ?」

「正直、まだ全然実感が……」

「経緯が経緯だものね。……でも、おめでたいことだからさ。祝福したいって思ってるよ」

「……うん」

「元気でね」

「うん、貴方も。……中途半端に放り投げていくの、すごく心残りなんだけど……」

「……大丈夫? ちょっと心配だな……無理してる?」

「そういうわけじゃ、ないんだけど」

 

 いやかといわれれば、そうではない。

 ()()()選択なのだということもわかっている。

 ただどうにも現実味がないというのか――感情が、ついていかない。

 

 

 それがどんなものなのかを薄っすら理解したのは、意外にも、ウォルターとの会話の中だった。

 

 

「ええと……久しぶり、ウォルター。今日は、報告があって……」

 

 今後も仕事は受けると言っていた手前、ルビコンを出ていくというのは、不義理のそしりを免れまい。

 こんな理由ならなおさらだ。おそるおそる口火を切った。

 

「……実は、びっくりなんだけど、子どもができて」

《…………何?》

「……いや、うん。それで……その、ルビコンから出るって話に、なっていて」

 

 ウォルターが呻くように言った。

 

《……父親はどうした》

「あ、一緒。……ええと……何か、結婚、することになってる……。ウォルターも式に呼びたいらしいんだけど、って、いやごめん、今はその話じゃないわね」

 

 長々とした沈黙が落ちた。

 やがて、深いため息が耳に届く。それがどこか安堵を漂わせたものだったので、正直なところ、むしろ困惑した。

 ――ウォルターのそれが、敵対する未来を排除できたという安堵だとは、そのときは気付かなかった。

 

《……そうか……》

「でも、ウォルター。貴方の仕事が中途半端でしょう。気になっていて」

《気にするな。俺は俺で、どうとでもする。……お前は十分役に立ってくれた。お前が普通の幸せを手に入れられるなら……それは、悪い話ではないはずだ。レイヴン》

 

 途方に暮れた。ほんの少しだけ、引き止めてもらえないかという頭があったのだ。

 馬鹿な考えだし、優柔不断で他人任せだ。自分でも自分らしくないと思う。

 理由が、欲しかったのだ。正しいのはフロイトの方だとわかっているから、自分では拒む理由を作れない。

 

 何に迷っているのか、ようやく気づいた。

 ()()()()()()()を積み重ねた先にあるのは、()()()()()()()だ。

 

 それを甘受できる気持ちに、なれていない。

 罪には罰が与えられるものだと思っていた。いつか訪れる死がそれなのだと。

 戦場を離れれば、生き延びる確率は格段に上がる。

 普通に結婚して、普通ではないけれど子どもを得て、普通に幸せになる――そんな未来が自分に赦されるものだとは到底思えないけれど、自分だけの話ではないから、困惑しながら手を拱いていることしかできない。

 

 それでも素直には受け入れられなくて、落ち着かない日々を過ごした。

 フロイトは意外にもそれに気付いていたようで、用意した指輪を左薬指に嵌めながら、あっさりと言ってのけた。

 

「心配するな。型に嵌まればそのうち慣れる」

「そうかしら……」

 

 用心のためだという、発信器つきの指輪だ。

 こんな状況に陥る前だったら全力でぶん投げただろうが、アーキバスを半ば敵に回したこの状況下では、そうすることもできない。

 ソファに座ったまま大きな両手を握り返して、絞り出すように本音を伝えた。

 

「……ごめん、正直、自信がない。……いつまでも慣れられなかったら、どうしよう」

「別にいいさ。俺が選んだのは俺の人生だけだ。お前はお前で好きに選べばいい」

「平和で平凡な可愛い奥さんにならなくていいってこと?」

「無理だろ、今のお前には」

「……たぶん無理だけど、貴方に言われるのはすごく複雑」

「言ってろ。自分で可愛いとか言ってる時点で十分図太いからな。安心できる」

「……可愛くないなら奥さんに貰わなくてもいいんじゃない?」

「可愛いから結婚してくれ」

 

 フロイトの軽口に、びっくりして身を竦ませてしまった。

 目を瞬いたフロイトがこちらを見上げる。ややあって、考え込むように首を捻った。

 

「……ん? ちょっと待て。……プロポーズしてなかった気がしてきた」

「……まあ、そうね。してもらってないわね……」

「……よく今まで怒らなかったな。わりと色々勝手に決めたと思うんだが」

「ほんとうね」

 

 そもそも選択肢があまりに正しすぎて、そしてついて行けていない自分が間違っている気がして、ひたすら困惑しているばかりだったのだ。

 フロイトが床に膝をついたまま、指輪を嵌めた手をすくい取り、手の甲にくちづける。

 眉を下げたままそれを見返した。

 

「俺と結婚してくれ、レイヴン。普通の人生なんてものは、確かにたいがい退屈な人生だろうが……まあ、それなりに楽しめる自信はある」

「なんでそんなことにまで自信があるのよ……」

「なんでと言われてもな。安心しろ、俺は俺で勝手に幸せになる。お前も頑張れ」

「……頼もしすぎる……」

「褒め言葉だな」

 

 フロイトが笑う。その笑顔が好きだなと思ってしまう時点で、まあ、勝敗はしっかり決まっていたのだ。

 

 そこからはもう、本当に瞬く間に時間が過ぎ去った。

 

 星外から大金を払って呼びつけた医療チームに胎児の管理を預け、簡易な結婚式と、せめてものお詫びの意味も込めた社員全員への酒と肉と煙草の大盤振る舞いを経てアーキバスを離職。潔癖の代名詞のような惑星封鎖機構に鼻薬をかがせてまで安全策を取り、ルビコンを後にした。

 どこへ向かうのかと思っていればまさかの地球で、どうやって居住許可を得たのか、この上なく謎が深まった。多分、結婚許可証などの諸々はこれのためだったのだろうが。

 新しく手に入れた市民コードは以前の自分とよく似た響きの、違う名で、フロイトはこれ以降、ずっとこの名前でこちらを呼び続けた。本名を教えられたもののどうにも慣れなくて、自分は相変わらずフロイトと呼び続けている。一般的には姓なので、端から見ればおかしなことだとわかってはいたのだが。

 どこか長閑でおおらかで、なおかつ人手不足からか異文化に慣れきったご近所さんは、随分と馴染みやすかった。特異な経緯で生まれることになった子どもも、心配を余所に問題なくすくすくと育った。色合いはフロイトのものだったが、目鼻立ちは自分に似ていた。我が子だという実感がどうこうよりも初めての子育ては予想外と想定外の連続で、二人揃って散々に振り回され、へとへとになっているうちに一年が過ぎた。

 

 そして多少落ちついてきてしまうと、いよいよ違和感が拭えなくなった。日に日に眠りが浅くなり、過去と現実の境目が薄れ、()()()()人の気配へ反射的に攻撃しそうになることが続いた。

 絶望的な気分になった。――自分がいるべき場所だと、どうしても、思えなかった。

 独立傭兵としての仕事を再開すると決めたのは、逃げに近い選択だったのかもしれない。

 

 フロイトは育児の傍らで地元の農業大学校の課程を修了して、後継者のいない農場の経営を買い取っていた。そんな折に切り出した話を、彼は特に落胆も興奮もなく聞いた。

 

「わかった。好きにしろ」

「……いいの?」

「覚悟はしていたからな。まあ、ちゃんと帰ってこい。指輪は持って行けよ。その二つは約束してくれ」

 

 あまりにも物わかりのいい言葉だった。

 ――口にはしなかったが、まるで、置いて行かれたような気分になった。家族を置いていこうとしているのは自分の方だというのに。

 自分と同じ種類の人間だったはずが、フロイトはあっさりと変わった。普通の平穏な暮らしに適応して先人に仕事の教えを請うてご近所づきあいまでこなして。あれだけACにしか能がなさそうだと評判だったというのに、今や立派な事業主で父親だ。

 母親をきちんとやれている自信がない身としては、困惑してしまうくらいに。

 

 せめてもと固く頷いて、言葉通りに約束を守った。生きて帰らなければいけない理由になったし、家に寄りつく理由にもなった。

 帰る度に大きくなっていく子どもの姿に罪悪感はあったが、それでもどうしても、長い間は家に居続けられなかった。

 

 ただ、変化はあった。

 硝煙の漂う戦場にあっても、命のやりとりをしていても、ここが自分の居場所だとは思わなくなっていた。――それは逆に、どこにも軸足を置くことができないということでもあった。

 

 息子の2歳の誕生日間近になって、久々に自宅へ戻った。

 時間が遅くなってしまったせいで、フロイトが抱えた息子はすっかり夢の中だった。

 

「ごめん、遅くなった」

「いや。こいつも随分粘ってたんだがな。2歳児には厳しかったみたいだ」

「そっか……」

 

 フロイトが身を屈めたので、小さな頭を撫でて頬に口づける。

 こっちには、と不満そうなフロイトに笑ってただいまのキスをした。

 

「農場、すごいわね。上から見るとすごく綺麗だった」

「ああ、最近コーンを始めた」

「飼料用? 燃料用?」

「食用だな。ちびが気に入って……まあ、その辺の話は後にするか。風呂を入れてある」

「……いい旦那さんすぎない?」

「惚れ直して良いぞ」

 

 偏食気味な息子が何なら食べるのかと四苦八苦しているという話や、ご近所の誰それさんからお裾分けされたカボチャサラダをバキュームか何かかと思うくらい食べたので、レシピを教えて貰ったもののどうにも同じ味にならないだの、平和で平凡な話題はまるで別の世界のもののようだったが、聞いている分には楽しかった。無責任かな、とちらりと脳裏にそんな思いがよぎったが、そっと蓋をした。

 

 二人目ができたのは、それから間もない時期だった。

 その頃には身体の修復は終わっていて、今回は自然妊娠になった。まともに妊婦となったのは初めてで、思うように行かない身体に散々な苦労もして無事に産み落として育てることになったが、今度こそは、もう少し何かが変わるのではないかと思っていた。

 

 十月十日(とつきとおか)、それから追加で育児に一年。

 どうにか自分を平穏の中に縫い止められていられた。

 

 ――だが、欠落はまだしつこくその場に居座っていた。

 大事だと思える。美しいものだと思える。そんな光景を目の当たりにしているのに、どこかで、寒々しさが突き刺してくるのだ。

 

 ここは、お前がいるべき場所ではない、と。

 

 怖くなった。焦燥に駆られた。

 荒れるように危険な仕事ばかりを受けていた自分を、止めたのはやはりフロイトだった。

 

 

「好きにしろとは言ったが、そんなやり方でないがしろにするのはやめろ」

 

 ACが大破してそれなりの大怪我を負って、どちらも直るまでは家に戻らなかったというのに、最初からあっさり看破された理由だけは今でもわからない。

 傷跡の一つ一つを丁寧に確かめるフロイトは、明らかに怒りを漂わせていた。

 

「こんなもの、自殺したがっているのと変わらない。逃げるにしても方法を選べ」

「……別に、そういうわけじゃ」

「だったら何だ? 死んで楽になるのはお前だけだろう。もうお前一人の人生じゃないんだ、ちゃんと生きてろ」

 

 ぐ、と唇を噛み締めた。

 彼に対して負い目がある。同じく戦いを楽しんでいた相手として、自分だけがその場所に残っていることも、人を雇っているとは言え子どもたちをほとんど任せてしまっていることも、「普通」に馴染めない自分のどうしようもなささえ。愛想を尽かされても仕方ないほどなのに、いびつな形の家庭を、彼は守り続けているのだ。

 返す言葉もなくてうなだれたところに、呆れた声が降ってくる。

 

「大体な、罪だ何だといったら俺の方がすごいぞ。多分ドン引きする。聞くか?」

「聞かない。……というか、胸を張って言う台詞なの、それ」

「そいつら全部よりお前とあいつらの方が大事だ」

「本当に思い切りが良いというか……ろくでもないって久々に思ったわね……」

「人のことを言えるか?」

「……言えない」

「とりあえず、そろそろ、何が引っかかってるのかもう少し考えておけ。あとちゃんと生き残れ。それで、育児でも農業でもなくて良いから、他にやりたいことでも見つけろ」

「……わかった……」

 

 こんなことになるだなんて、昔は思わなかった。ほんの少しも。

 平和な生活に順応した男は、相変わらず誰よりも強くのびのびと生きているというのに、自分ときたら、ただの居心地の悪さで危険極まりない戦場に居座っている。

 満たされている。不満などない。けれど、どうしても死への希求を捨てられない。今の環境を受け入れることができない。

 

 途方もないほどに、身勝手だった。

 ――そして、どうしようもないほどに、それは長く続いた。

 

 子は(かすがい)、という異国の言葉を持ち出したのは、フロイトの方だった。

 この場合、つなぐのは夫婦の間ではなかった。自分と、この家の存在だ。

 「それがなければ、もっと不安定でふらふらしていただろうな」と笑う様子は単純にからかうような色だけで、どうしてそんなに軽やかにいられるのだろうと不思議に思う。本来ならいらない筈の苦労を色々と背負わされてしまっているというのに、平穏の中に居着くことのできない女を、責めることも詰ることもしない。生きて帰れと言うだけだ。

 

 フロイトは引き止めなかった。逆に、背中を押して送り出すこともしなかった。ただ、当たり前のように敷地の隅にガレージを設けて、当たり前のように整備を引き受けた。忙しいだろうにと遠慮したが、少しはいじらせろというのが彼の主張で、本人の自負通り腕も良かったので、なし崩しに任せることになった。

 

 ロックスミスはアーキバスの所有物だったが、それを買い取ろうとしなかったのは、正直なところ意外だった。使い道などなくても長年戦った相棒だ。連れてくるものだと思っていたのに、彼はそうしなかった。

 長い時間をかけて別れを告げていたのは知っている。

 それもまた、彼の決意の一つだったのかもしれない。

 

「アンラヴルのメンテ、終わったぞ。推進剤の在庫がそろそろ微妙だな。注文しておくか?」

「ありがとう。……今、ちょっと単価が高くなっていたわよね。しばらくはいいわ」

「ん? ……ああ、もしかして、四人目か?」

「たぶん。明日病院に行ってくる」

 

 そうか、と応じたフロイトがソファの隣に座り、抱き上げて膝に乗せてきた。

 筋肉量の差か温度の高い身体は、夏場だとちょっと暑苦しいが、喜んでいるのがわかったので、大人しくなすがままに体重を預けた。

 

「今回はえらく早かったな。……期間が空かないが、大丈夫そうか?」

 

 途中で逃げ出したくならないか、という質問だろう。三人目とは年子になる。

 少し考えて、たぶん、と頷いた。

 

「今まで妊娠中も産後も、大変でそれどころじゃなかったし。大丈夫だと思う」

「ならいいんだが」

「……いっそのこと、良い機会になればいいんだけど」

 

 ひとりごとのように呟く。

 フロイトは笑って、だが答えなかった。

 そうだろうな、と自分でも思う。本音だったが、言うべきではなかったかもしれない。

 夏の夜は賑やかだ。カエルの鳴き声に混じってキュルクルといった印象の囀りが聞こえる。ぼんやりとそれを聞いていると、ふとフロイトが言った。

 

「なんでだろうな、次も息子のような気がする」

「娘が欲しいの?」

「そういうわけでもないんだが。……いや、そうなのか?」

「どっち」

「……いや、やっぱり男だな。どちらでもなるようになるとは思うが、経験がないだけ扱いが厄介そうだ」

 

 率直極まりない発言に、まあそうだろうなと苦笑する。確かに女の子は色々と勝手が違うだろうが、いずれにせよ、すっかり一人で育てる気になっているようだ。どうにも申し訳ない。

 

 フロイトの予想はどちらも当たっていた。

 生まれたのは男の子で、家に居続けることができたのは、それから一年足らずの期間だった。

 

 それでも家に帰る頻度は上がっていた。うまくばらけた家族それぞれの誕生日とクリスマスだけでも結構な回数だ。大体、一年の半分くらいは家にいたと思う。この頃になると、繁忙期の出荷作業を多少手伝えるようになった。

 仕事を段取りよく片付けることも、できるだけ殺さないように戦うことにも、まともそうな依頼を選ぶことも、それなりにうまくできるようになっていた。名が売れたことによる不都合は思ったほどではなく、家庭は平穏を保っていた。

 居心地の悪さはまだ今でも強かったけれど、ちゃんと、子どもへの愛情は感じられた。伝えられるよう努力はしたが、そもそもフロイトのフォローあってのものだ。そうでなければこうまで自然に受け入れてはくれなかっただろう。どんな母親でもいるだけで喜ぶものなのよと、お隣さんは苦笑いで言っていた。

 

 久々に帰った家は、あいかわらずの賑やかさだった。

 窓越しにこちらを見つけたのか、次男が大声を出すのが聞こえる。

 

「あ、かあさん帰ってきた! にいちゃん、かあさん帰ってきた!」

「まいったな、ちょっと早い。足止めをたのんだ」

「ラジャー!」

「……随分な歓迎ね? どうしたの、みんなして」

 

 足元に飛びついてきた三番目の息子の頭を撫でながら、ご要望通りに足を止めた。

 へへっと笑う顔は無邪気なものだ。遅れて、足止めを買って出た次男が家から出てくる。

 

「あっ、おまえ、こんなとこいたのか!」

「あのね、おかーさんはね、みちゃだめーなの」

「ふうん、だめなの?」

「うん」

「もー、だまってろって言ったろ!」

 

 おいで、と次男に向けて片腕をあけると、なんとも言えない顔をしてからしがみついてきた。

 今回は自分の誕生日だ。漂う甘い匂いはケーキのものだろう。

 ナニーや余所のお家に比べてうちのごはんは美味しくない、という子どもたちの苦情に奮起したフロイトは、凝ったものこそ作らないもののすっかり料理上手になっていて、かなり腕前に水をあけられている。

 次男がぐいぐいと腕を引っ張った。家に入らせまいとしているようだ。

 

「かあさん、おれ逆上がりできるようになった!」

「え、すごいわね。もうできるようになったの。見せてくれる?」

「おう!」

 

 意を汲んでお願いすると、得意げな顔になった。見て欲しい、というのも本音なのだろう。その気持ちが嬉しいと素直に思った。

 庭に鉄棒を作ったのは知っていたが、しばらく見ないうちに、なんだか随分と増設されている。造りも頑丈で安全そうで、器用だなあと感心した。

 それにしても、あいかわらず不在がちな母親だというのに、誕生日をこんな風に祝ってくれるのだ。本当に良い子に育ってくれた。間違いなく、フロイトと周囲の人々のおかげだ。

 

 子どもたちを可愛いと思う。どんどん大きくなって行く姿に感じるものはある。

 苦言を呈してくる人も何人かいたし、それはもっともな内容ばかりだった。

 母親としてもそうだし、人間としても本当にどうかと思う。おせっかいだけど、と言われる言葉は、どれも耳に痛いがそれもそのとおりだと肩身を狭くするものばかりで、どうして自分はこうなのだろうと、泣きたい気分にもなった。

 

 ずっと、変わることができる自信はなかった。

 けれど確かに、ほんの少しずつ、変わっていた。

 

 あるときフロイトが、そういえば、と長男の名前を口にした。

 

「あいつ、AC(アンラヴル)が嫌いなんだと」

「え?」

 

 面白がるような声だった。予想しなかった言葉に、思わず目を瞬いた。

 長男はかなり優しい気性の子だ。憧れられるとは思っていなかったが、暴力的なものへの忌避感だろうか。それは悪いことではないだろうが、まとめて自分も嫌われてしまうのだとしたら、自業自得とはいえ悲しい気持ちになる。

 フロイトは笑いながら続けた。

 

「あれは、お前を連れて行くものだからな。それはまあ、嫌いになるだろうさ」

「……驚いた……」

「そろそろ、どこかに行くのはやめられそうか?」

 

 その問いかけは初めてだった。

 そのときはすぐ答えることができなかったが、それでも、聞いても良いと思えるくらいには変わったのだろう。

 あれだけ面倒がりで飽き性だったフロイトが、良くもまあこんなに長々と付き合ったものだと今でも思う。

 多少子どもっぽいところがあるくらいで、紛れもなく、彼は良き父親だった。

 

 ずっと、待っていてくれたのかも知れない。

 見本となれるように。

 親のあり方を模索して、その姿を示して――子を得るごとに、平和な日常へと縫い付けるようにして。

 

 それがようやく腑に落ちたときには、驚くことに子どもたちは5人兄弟になっていた。

 見事なまでに男の子ばかりだったが、性格は様々なのが面白い。

 

 まだ腹の中にいる5人目は、一体どんな子になるのだろう。

 そんなことを考えながら、夜空に浮かぶ月の輪郭を見上げていると、フロイトがコーヒーを差し出した。タンポポの根から作られた、カフェインの入っていないものだ。

 ありがとう、と言って受け取る。

 季節は秋の終わりだった。亜寒帯であるこの地では冬はもう間近で、空気が透き通っているからか、月が大きく感じる。

 

「……そのうち、大学に行きたいな」

「へえ。いいんじゃないか? 戦場よりは安全だしな」

 

 随分と昔に、他にやりたいことを見つけろと言われたことへの返答だった。

 フロイトはあっさりと頷いた。からかうように笑う。

 

「脳細胞はまだ現役か? この年での受験は大変そうだが」

「どうかな、勉強してみないとわからないけど……最近、大学生をちゃんとやりたかったなって、思うことが多くて。……前のときは、入ってすぐに病気になってしまったから」

「随分気が変わったものだな。専門は何だった?」

「専門課程に入る前だったわ。教育学部だった。母が教師だったからってだけの理由なんだけど」

「教師か。悪くない」

「うん、でも、次は別のところにしようと思っていて。……近くの、農学部に」

 

 息を飲む気配がした。

 ほとんど無意識だろう、親指で手の甲を撫でている手を持ち上げて、くちづけた。

 丸くなった目に、苦笑いで言った。

 

「やりたいことばかり勝手に決めてるけど、少しくらいは役に立てるようにならないと。……いまさらだけど、そう思うことを、ゆるしてくれる?」

 

 フロイトの目が確かめるようにこちらを見る。

 自分自身よりも、よほど自分のことをわかっている旦那さまだ。どんな風に見えているだろうかと、じっと回答を待った。

 やがて、掠れた声が言った。

 

「……今までのぶん、こき使うからな。覚悟しろよ」

「うん」

「仕事はいくらでも、山ほどあるんだからな、本当は」

「うん、知ってる」

 

 どうしようもなく愛おしくなった。

 おそるおそるといった様子で抱きしめられて、背中に腕を回す。湿った声は聞かないことにした。万感の思いを込めて抱きすくめてくる身体は、土の匂いがした。

 長い遠回りだった。それでもまだ、生きている限り人生は続いていくし、そこに生まれる実りを、二人の喜びにするには、まだきっと遅くない。……散々待たせた立場では、身勝手極まりないけれど。

 こんなろくでもない女を心底愛してくれた、希有なる男だ。

 

「……やっと腹に落ちたか? お前も幸せになるしかないんだって」

「……うん。……本当に、ごめん。ありがとう」

「まったくだ、大いに感謝してくれ」

 

 ひとつ、ふたつ、理由を数えていた。ずっと。

 許されない理由を。幸せから逃げる理由を。

 

 きっとそんなものはどこにもなくて、かわりにただ、拾い上げてきただけだ。

 

 幸せにならなければいけない理由を。

 贖わなければならない罪を数えないでいる、ある種の慣れを。

 戦場を手放せる理由を。――生き残ることを、自分に赦せるだけの納得と実感を。

 何度も逃げながらも途切れ途切れに積み重ねてきた思い出が、日常が、記憶が、ようやくこの場所を自分の生きる場所だと実感させた。

 

 それはきっと、自分一人では得られなかった。到底、たどり着けなかった。

 愛しているたくさんの「誰か」がいるからこそ、色んな罪悪感を諦めて、得られたものだった。

 

 でもそれは、全部、この男の存在に集約する。

 無理だと投げ捨てそうになるたび拾わせて、逃げても帰ってくるように楔を打って、あまりにもらしくない献身で居場所を作って繋ぎ止めた。何でもないことのような顔をして、とんでもない程の苦労をやってのけた。

 

 やがて身を離して、大きな両手が頬を包む。笑う顔が本当に愛しくて、愛想を尽かさないでくれたことが、どうしようもなくありがたかった。

 

「貴方が、いたから、諦めて幸せになれそう」

 

 やっとか、とぼやく男に、あいしているわ、と笑った。

 

 長い夜が、今度こそ明けようとしていた。

 

 

 

 

 

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