この物語はフィクションです
人生にも、そんな注釈があればいいのにね。
1
暑い寒いという感覚は、えてして個人の体感温度に左右される極めて曖昧なものだ。ある一定の温度になった瞬間にそう感じるという、器用で便利な機能を人間は持ち合わせていない。全く同じ環境下で全く同じ感覚を得るのは、えてしてぼくとあの人間失格のように根幹から同一なものでなければ不可能だろう。
しかしある者は凍えるように寒く、ある者はけだるように暑いという極端な例は存在しまい。たとえその線が如何に曖昧といえ、そこにはある程度の基準となる数値が存在するはずだ。もしそのような状況に直面したときは、考えるより先にまず病院へ行くことを薦めた方が良い。
ある程度の感覚的な基準下において、寒いという感覚についてぼくは常人より強い自信がある。ぼくの住処である京都が日本列島上で南に位置するといえ、冬はそれなりに寒い。その中で暖房機器を一切なくして生きるぼくは、少なくとも文明の利器に頼ってばかりの現代人よりも寒さに強い傾向にあるといえよう。(それが四畳一間の骨董アパートのあまりの狭さに起因することだということは、敢えてここでは伏せたい)
だから少なくとも、今は寒いのだ。そうに違いないのだ。
「……戯言だけどね」
自嘲的に呟いた言葉は、煙草の煙のような白い息となって吐き出された。
まず状況を鑑みる。時刻は現在午後三時。そしてこの戯言遣いが雪に当たり続けて二時間を突破したという素晴らしい数値。
次に原因を調べる。待ち合わせ時刻は一時だったはずだ。否、ぼくのように即時忘却型アメーバ脳みそを相手にして『はず』なんで言葉は存在しない。多分、一時だったと思う。赤い請負人から受け取った紙にもそうあったし、つい先日玖渚に修理してもらったデジタル時計もそう示している。一日ずれという間抜けな結果も考えてみたが、まさか比較対象に使った新聞が間違っていたということもあるまい。
最後に、解決策を見つける。待ち合わせの場所を変えるわけにはいかない。しかし待ち続けるにはあまりにも寒いし長い。時間感覚というのは人によって異なるものだ。アインシュタインも言っていた。可愛い女の子と話す十分とストーブの上に手を置いた十分では天と地ほどの違いがある。
冗長に戯言を並べていると――
「雪、積もってるよ?」
戯言は高く澄んだ声音にかき消され、それと共に、この長い長い物語の開幕を伝えた。
「代理……ですか?」
ぼくが赤い請負人《死色の真紅》哀川潤さんにそう尋ねたのは、今から三日前のことだった。
「ああ。代理人つっても権利を代理行使する、とかそういうやつじゃねー。代理というより代用、代役、まあ、結論から言や他人になりすませってことだ」
そうシニカルに微笑んだのは、頭のてっぺんから爪先まで問答無用に赤い人、とにかく赤が基調どころか赤以外の色を極端に嫌っているような格好の美女。
ぼくが何度も命を救われている恩人だ。(ただし、その救い方があまりに中途半端なのは否めない)
「つまり、ぼくに誰かのふりをして過ごせというんですか?」
「そういうこった。いーたんなら楽勝だろ」
勝手に決め付けないでほしい。
いつもそうだが、この人はぼくを常に過大評価する。
「でも……さっきの話じゃあ、その親戚の人がいるんですよね? ぼくがどれだけ言いつくろったところで、血の繋がりは作れませんよ」
「大丈夫だよ、相手は七年間も会ってねぇんだ。七年前に会っただけの奴が目の前に現れて、『別人だ!』ってデケエ声で言える奴がいるんなら見せてみなよ。しかも依頼人自体がその叔母だ。一緒に住んでる従姉妹にさえ気づかれなきゃあ問題ねえよ」
「変わった依頼ですね……」
哀川さんの話を要約すると、つまり、その甥っ子のふりをして従姉妹に接するのが今回の仕事らしい。わざわざそんな事をする理由など、甚だ見当もつかなかった。
「依頼人の女なんだが、かなりの娘煩悩でね。娘が喜ぶことなら何でもしてやるだろうし、娘が望むなら人だって殺すだろうよ。んで、その娘ってのが従兄弟の来訪を待ち望んでいるわけだが、その相手ってのがつい数日前に死んじまったんだ」
「……だから、代わりにイトコのふりをする相手が必要なわけですか?」
成程。合点がいった。
「三ヶ月くらいいてくれれば、あとは海外留学だの何だの理由をつけて、いーたんは自由の身になる。まあ、その間は大学にも通えなくなるけど、それだけの報酬は支払うよ」
「参考までに、おいくらですか?」
「即金で三百万」
とても、ただのバイトでは稼げない金額だった。
「……今度は何の裏事情があるんですか?」
「何もねえよ。少しはあたしを信用しろ。こいつは本当にただの成功報酬さ。言ってみれば、三ヶ月間二十四時間労働みたいなもんだからな。自給で計算すれば1388円だ。ちょっとワリのいいバイト程度だろ」
確かに、言われてみれば納得する金額だ。だがどうしても素直に信用できず、恐らく中学生の時以来久しぶりに筆算をしてしまった。(勿論、合っていたのは言うまでもない)
「頼むよいーたん。今回に限っては、仕事で何度か世話になってる奴だから断れねーんだ。だめならもうちょい、あたしが上乗せしてやるからさ」
「参考までに、どのくらいですか?」
「あたしの拳だ」
「上乗せは結構です。お受けしましょう」
即答してやった。だからいーたんは好きだよ、などと哀川さんがほざいていた。
「んじゃあ、詳しい内容の説明するよ。向かう先は、富山県富山市婦中町って片田舎だ。三日後の午後1時に、千里駅前に迎えが来るようになってる。んで、いーたんがなりすます相手はこいつだ」
そう言って哀川さんは、ぼくに一枚の紙を手渡した。姓名、生年月日から特徴や癖、長所短所に成績に至るまでが列挙されている。こういうものは最近公布された法律に引っかからないのだろうか。もっとも、哀川さんなら法律の隙間を鼻歌混じりに進んでいきそうではあるが。
そしてもう一つ、その左上にクリップで留められている古ぼけた写真。
長い三つ編みの少女の横に、目つきの悪いひねくれた子供が写っていた。
「それが、七年前の相沢祐一だ」
富山県という土地は、日本海側に位置するあまり有名でない県の一つだろう。北すぎるわけでも南すぎるわけでもないこの県は、南に比べれば雪が降るし北に比べればさして降らない。そんな中途半端で曖昧な県だ。
特急サンダーバードに揺られて一時間半。溜息を一つ。
ぼくは哀川さんから手渡された紙を、何度も何度も読み返す。
相沢祐一。
東京都内に住んでいた高校生で、両親は海外へ赴任。それと共に一人暮らしを続けていたが、つい一ヶ月ほど前に、叔母の家へ居候をすることに決めたらしい。そしてそれを叔母に連絡し、荷物を準備し、いざ出発というところで。
信号無視のダンプカーに轢かれて即死。
今回の依頼は、この死んだはずの青年になりすますこと。従兄弟のふりをして依頼人の娘に会い、さも相沢祐一本人のように振舞わなければならない。例えば思い出話に花を咲かせたり、娘さんとやらに親しく接したり。
もっとも、七年前から会っていない間柄では、特に演じる必要もないだろう。歳月というのは、人の記憶などすぐに曖昧にさせる。
問題は、このプロフィールにある『性格』の項目だ。
朗らかで心優しい人気者。行動力があり、決めたことは何が何でもやり遂げる。冗談を言うのが好きで、いつも周りでは笑顔が絶えない。リーダーシップのある行動派。
何もかも、この受動的で曖昧気質な戯言遣いとは真逆だ。
紙を折りたたんで、鞄の中へしまう。これからのことを考えると、この紙は破り捨てたほうがいいのかもしれない。しかし、このアメーバにも劣る即時忘却型脳みそに若干の不安を覚えるのも真実だ。まさか迎えの人が鞄を漁りはしないだろうと勝手な推測を立て、ぼくは自分を納得させた。
こうやって電車に乗るのは、恐らく三ヶ月ぶりくらいだと思う。
今はもういない《人喰い》に会うために、福岡へと向かったあの日。方向的にも真逆だし、交通費も自費だった。それを考えると、ここまでの交通費を負担してもらった恩は有難い。
富山は遠い。ぼくは背もたれに深く体を沈めて、思索をやめた。
「ねえ、どうしたの? 大丈夫?」
「……え? ああ、うん。そうだね」
軽い回想シーンに耽っていたぼくを、女の子の声が呼び戻す。
多少慌てていたためか、この戯言遣いともあろう者が素直に返事をしてしまった。
「ごめんね、遅れて。まだ二時くらいかと思ってたよ」
「時計は常に持っておくといいよ。懐中時計じゃなく腕時計をね。目覚まし時計を持ち歩くのも、ネタとしては悪くないけど」
二時の待ち合わせだったのか。てっきり一時だと勘違いしていたらしい。これほどまでに柔らかすぎる脳みそで、ぼくの将来が心配だ。
「ひとつ、聞いていい?」
「その質問の時点で既に一回だとカウントするのは戯言なんだろうね」
女の子は軽く首を傾げて、上目遣いでぼくを見た。
「寒くない?」
「寒いよ。うっかり凍死してしまいそうな程度にはね」
「大事だよ」
むー、と女の子がもう一度首を傾げた。
「わたしの名前、まだ覚えてる?」
「勿論だよ、名雪ちゃん」
この名前を二時間、何度も反復したのだ。さすがのぼくでも忘れるはずがない。
「良かった。わたしも覚えてるよ。祐一」
「悪いけど、相沢とも祐一とも呼んでほしくないんだ。できればニックネームで呼んでほしい」
というより、呼ばれても気づかない気がするからだけど。
「ぼくのニックネームは全部で18個ある。いーちゃん、いっくん、いっきー、いーたん、いの字、いーいー、いー兄、いのすけ。珍しいところで
「呼びにくいよ」
「とにかく、ぼくのことはそう呼んでほしい。相沢とか祐一とかだと返事しないからね」
うーん、と名雪ちゃんは顎に手をやって考える。
「じゃあ、いっくんって呼ぶことにするね」
「有難いね。知り合いのハイテンション娘がぼくのことをそう呼んでいたよ」
その娘はもう死んでしまったけどね――とは、当然言わない。
「それじゃあ、案内してくれないかな。残念ながらぼくは七年前にここにいたらしいんだけれど、素敵にまるっきり何もかも忘却しちゃってるんだ」
立ち上がり、体についた雪を払い落とす。それだけの動作で、手は凍えるように冷たくなっていた。
「うん、行こう」
名雪ちゃんが笑顔でそう答えると共に、ぼくたちは駅から離れた。
名雪ちゃんの住む水瀬家は存外遠いらしく、駅を出る前に払ったはずの雪が肩に積もっても、まだ到着していなかった。
「……本当に寒いね。凍死しそうだ」
「今日は寒い方だからね」
ここまでの寒さでまだ『寒い方』だという毎日なら、ぼくは京都に帰りたい。
「祐……えっと、いっくんは東京にいたんだよね?」
「そうらしいね」
ぼくも書類上で見ただけだ。もっとも、この場合は素直に「そうだね」と答えておくべきだったのだろう。ただし、素直という言葉はぼくと対極の位置にある。
「東京はどんな所だった?」
「……どんな所、って言われてもね」
行ったことなんてないのだから、説明を求められても説明のしようがない。
まあ、見たところ名雪ちゃんは、それほど難しい娘ではなさそうだ。代わりに京都の説明をしたところで、気づきはしまい。
「ぼくの住んでいた所は、そんなに都会でもなかったからね。人通りもそんなに多くなかったし、店も少なかったよ」
「へー」
「せいぜいお寺巡りか、舞妓さん見物くらいでしか観光客もいなかったし」
「……?」
「ああ、あと街自体が特殊な構造をしていたんだ。碁盤目状っていってね。ほぼ均等に街並が作られているんだよ」
「……ねえ、なんかそれって京都みたいだよ?」
ばればれだった。
「東京都だからね」
「でも東京ってそんなんじゃ……」
「あまり気にしないほうがいいよ。ぼくは嘘吐きだからね」
徹頭徹尾、戯言だ。
こんなにも寒いのに。こんなにも凍えているのに。この唇は自動的に戯言を紡ぐ。
それは情念か。はたまた悪癖か。若しくは悲哀か。
名雪ちゃんは――髪の色も、口調も、無垢さも、何もかもがあの青色サヴァンによく似ているから――。