負け犬は遠吠えをすることすら許されない
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零崎夜織。別名を『
二十三年前、当時二十二歳にして一賊に加入。その二年後、前触れもなく一賊の零崎菱識、零崎円識両名を殺害後に逃走。それ以降の消息は不明。当時一賊の首領であった『一人目の究極』零崎零識より「見つけ次第抹殺」の令が下される。しかし、決してその尻尾を掴まれることなく逃げ切った。
一賊加入以前より親交のあった者に情報操作を頼んだ模様だが、その手際から察するに四神一鏡も噛んでいるものと察せられる。全国各地を放浪の後、最終的に富山県富山市婦中町にて消息を絶った。一般人の戸籍を用いて結婚を行い、その間に二人の娘を産む。長女を香里、次女を栞と名付けると共に、次女出産に伴いこの世を去った。
秋子さんから渡されたレポート用紙に書かれていたことは、概ねこんな内容だった。
最大の問題は、夫の名字が『美坂』であり、長女の名前が『香里』であること。偶然の同姓同名を願ってみるも、そんなことはどう考えてもありえない。否、ありえない訳ではないが、限りなくパーセンテージとしては零に近いだろう。うっかり零と見間違う程度には。
美坂香里。
同じクラスの斜め後ろに座るクラスメイトにして、委員長も勤めるクールビューティ。成績も限りなくトップに近く、授業態度も真面目で、しかしそれを鼻にかけることもないというできた人間だ。難を言えば少し言葉に棘があることや雰囲気が冷たくて近寄りにくいという点が挙げられるが、その辺りは有象無象より『高嶺の花』扱いされるには十分な資質であろう。
美坂栞。
名前を聞いた訳でもないし、証拠がある訳でもない。しかし、何故か昨日に出会った彼女だと確信できる部分がある。ぼくは確かに、彼女に恐怖しうたのだ。まるで人類最強の請負人を目の前にしたような、稀代の大泥棒と相見えたような、匂宮の功罪の仔たる《人喰い》に出会った時のような恐怖を、確かに感じ取ったのだ。自慢ではないが(自慢行為は人間のとる行動の中でも、最も最低な部類であると鏡の向こう側も言っていた。つまりこれはただの露悪趣味だ)ぼくは、人を見る眼については肥えている。
殺人鬼の気配。
零崎たる者の感覚。
彼女は確実に、何をどう肯定的に見ても、何処をどう好意的に見ても、零崎でしかありえない。
「……本ッ当に全身全霊徹頭徹尾戯言だ」
周りに聞こえないよう、呟く。
授業中。本日の第二限目は数学だった。
女性教師の高い声で説明される公式をノートに写し取りながら、しかし考えは別方向に走らせる。授業内容などERプログラムの一年前期でやったことの繰り返しでしかないので、理解するしない以前に知っている。高校の授業はもう少しレベルが高いと思っていたのだが、どうにもぼくの育ってきた環境が異質すぎたらしい。ゆとり教育くそくらえ。
現在における、ぼくの抱える問題の中に、ひとまず授業内容は含まれていないことに安堵する。よくよく考えれば斜め後ろには殺人鬼の血を引いた香里ちゃんがいるのだから、授業に集中できる訳がないのだけれど。
さて、ぼくの今抱える最大の問題。
この事実を、天野美汐であり日中涼である彼女に伝えるか否か。
香里ちゃんとは出会って間もない、まだ友人とも言えない関係だ。そしてもう一人の栞ちゃんとは、まだたった一度の邂逅しか果たしていない全くの赤の他人と言ってもいいだろう。この報告を行うにあたって、ぼくが何も気に病む必要はない。何も気にする必要はない。
敢えて言うならば、香里ちゃんは名雪ちゃんの親友であるが故に、この報告に伴って香里ちゃんが何かしらの被害をこうむる可能性があるというだけだ。(最悪は、親友の逝去という惨事にもなりえない)しかし恐らくは些細な被害で終わるだろうから、それについても大した問題はない。つまるところ、何一つ問題はない訳だ。
しかし、ぼくは悩んでいる。
彼女に報告すべきか否かを。
それがつい先日に味わった敗北感に対する抵抗なのか、はたまた圧倒的に優れた人間である彼女に対しての優位性を持ちたいゆえなのか、もしくは単純に『選ばない』を選びたいぼくの曖昧気質ゆえなのか。
選ばない、を、選びたい。
何という矛盾逆説か。
「おい、いのすけ」
つんつん、と思索に耽っていたぼくの背中に、シャーペンの芯らしい尖った感触。潤がぼくの背中をシャーペンでつついたのだろう。自己嫌悪に陥りそうだった状況に丁度良かったため、ぼくは彼の呼びかけに応じた。
「何?」
「窓の外、見てみろよ」
窓の外。そんなもの雪に覆われた中庭以外、何も見えるはずがないのだけれど。雪もそろそろ見飽きたし。
目線を変えるだけという、大した労力ではない。ぼくはさりげなく窓の外を見た。
雪の中庭。中央に庭園風のオブジェが置いてある、こんな寒空の下でなければ昼休みにでも賑わうであろう場所。中央からやや外れた位置に。
ストールを羽織った、私服の少女が立っていた。
「あの娘、一限目からずっといるんだよ。おかしいと思わねぇか?」
「……そうだね」
それしか返せなかった。
その行動が何に起因するものなのか、何にも起因しないものなのか知らないけれど。
ぼくは二限目の途中を、「腹が痛い」でボイコットした。
教室を出て、廊下を歩く。校内図は簡単な図面を自力で作って携帯してあるので、道に迷う心配はない。このために簡易校内図の所で三十分格闘したのは微笑ましい思い出だ。今朝だけど。
階段を降りて、一階へ。保健室(に行くと言って抜け出してきた。保険委員の随伴は断って)をスルーして、中庭へと続く大扉の前へ。夏場は開放されているらしいが、冬場ではそうそう中庭に行く人間もいないため閉め切られている。力任せに扉を開き、室内とはまた違う寒風に震えた。
白一色の中庭。足跡のろくについていない新雪を、踏みしめる。
彼女は、やはりそこにいた。
「……あれ?」
向こうも気づいたようで、軽く首を傾げてぼくを見る。ぼくも内心の恐怖は押し隠し、まるで旧知の友に会うかのように気安く右手を上げた。
「やあ。偶然だね」
「えっと……昨日の人ですよね?」
覚えていてくれたらしい。ぼくと違って対人記憶力の良い人だ。
「今、授業中じゃないんですか? もしかして不良さん?」
「実を言うとそうなんだ。長い授業時間で溜まりに溜まったストレスを、例えば授業のボイコットというかたちで示すのが日課でね。特にこうやって授業時間帯に出歩いては運命の出会いを探すのが唯一の趣味なんだ」
「はあ。そうですか」
納得されてしまった。納得できるほど説得力のある嘘をついた気がしないのだが。
「嘘だけどね。実を言うと、窓からきみの姿を見かけて来てみただけさ」
「だからって、授業中は良くないと思いますよ?」
「学校に行っていないきみに言われたくはないけどね。きみ、見たところ中学生くらいだけど」
む、と彼女が顔をしかめる。
「そんな事言う人嫌いです」
どうやら触れてはいけない部分だったらしい。
「私、この学校の一年なんですよ」
「……この学校が私服登校OKだったというのは初耳だね」
「いえ、今日はお休みしていたんですけど」
えへ、と可愛く舌を出す彼女。
「抜け出てきちゃいました」
そんな可愛い仕草はしないでほしい。ちくしょう、可愛いじゃないか。
「お姉ちゃんに、会いに来たんです」
「……病気なら、下手に出歩くのは良くないと思うんだけどね。仮病ならまだしも」
「仮病なんかじゃないですよ。私、結構長い間、学校をお休みしているんです」
仮病じゃなくて、元気そうで、長期の休み。
さて、本当に病気なのか。それとも本当は健康すぎるのか。
「そんなにひどい病気なら、尚更外出はしない方がいいと思うよ。ぼくの個人的な見解ではなく、一般論として」
「……いえ、そんなにひどい病気なんかじゃないんですよ」
彼女が微笑む。
「風邪です」
ものすっげえ意外な病気名だった。
「……もう一回言って」
「風邪です」
聞き間違いではないようだ。
「ワンモアプリーズ」
「なんで英語なんですか」
普通に突っ込まれた。ちくしょう。
「もしかして、信用してません?」
「……というより、信用して欲しければもう少しマシな病名を言った方がいいと思うけどね」
流行性感冒程度で長期休みなんて、他に例などあるまい。
「大丈夫ですよ」
何故か、そう断言する。
断言の理由。
本当は風邪なんてひいていないから大丈夫。
本当は病気なんかじゃないから大丈夫。
本当は既に手遅れだから大丈夫。
今更何をしようと変わらないから大丈夫。
さて。何が正解なのだろうか。
「私、美坂栞っていいます」
知ってる。とは当然言わない。
「ぼくは」
自己紹介をしようとして。
あれ。相沢だったっけ。金沢だったっけ。沢田だったっけ。福沢だったっけ。小沢だったっけ。
えーと……思い出せない。確か、あ行だったような。
「井沢?」
「……いえ、美坂ですけど?」
「ああ、そうそう。ごめん。相沢祐一だよ」
「……もしかして、自分の名前忘れてたんですか?」
栞ちゃんが、ジト目でぼくを見る。疑惑の眼差し。ぼくはそれに対して喜べるほどマゾではない。
「たまにね、色々と忘れてしまうんだよ。自分の名前だけならまだしも、昨日会ったばかりの少女のことを一切合財忘れていたり、たまに自分の利き手すら忘れてしまう。比較的どうでもいい事についてはよく覚えているんだけれど、比較的どうでもいい事についてはよく忘れるんだ」
「矛盾してますよ」
「世の中、比較的どうでもいい事しか転がっていないからね」
まあ、そのどうでも良さに優劣があるんだけどさ。
確かにその通りの
「相沢祐一さん……ですか。祐一さん、って呼んだのでいいですか?」
「できれば、相沢とも祐一とも呼ばれたくないんだ。きみが呼ぶとすれば……そうだね」
十六歳の女子高生に呼ばれるあだ名。
姫ちゃんの『師匠』、萌太くんの『いー兄』、崩子ちゃんの『戯言遣いのお兄ちゃん』……どれも微妙だ。
かといって『俺の敵』なんて呼ばれたくないし、『いーちゃん』なんて呼ばせたくないし。
「ご主人さ……げほげほ」
さすがに、それは倫理的にまずい。
「何か言いましたか?」
「……いや、何でもないよ。普通に先輩とでも呼んでくれればいいよ。ぼくはここの二年生だからね」
「祐一先輩、ですか?」
「固有名詞は必要ないよ。それでも識別を求めるのなら、『いー先輩』とで呼んでくれ」
「なんだか韓流スターみたいですね」
……。
確かに言われてみればそれっぽいな。
「それじゃ、私はこれで帰りますね」
「……お姉さんに会っていかなくてもいいのかい?」
もともと、それが目的だった筈なのだが。
「いえ……いいです。今日は、いー先輩にも会えましたから」
感動すら覚える台詞ではあるが、ともすれば『良い先輩』とでも聞き間違えそうな通称に少しへこむ。
「あ……それから」
きびすを変えそうとして、栞ちゃんが再びぼくを見る。
「昨日言ってた、『ぜろさき』っていう言葉なんですけど」
どくん――今まで激しく高鳴りを抑えていた心臓が、まるで跳ね上がるかのような衝撃を覚えた。
「昔、お父さんからそんな言葉を聞いたことあります。確か……お母さんのことで」
お母さん。零崎夜織。『
「よく覚えてないんですけどね」
ごめんなさい、とぼくに頭を下げる。
ぼくは何一つ答えない。
「それじゃ……これで」
一礼をして、栞ちゃんが背を向ける。
やっと分かった。
何故、彼女を彼女に引き渡さなかったのか。
どうして、彼女を相手にわざわざここへ来たのか。
救われなかった彼女にあまりにも似すぎた彼女に。
曲弦師としての矯正を受けた強制的な
あの、《
重ねてしまっていたから。
物語が――動き出す。
まるで噛み合う相手もいない孤独な歯車のように