狭い世界の中にも苦痛や絶望がある。
広い世界なら更なる苦痛や絶望があるだろう。
だったら井の中の蛙くらいで、丁度いい。
6
香里ちゃんは既に臨戦態勢に入っていた。
先程までとは全く、異質の空気。ぼくを殺すつもりで掛かってくる、そんな覚悟を決めた雰囲気。
だが――相変わらず、怖くない。
こうやって武器を構えられて、殺気をぶつけられて、それでも尚、怖くない。
それは香里ちゃんが殺人鬼――零崎でないことの何よりの証左でもあった。まったく、完全に命を狙われているのに呑気なものだ、ぼくって奴は。
「……構えないのかしら? それならそれで、別にあたしは構わないけどね」
「悪いけど、ぼくは格闘技とか武術とか、そういった野蛮なことに手を染めたことはないんだ。右の頬をぶたれたら左の頬を差し出すくらいの博愛者だからね」
「だったら右の胸を貫いてから左の胸を貫いてあげるわ」
かなり致命的だ。
やれやれ――戯言の出番は、どうやらここまでらしい。ここからは、学園バトル漫画における主人公登場までの被害者役でもすることとしよう。
もっとも、その主人公とやらが来る可能性は天文学的なのだが。
しかし――と、ぼくは香里ちゃんを見る。
右腕に備えられた『
だが安心なのは、ドリルではないということ。むしろ杭に近い。回転機構が存在しているようには思えないし、それにもし回転したとしても溝の一つもないただの杭では、破壊力なんてさして変わりないだろう。
もっとも――回転しようがしまいが、胸を貫かれたら致命的であることに何の変わりもないのだけれど。
ダウンジャケットの内ポケットへ、手を伸ばす。
できるなら、使いたくはないのだが。
「いくわよ」
「きみは……零崎じゃないね」
はは、と小声で呟いて笑ってみせた。香里ちゃんは聞こえなかったようで、深く腰を落とし、ぼくを見据えている。
そんな、相手に了承を得るような戦い方を、零崎はしない。
零崎にとって、『零崎を始める』ことこそが戦いの――一方的な殺戮の合図なのだから。
『零崎を始める』瞬間に、彼らは相手を殺すべく動いている。
「はあああっ!!」
と――そんな益体もない思考は、気合を入れるような香里ちゃんの声に阻まれた。
香里ちゃんの足が、地を蹴る。そして右腕に備えられた『膨張泡壊(バブルガム・クライシス)』を後ろ手に、形としては右ストレートを打ち込むような態勢でぼくへと迫ってきた。違いは、そのリーチが若干長いことと、その先端が尖りすぎていることか。
ぼくは香里ちゃんを見据え、迎撃の姿勢をとる。
迫る『
逃げた。
真横に。回避と共に、距離をとる。勢いの乗った『
稼いだアドバンテージが一秒の何分の一かは分からないが、ひとまず可能な限り、距離をとる。一瞬では踏み込めない程度の距離へ。そこまで行けば、なんとかなる……はずだ。
バトル漫画の主人公にはあるまじき行動でも、してみせようか。
「……驚いたわ。意外と反応がいいのね」
「殺されかけるのは、これが初めてじゃないものでね」
一年間で何回、殺されかけたか分からない。総合ダメージ量で言えば、多分数回は死んでいる気がする。
「それに――零崎相手というのも、初めてじゃない」
「あなた、どんな生活を送ってきたのよ」
「戯言だらけの偽物だらけの嘘だらけの生活さ。命の危険に晒されないように、異常に物音の響く骨董アパートを住居に選ぶ程度にはスリリングな、ね」
自嘲して、微笑んでみせる。まったく――あのアパートには、何度命を救われたか分からない。
おそらく哀川さん以上に、零崎人識以上に、ぼくの命を救ってくれているのだから。
「まあいいわ。次で殺してあげる」
「残念だけれど、次はないよ」
稼いだ距離は、十メートルといったところか。測量技術なんて持ってないから、目算で適当なことを言うしかないのだけれど。
それでも、世界一のスプリンターでさえ一秒弱はかかる距離だ。そう考えると短いが気にするまい。
「次は、ぼくのターンだ」
と、呟いてぼくは、内ポケットからそれを出した。
黒光りするフォルム。無機質でありながらにして冷たい殺意を放つ、ヒトという生物の戦い方を、二段階程度は進化させた文明の兵器。
銃――斜道卿壱郎研究所で手に入れた、ジェリコ941がぼくの手に握られている。
既に9mmパラベラム弾は装填済み。勿論ながら、用意してくれた相手は小唄さんだ。ぼくのような極めて平凡な一般市民に、銃の弾丸など手に入るはずがない。
だから、あらゆる状況を想定して、用意してもらったのだ。
「……高校生が持つような物じゃないわね」
「きみの右腕にある物も、おいそれと女子高生が持つ物じゃないと思うよ」
銃と、杭。
現代的なヴァンパイア・ハンターと、ヴァン・ヘルシングのような戦いだ。法儀式済みの銀の弾丸ならば、尚更いいのだけれど。もっとも、相手にするのは吸血鬼でなく殺人鬼であるのだが。
「きみのスプリント能力がどれほどかは知らないけど、ぼくの胸を貫くまで何秒かかるかな。ぼくの行動は、引き金を引くだけでいいからね」
「……当たらなければ、何ということもないわ」
「当てる自信もなくて、こんな物を出していると思うかな?」
本当言うと、当てる自信なんて皆無なんだけどさ。縁日の射的でさえ景品を一つも取れそうにないぼくだ。実際やったことはない。テキ屋にお金をつぎ込むだけ無駄だってことは知っている。
「動かないでほしい。少しでも不穏な素振りを見せたら撃つ。ぼくはきみを殺したいわけじゃない。ただ、きみ達の裏にいる者が誰なのか知りたいだけだ」
「……あたしだって、知らないわよ」
「だから和平交渉といこうじゃないか。今夜はぼくを見逃してくれ。そうすれば、ぼくの相棒は新聞社にも警察にも駆け込まない。ぼくもきみを殺さずに済む。香里ちゃんも、自首をする必要はなくなる。八方に良い案だと思うんだけどね」
香里ちゃんは答えない。だが、少しだけ考える素振りを見せた。
それもそうだ。接近戦なら彼女の方に分があるだろうが、現在は距離がある。ぼくを貫くまでの最短距離を、命懸けで駆けるほどの度胸はあるまい。
その上での、和平交渉だ。
これが決裂するとなれば、ぼくは殺されてしまう以外に選択肢がなくなる。
だが――待て。何かを、何かを見落としている気がする。
ひどい不安が、ぼくの胸中で渦巻く。これで完璧であるはずなのに。何の異論も挟まないほどの、今日ぼくが生きて帰るための策だというのに。
どうして、こんなにも不安があるのだ。
どくん――どくん――心臓が跳ねるように踊る。一体、ぼくは何を見落としている。一体、ぼくは何を不安に思っている。
ぼくは一体――何を恐れている。
恐怖なんて欠片も感じない香里ちゃんから。恐怖なんて欠片も持ち合わせていない殺人鬼もどきから。怖くない。彼女は、怖くない。
ぼくが怖いのは――右腕にあるそれ。
『
その先端が、ひどく怖い。ぼくは先端恐怖症であるわけではない。零崎夜織の使っていた、何度も人を殺してきた、その冷たい殺意が、怖い。
――
零崎夜織を称した、日中涼の言葉。
――彼女の殺した相手のほとんどは、胸に風穴が空いている状態で発見されたと聞く。
それは、あくまでも『後日談』に過ぎない。戦っている途中のことは、何一つ言っていない。
――分かりやすく説明すればゲッター2のドリルパンチだ
ゲッターロボという漫画について、ぼくは寡聞にして知らない。
だが――全国的に有名な、鉄の城を例に挙げれば。
あのロボットで、最も有名な技は何だっただろう。
そんなもの――答えは一つしかない。
「『
香里ちゃんが小さく呟くのが、聞こえた。
「『――
ロボットの腕代わりになっているドリルなのだ。
ぼくの腕を、銀色の杭が捉える。
世界最速のスプリンターでも一秒弱はかかる距離。
人間以外の存在ならば、それ以下の時間でも問題はない。
「くっ――!!」
気付いたときには、もう遅かった。
右腕をかすめる、銀の杭。それは当然のように、ぼくの切り札であったジェリコを無情にも叩き落とした。
「少しだけ、その和平交渉に乗る気にはなったわ」
まるで引導を与えるかのように、ゆっくりと近付いてくる香里ちゃん。その右腕には、先程ぼくの腕をかすめた銀の杭が、再び装着されている。
『
これは、ぼくの負けだ。
零崎の武器を、舐めていた。
「でも……駄目ね。栞のことを知っているあなたを、ここから逃がすわけにはいかない」
「……誰にも言わない、って言っても?」
「そんな口約束、いつだって反故にできるわ。知っているかしら? 日本という国において、書類上の契約が交わされていない約束は全て無効なのよ」
「そのあたりは、ぼくを信頼してもらおうか」
「信頼? ああ、そんな言葉もあったわね。ごめんなさい、あたしの辞書には載っていないのよ」
「だったらその辞書、不良品だね。返品した方がいいと思うよ」
ゆっくりと近付く香里ちゃん。遠く離れたジェリコ。間違いなく、ぼくは死ぬ。
これ以上ない、死の危険がそこにあった。何度か訪れたことはあったけれど、これはいつになく絶望的だ。
先立つ不孝をお許しください――なんて許しを乞うつもりは、ないけれど。
「言い残す言葉があれば、聞いてあげるわ」
「そうだね、冥土の土産が欲しいかな。本当にきみは、事件が隠蔽されていることを知らなかったのかい?」
「ええ、本当よ。知っていたら、こんなにも怖がらなかったわ」
うふふ、と香里ちゃんが微笑む。
「じゃあ冥土の土産をもう一つ。きみは今まで殺された人、誰一人として殺していないね?」
ぴくり、と香里ちゃんの眉が動いた。
「殺したのは全て栞ちゃんで、きみは誰一人として殺していない。それは何故かな」
「……適当なことを言わないで。あたしが全部殺したのよ」
「いいや、きみは人を殺したことがないんだろう? せいぜいきみは、栞ちゃんの手伝いくらいしかしていないと予想するよ」
「うるさいわね……その口、塞ぐわ」
香里ちゃんが足払いを放って、ぼくに馬乗りの態勢になる。そして勿論、『
「ほら、きみは人を殺したことがない」
「――っ! 何を……」
「だからそんなにも、躊躇う。だからこんな風に、勝機を逃すんだ」
くく、と悪役的に、嗤ってみせた。
「ぼくの勝ちだ」
そう言った次の瞬間に、二つの足が香里ちゃんへと襲いかかった。
あまりにも不意を討ったためか、思い切り香里ちゃんの体が吹き飛ぶ。やれやれ。お馬さんごっこもこれでおしまいか。
そして、この戯言な殺人鬼も、これで終わりだ。
「戯言遣いのお兄様。お久しぶりです」
「戯言遣いのお兄様。お久しぶりです」
ぼくの命を救い、香里ちゃんを吹き飛ばした、二人の少女。
僧伽利で包んだ体は、まだ少女と言ってもいい肢体。まるで鏡に映っているかのように瓜二つで、全く同じ声音で全く同じ口調で彼女らは言った。
「戯言遣いのお兄様が下僕、澪標高海」
「戯言遣いのお兄様が下僕、澪標深空」
鏡のように対照的に、香里ちゃんに向けて構えて。
「戯言遣いのお兄様を危ぶめる者を、排除します」
「戯言遣いのお兄様を危ぶめる者を、排除します」
澪標姉妹は、地を蹴った。