逃げるが勝ちと一概には言えない。
逃げた先に何があるかで決まる。
9
日中涼は百花屋からひとまず自宅に戻り、そのまま直接水瀬家へやって来た。
持ってきたのは、一つのトランクケース。普段持ち歩いていないそれを持ってきたということは、それが《脳髄侵入》とやらに必要なものだからだろう。日中涼を訝しげに秋子さんが見やるものの、特に何も言わずに成り行きを見守ってくれる。
トランクケースから取り出したのは、見たこともないような基盤が剥き出しのコンピュータと、それに繋がる五つの電極だった。電極をそれぞれ真琴ちゃんの頭に取り付け、コンピュータを起動させる。その画面は、ぼくには見えない。というより、コンピュータ自体にそこまでの大きさがないため、モニターらしき部分もかなり小さいのだ。日中涼さえ内容を把握すればいい話なので、他人が見ることを考慮していないのだろう。
誰の自作なのかは、想像に容易いが考えないことにしておく。
「……それが、《脳髄侵入《ブレインハック》》に必要な機械なのかな?」
なんとなく、そう日中涼に聞いてみる。日中涼は特に表情を変えるでもなく、ただ肩をすくめて答えた。
「ああ、そうだよ。僕は超能力者じゃない。他人の脳髄にハッキングを仕掛けるわけだから、繋がっていなければ何の意味もないだろう?」
「……てっきり、特に何の道具も必要なく出来るものだと思っていたよ」
日中涼の言い方は、まるで自分の能力みたいな風だったから。
つまり日中涼は、本当に理論的に他人の脳髄を見ることができるのだろう。逆に言えば、理論と技術さえ身につければ、誰にでもできるということか。
もっとも、日中涼がそれを外部に漏らすとは思えないのだけれど。
「悪いが、仕事を他人に見せるのはこれが初めてだ。何分、このスキルは狙っている輩も多くてね。この端末もいくつ盗まれたか知れない。もっとも、理論も何も分かっていない者が使ったところで何の意味もないがね」
確かに、他人の脳髄を覗き見ることが出来るだけでも、手に入れる価値はある。
だが理論とやらを理解するには、日中涼が生きてきた時間と同じだけの時間が必要なのではなかろうか。日中涼という存在が時間を超越し、何代にも別れて生きているからこそ使える技術なのだろう。
もっとも、だからといって日中涼という存在を認めるわけにはいかないのだけれど。
「よし、準備は出来た。最終確認だ戯言遣い。僕はこれから、この少女の脳髄へ侵入する。その結果、何があったとしても僕を恨むな」
何があったとしても。
それは一言で答えるには、あまりにも重すぎる質問。
「……それは、例えばどういう結果があり得るのかな」
「先程も言っただろう。まずこの少女の記憶は、ほとんどが消し飛ぶ。忘れるわけではない。最初から無かったことになるんだ。そしてその結果、幼児退行をするだろう。肉体と精神の年齢が噛み合わない、奇妙な生物の出来上がりだ。そして、幼児退行をすることで全く違った性格になることもあり得る。そして君のことは何も記憶に残っていないから、今度も好かれるとは限らない。とにかく、あらゆる未来を想定するといい。その結果、最悪の結果を思い浮かべてイエスと言ってくれればそれでいいさ。何ならノーと言ってくれてもいい。その場合、僕はこのまま帰るだけさ」
最悪の結果を、思い浮かべる。
最悪に最悪なのは、真琴ちゃんが死ぬことだ。日中涼に尽力して貰ったにも関わらず、真琴ちゃんがヒトモドキとして寿命を迎えてしまうことだ。
それだけは絶対に、避けねばならない。
だが、そうでなく――真琴ちゃんが生き残る未来を考えてみよう。
その場合の最悪は、秋子さん、名雪ちゃん、ぼく、三人揃って嫌われることである。それにより、真琴ちゃんは水瀬家にいることはできなくなるだろう。また別パターンとして、成長した結果が秋子さん、名雪ちゃんにとって好ましくない性格になることだ。それも同様に、水瀬家には居辛くなってしまうに違いない。
だが、そんな真琴ちゃんの生存を真に願っているのは秋子さんなのだ。
秋子さんは、どんな真琴ちゃんでも捨てやしない。
だったらどんな未来でさえ、救われるに決まっているじゃないか。
どのくらい、考えていたのだろう。
日中涼は、じっとぼくを見つめる。秋子さんも、ぼくを見る。そしてぼくは。
「……頼む」
そう、乾いた唇から一言だけを紡いだ。
その答えに、日中涼は頷く。そして端末に触れようとして――ちらりと、ぼくを見た。
「戯言遣い。一つだけ、尋ねておきたい質問があるのだがね」
「……何かな」
こうしている一秒間でさえ、真琴ちゃんの脈拍はどんどん刻まれていく。それだけ、寿命は短くなるのだ。
できることなら一分一秒でも早くやってほしいものだったが、下手なことを言って日中涼の機嫌を損ねることもあるまい。そこまで考えて、質問を待つ。
「何故、君はこの少女――沢渡真琴の生存を願うのかな?」
それは、いつか聞かれると思っていた質問だった。
そう、誰が聞いても疑問に思うだろう。ぼくは真琴ちゃんのことが好きというわけではないし、真琴ちゃんもぼくのことを嫌っている。現在こそ少しばかり仲良くなりはしたけれど、それでもまだまだ深い溝がある。
それでも、ぼくが尚、真琴ちゃんの生存を願う理由。
「……何故、そんなことを?」
「いいや、疑問に思っただけさ。君は他人に対して、何の感情も持ち合わせていない。他人を簡単に切り捨てることのできる人間さ。例えるなら、自分に好意を抱いている女の子を一言で奈落へ落とすことのできる残虐な人間だ。そんな君が、この少女に関しては妙に救いたがっている。それが奇妙でならないね」
零崎の姉妹は救わなかったくせに。そんな言葉が続くような気がしたけれど。
ぼくは、答えない。
自分でも分かっている。この行動は異常だ。
ぼくのことを少しでも知っている人間がいるなら、そう言うだろう。こんな風に人を救いたいだなんて、ぼくらしくない、と。
だがそれでも――唇は、戯言を紡いだ。
「美少女は世界の宝だよ。この世界のあらゆる有象無象は美少女の前には儚く消え去るものさ。この世界は三種類に分類できる。美少女と、ぼくと、それ以外だ」
「それは君の友人――いや、隣人の友人、鈴無音々さんの言葉だったかな」
ククッ、と日中涼が笑う。
「別に答えたくないのなら、答えなくても構わないさ。ただ、理由を邪推するくらいは許してほしいものだね。そこの奥さんが少女を救いたい気持ちは分かるよ。この少女は既に、貴方にとっては家族なのだろう。だからこそ、家族の死を簡単には許せない。そんな蜂蜜をたっぷりかけたホットケーキよりも甘ったるい理由だ」
「……否定はしませんよ」
日中涼の言葉に、目を閉じた秋子さんが答える。
「真琴は、私にとっては家族です。この家に、新しく増えた、新しい家族です。この子には戸籍がない。親もいない。しかも人間ではない。だからこそ――私の、二人目の子供になる予定です」
それは、真琴ちゃんを養子にとる、ということ。
だからこそ、あれほどまでに執拗に、真琴ちゃんを救う方法を聞き出していたのか。
そして、危ない橋でしかないのに、こんな風に日中涼に任せることを静観しているのも。
全ては、真琴ちゃんに捧ぐ愛情ゆえに。
ああ、なんて戯言な理由なんだろう。反吐が出るほどに。
「では戯言遣い、君は? 君に愛情なんて心は存在しない。友情なんて概念も存在しない。家族なんて虚構は夢に見ることすらない。だったら君は、何を理由にこの少女を救いたいのだろう。選ばないを選びたい君であるというのに、ね」
ぼくは、答えた。
「もう、分かってるんだろ?」
「ああ、分かっているとも。君の考えが。君の策略が。君の、反吐が出そうなほどに素敵な概念が、ね」
日中涼が、端末へと顔を向ける。
それで、お喋りの時間は終わりだった。あとはただ、彼女に任せるしかない。
カタカタと、端末の鍵盤を叩く音。それを聞きながら、ただ、見守る。
ひどく、長い。
何をやっているのかが分からないから、進捗状況が把握できない。どれほどの時間がかかるのか、予想を立てることもできない。
日中涼を見守ろうと妄想に身を委ねようと、経つ時間は変わらないしやっていることも変わらない。だから少しだけ、脳髄を回転させることにした。
考えるのは、沢渡真琴について。
ツインテール。微笑ましいくらいの馬鹿。ぼくに恨みを持っている。悪戯好き。あぅー。肉まん。夥しい量の漫画。二階の客間が彼女の部屋。
初めて出会った時、ぼくは完全に無視した。そして扉に指を挟む刑を執行した。
二度目に出会った時、ぼくは完全に無視した。そして右ストレートを顔面に放った。
連れ帰った後、夜中に見つけた。ぼくはコンニャクを首筋に当ててやった。
夜中の騒動で、ぼくへの恨みが発覚した。ぼくは右ストレートを顔面に放った。
歩み寄って名前を聞いてみた。どちらにせよ関係は変わりなかった。
夜中に何度も悪戯を受けた。ぼくは全て無視し尽くした。
唐突に浴室での邂逅を果たした。ぼくは舐めまわすように見て、うっかり殺しかけた。
そして――真琴ちゃんが、人間でないことが、分かった。
ヒトモドキ。
六本足の狐。
それが――その事実が――ぼくに、真琴ちゃんを救うことを決意させた。
ぼくの、反吐が出るくらいに素敵な概念。
それは、正義の味方になること。
人類最悪の遊び人、狐面の男の敵となること。
――お前に、狐の少女は救えない。
あいつにそう言われたから、ぼくは真琴ちゃんを救うと決意したのだ。
そこに、真琴ちゃんに対する愛情なんて一欠片もない。
ただ、六本足の狐であるからこそ。
狐さんの敵になるためだけに。
最悪の敵に。正義の味方に。そうなるためだけに。
どのくらいの時間が経ったのか分からない。それほどまでに時間の概念もなく、ぼく達はただ待っていた。日中涼は延々と鍵盤を叩き続けている。それだけ、《脳髄侵入《ブレインハック》》は時間がかかるのだろう。
まともに処理能力のある脳髄を相手にすれば。
「……ふぅ」
鍵盤を叩く音が、止まった。
日中涼の、息をつく声が聞こえる。そしてモニターを凝視しながら、口許に手をやる。その表情が、何を考えているのかは知れない。
少しだけ悩んだのち、日中涼はトランクケースの中からUSBメモリを取り出し、端末のコネクタへと入れる。その中に、何のデータが入っているのかは分からないけれど。
その辺り、聞いたところでどうせぼくには理解できないのだろう。
再び、日中涼が鍵盤を叩く。タッチタイピングという奴だろうか。明らかにそれは、鍵盤の上で指が踊ると表現してもいいほどの速度だった。
……ん?
何かを、見落としている気がする。
ぼくは重大な、最大の間違いを犯している気がする。
言葉にならない不安が、心中で暗雲と化して覆う。それが何なのか分からない。ただ、不安。『膨張泡壊』が飛ぶことを、予想できたはずなのにできなかった、そんな感覚。
これは一体、何だ。
「……終わったよ」
鍵盤の音が止むと共に、日中涼はそう呟いた。
薄笑いを浮かべているのは、上手くいったからだろう。きっと、全て、上手くいったはずなんだ。これで全て、終わったはずなんだ。
なのになんだ、この、言い知れぬ不安は。
心の奥底が、ヘドロで覆われた川面のようにドス黒く濁っていた。その奥底に、何かの不安がある。淀んだ川面を覗けば、それが見えるのかもしれないけれど。
「真琴……!」
秋子さんが真琴ちゃんに駆け寄り、頭の電極を外す。それと同時に、真琴ちゃんの目が開き、秋子さんを見つめていた。
「おねえさん、だれ?」
舌足らずな口調が、そう呟く。それはまるで、人形のように可愛く。
「私は、あなたのお母さんよ」
「おかあ、さん?」
真琴ちゃんは無垢な口調でそう呟いて。そして、秋子さんの胸へと顔を埋めた。
幸せな家族像だ。この二人は、いい家族になれるだろう。どう見ても、幸せいっぱいの家族風景にしか見えない。
家族風景にしか、見えないんだ。必死で、そう、自分に言い聞かせる。
幸せいっぱいの笑顔で、真琴ちゃんを抱き締める秋子さんを見て。
サディスティックな笑みを浮かべて、ぼくに向けて舌を出す真琴ちゃんを見て。