この世は生き難く、死に難い。
10
「真琴、今日からあなたは水瀬真琴よ。私はお母さんの秋子。この子はあなたのお姉さん、名雪よ」
「よろしくね、真琴」
記憶の何もかもを失い、ゼロからのスタートとなった真琴ちゃんへ、そんな新しい家族である二人が優しく言葉をかける。
「あぅ……あきこ、と、なゆき?」
「私のことはお母さんと呼んでくれると嬉しいわ」
「あぅ。おかあさん」
「わたしのこともお姉ちゃんって呼んでね」
「あぅ。おねえちゃん」
見ることすら苦痛を覚える茶番に、吐き気すら催す。
隣に佇む日中涼もまた、その微笑ましい家族風景に嘲笑を浮かべていた。秋子さんも、名雪ちゃんも、真琴ちゃんが生き残ったのだと考えている。完全に、ヒトモドキから人間になったのだと。いや――名雪ちゃんに至っては、真琴ちゃんが人間でなかった経緯すら知るまい。
名雪ちゃんにとっては、ただの居候でしかなかった少女が、自分の妹になったというだけだ。
「さて、僕は帰るとするかな。戯言遣い、これで仕事は終わりだろう? 僕は君の言う通り、彼女を生かした。ヒトモドキから人間へと書き換えた。報酬は後ほど請求することとしよう。僕も少々疲れた、帰って眠ることとするよ」
時刻は、七時半を回ったところだった。眠るには少々早いと思えるが、それだけ日中涼は集中していたのだろう。
「……夜道を女の子一人で帰らせるのは危険だし、送っていくよ」
「それは有難いね。僕はこんなスキルを持ち合わせてはいるが、戦闘能力面ではからっきしなんだ。その辺りのチンピラを相手にすれば、三人くらいなら勝てる気はするがそれ以上は厳しいだろうね」
ぼくより数段強いなこいつ。
その辺りのチンピラを相手にすれば、ぼくは命すら危ういというのに。
「秋子さん、彼女を……送っていきます」
「あ、はい。夕食は……少し遅くなりましたし、外で済ませてもらえますか?」
「はい、分かりました」
そう短く答えて、出口へと日中涼を手で促し、外へ出る。
ダウンジャケットを羽織り、玄関へ。
無言で、お互いに歩きながら。
最初に言葉を発したのは、ぼくだった。
「……真琴ちゃんは、死んだんだね」
それが、ぼくの出した結論だった。
あのサディスティックな微笑。そしてぼくに向けて舌を出す行為。全てが、日中涼の罠だと気付いた時には遅すぎた。
そもそも、気付くべきだったのだ。
零崎一賊にすら成る女。それが、ただの好意や善意で脳髄の書き換えなど行うはずがないのだ。最初から最後まで罠でしかなかったのだ。
「何を唐突に言っているのか何一つ理解できないね。ヒトモドキの少女は人間になったよ。電気信号を司る部位の脈拍数設定を少々書き換えたに過ぎないがね。もっとも、現状で何億回脈打っているかは知らないから、残る寿命はどれほどあるのやら、ね」
くく、と日中涼は笑う。
サディスティックに。嘲笑うように。蔑むように。
それは先程見たばかりの真琴ちゃんの笑みと、とてもよく似た――同一の笑み。
「それに、僕は伝えたはずだよ。あらゆる未来を想定し、最悪の結果を思い浮かべろ。その結果、何があったとしても僕を恨むな、とね。違ったかな?」
「ああ、確かに聞いたさ」
「だったら今回のことについて、僕は何一つ責められる筋合いはない。言質は既に取っているのだからね。ヒトモドキが人間になったことには変わりないんだ。つまりヒトモドキを人間にする、という話である時点で、僕の中ではヒトモドキを僕にすることが決まっていた」
最初から、真琴ちゃんを生き延びさせるつもりなんてなかったのだ。
最初から、日中涼は日中涼を作るつもりで、ぼくの話に乗ったのだ。
それを見抜けなかったぼくにこそ、責任はある。
「零崎の件では、まんまと僕を出し抜いてくれた君だ。今回は僕の方が君に仕返しをさせてもらったよ。君が救いたかった者は、僕によって掬われた。そんな言葉遊びが出るほどに、今僕は非常にいい気分だよ」
「ああ、そりゃあ良かったね」
やる気なく、そう返す。
今回に限っては、完全に出し抜かれた。ぼくの完全な敗北と言ってもいいだろう。零崎の姉妹を殺させなかった前回がぼくの辛勝で、真琴ちゃんを殺した今回が日中涼の完勝。これは恐らく、合計得点では負けているだろう。勝者に何の栄誉も何の意義もない戦いは、現在のところぼくの負けということだ。
一勝一敗。さて、最終的にはどちらに転ぶことか。
この町に居続ける以上、日中涼との関係は決して終わらないのだから。
「何だい? 罵ってくれて構わないよ。蔑んでくれて構わないよ。その胸に溢れる想いを、僕にぶつけるといい。鼻歌交じりにそれを全て受け流してみせよう。例え十日だけでも、仮初の家族だった相手を殺されて、どんな気分だい?」
「
ぼくは短く、そう答えた。
本当に、何も感じないのだから仕方ない。夕食の献立について取引を行うほどに仲良くなったぼくと真琴ちゃんだったけれど、それだけだ。
ぼくが死を悲しみ、死を悼み、死を嘆くほどの価値は、真琴ちゃんにはない。
「敢えて言うなら、敗北感かな。きみに完璧に負けた、少々の悔しさがあるだけさ。真琴ちゃん? ああ、いいんじゃないのかな。例え人格は完全に変わったとしても、真琴ちゃん自身は生きているんだから」
「ほう……君らしくない答えだね。僕を人殺しと罵ると思ったのだが」
「真琴ちゃんは――今生きている真琴ちゃんは、本来なら死んでいた存在なんだ。その命を救ってもらったんだから、自分の人格くらいは差し出してしかるべきなんじゃないかな。その程度の報酬で命が救われるんだから、安いものだろう」
本当なら死んでいたはずの命だったのだから。
別に、その後誰に使われたところで何も思うまい。
例えるなら、粗大ゴミ置き場にある家具。それを誰が持って帰ったところで、罵る者はいるまい。放っておけば捨てられる物なのだから。
真琴ちゃんの肉体にある価値なんて、その程度だ。
「ふむ。つまり君は、ヒトモドキは僕になることで救われた――そんな戯言で幕を引くつもりだということかな?」
「そうだよ。元々ぼくは、真琴ちゃんの生死になんて何の興味もない。ただ、彼女が救われるか救われないかだけが重要だったんだ。ある人類最悪の予言が決して当たらないように。それ以外にぼくの動いた理由はない」
ふぅ、と息をつく。これ以上続けたところで、これが戯言以外の帰結を迎えることはあるまい。
真琴ちゃんは、日中涼になった。
本来なら死ぬところを、日中涼になることで救われた。
それが、完璧なハッピーエンドでいいじゃないか。
現実には――真琴ちゃんの心が潰えて、秋子さんが偽物の彼女に愛を注ぎ、名雪ちゃんが全てに気付かない、そんな戯言でも。
誰も彼もが不幸になるハッピーエンドに過ぎないのだから。
「……戯言だけどさ」
久々にそんな言葉を呟いてみたが、仄暗い虚しさだけが心を過った。
隣を歩く日中涼も、何も返してこない。傍目から見れば、ぼく達はどういう関係に見えるのだろう。口を開かなければ、日中涼は天野美汐だ。ただの女子高生に過ぎない。
だから、更にこの人が加われば、ぼく達の関係は混沌の呈を示すに違いあるまい。
ダウンジャケットを着た若い男と。
制服の上にコートを羽織った赤毛の女子高生と。
着流しに狐の面をつけた謎の男。
こんな関係、誰にも理解はされまい。
「よう――俺の敵」
変わらぬ挨拶で、人類最悪はそこに立っていた。
いや、少しだけ、多分出てくるだろうな、という予想はあった。
戯言が一つ終わるたびに、この男は出てくる。
それが恐らく、狐さんにとっての――世界の終わりへの道なのだろう。
どんな方法で世界を終わらせるのか。そしてどんな方法で世界を始めさせるのか。ぼくには何一つ理解できないのだけれど。
それでも、ぼくはこの人類最悪の、敵となったのだから。
敵として、振る舞う。それだけだ。
「やあ――ぼくの敵」
「……ふむ。戯言遣い、なかなか酔狂な知り合いを連れているものだね。こんな寒いのに着流しとは気合が入っていることだ。野球部の練習中には水を飲むな、なんて言い出すほどの根性論者でなければ、こんな恰好はとてもできるまい。しかもアクセサリーが狐の面とはまた斬新だ。こんな酔狂な格好をしている者など、僕の知り合いでも八人ほどしかいないよ」
お前の知り合いの内訳を知りたい。
だが狐さんは何ということもなく、軽く天を仰いで日中涼を見やる。
「ふむ……次回に期待、という言葉で締めるとしよう」
「八人も同じような奴がいたのがそんなにショックなのかよあんた」
個性で戦うつもりかよ。それ以上個性的になってしまうと、道で出会っても無視してしまう。近付きたくない、から近寄りたくない、にレベルアップしてしまう。
ぼくの敵が変態だというのは、些かいただけない。
「俺の敵。聞こえるか。世界の終わりが近付く音が」
「少々、耳は悪いみたいだ。もしくは耳にも時に休日を与えるべきだと思うんだ。三百六十五日二十四時間働いているわけだからね」
「そうか。では俺の耳が悪いわけではなく本当に聞こえないのだな」
「お前にも聞こえないのかよ」
たまに思うのだが、狐さんって天然のボケなんだろうか。
天然ボケというと、代表的なのは空気を読まないことだが……ああ、そういえばこの人空気なにそれ美味しいのとか言いそうなくらい空気読めない人だった。
そうか天然ボケだったのか。
人類最悪の天然ボケ。
キャッチコピーが一気に可愛くなってしまった。
「その様子だと、無事に狐の少女は救えたようだな……それとも掬われたのか。ふん。どちらにせよ言葉遊びだ。つまらん」
「ああ、救えたよ。真琴ちゃんは生きている。お前の予想は外れだ。ぼくは、真琴ちゃんを救えた」
「救うことそのものが重要なわけではない。その少女が救われたと言うなら、お前が何をしようとしまいと結局は救われたのだろう。そんな結果に意味などない。結果は全ての経緯に過ぎないのだからな。最終的な結果は世界の終わり、それだけだ」
相変わらず、訳の分からない理論を展開してくれる。
これ以上、戯言に付き合う気にはなれなかった。
もうこれ以上、狐さんと話したところで何もない。もう、誰を救う必要もあるまい。
ぼくは、これ以上選びたくないんだ。
いつだって、選ばない。選ばないを、選ぶ。
「……さて、行こうか。悪いけど狐さん。今は大事なデート中なんだよ。そこまで重大な案件でないなら、ぼくは先に行かせてもらう」
「『そこまで重要な案件でないなら』。ふん。そもそも俺の敵、お前と俺の間に重要な案件など存在しない。お前は俺の敵であり、俺はお前の敵であるのだからな。敵同士が邂逅を果たしたところで、そこに意味など生じはしない」
「だったらこの邂逅に、どんな意味があるのかな」
「意味などないのだ、俺の敵。全ての事象に意味などない。例え今宵に何を知ろうと、お前に剣の少女は救えない」
「ヒントありがとう」
やっぱりあなたはヒント役だったわけだね。
「それで、俺の敵。そっちの女は、どうやらこちら寄りらしいな。自己紹介をしておこうか。俺のことは人類最悪の遊び人と呼んでくれ。もしくは狐面がトレードマークだから狐さんと呼んでもらおうか」
「我らが愛する《死線》ならばじーちゃんとでも名付けられそうな通称だね。もしくはきーちゃんか。もっとも、彼女の思考は一足飛びして別の方向に駆けてゆくだろうから、そんな仮定に大した意味はないか。そういうわけで僕も気安く呼ばせてもらおう。じーちゃん」
「『じーちゃん』。ふん。なんだか一気に老けた気がするな」
否定はしないのかよ。
「ところでそこの女、十三階段に入らないか。今なら一段飛ばしで仲間になる特典付きだ」
「何だい、その十三階段とやらは」
「俺のために存在する俺のための組織だ。今はまだ九段目までしか揃っていないが、十三人まで最終的には揃う予定だ。主な目的は、世界の終わりを見届けること。ただし貴様が加入する場合は、伊達でもいいから眼鏡を掛けてもらうぜ」
そんな、狐さんにとってあまりに都合の良すぎる組織への勧誘。
まともな人間なら、そこに惹かれる奴などいないだろう。
だが。
「いいよ」
あっさりそう、日中涼は頷いた。