人生は登山とよく似ている。
そこに苦労や絶望があり、また達成感や希望があり。
そして最後には何も残らない。
3
寝不足の頭は、急激に睡眠を欲していた。
午前中を終え、相変わらず美坂チームで昼食を摂り、午後最初の授業中。深夜の三時に起こされて、そして何故かお茶漬けをぼくも呼ばれた時から日付は一切変わっていない。老教師の喋る念仏のように抑揚のない話と、窓際の席という午後の日差しが暖かい環境は眠気を促進するには十分すぎる環境だった。さらにそれに加えて、極度の寝不足という追加要素まであるのだから。
いつも通り名雪ちゃんと潤は既に夢の国へと旅立っており、珍しいことに香里ちゃんまでもが眠っている。それだけの破壊力を秘めた老教師の言葉は、最早筆舌に尽くしがたいほどにぼくの眠気を誘っていた。
仕方なく行うことは、老教師の喋る既に習った授業内容の確認などでは断じてなく、考え事だ。思考の渦に入ることで、なんとか眠気を遮ってみようではないか。
考えるのは、謎の少女について。
結局昨日聞き出すことができたのは、謎の少女が記憶喪失だがぼくに何かしらの恨みを抱いている、ということだけだ。記憶喪失の上に身元を証明するものを何一つ持っていないというのはどういうわけだ。せめてヒントらしいものでも転がっていればいいものを。人生そうは都合良くいかないらしい。
さて。
そもそも恨みがある、ということからおかしいのだ。記憶はないが恨みはある。何より、これまで一切関わることもなかったぼくに対して恨みを持っているのだ。
自己弁護をするわけではないが、ぼくはこの町に来てから謎の少女に、何もしていない。いや、顔面は二度ほど殴ったが、それは正当防衛を主張しよう。つまり、ぼくは何もしていない。しかし彼女は恨みを持っている。
仮説その一。単にぼくが忘れているだけで謎の少女に××××(自主規制)。
……ないな。ぼくは別に、あの子に何らかの興味を抱いているわけではない。例え道ですれ違ったところで、振り向きもしないような相手だ。そんな相手に対してわざわざ××××(自主規制)な行為などに及ぶはずもない。それに、そんな行為に至るほどぼくは欲求不満ではない。結論として、ありえないということになるわけだ。
仮説その二。ぼくのせいで死んだ被害者の血縁。
仮に巫女子ちゃんで考えてみよう。謎の少女は巫女子ちゃんの従姉妹(仮)であり、親戚付き合いがあった。そんな巫女子ちゃんが死んで、その理由を探ると妙な戯言遣いに行きついた。そんな相手を道端で見かけ、恨みを晴らすために攻撃に出た。一見もっともらしい内容に見えるものの、それは謎の少女がぼくの顔を知っていなければ不可能である。自分で言うのも何だが、ぼくの顔はそこまで個性的ではない。確実に本人であるという確証を持ってぼくに接することができるのは、写真を見る程度では不可能だ。つまりこれも、ありえない。
仮説その三。ぼくを誰かを間違えている。
これが今のところ、一番濃厚だ。哀川さんに相沢祐一の代理を頼まれたほどに、ぼくの顔には個性というものがない。誰にも似ていて誰にも似ていない戯言遣いを、誰かと間違えて接することもあるだろう。つまり謎の少女が恨みを抱いているのは別の誰かであり、ぼくは単なる被害者である、ということ。
仮説その三を主軸にして考えるとしよう。
いくらぼくの顔に個性がないからといって、恨みを持っている相手をそう見間違えることはないだろう。つまり謎の少女がぼくに攻撃してきたのは、恨みを抱いてから随分経てのことだと思われる。そんな中に起こる記憶の劣化が、目標を見間違える程度に混同したのだ。
そして謎の少女が狙っているのは、ぼくと同じ程度の年代で、同じ性別であるということ。そして、この町を歩いていても不思議ではない相手だということだ。
さらに謎の少女は記憶を失っている。彼女の言を信じるならば、だが。
記憶を失いながらにして、しかし恨みは抱いている。これは恨みが、余程深いということになるだろう。相手の顔を間違えるほどに記憶は劣化しながら、しかし間違いなく持っている恨み。それは――人殺しくらいではないのだろうか。
ぼくに似た誰かが、人を殺した。その相手は謎の少女の縁者で、謎の少女はそのために深い恨みを抱いている。そしてそれは歪みねじ曲がり、ぼくへと凶刃を振るわせた。
ぼくと、似ていて、人殺し。
人間失格が、頭を過った。
「まず名前からだと思うんだ」
水瀬家へ帰り、鞄を部屋へ置いた後すぐに、ぼくは謎の少女の部屋(仮)へ赴いてそう言った。
何故か謎の少女はせんべいを齧りながら、寝転がって漫画を読んでいる。何様だお前。
「いひなひなひほ」
「まずせんべいを飲み込んでから言葉を発そうか」
謎の少女はもぐもぐと口腔内でせんべいを咀嚼し、嚥下し、それから再度、ぼくを睨みつける。
「いきなり何よぅ」
「円滑な人間関係というのは自己紹介から始まると思うんだ。だからこそ、まずきみの名前を聞いておこうと思ってね。いつまでもきみだって、謎の少女と呼ばれたくはないだろう」
「そんなこと言われても名前なんて覚えてないわよぅ」
ちっ、やはりまだ、思い出せてはいないか。
自分の名前も思い出せないとは、余程重度らしい。だが謎の少女は、それに対しても大した絶望は覚えていないようだ。ぼくは記憶喪失になったことはないが……いや、若年性健忘症であることは否定しないが、記憶喪失というレベルではないはずだ。つまりぼくは記憶喪失になったことはない。
だからこそ、記憶喪失になった人間の気持ちは分からない。
己の名前も己の素性も何一つ分からないのに、こんなに落ち着いていられるものなのだろうか。
「じゃあぼくが名前をつけてあげよう」
「あんたって本当に分からない奴ね。なんであんたなんかに名前をつけられなきゃいけないのよぅ」
「殺村凶子というのはどうだろう」
「人の話を聞かないわねアンタ」
殺と凶という字を備えた、ぼく的には自信作の名前だ。
零崎とか匂宮よりも、もっと禍々しさが増していると思う。もっとも名前だけなのだが。
さすがにこの子は、呼吸をするように人を殺したりはしないだろうし。
「それってどんな字を書くのよぅ」
「殺す村に凶つ子」
「そんな変な名前嫌。もっと可愛いのがいい」
「じゃあ葵井巫女子でどうだ」
可愛いぞ。本人は。
「変な名前」
謎の少女はその瞬間、全世界五十億人の巫女子ちゃんファンを敵に回した。
まぁ、そんな巫女子ちゃんの名前をあげようとしたぼくも悪いのだけれど。
別にいいじゃないか。著作権があるわけでもあるまいし。
「じゃあ自分で考えてくれよ。その可愛い名前とやらを」
「……そんなのいきなり言われたって出てこないわよぅ」
謎の少女はそう言って、ぽりぽりと頭を掻く。
「それより円滑な人間関係は自己紹介とか言ってたけど、アンタ自己紹介してないじゃないのよ」
「相沢祐一、相当の相に沢渡の沢、片仮名のネの横に右をつけて漢数字の一。これでどうだろう?」
ふ、ぼくだって馬鹿ではない。
もう相沢祐一という名前を忘れるわけがないだろう。
「……さわ、たり?」
「上白沢の沢と言った方が分かりやすかったかな?」
「さわたり……さわたり……沢渡……」
謎の少女は呟きながら、漫画を置く。そして、考えるように顎に手をやって。
「まこ、と」
「うん、ぼくも新撰組は嫌いじゃないよ。何故一番隊組長なのかが疑問だけれどね」
隊なのに組長ってのに疑問を抱いた人間は、日本中で数知れないだろう。
だが謎の少女は、そんなぼくの些細な疑問など耳に入らないかのように、考え込んでいる。一体何が琴線に触れたのだろう。
「思い出したわぁっ!」
「新撰組が隊長ではなく組長である理由?」
「真琴の名前は沢渡真琴なのよぅ!」
「刃渡誠か。いいね、新撰組風で」
と、人の名前を勝手に改変するのはよしておくとして。
沢渡真琴。ぼくの思わぬ漢字紹介が、そのまま名字だったということか。恐ろしい偶然だ。何かの策略すら感じる。
「じゃあ名前を思い出したついでに、ぼくを狙う理由も思い出してくれないかな?」
「そんなの分かるわけないわよぅ」
都合のいい脳味噌をされていることで。
さて、これで謎の少女の名前は分かった。あとは死神が気分で落とす黒いノートを拾えば全てが丸く収まるのだが。
さすがにそれほど、運命という奴は都合良く回ってくれないため諦めることとする。
「で、だ。ひとまずお互いの名前が分かったところで、これからぼく達は円滑な人間関係を築けると思うんだ」
「あんただけは絶対に許さないんだから」
「いきなり挫けそうなことを言わないでもらえると助かるんだけどね。で、だ。きみに質問をしよう。二択だから簡単に答えてくれればそれでいいよ、真琴ちゃん」
はぁ? とでも言いたい風に眉根を寄せて、真琴ちゃんがぼくを見る。
ぼくは人差し指を立てた右手を突きだすことで、その答えとした。
「一つ。警察に行く。内容は記憶喪失少女の保護。なに、日本の警察機構は世界でもトップレベルに優秀なんだ。きみの両親はすぐに見つかることだろう」
次に、中指を立てて。
「二つ。ここから出て好きなところへ行き、ぼくと関わらない。これからきみが何をするかは分からないけれど、ぼくに関わらないと言うならこれまでのことも水に流そう」
「どっちにしろ出ていけって言ってるんじゃないのよぅ」
その通り。というか、それ以外に選択肢があるとでも思っているのか。
そもそもぼくは居候である。そんな居候のぼくが拾ってきた相手が、この真琴ちゃんなのだ。これ以上家主に迷惑をかけるわけにはいかないし、早々の退去をお勧めしたい。
「そうだ。いつまでも秋子さんの好意に甘えていてはいけない。だからこそ、早く出ていくんだ。本来きみは、通報されてもおかしくない立場だということを考えねばならないんだよ。日中はこの家は留守になる。その間、知らない人間を置いて好き勝手に振る舞わせていいと思っているのかい?」
「別にいいと思いますけど」
「そういう考えが甘いと言っているんだ。正直ぼくは、秋子さんが出かけるときにはきみの両手に手錠をかけて拘束すべきだと思っているんだからな。それを言い出さないのはあくまでも秋子さんがきみを黙認しているからであって秋子さんっ!?」
気付けば、真横に秋子さんがいた。気配を殺すのはやめてほしい。
「夕飯ができましたから、呼びに来たんですよ。それより、名前がやっと分かったんですね。これからは真琴、と呼ばせてもらいますね」
「あぅ……う、うん」
「いや、そこで何故和むんですかお二人」
なんか、真琴ちゃんを追い出そうとしてるぼくってかなり悪役じゃないか? これ。
というか、一般的な思考の人間なら追い出すよな? ぼくの考えがおかしいのか?
「真琴は先に降りて、お皿の準備をしていてくれるかしら? 私はちょっと、お話がありますから」
「あぅ……わ、分かったわよぅ」
さすがの真琴ちゃんも、家主である秋子さんには逆らえないらしい。
ぼくにはあれだけ、強硬な態度だったというのに。やはり人間、経済力か。
真琴ちゃんが、部屋から出ていく。それを見届けて。
秋子さんの、笑顔が消えた。
「戯言遣いさん。あの子について、とんでもない事が分かったんですよ」
秋子さん――これは、『千里総眼』の眼差し。全てを見通すような、ちぃくんにさえ分からないことを簡単に調べるような、そんな情報屋がいた。
「……とんでもないこと?」
「あの子には、戸籍がありません」
なんてこった。
記憶だけでなく、戸籍がない。つまりそれは、この日本という国に存在していない証。
それは一体――何者だ。
「……外国人、ですか?」
「いいえ。あの子は、存在していない人間です。どのようなデータベースを探っても、死者のデータを探っても、あの子はどこにもいませんでした」
それは。その意味は。その意図は。
「つまり――人間では、ありません」
狐さんの言葉が、脳裏を過る。
――狐の少女を、お前は救うことなどできんのだ。
沢渡真琴が、次の標的――。