運命には常に
これはぼくの持論ではないし、理解もできない戯言だ。誰もが『運命』という定められた物語の中で定められた行動を取り、仮に何らかの偶然があって物語の枠からはみ出したとしても、代わりの誰かが物語を繋いでくれるというもの。ぼく自信もこれをうまく理解できている訳ではないのだが、親愛なる弟子の要約を借りると『ただ《人生に意味がある》という訳ではなく、《人生に意味は無い》という訳でもなく、《意味はあるけれどその意味を果たそうが果たすまいが結果は同じ》』ということらしい。
狐につままれたように理解不能の理論が、もしこの世界に適用されているのだとすれば。
こんな戯言でしかない理論が。
例えばある北の街に、一人の青年が訪れることで物語が始まったのだとすれば。
青年が訪れなければ、物語は始まらなかったのだろうか。どうしようもなく現実的で現実的な現実だけが残り、ただ舞台の上で立ち尽くすだけの悲劇だけが進んだのだろうか。
或いはある北の街に、一人の青年が訪れることで物語が変わったのだとすれば。
青年が訪れなければ、物語は変わらなかったのだろうか。誰しも停滞し誰しも号泣し誰しも隠棲し誰しも慟哭し、起伏も何もないただ続き続けるだけの物語が完成したのだろうか。
例えばある北の街に、一人の青年が訪れなくても物語が始まったのだとすれば。
或いはそれが、誰にも似ていて誰にも似ていない欠陥製品の戯言遣いでも代替が可能だったのだとすれば。
この物語の原本となるものは、とても悲しくとても優しくとても幸せな上出来の物語だ。普通で普通すぎる普通の物語だ。
誰一人狂ってなどいない。誰一人病んでなどいない。誰一人壊れてなどいない。
よく出来たシナリオを、ありきたりの悲劇と予定調和のハッピーエンドが彩った、何処にでも転がっている、量産の物語だ。
愛しているから、好きだから、守りたいから、それだけの理由で動けるヒロイックな主人公が東奔西走する、青春の物語だ。
お涙頂戴の場面に感動的な台詞が飛び交い、泣き虫なヒロインと泣き虫なヒーローがひたすら泣き虫になる、感動の物語だ。
皆が皆救いを求めていながら、皆が皆愛しく主人公を思いながら、たった一人だけのヒロインしか救えない、悲劇の物語だ。
誰一人狂ってなどいない。誰一人病んでなどいない。誰一人壊れてなどいない。
心優しい寝呆助の少女。母への依存に捕らわれた症状。
悪戯好きの無垢な少女。最終的に全てを忘却した症状。
夜に生きる純真な少女。幼き日の約束に縛られた症状。
大人に背伸びする少女。来る運命に全てを諦めた症状。
何かを探し続ける少女。誰かの為に奇跡を起こす症状。
青年は、彼女たちを救った。
徹底的に、救った。
ならば、物語の枠から青年がはみ出て、この傍観者たる戯言遣いが物語の主人公となっても、彼女たちを救えるのだろうか。
この普通で普通すぎる普通の物語に、だから序章はない。
それで良ければ、始めよう。