621がV.Ⅸになるifルートの話   作:ikos

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フロイト撃破からエンディングまでの間のおはなし。
前半オキーフさん、後半ウォルターです。




エンドロールはまだ遠い

 

 

 ルビコンを訪れてからの2年弱は、オキーフにとって、常にそれなりに過酷だった人生のうちでも段違いに、心理的圧迫の強い期間だった。

 

 いかに荒事に慣れていようが、人類存亡の危機に巻き込まれることなど普通はない。何かの冗談でも誇大表現でもなく言葉通りの“X-Risk”がかかっていたのだから、もはや笑い話にもならない。胃に穴があかなかったのが不思議なほどだ。

 

 荒唐無稽な陰謀の黒幕はなんとAIだわ、そのAIに社の進駐部隊を半ば乗っ取られるわ、やっと情報共有のできる協力者を得たかと思えばエキセントリックな元上司がAIの陰謀に加担するわ、しまいには、頑丈だった協力者のメンタルがさすがに崩れて暴走しかけるわ。実に、実に波乱万丈だった。

 終わったのだと自分を納得させることができたのは、Cパルス変異波形の消滅を確認した三日後で、残務処理をしていた手を止めしばらく呆然として、少し泣いた。本当に疲れた。

 

 ――思えばあの時は、疲労と終戦の余韻で判断力が鈍っていたのだと思う。

 

 うっかりルビコンへ居残ることになってしまったのはそのせいだ。

 言葉巧みに協力を請われ、新設された政府情報局の長官としてルビコンの立て直しへと参画し、なしくずし的にこの冷えた惑星のために駆け回ることになって半年ほど。

 惑星封鎖機構との9回目の予備交渉準備に忙殺されている中、火星に旅立ったはずのレイヴンが、荷物を抱えて訪ねてきた。

 

 

 

「お疲れですね、オキーフ長官」

「……辞めたと思ったらまた“長官”だ、疲れもする。……お前は……それほど、変わりないようだな。レイヴン」

 

 新たに名前を用意するのも面倒で、現在はコールサインであった名前を引き続き使っている。アーキバスに目をつけられているのは確かなので、契約が終了した際には色々と小細工が必要になるだろう。

 最近できたばかりの仕事部屋に訪問者を招き入れ、半ば癖のように、相手の姿を観察した。

 ――身なりに変化はない。セルフケアができている証左で、心身の状態に大きな問題はなさそうだ。悲嘆に暮れた様子も、憔悴している様子もない。視線を落とさず、肩に強ばりもなく、自然にこちらを見返してくる。

 まだ、半年だ。

 仕事柄か、それとも生まれ持っての性質か。

 

「火星に行くと聞いていたが、戻りが早かったようだな。なにか問題があったか」

「いえ、今回は最初から下見のつもりだったんです。あとは、いいものを見つけたので」

 

 レイヴンはそう言い、抱えていた段ボール箱をローテーブルの上に降ろした。

 どうぞ、と促されて蓋を開ける。まさか爆発物ということもないだろう。

 中身は意外なものだった。

 

「……これは……。……コーヒーメーカーか!」

「電動工具メーカーの製品で、外付けの充電バッテリー式なんです。持ち運びできるのがいいなと思って。カフェポッドもたくさん買ってきました。味もなかなかでしたよ」

「ありがたい。いくらだ?」

 

 企業が引き上げて以降、ルビコンの外星との流通はまだ軌道に乗っていない。手持ちのものも一月前に尽きた。忙しすぎて手が回らず、心底恋しくなっていたカフェインの存在を前にして、遠慮するという選択肢はなかった。

 レイヴンは緩やかに首を振り、そのまま首を傾げてみせた。

 

「代金がわりに、少しだけ、無駄話のお時間をいただけないですか?」

「今か?」

「はい。また火星に戻る予定なので」

 

 スケジュールを頭の中で目まぐるしく組み直し、力強く頷いた。

 

「……40分程度なら問題ない。何とかしよう」

「ありがとうございます。そこまで話題があるといいんですが」

 

 奇妙な口ぶりだった。

 考えてみれば不思議な話だ。他にも話し相手はいるだろうに、わざわざルビコンまで自分に会いに来たというのだから。

 ともあれ大層な手土産を貰ったのだ。求められるなら、カウンセラーの真似事をするのもやぶさかではない。

 バッテリーは幸いにも十分な充電残量があった。早速コーヒーを淹れ、その深い芳香に口元を緩める。そう、これは断じてただのカフェイン中毒などではない。人生の根幹に関わるものなのだ。

 欲を言えばいつか豆を煎るところからやりたいものだが、今は時間も物資もない。余生の楽しみとして取っておくべきだと自分を納得させている。

 

 レイヴンは古びた椅子にもたれ掛かり、切り出し方を考えるように沈黙して、視線を窓へ向けた。

 アーキバスの建造物と違い、曇ったガラスは景色をぼやかせている。

 どこか、遠くを見るような目だった。

 

「……火星の空、ルビコンとも、地球とも、少し違うような気がしたんです」

「そうか。……乾燥の強い印象だが」

「そうですね。……そう思ったら、誰かに、それを話したくなって……」

 

 訥々とした声で言い、目を伏せる。

 唇に、あわい笑みが浮かんだ。

 

「……フロイトに、言いたくなって」

「……そうか」

 

 彼女はひとつ大きく息をつき、勢いをつけて背を伸ばした。

 

「“エア”が最期に、K9と、イグアスのことを話していたじゃないですか。あれ、羨ましいなと思ったんですよね。……思い出話というわけじゃありませんけど、少しは、気持ちの整理ができるかもしれない」

「……なるほど。それで、俺に白羽の矢を立てたか」

「そういうことです。フロイトを知っていて、生き残っていて、悪感情を持っていない人、となると……かなり限られてしまうんですよね」

 

 あの頃アーキバスに所属していた人間で、生き残った人間はそう多くない。ましてや、今はなきヴェスパーの元首席隊長と近しく、レイヴンと交流があるという条件を追加すれば、なおさら限られる。

 ラスティは今や心底フロイトを嫌悪軽蔑しているし、スウィンバーンも当時から振り回されすぎて苦手意識が強そうだ。楽しく思い出話というわけにはいかないだろう。

 何を話すか決めていなかったようで、レイヴンは考えるように小首を傾げ、少し置いて口を開いた。

 

「……空の色と言えば……ロックスミスの塗装って青系でしたよね。青色が好きだったんでしょうか。知っています?」

「いや……。聞いたことはないな」

「夕焼けより青空を好きだったようには思うんですけど、私もはっきり聞いたことはなくて」

 

 そもそも、フロイトが空を好んでいたこと自体がレイヴンからの伝聞だ。

 その情報を念頭に置けば可能性は高いと思うが、特に、青色にこだわっていた印象はない。考え込むようにして水を向けた。

 

「……私物までは把握していないが、どうだったんだ」

「うーん、あんまり……家具も服も、だいたい用意されたものをそのまま使っていた感じというか……こだわりはなさそうでしたね」

「まあ、あいつらしいといえばそうか……」

 

  武力実行部隊の首席隊長、つまりは特権的な立場にあった人間だ。わがままを言えばある程度好きなようにはできただろうが、そうするだけの熱量を、身の回りのものに見出していなかったのだろう。

 辺境惑星への長期出向だったので、レセプションパーティーなどへ呼びつけられることもなかった。

 もしそんな機会があれば、どうだったのだろう。あの手のものは大体パートナーを同伴する必要があるのだ。自分の女の衣装を選ぶ程度の甲斐性はあったのだろうか。

 空色と紺の組み合わせは、レイヴンにも似合うだろう。

 頭から爪先までその姿をざっとあらためたのがわかってか、レイヴンがいぶかしげな顔になった。

 

「何ですか?」

「いや……。お前も、服装にこだわりはなさそうだな」

「昔はそうでもなかったんですけど、病気をしてからはそれどころじゃなくて、すっかり不精になってしまいましたね……。こんな稼業ですし、買う場所も着ていく場所もないし」

「フロイトに押し付けられるようなことはなかったのか」

「まさか。フロイトですよ、人間の外装に興味があると思います?」

 

 外装ときた。

 どれだけ無関心に見えていたのかが知れるというものだ。思わず額を押さえ、かろうじて応じた。

 

「……好みくらいは、あると思うが……」

「どうなんでしょう……。ロックスミスが中量2脚だから、膝丈とか?」

「よりによって根拠がそれか」

「だって、可も不可も言われたことがないんです」

「一度もか」

「ええ、一度も。ACのことなら、少し変えただけで気づいてすごく喋っていましたけど」

 

 多分、逆も同じだったのだろう。まさかここまで二人してAC馬鹿を極めていたとは。

 一度仕切り直す必要性を感じ、頭痛をコーヒーで紛らわせた。

 

「……色の話に戻るか……。お前のAC(アンラヴル)は、メカニックに任せて、ああなったんだったな」

「ええ。とりあえず適当に特徴のあるものでとお願いしたんですが、ずいぶん可愛らしい派手さですよね」

「ロックスミスとは対の色にも思える。おそらく、意識したんだろう」

「ああ……そっか、今更ですけど……そうだったのかもしれません」

 

 今気づいたとばかりに目を瞬き、コーヒーの水面に目を落とす。

 慎重に、その様子を確かめた。耐えなければならないほどの苦さは、そこに感じられなかった。

 

「場所も関係していたのかも。珊瑚色(コーラルピンク)というらしいです、あの色」

「……あいつのことだ、AC(そっち)には反応していたんだろうな」

「そうですね。『いい色だ』って」

 

 ゆるく細めた目は、懐かしさというよりも、苦笑に近かった。

 まったく、しょうがない人ですよね、というような。

 

「いっそのこと金ぴかにしてみたら、少しは違う反応があったのかも。どう思います?」

 

 少々難しい想像だ。どんな色にしたところで否定しそうにない気もするし、自分の趣味で無遠慮にこき下ろすような気もする。

 腕を組み、目を閉じて、脳裏へフロイトを思い浮かべた。シミュレートする。――レイヴンがアンラヴルをその色に塗ったら、あの男はどう反応するか。

 

「……『いいんじゃないか、お前なら色負けしないだろう』……辺りか」

「わ、すごい。さすがですね。それ、すごく言いそうです」

「この色で弱いと笑い話だからな……まあ、わりといるんだが」

「いるんですか。まだ遭遇したことはありませんけど」

「太陽系ならそこそこいるはずだ。火星で仕事をしていれば、そのうち遭遇する」

「なるほど……。先入観を持たないようにしたほうがよさそうですね」

 

 多分、相手が強くても弱くても、「言いたく」なるのだろう。そんな予感がした。

 こちらの気も知らず、ふむふむと頷いていたレイヴンが、はたと首を傾げた。

 

「そういえば、フロイトの出身って太陽星系なんですか? わりと安定した家庭育ちの印象はあるんですが」

「はっきり聞いたことはないが、おそらく、地球の英語圏だろう。お前もそうだろうな。……南半球か?」

「……分かりますか。発音は、かなりRPに矯正されているつもりだったんですけど……」

「単語の選び方に癖がある」

「……それをそれぞれ把握して判断するって、途方もない知識量のような気が……開拓惑星と地球圏で、それほど差があるようにも思えませんし」

「判断材料は、他にも色々とあるものだ」

「なるほど……」

 

 レイヴンは感心したように頷いていたが、ゆっくりと瞬きをすると、何かに気付いたように苦笑を浮かべた。

 今度は、苦さの滲んだ笑い方だった。

 

「あれだけ一緒にいたのに、故郷の話すらしたことがなかったんですよね。……実をいうと、家族がいるのかどうかすら聞いたことがなくて」

「……確か、母親と姉が存命だったはずだ」

「そうなんですね。……補償手続き、ちゃんと取られているといいんですけど」

「調べておくか?」

「……お忙しい中を申し訳ないんですが、お願いしてもいいですか?」

「アーキバスに残っている人間に聞くだけだ。大した手間でもない」

 

 実態はどうあれ、一応は業務上での死亡だ。アーキバスの企業体力を考えても、そのあたりを怠っている可能性は低いだろう。ヴェスパーを再建するにせよ閉鎖するにせよ、報酬支払いの面での悪評は、優秀な人材を集める妨げになる。

 好き勝手に生きていた男だ。実家に仕送りをしていたという話も聞かない。だが、レイヴンとしては、聞いた以上気にかかるたぐいの話なのだろう。

 ――それが、どの立場によるものなのか、確かめるのは躊躇われたが。

 

 かつての恋人としての配慮か。

 手にかけた人間としての、罪悪感なのか。

 

 話が一区切りついてしまったせいか、レイヴンが話題を探すように顎へ触れた。

 何かこちらから話のネタを提供すべきか、それとも任せたほうがいいのか。判断に困るところだ。

 いくつか会話を重ねて、気付いたことがある。

 これはすべて、ここにいない人間の話だ。だがまるで、彼女のそれは、ここにいない()()のような口振りだった。

 本人に自覚はあるのだろうか。

 ひどく無防備な様子を見るに、おそらく無意識なのだろう。ううん、と唸って次の話題へ移った。

 

「ええと……そうだ。先月、シュナイダーがレーザーマシンガンを出したんですけど。ちょっと癖があって扱いにくいんですよね。もう触られました?」

「……レイヴン。新製品にすぐ飛びつくのは、お前やフロイトくらいだ」

「……だって、気になるじゃないですか」

「まあいい。どんな感じなんだ?」

「集弾性は高いですね。あまりに弾がばらけないというか……ああ、あと、連射速度がいまひとつです。アーキバスのVP-66LH(レーザーハンドガン)をフルオートにしたような印象ですね。重量が結構ありますし、面白くはあるんですが、癖が強くて」

「なるほど。癖があるならフロイトが喜びそうだ」

「ですよね」

 

 あっさりと頷く様子は、むしろ明るいくらいに気楽なものだった。

 わざと未来形で口にしたのだが、どうやら気付かなかったらしい。どうしたものかと考えていると、その雰囲気には気付いたのだろう。不思議そうに首を傾げた。

 

「……どうかしましたか?」

「いや……現場に出回るのは少し先になりそうだな」

「まあ、そうですね。フロイトは実弾のほうが好きですけど、レーザーの扱いも巧いじゃないですか。どんな感じに、運用するのかなって……思って……」

 

 淡々と続けていたレイヴンの語尾が、気まずげに弱くなった。

 どうやら、会話の半分以上が過去形ではないことに、ようやく気づいたようだ。どれもこれもがまったくもって「思い出話」になっていない。

 硬直する様子を眺めながら、苦笑で返してコーヒーを味わう。

 

「……し、仕切り直します。ええと……あ、そうだ、コーヒー! アーキバスの支給品は合成品でしたよね? 私はわりときらいじゃなかったんですけど、意外と不評でびっくりしました」

「あれは風味がまったく……いや、やめておこう。フロイトはどうだったんだ?」

「これも可もなく不可もなく、って感じでしょうか。……嗜好品に興味がないというと、妙にストイックな印象になりますね……」

「唯一の趣味がAC(あれ)だからな」

「そういえば、一時期やたらアルコール類を発注していませんでした? ちょうど必要があって、私が買い込んでしまったんですけど、あのときは何か手続きに行き違いがあったみたいで。どこにやったんだってふてくされてたような……。やけ酒したいことでもあったんでしょうか」

 

 それは記憶にある。

 思わず吹き出しかけ、こらえきれずに口元へ手をやって肩を震わせた。

 

「……いや。あれは、お前に飲ませるつもりだったんだ」

「え」

「随分と()()()ことになったらしいな?」

 

 声を失ったレイヴンが、ぱくぱくと口を動かす。

 みるみるうちに真っ赤になったかと思うと、語気を荒げてうめいた。

 

「……なんっで、そういうことを、人に言うんでしょうね……!」

「一応フォローしておくが、内容は聞いていない」

「何よりです! ……引っぱたいてやりたい……!!」

 

 羞恥心で頭を抱えるレイヴンには悪いが、少し胸を撫で下ろした。陰性症状で感情が鈍磨していたのを考えると、良い反応だ。

 充電器がバッテリーチャージの完了をランプで告げる。

 いそいそと二杯目を用意した。レイヴンのカップはまだ半分ほど残っていたが、すっかり冷めてしまっている。入れ直すかと聞いたが、首を振って返された。

 コポコポという軽快な音が、沈黙の中に響く。

 レイヴンがうなだれて額をカップにあて、ああもう、とぼやいた。

 

「……ぜんぜん駄目ですね、これ……。とっさに思ったのが、『どうやって仕返しをしてくれようか』だったんですけど……」

「それは……困ったものだな」

「……びっくりします……まさか、思い出話でさえ、うまくできないなんて……」

「……まだ、思い出にするには早いということだろう。急ぐような話でもない、無理はするな」

 

 ため息が落ちた。

 レイヴンは伏せた顔を上げようとせず、こちらも、その姿を見ないよう自然に目を伏せていた。

 やがて、掠れた声が言った。

 

「立ち直らなきゃいけないなんて、思っているわけじゃないんです。……それなりにちゃんとできてる。食べて、寝て、働いて。……大丈夫なのは、大丈夫なんですよ」

 

 それが本当に「大丈夫」なのかは、正直なところ疑わしかった。

 どれだけ人の死に慣れていても、一度特別だと思った存在の喪失は大きい。それを解決できるのは、ただ時間だけだ。

 

 少なくとも、自分はそうだった。

 

 もういないのだと、不意に突きつけられる。日々のちょっとしたことで面影が脳裏によぎり、まるでそこにいるのかのように錯覚する。

 そして、立ち尽くすのだ。

 それが数秒でも、数分でも、心臓に抱える重苦しさは変わらない。

 

「……火星に行くのは、お前一人だったか」

「え? ……ええ、そうですが……」

「もう一人連れて行ったらどうだ。……K9といったか、ウォルターの猟犬は――」

「……彼は子どもです」

 

 レイヴンの声が尖った。

 思いにもよらない反応に、軽く目を瞠る。そこにははっきりとした不快感があった。

 殺気に近い不穏さを放ちながら、こちらをひたりと見据えてくる。

 

「連れて行くつもりはありません。ウォルターの仕事は終わったんですから、あとはちゃんと勉強をして、遊んで、子供らしく過ごさせないと。これについてはウォルターも同意見です」

「……本人にその気はなさそうだったが」

「そうですね。子どもはお勉強を嫌がりますから。やらされないとやらない子の方が多いですよ」

 

 まるで教師のようなことを言う。少しばかり、意外に思って見返した。

 子どもを守るべき対象に入れるのは、彼女の出自を鑑みれば理解できる。だが、これはそれだけではないような気がした。

 自分の放っていた不穏な気配を自覚したのだろう。

 肩をすくめ、レイヴンは小首を傾げた。落ち着いた苦笑だった。

 

「一人にしておけないほど、心配になりますか?」

「……心配というわけではないが。話し相手くらいは連れて行ったらどうだ」

「話し相手には困っていないんです。わりと長距離通信が入るんですよね……ラスティとか、ツィイーとか。他にも色々、わりと入れ替わり立ち替わりというか……あとは、ウォルターもたまに」

「そうか。……人気者にはいらぬ世話だったな。……俺もたまには連絡を入れよう」

「それは嬉しいです」

 

 淡々とした口振りだったが、浮かべた微笑は、つくりもののようには思えなかった。

 そこで初めて、本当に、彼女は「大丈夫」なのだろうと認識した。

 みずから死に向かうことはないだろう。生きている限り、今までと同じように、変わらず生き続けるのだろう。どれだけの欠落を抱えて、どれだけの孤独を伴っても、その生涯を厭わず歩き終える。

 片割れのいない世界を生きていく。何の無理もなく。

 その強さのせいで、いつまで経っても、傷を「思い出」にすることができないまま。いつまでもじくじくと疼く傷から血を流しながら、それでも平然とした顔で、大事に抱え込んで生きていくのだろう。望むと望まざるとに関わらず。

 

 それは幸福か。

 あるいは、呪いなのか。

 

 覚えのある感覚に、つかの間、目眩を覚えた。

 大きく息を吐きだして、その感傷を振り払う。

 

「……周囲は色々と、お節介を焼いてしまうものだが……レイヴン。お前は、お前の生きたいように生きればいい。忘れようが忘れまいが、誰にも責められる謂われはない。それを決められるのは、お前自身だけだ」

 

 ぱちりと目を瞬き、レイヴンは苦笑を見せた。

 取り繕ったような笑い方だった。

 

「ええ。そうします」

 

 世の中に有り余るほどいる「同類」を、取り残された側の存在を、ひどく痛ましく思った。

 忘れることができなければ、すり切れて痛みを感じられなくなるまで待つほかない。もう二度と増えない記憶を繰り返し取り出しては、慰めにもならない温度を愛おしくなぞるほかない。心か、記憶がそれを希薄にするまで、何度でも、そうして生きていくしかない。

 今はまだいい。

 数年もすれば、愚かだと笑われるようになるだろう。

 物言わぬ故人がそれを望んではいないと、「前を向いて」「自分の人生を」生きるべきだと、したり顔で諭されるようになるだろう。

 

 せめて、自分だけはそうであるまいと、心に誓った。

 先達として、忘れるつもりのない人間として。傷を癒やす役には立たずとも、それを無遠慮に抉るような真似だけはすまいと。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 ――それがまさか、こんな未来が待っていようとは。

 

 

「お土産です。毎回変わり映えしなくて恐縮ですが」

 

 久しぶりに訪れたレイヴンは、カフェポッドと新品のバッテリーを携えていた。

 会うのは二年ぶりだった。一度ルビコンに戻ってのんびりしていたが、今はまた、火星で傭兵として活動しているらしい。ルビコンの経済活動も軌道に乗り、出稼ぎ契約は更新せず終わらせるつもりだと聞いてる。

 それはこちらも同じことだ。最低限の義理は果たした。そろそろ、コロニーの安定した気候調整環境に戻りたい。その前に地球を訪れるのもいいだろう。永住資格を得るのは難しくとも、夢の膨らむ話だ。

 追加のコーヒーをありがたく受け取りながら、からかい混じりに訊ねた。

 

「一人か。片割れはどうした?」

「起きなかったので置いてきました。ウォルターにけっこう飲まされていたので、多分、そのせいですね」

 

 驚いたことに、フロイトは、まだこの世を後にしてはいなかった。

 色々と頭のおかしい経緯を経てレイヴンの隣へ舞い戻り、大した紆余曲折もなく、彼女をウォルターの元から攫っていったのだという。

 ウォルターの立場からすれば、面白いことなど何一つないだろう。

 あの男がザルを通り過ぎてワクだというのはわかりきっている。そういえば、と顎を撫でた。

 

「……バルカン176*1の入荷があったな。ウォルターだったか」

「内部情報の把握に余念がなさ過ぎませんか。契約は延長しないんですよね?」

「習い性だ。そう簡単には抜けない」

「……そんな具合で、本当に隠居生活ができます……?」

 

 痛いところを突かれた。

 しばらくはのんびりと、景色のいい国で、図書館通いの生活をしてみたいと思っているのだが。

 咳払いをして矛先を変えた。

 

「人のことは言えないだろう。……お前たちは、うまくやっているのか?」

「そうですね。環境が変わったので、まあ色々と苦労とか……喧嘩もしますけど、まあそれなりに」

「……喧嘩か。ラマーガイアの際のは骨が折れた」

 

 レイヴンが笑い声を転ばせた。

 あのときは、臍を曲げて家出をしたレイヴンと、ひたすら機嫌の悪いフロイトに挟まれて、V.Ⅵとともに散々な苦労をしたのだった。

 感情が未発達極まりないフロイトに、その不機嫌さの理由とそもそもの原因を紐解いて納得させて譲歩を引き出すという、とんでもなく厄介な役回りをさせられたことは、いまだにしっかりと覚えている。

 心底からため息を吐いた。

 

「家出のスケールは上がっていそうだな。それは最終手段にしておいてくれ」

「そうですね。そういえば、びっくりなんですけど……このあいだ喧嘩をしたとき、フロイトが、プリンを買ってきたんですよ。信じられます?」

 

 思わず絶句した。

 目を丸くしたまま固まったこちらを見て、レイヴンがおかしそうに笑みを深める。

 

「なんだか笑ってしまって、怒れなくなりました。あの人が誰かのご機嫌取りをする日が来るなんて、隕石でも降るのかなって感じですよね」

「いや……。……まあ、いい傾向なんだろう」

「どうでしょうね。……でも、前よりも、ちゃんと『喧嘩』をできるようになりました」

「ちゃんと、か。……なるほどな」

 

 頷いたレイヴンの表情は、とても穏やかだ。

 こんな顔ができる人間だったのかと、今さらながら感慨深くなる。

 

「何て言うのか……お互いに面倒がって終わらせないで、すりあわせができるようになったというか。……まあ、面倒ではあるんですけど。でも、話したらちゃんと聞くって、今はお互い、それなりに信用していますから」

「そうか。……原因の割合はどうなんだ?」

「ええと……半々、かな? わりと私が怒られることも多くて」

「意外だな」

「褒め言葉としてうかがっておきますね。まあ、今のところ、翌日に持ち越さないでいられる程度です」

「つまり、犬も食わないというやつだな」

「……当事者はそれなりに真剣なんですけどね?」

 

 レイヴンが笑って肩をすぼめた。

 その関係に名前がついたわけでもなく、相変わらず血なまぐさい傭兵稼業を続けている二人だ。薄氷の上に成り立つ日常がいつまでも続くはずはない。他の生き方を選ばなかった以上、死は常に彼らの隣りにある。

 あるいは、それを理解しているからこその変化なのだろうか。

 死が二人を分かつまで。――分かたれたとしても、抱えて生きていけるように。

 

「……ありきたりな質問で悪いが……レイヴン。今、幸せか?」

 

 目を瞬いたレイヴンが、綻ぶような笑みを浮かべた。

 十分すぎる返答を、乱雑なノックが妨げる。

 返答も待たず扉を開き、対照的に陰鬱で顔色の悪いフロイトが、よろよろと部屋に入ってきた。

 レイヴンが席を立つ。

 

「……びっくりした、どうし――……やだ、お酒臭い。シャワーくらい浴びてこれなかったの?」

「お前が置いていくからだろう」

「起きなかったのは貴方じゃない。これでも時間ぎりぎりまで粘ったのよ」

「……今度お前に大事な用があるときに言ってやるからな、覚えてろ」

「わかった。大事な用事があるときは、前日に外泊するわ」

 

 この、とフロイトが体重を預けてのしかかる。レイヴンがあわてて足に力を入れて受け止め、悲鳴じみた抗議の声を上げた。

 じゃれつくさまは微笑ましくもあるが、いささか気まずくもある。苦笑いをしながら声をかけた。

 

「相変わらずだな、フロイト。元気そうでなによりだ」

「元気じゃない……。なんだこれ、めちゃくちゃ気持ち悪いし、だるいし、目が痛いんだが……」

「普通に二日酔いでしょう。自分を過信するからよ。これに懲りたら、限度は覚えることね」

「ウォルターに言え……」

「だから、途中で断ってよかったんだってば。止めたのに聞かないんだから」

「……やめろ、背中さするな、吐く」

「え、やだごめん。すみませんオキーフ長官、お手洗い……!」

「外へ出て右側だ」

 

 指を指すと、フロイトが足早に部屋を後にした。足元に不安がないということは、酔いは完全に抜けているのだろう。

 見送ったレイヴンは困ったような心配げな風だったが、ふと、何かを思い出すような間があって、二人して顔を見合わせた。

 苦笑で返す。

 

「本当に、それっぽくなったものだな」

「それっぽく……。確かに、そうですね」

 

 考え込むように小首を傾げた。

 その顔に、いたずらめいた笑みが浮かぶ。

 

「――そういえば、好みの話なんですけど。『タイトな踝丈で、腿までのスリット』でした」

 

 予想外の方向から攻撃がきた。

 ぽかんとするなど何年ぶりか。しばらく開けたままになっていた口を押さえ、衝動のまま、肩を震わせて笑った。

 得たりとばかり、レイヴンも笑い声をしのばせる。

 

「……あいつにも嗜好があったか。予想とは違ったようだが」

「びっくりですよね、普通で」

 

 コーヒー用に備えてある水のボトルを手渡す。礼を言って受け取ったレイヴンが、フロイトの様子を見に足を運んだ。

 まったくもって格好のつかない、日常の延長線だ。

 それをこの二人が共有していることが、まるで、奇蹟のように思えた。

 

 稼業の物騒さも、命が軽い場所であることも、何ひとつ変わらない。この二人がともに長生きできる未来などは、いくらなんでも楽観というものだ。

 それでも、選んだ場所で、この二人が共にあることができる事実に――不思議と、救われたような気持ちになった。

 

「……果報者め」

 

 僻みめいた言葉は、いったいどちらに向けてのものだっただろう。

 古い写真の入った懐を押さえ、遠い面影に呼びかける。

 

 今はただ、若い二人の前途を祝福したい気分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(※おまけでウォルター視点の前夜、フロイトとの酒盛り的なエピソードです)

 

 

 

 

 

 猟犬たちとの関係性は常に言葉に困る類いのものだったが、621――レイヴンは、きわめてその度合いが高い相手だった。

 まるで親のようだとからかわれることも多いが、そもそもが娘でもなく、何をしてやったという程のものでもない。

 庇護関係にすらなかった。彼女との契約はごく対等なもので、強化手術と機体などの初期費用と諸々の維持費(そこには食費や身体のメンテナンス費用も含まれる)をこちらがもつ代わりに、同等額を稼ぐまでは、無報酬でこちらの指示する作戦に従事するという内容だった。

 

 今ならレイヴンもわかっているだろう。それは、いずれにせよこちらが負担するはずだったものだ。

 これまでの猟犬は皆、人生に選択肢のないところから始まっていた。せめてもの対価にと“最低限”心を砕きはしたものの、それが正しいのかどうかさえ迷いながら黙然と、その死をいくつも、いくつも見送ってきた。

 その繰り返しに倦んでいたのだろうか。素人である小娘が見せた意志と能力に、その可能性に、賭けてしまったのは。

 シミュレーションのスコアは生身の時点でさえ突出していた。

 生来の空間認識能力と反射神経は驚くべきもので、強化手術によって耐G能力も十分な数値となった。何より、彼女自身の身体を動かすための望みだ。後遺症も陰性反応程度のもので、精神的な安定性に至ってはいっそ異常なほどだった。まるで、ACに乗るために生まれてきたようだと思ったものだ。

 

 紆余曲折はあったものの、彼女はオーバーシアーの悲願を成し遂げてみせた。

 

 理想以上の形だった。

 生まれた星系を再び焼き払う覚悟さえ決めていたというのに、今やルビコンは経済復興のさなかにある。カーマン・ラインの滞留コーラルも残るはあと僅かだ。惑星外に持ち出されたコーラルの情報もひとつずつ押さえている。そんな場所にまで気を回すことができるなどと、当初は思っても見なかった。

 

 感謝している。

 それと同じくらいに、苦く憐れむ気持ちもあった。

 

 人為的に引き起こされようとしていた破綻を止めるため。そして、もはや大局的に見れば大した役にも立たない元飼い主(自分)を救うため、彼女は、彼女にとっての唯一を手に掛け、そして、自らも生き残った。

 感情の殆どをあの場所に置きざりにして。

 抜け殻になった彼女を生かしたのは、波に流されるような責任感だったのだろう。

 「コーラルを取り上げたんだから、しばらく面倒を見るのが筋かなって」などと、故郷でもない星を丸ごと養う覚悟を聞かされたときは、思わず天を仰いだものだ。

 昔馴染みなどは、「やるべきことがあるのは悪いことじゃないさ。そのうち時間が解決する」などと嘯いていた。

 

 ――まさか、時間よりも先に、元凶(V.Ⅰ)がみずから問題を解決してしまうとは。

 生きている可能性を聞いていたとはいえ、複雑極まりない気分だった。

 

 元猟犬(レイヴン)に笑顔が戻った以上、これは良いことなのだ。

 そう、祝福すべきことだ。

 それはわかっている。わかっているのだが、けじめといったものも重要なのではないだろうか。

 

 それを何だ。あの男は何ひとつ責任を取らずに、あっさりレイヴンを攫って行った。

 

 いや、連れて行くこと自体はいい。そうなるだろうと心積もりはしていたし、むしろ置いて行くなど論外だ。それこそ生かしてはおけない。

 だがしかし。

 ――あるだろう、けじめの付け方が。

 身を固めるとか。式を挙げるとか。せめて指輪を贈るだとか。いわゆる「責任の取り方」というものが。

 

 言える立場にはないと言葉を飲んだものの、二年たった今でも腑に落ちていない。

 なにかと(さと)い現役猟犬(辞めてくれない)の少年は、「ようするに、ちゃんと結婚してほしいんだな」と得心顔で頷いていた。愚痴をこぼしたことなどなかったはずなのだが。

 

 

 

 

 

 

「とは言うがな、ウォルター。俺はちゃんと聞いたぞ? 『結婚するか』って」

 

 度数の高い酒をけろりとした顔で呑みながら、フロイトがのたまった。

 ――そう、それを「思ったより手続きが面倒」などと言って、先送りにしたのはレイヴンの方だ。

 だが、もっと言いようはあるだろう。というか何だそのついでのような問いかけは。仮にもプロポーズならせめて乞うてみせろ。

 

「あー……ウォルター。多分、さっきから全部口に出ているんだが、わざとじゃなさそうだな?」

「………」

 

 無言のまま口元に手をやった。

 酔っている自覚はあったが、口を滑らせるなど自分らしくもない。

 

「言いよう、なあ……。別に俺はいいんだ、どっちでも。あいつも同じだからこうなっているだけで」

「……あれほどべったりと傍にまとわりついておいて、よく言うものだ」

「結婚したからって何が変わるわけでもないだろう。子どもができたら、まあ別だが……あいつ、いまだに身体はあのままだぞ」

 

 懐胎できる状態にないということだ。強化手術のオプションをまだ外していないらしい。

 頭痛を覚えて頭を押さえた。どう足掻いても、「絵に描いたような幸せ」を作り上げる気はないのか。それも、二人が揃いも揃って。

 男はつまみのピクルスを口に放り込み、考え込むように首を捻った。

 

「まあ、お前には恩があるからな。できれば希望に添いたいとは思っている」

「……気味が悪いほどの殊勝さだな」

「本音なんだが。折角だから一緒に考えてくれ。ここまで結婚したがらないレイヴンが頷く言い方って何だ?」

 

 そう言われると返事に困る。

 眉根を寄せて考え込むと、フロイトが子どものように声を立てて笑った。さすがにこれだけ飲ませれば、多少は酔いが回っているらしい。笑いすぎて滲んだ目元を拭っている。

 

「言っておくがな、プロポーズを断られるのも結構くるものがある。勝算がないのにしつこくして嫌がられたら本末転倒だろう」

「ことわられたのか、フロイト」

 

 訊ねたのは自分ではなかった。風呂上がりのK9が興味深そうに小首を傾げて立っている。ローテーブルからボトルを持ち上げ、その度数に目を丸くした。

 次にはこちらを呆れたように見てくるのだから、実に敏い。その敏さを勉強にも発揮して貰いたいところだ。

 フロイトはくつくつ笑いながら腹を押さえた。

 

「3回だ。すごいだろう、むしろ頑張った方だと思わないか。……ああ、言い方とシチュエーションは一応黙秘しておく。レイヴンを怒らせたら面倒だ」

「そこで『面倒』を使うのはやめたほうがいいと思う」

 

 淡々と返し、冷蔵庫から牛乳を入れてくる。レイヴンの手土産で、少年のお気に入りだった。成長期には非常に好ましい嗜好だ。

 てくてくと戻ってきてフロイトの隣に陣取った辺り、すっかり会話に参加するつもりでいるらしい。

 

「チャティが言ってた、こういうときは『原因の切り分け』を行うべきだって」

「原因か。どんなだろうな?」

「……なんだろう。ちゃんと伝わってないとか……本気だと思われてないとか?」

「ありえるな……」

「そこに納得するからお前は駄目なんだ、フロイト」

 

 思わず強い口調で口を挟むと、大小二人が揃って目を丸くした。

 ぐいとグラスを空け、テーブルに置く。思った以上にいい音がした。

 

「おい、ウォルター?」

「そんなところで意思疎通に躓くようでは先が知れるというものだ。言葉というものを、自己満足に出すものだとでも思っているのか? 相手に伝えるための努力を何故しない」

「……何か、スネイルも似たようなことを言っていたような記憶が」

「指摘されてなお修正ができないというわけか」

「いや、待て、ちょっと酔いすぎだ。水を」

「いらん。いいからお前も飲め」

 

 舌が回っていない実感があった。無理矢理にボトルを突きつけると、フロイトが肩を竦めてグラスを干した。

 そこへとくとくと注ぎ込む。

 自分のグラスにも注ぎ、苦々しい思いと共に喉へ流し込んだ。

 二人がこそこそと声をかわす。

 

「……すまん、思ったより酔ってたらしい。止められるか、K9」

「……むずかしいと思う。こんなウォルターは見たことがない」

「レイヴンは?」

「もう一時間前に寝てる。起こしてこよう」

「頼む」

「聞いているのか、フロイト!」

「聞いてる。すごく聞いてるぞ、ウォルター。……K9、アルコール分解剤は」

「あるわけがない。危険な状態なのか?」

「……多分、今のところ、大丈夫だとは思うが……」

「わかった。ウォルター、水をのんでくれ。あとこれも食べてほしい。そのあいだに何か作る」

「……いや、腹は……」

「食べないとだめだ」

 

 言うが早いか友人のAIに連絡を取って、アルコール対策に有効なレシピの教えを請い始める。きびきびとした世話の焼きっぷりに、少し、酔いが醒めた。

 頭を抱えて唸っていると、まあ飲め、と水の方を差し出された。

 自分は言われたとおりに酒へ口をつけるフロイトに、ますます苦々しい思いになる。

 

「なんだろうな。逃げそうなんだ、あいつ」

「……」

「一種の強迫観念に近い。次に押すなら、しっかり勝算を立ててからにしたいところだ」

「……何も考えていないわけではないと言いたいのか」

「厄介事は避けたいに決まっている。今度家出されてみろ、捜索範囲が半端じゃないぞ」

「……それでも見つけ出すのだろう」

「当然だ」

 

 きっぱりとした言葉に、ようやく、胸のつかえが楽になった気がした。

 ――思いあっていることも、今度こそ「まともに」大切にしていることも、理解はしているのだ。

 

「やっぱり実際、結婚なんていう『肩書き』の変更には、たいして意味を感じられないんだ。嫌がられて逃げられる方が単純にきつい。……でもまあ、あれだな。お前に恩を返したいというのも本当だ。あいつがどういう理屈なら頷くのか助言をくれ」

「……いっそ解放戦線の……ツィイーと言ったか。彼女に不意打ちで式の準備をさせるのはどうだ。あいつは、多数の好意を無碍にできる性格ではない」

「あとに尾を引かないならそれでもいいんだが」

「……」

「そこで沈黙するな。式の翌日に出て行かれたら笑い話だぞ」

「それはいい。……非常に愉快だ。存分に笑いものになれ」

「遠慮する。そうだ、出て行けない程度に余力を奪えば解決だな」

「……それはどういう意味だ、フロイト」

「ウォルター、フロイト。いったん休戦だ。これを食べろ」

 

 ぬっと現れたK9が差し出したのはスープパスタで、半分は具材のブロッコリーと鶏胸肉が占めていた。低カロリー高蛋白を主眼に置いた、アドバイス通りのアルコール分解対策食品だった。

 正直腹は減っていなかったが、食べてみると食べられた。出汁と塩胡椒の加減が絶妙だ。フロイトはかなり感心した様子で、シンプル極まりないレシピを聞き出してメモを取っていた。口振りからして、どうやら料理はこの男も手がけているようだと、少しばかり見直す。

 

 そのうち、納得して、赤い絨毯の上でその手を引き渡す日は来るのだろうか。

 自分にその資格はないなどと言いながらも、来るのであれば、苦渋を噛み締めつつ喜んで引き受けるだろう。

 おこがましいにも程があるが、彼女の実の父親の代わりに――幸福な前途を祈って。

 

 そんなことは、死んでも、言うつもりなどなかったが。

 

「騙し討ちはやっぱり分が悪いな。K9、お前にいいアイデアはあるか?」

「……フロイト。おれみたいな子どもに聞くのでいいのか」

「子どもとは思えないから聞いている」

「……実は、チャティといろいろ話していた。聞いてくれてうれしい」

「なんだ頼りになるな! よし、全部聞かせろ。そろそろしっかり繋ぎ止めておくのも悪くない」

 

 そしてそれ以上に、言うつもりがないのは、この幼稚な男の幸福さえも祈ってしまっているということだ。

 情に脆い自覚はあったが、たかだか一年程度の同居が思いのほか効いてしまった。

 我が儘で人の話を聞かず、常識外れな男だ。だというのに慕われてしまうと、無碍にし続けるのはどうにも難しいのだ。

 若い二人が意見を交わすのをぼんやりと聞きながら、何と幸福なことだろうと、不意に、実感した。

 

 同時に思い出した、泥濘に引き込むような罪の重さと絶望を、明るい声が断ち切る。

 

「なあウォルター、すごいぞ、こいつ本当に10歳か?」

「もう12歳だ、フロイト」

「そうか。もう二年も経ってるんだったな」

「背ものびたのに、不本意だ」

 

 ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるフロイトから逃げたK9が、盾にするように後ろへ回り込んでくる。

 興が乗ったのか、フロイトが指をわきわきさせながら近づいてきた。

 

 ふ、と口元が緩む。

 罪人には与えられるべきでないほど、穏やかな夜だった。

 

 

*1
ブルガリアのウォッカ。アルコール度数は88度。かぱかぱ飲むものではないけど度数が高いものの中ではわりと美味しい

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