ヒンメルの没後二十八年──
北側諸国にあるフェルド平原を、さらに北へ向かって旅する人影があった。
銀髪のエルフ、フリーレン。
魔王を倒した勇者一行の魔法使いであり、現在人を〝知る〟旅の途上であった。
フリーレンの後を、二人の人物が歩いている。
彼女の弟子のフェルンと、〝勇者一行〟の戦士アイゼン──の弟子の、シュタルク。
太陽はまだ、天高いところを通り過ぎようとするばかりの時間帯だ。
道端を彩る若草を揺らす風の香りが、彼女らの鼻先を優しく撫でていく。
「絶好の旅日和だね。このまま何事もなければ、今日の日暮れ前には次の町に辿り着けるかな。この平原を狩場にしていた魔族は、ちょっと前にヒンメルたちと倒したしね」
「ちょっと前って、それだいぶ昔じゃ……。ところでフリーレン様、次の町、というとどこになるのでしょうか?」
「次の町は平原を抜けた先の──」
フリーレンとフェルンの会話を聞きながら歩いていたシュタルクが、はたと立ち止まった。
少しだけ歩いてから、二人はシュタルクがついて来ていないことに気が付き立ち止まる。
「シュタルク様、どうしたのですか?」
「靴ひも……切れちゃった……」
情けない顔で、シュタルクが言う。
「あー……」
「フリーレン様、魔法で直せませんか?」
「うーん……、〝靴ひもを結ぶ魔法〟と、〝靴ひもを鳩目に通す魔法〟、それから〝衣服の穴をふさぐ魔法〟は知ってるけど、〝靴ひもを直す魔法〟は知らないなぁ」
「そっかぁ……」
そう言って、彼は肩を落とす。
「荷物の中に、いい感じのヒモはありませんか?」
「いい感じの長さでいい感じの丈夫さのヒモはないなぁ」
カバンを軽く漁りながら、フリーレンが言う。
「ないかぁ……」
「……仕方ありませんね。シュタルク様、そこら辺の草で靴を結んでください」
「ひどい!?」
フェルンの提案に、シュタルクが涙目になって不服を訴える。
しかしフェルンとしては、特に意地悪をしたつもりもないようで、小さく頬を膨らませながら肩を竦めた。
「シュタルク様、ここで修理できない以上、シュタルク様を裸足で歩かせるわけにもいかないですし、魔法で運ぶのも疲れますし、応急処置をして次の町でしっかり修理するのがいいと思うのですが。幸い次の町も近いみたいですし」
淡々と先ほどの発言の意図を離すフェルンに、シュタルクは委縮して「ごめんよぉ……」と謝った。
それにしても、とフリーレンが微かに微笑みながら、フェルンに言った。
「前に教えたこと、魔法じゃないのによく覚えてたね。偉いよ、フェルン」
「昔森で修行していて、靴ひもが切れてしまった時にフリーレン様から教えていただいた
育ての親と暮らしながら、師匠に魔法を教えてもらっていたあの日々を思い出して、フェルンは静かな笑みを浮かべた。
フリーレンは背伸びをして、とっくに身長を抜かれてしまった弟子の頭をよしよしと撫でてから、だけどね、と続けた。
「シュタルクに限っては少し事情が違うから、予定変更といこうか」
「事情が違う、ですか?」
腑に落ちないという表情で、フェルンが首を傾げた。
そう、と言って、フリーレンが漁っていた荷物をカバンに詰め直して、バタンと蓋を閉じた。
「シュタルクは
「……なるほど、そこまでは考えていませんでした」
えっと、と師弟のやり取りを聞いていたシュタルクが、おずおずと手を上げる。
「結局、俺はどうしたらいいんだ?」
「シュタルクは、とりあえずそこら辺の細い草の葉っぱを毟って、靴を結ぼうか」
「変わってない!?」
「違う違う」
服を払いながら立ち上がったフリーレンが、東側に見える山を指差した。
「あの山を小一時間登った辺りに、小さな集落があったはずだから、目的地をそっちにしようかってこと。あの山は魔物も少なかったはずだし、そこまでなら応急処置でももつでしょ」
「行ったことがあるのか?」
靴を結ぶための草を見繕いながら、シュタルクが訊いた。
まあね、とフリーレンが頷く。
思い出を手繰るように目を少し細めて、彼女は言った。
「これくらいの時期だったかな。ヒンメルたちと旅をしていた時に、依頼を受けてね」
魔王を討伐するために共に歩んだ、くだらない十年の旅の幕間を、彼女は懐かしむような口調で語りだした。
──────
勇者ヒンメルの死の五六年前、勇者一行の旅立ちから四年後。
フェルド平原の入り口にある小さな町の酒場に、ヒンメル率いる勇者一行はいた。
これから行くフェルド平原には、人を狩る凶悪な魔族がいる──。
その噂を聞いた一行は、万全の態勢でフェルド平原を抜けるため、この町で一泊し英気を養う心づもりでいた。
「しかし明日、この僧侶は役に立つのか?」
「だめだったら、だめだったさ、アイゼン。その時は僕たちが頑張ればいい」
「確かに。それもそうだな」
そんなやり取りをするのは、勇者ヒンメルと、ドワーフの戦士、アイゼン。
彼らの目線の先にいるのは、酒瓶と樽ジョッキを掲げて住民たちと酒を酌み交わす、勇者一行が僧侶ハイター。
「生臭坊主」
呆れた様子も隠さずに、辛辣に呟くのは、魔法使いのエルフ、フリーレン。
そんな賑やかなひと時も、夜が更けるにつれて徐々に静けさを増していき、酒場の客足がまばらになったころに、ヒンメルに話しかける男がいた。
四十代くらいだろうか。
男は決して身なりが整っているとは言えなかった。土ぼこりの匂いのするような、そんな男だった。
「あんたが、勇者ヒンメルか?」
男のその問いに、ヒンメルは自信たっぷりに頷いた。
「そうだよ。僕が勇者ヒンメルだ。……ずいぶんやつれているように見えるけれど、どうかしたのかい?」
自分の状態に心当たりがあったのだろうか。
自分の様相をやつれていると評価されたことに、男は少し驚いたのか小さく目を開くと、「噂通りの人物みたいだな」と呟いてから、机に両手をついて、頭を深々と下げた。
「頼む、この通りだ。俺たちの住む村を、あんたの手で救ってはくれないか」
その申し出に、ヒンメルは静かに樽ジョッキをテーブルに置いた。
「顔を上げてくれ。まずは詳しい話を聞こうじゃないか」
男はフェルド平原からやって来たらしい。
フェルド平原の東側には、背の高くない山脈が連なっている。
その山脈の一つに、彼の暮らす村里があるとのことだった。
彼らの暮らす山は、不思議なことに、木々は生い茂っているというのに水場は欠片もないような山だった。
水場がないから、魔物をはじめとする危険な生物も滅多に現れない。
そこに村里を作った人々は、水が少ないという不便さよりも、身の危険が少ないという安全を取ったのだろう。
「しかし、わざわざ平原まで出てきて水を汲んでいたら、結局危険なんじゃないか?」
「村には、井戸があるんだ」
男が語るに、それは不思議な井戸らしい。
山の地面のどこを掘っても、水源は見つからないというのに、その井戸だけはいつでも絶えることがなく水が汲めるというのだ。
だが──。
「つい先日、その井戸が涸れてしまったんだ」
兆候があったのは、数週間前に小さな山鳴りが起こってからだった。
今まで冷たかった井戸水が、徐々にぬるくなったのだ。
そしてついに、井戸に石を投げこんでも、乾いた音が帰ってくるだけになってしまった。
「水を別の所から運ぶにも大変だし、何よりフェルド平原には、あの魔族がいるから……」
「なるほど、それは大変だ」
ヒンメルはそう言うと、椅子からすくりと立ち上がった。
男がその動きを不安そうな目で追い、引き留めようとするように口を開き──。
「フリーレン、井戸の修理ができそうな魔法は知っているかい?」
振り返ったヒンメルが、未だに肉料理をつついていたフリーレンに声をかけた。
少し考えるように目を動かしながら、フリーレンが口に残った食べ物を飲み下す。
「……原因がわからないと、なんとも言えないかな。水の湧かない山にある井戸、ってだけで面倒ごとの匂いがする」
そう言ってから、フリーレンが両手に持っていたナイフとフォークを置いて、ヒンメルの方へ顔を向けた。
「また寄り道するの?」
「誰かがやらなければならないことさ」
こともなさげに言うヒンメルに、フリーレンは「ヒンメルが言うなら止めないけどね」と諦めたように呟いてから、だけど、と続けた。
「もし井戸がどうしようもなかったらどうするの?」
「平原の魔族を倒して、村の人たちが安全に水くみできるようにするさ」
どうせ倒す予定だったしね、とヒンメルが肩を竦めた。
さて、とヒンメルが再び男に向き直る。
「じゃあ、調査するにあたって、報酬をどうするのか、先に決めておこうか」
その言葉に、男は困ったような表情を浮かべた。
「……大変言いづらいんだが、報酬として出せるようなものが……」
「価値はこっちが決めるさ。なんなら、僕の銅像を建ててくれても──」
「何でもいい。例えば、役に立たない、くだらない魔道具だとか、地酒だとかでも、喜ぶ奴はいる」
今まで黙っていたアイゼンが、ヒンメルの提案を遮って声を上げた。
それを聞いて、ふむ、と男は顎に手を当てて少し考えてから口を開いた。
「それなら、水が確保できれば、近いうちに祭事を行う予定でな。そこで地酒を振舞う予定なんだ。それから、確か村長の家に、何か魔導書があったと思ったから、それも頼んでみ──」
「いいですねぇ、地酒」
「えっ」
いつから話を聞いていたのか、顔を赤らめたハイターが不意に出現し、男の肩に腕を回す。
「魔導書、いいね」
「えっ」
先ほどまでは興味なさそうにしていたフリーレンが、期待する眼差しを男へ向けている。
「決まりだね」
笑みをこぼして、ヒンメルが言う。
「……まったく、くだらんな」
ブドウを摘まんだアイゼンが、少し呆れたような溜め息の後、ほんの少し楽し気に呟いたのだった。
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