野菜や肉が宙を舞い、フライパンの上に戻る。
手早く炒めながら別の箸で味見をし、小さく頷くと用意していた平皿に盛り付ける。
急いで作った野菜炒めは、それなりの出来となった。普段なら味や見た目にもう少しこだわるが、今はスピード最優先。
野菜炒めとお茶碗に盛ったご飯。そしてお茶を注いだグラスをトレイに乗せて、リビングへ運ぶ。
「シロさーん。できましたよー」
リビングの中央、ガラステーブルにトレイを乗せる。近くのソファーで横になっていた白望は、緩慢な動きで顔を上げる。
咲の呼びかけに短く返事をすると、ソファーから降りてテーブルの前に座る。箸を手に取ろうと白望が手を伸ばそうとするが、少しの逡巡の後に手を下ろした。
いやな予感がする。
そんな咲の予想は当たっており、顔を上げた白望はトレイを咲の前にずらす。
「食べさせて」
「自分で食べてください。私が食べさせてあげるのは、京ちゃんと子供と病人だけですから」
「…………結構、いる」
説得は難しいと諦めた白望が箸を手に取る。食事の労力と咲を説得する労力。どちらが楽なのかと考えた結果だった。
白望の食事のスピードはお世辞にも早いとは言えない。むしろ遅いくらいなのだが、咲が気にした様子はなかった。
喋りながら食べるのは余計疲れる。そんな理由から黙々と食べる白望を、咲は嬉しそうに眺めていた。
何も言わずに食べ続けるというのは、白望にとって美味しいと言っているも同然だ。不味ければ箸が止まって、そのまま残している。
咲が評価したようにそこそこ美味しいといったペースだが、それはそれ。作った側として、美味しいという感想が伝わって喜んでいるようだった。
一方で自分を見つめてくる咲に、白望はなんとも言えない気持ちになっていた。
────なにか、目覚めそう。
性格上、誰かに面倒を見てもらう事に慣れている白望だが、咲を相手にすると調子が狂ってしまう。今更、生活態度を改めるつもりはない。
そのつもりだったが、咲相手には更に踏み込んで求めてしまいそうになる。
その結果が何をもたらすかは分からない。ただなんとなく、それが良くないものではあると感じていた。
一度踏み込んでしまっては戻れなくなる。白望が望まない狂気がそこにある。勘ではあるものの、半ば確信していた。
そうなってはたまらないと、無心で食事を進める。そして空になった皿をトレイごと咲に返した。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
トレイを受け取った咲がキッチンへ向かう。その背中をなんとなく眺めていた白望だったが、すぐにソファーに寄りかかった。
食後の満足感から思考が鈍り、何を考えるでもなくぼんやりと天井を見つめる。特徴のない白い天井。どこにでもあるはずのそれから、不思議と目が離せなかった。
次第に天井が意識から外れ、色だけに意識が傾く。視界いっぱいに広がる白。
視界が
精神が
心が
白望を形成する全てが塗り潰されていくような錯覚。考えるのも億劫になり、何もかもが面倒になる。
気付けば、自然と口が動いていた。
「ダル…………」
「シロさん?」
致命的な一言。それを言い切る前に、片付けを済ませた咲が戻ってきた。
ぼんやりとしている白望が気になって声をかけた咲は、小首を傾げて向かい合う形で座る。
眠い。とも少し違う様子に、咲は心配そうに顔を覗き込む。
「やっぱり、カップ麺ばかり食べてるからですよ。この時期はみんな忙しいですし、シロさんも自炊くらいしてもらわないと困ります。カップ麺がダメだとは言いませんけど、せめて簡単なサラダくらいは自分で作ってください」
「…………善処する」
「もう、またそうやって…………え?」
遠回しな否定の代名詞による返事。その内容に呆れた咲だったが、すぐに自分の耳を疑った。
普段の白望なら、ダルい。の一言でバッサリと断る。それが否定の意味が強いながらも、遠回しな表現を使った。
良い傾向のはずなのだが、顔を青くした咲はカタカタと震えながら腰を抜かす。
「ぜ、善処? た、大変! シロさんが過労死する!!!」
「…………流石に、怒るよ?」
むう。と、白望が頬を膨らませる。不機嫌なのは伝わってくるが、迫力はなかった。
軽く謝って居住いを正す咲だが、その顔はまだ青い。本気で、白望の心配をしていたようだった。
龍門渕所有のレディースマンション、白望の部屋。
咲が今日ここに来たのは、白望の様子を見に来たからだ。白望の世話は、主に旧宮守の麻雀部員たちがしている。他にも世話好きの面々が来る事もあるが、その頻度は低い。
しかし今は、白望たちの大学卒業を間近に控えている時期だ。同じ世代である為、全員が揃って卒業の諸々で忙しくなってしまっていた。
そこで白羽の矢が立ったのが咲だった。部屋にやって来た咲は、白望の生活を見て愕然とした。掃除こそ最低限にされていたが、食生活が最悪だった。
四日前に華奈が来て以来、食事の全てがカップ麺。しかも昼食は面倒という理由から、朝夕の二食しか食べていなかったという。
それを知った咲は、般若の形相を浮かべてキッチンに直行。冷蔵庫の中にあった僅かな野菜と肉を取り出し、親の仇のように切り刻んだ。
その様子を見ていた白望は、次は自分の番ではないのかと怯えてリビングのソファに逃げ込んだ。
そうとは知らない咲は、突然の白望の心変わりに驚きを隠せなかった。しばらくして落ち着くと、気持ちを切り替えて笑みを浮かべた。
「でも良かった。シロさんも、心を入れ替えてくれたみたいで。もしあのままだったら…………捨てるつもりだったんですよ」
脅しでもなんでもない。咲の心からの本音。白望の面倒を見ていた時と同じ柔らかな笑みを浮かべながら、その雰囲気は対極のものとなっている。
深い闇を思わせる咲の瞳。それをまっすぐに見据えた白望に、怯えた様子はない。
「私が欲しいのは京ちゃんの所有物ですから。重りになるだけの粗大ゴミなんて、捨てるしかないじゃないですか」
「…………私は、家具がいい」
「………………え、家具?」
ここに来てのまさかの希望に、咲が毒気と瞳の闇を抜かれる。その反応がおかしかった白望は、口元を少し緩めて頷く。
「滅多にないだろうけど、京太郎が家で一人になる事もあるかもしれない。そんな時に、京太郎の気分次第で空気にもペットにもなれる。常に家に置いてある所有物、家具はあった方がいい」
「あー、なるほど」
その発想はなかった咲が理解を示す。京太郎の所有物は多い。所有物たちにある程度の自由は与えており、仕事などは本人たちに選ばせるつもりでいる。
仕事によっては、家にいる時間も異なってくるだろう。それでも、平日の日中などはほとんど人がいない事は予想できた。
京太郎の進路がどういったものになるかは、まだ分からない。再開したハンドボールでプロの道に進むのか、一般的な企業に就職するのか。はたまたそれ以外か。
咲としてはヒモ、もとい専業主夫となって他の
そうなると機会は減るだろうが、家の中で一人でいる時間が生じる可能性はゼロではない。
噂に聞く有給の消化、あるいは勤め先の倒産。はたまた骨折などの長期の怪我に伴う休職など。
人がいないであろう時間帯に、京太郎が家にいる理由はいくつもある。最近はリモートワークなんてものもあるので、何人かは常に家にいるだろうと楽観的に考えていた。
しかし大学生である咲では、社会人の大変さというのは聞いた噂から想像するしかない。まこの家も自営業なので、似たようなところはあっても完全には一致しないのだろう。
実態を知らない以上、備えておく必要はある。専業主婦にしても、一日中家にいるわけでもない。家事の合間に買い物を済ませたりなど、外に出る事も多い。
なら、本当の意味で常に家にいる所有物は必要になってくる。こればかりは強制できないので、用意できる数はあまり多くはないだろう。
諸々の事情から、常に家にいたい。もしくは家にいた方がいい所有物。探せばいるだろうが、選定には時間がかかりそうだった。
「確かに、それがいいかもしれませんね。ただ、家具としてそこにある以上、京ちゃんの言うことはなんでも聞いてもらいますし。何をされても文句は言わない。それだけは絶対です」
「もちろん。いきなりフルマラソンを走れとか言わない限りは、問題ない」
「…………百メートル走でもキツそうですよね」
「ううん。十メートルもあれば、余裕で倒れる」
「別の意味で外に出せませんよ!!」
そんな冗談を交えた軽いやり取りを最後に、また一つ所有物の未来が決まる。それぞれの進路を考えて、定期的に家具を選別する必要がありそうだった。
白望がダラける理由に使われている気がしないでもないが、話の筋は通っている。ダラけるた為に考えたのか、白望だからこそ考えついたのかは分からない。
京太郎の為になるならどちらでもいい。そう結論付けた咲は、理由までは聞こうとしなかった。
それからたわいもない話をして、また来ますからと咲が部屋を出る。それをソファーの上から見送った白望は、咲が出ていった扉を無気力な目で眺めていた。
「………………ありがとう」
そのお礼は咲に向けてのものだった。聞こえないタイミングで言ったのは気恥ずかしさもあったが、心の内を聞かせたくなかったというのが大きい。
ゆっくりとした動きでソファーを立つ。向かう先は寝室のサイドテーブル。引き出しに入れてあったキャンプ用のナイフを取り出す。
「ダルい、か…………」
少し前まで、自分が口癖のように言っていた言葉。それが持つ意味も、今では大きく変わってしまった。
噛み締めるように、感情のこもっていない声でかつての口癖を呟く。
ナイフの先端を自分の首に突きつける。刃先を軽く押し込むと皮膚を貫き、肉が裂け、血が流れる。
同時に痛みが走り、顔を顰めた。
痛い
嫌だ
やめて
死にたくない
出てくるのは拒絶の言葉。それが今の白望にとって、何よりも救いとなっていた。
まだ、自分は正気を保てている。狂ってはいるが、狂いきってはいない。
まだ引き返せる。
まだ踏みとどまれる。
まだ生きたいと思える。
みんなとの時間を大切に思える。
みっともないと言われても、生にしがみつける。
生への欲求を自覚する。その事に自然と笑みが溢れた。
ナイフの血を拭い、側に置いてある消毒液とガーゼを手に取る。慣れた様子で手当てをして最後に絆創膏を貼る。
大学入学後は毎週のようにやっていたこの行いも、今では数ヶ月に一度に収まっている。その周期から外れている今日に実行したのは、自分が生きる意味をまた一つ得られたからだ。
数多くいる京太郎の所有物。その中でも希少な家具というポジションに収まるのは、多く見積もっても五人もいないはずだ。
咲にとって、家具というポジションがどれほど重要かは分からない。思いつかなかったというのを考えると、重要性は低いだろう。
それでも適性のある所有物が少ない役割を自分が担えるというのは、白望にとって大きな希望だった。
京太郎は所有物に優劣はつけないだろう。そして咲もまた、所有物に優劣はつけていない。
京太郎はその性格から。
そして咲は、京太郎の為になるか否かという理由から。咲は1と0でしか判断していない。そして0と判断されれば、そもそも所有物となっていない。
咲に所有物と認められるのは、自分の価値を認めてもらえているとも言える。そう考えると、家具というポジションにこだわらなくても良かった気がしてきた。
とはいえ、家具というポジションが白望の気質に合っているのも事実だ。今更拒絶する理由もないので、そのままでいいかと思えた。
「生きるのは、ダルくない」
ベッドの上に横たわり、自分に言い聞かせるように呟く。それが白望が見つけた真理だった。
日増しに強くなっていく惰性は、白望の精神を蝕んでいった。特に大学に進んでからは、それが顕著に現れていた。
そしてとうとう、ある考えに行き着いてしまう。
生きるのが、ダルい
何かあったわけではない。ただなんとなく浮かんでしまった考えが、頭から離れない。
宮守の面々と京太郎、そして咲の計画。この三つ内、どれか一つでも欠けていれば白望はとっくに自ら命を絶っていただろう。
しかし、惰性による死への欲求は未だに残っている。それどころか、今もなお白望を蝕み続けている。
死を求める考えは生涯消えないだろう。なら、楔となる生への欲求を強めるしかない。
一番の方法は大切な人を増やし、もっと一緒にいたいと思えるようになる事だろう。
幸い、一夫多妻となるなら子供は多くなる。家具として大勢の子供に囲まれる困った未来が見えた気がするが、不思議とダルいとは思えなかった。