全くこの世は侭ならない。
生きることも死ぬことも難しいんだから。
2
どくん――と心臓が脈打つのが分かった。
久瀬君の言葉に動揺するのは内部に留め、表情は平静に返す。彼は、確かに言った。きみは誰だ、と。確かにその前に、ぼくのことを相沢君と、そう呼んでおきながら。
ぼくが相沢祐一でないことを知っている――それは、何故だ。
哀川さんの依頼である以上、情報操作に関して抜け目は間違いなくないはずだ。それなのに、久瀬君は知っている。ぼくが偽物であることを。ぼくが相沢祐一でないことを。
「……ぼくは、相沢祐一、ですが」
なるべく平静に。なるべく冷静に。気取られないように、そう返す。
何故――そんな疑問は心中で渦巻くが、ここでそんな質問を投げかけるわけにはいかない。ぼくは――相沢祐一なのだから。
「もう一度問う。きみは誰だ?」
ぼくの言葉は完全に無視され、返ってくるのはそんな冷たい声音。
久瀬君は銀縁の眼鏡越しに、じっとぼくを睨みつける。それはまるで糾弾するかのように。偽物のくせに、何故この場にいるのだ――と。
「何を仰っているのか、分かりませんね。ぼくは相沢祐一です。三度も人に名乗らせるなんて失礼だとは思いませんか?」
「ならば本当の名前を早く言ってほしいものだがね」
ふぅっ、と久瀬君が溜息をつく。それは呆れか、それとも疲れか。
「相沢祐一が既に死亡していることはこちらでも確認している。僕は生徒会長だ。僕が生徒の代表を務める学校に、不審な人間が転校してこないよう調査をするのは当然だろう? もっとも――こちらへ送付された経歴書、それに各種書類の細部に至るまで全て、君に塗り替えられていたのは驚いたがね」
なるほど、つまり哀川さんは――舐めていたのだ。
ただの生徒が一つの学校へ転校すること。
それに伴う資料の改変、それに書類の偽造、その辺りはきっちりと行っていたのだろう。
ただ、そんな哀川さんの斜め上を調査した人間がいただけの話に過ぎないのだ。
転校前の学校に、その素行を生徒会長が確認しても、何もおかしくはない。
つまりそういった理由で、久瀬君はぼくが偽物であることを知っているのだ。
なんという、戯言。
「君と昼休みに出会ってすぐ、前の学校に連絡をしたよ。もっとも、二週間前にも一度調べていたのだけれどね。相沢祐一はその時点で死亡しており、既に葬儀も出された後だった。だから僕は、相沢祐一の転校そのものがなくなったと考えていたのだがね」
一度調べて、死亡していることが確認されたのだから。
それ以上の介入はしなかった、ということか。
だから久瀬君は、ぼくが転校してきた事実そのものを知らなかったのだ。
「返答は変わらなかった。相沢祐一は亡くなっている。そして同時に、転校の話も白紙に戻っている。その上で再度問わせてもらおうか。きみは誰だ?」
くくっ、と悪役じみた含み笑いが、ぼくの口端から漏れた。
ああ――こんな感覚は、本当に久しぶりだ。
久しぶりに、
高揚感、それとも昂揚感。何でもいい。とにかくそういう、珍しくポジティヴな感情がぼくの心を支配していた。
「……相沢祐一ですよ。今はね」
「つまり偽名であることを認めるのだな。ならば本当の姓名を名乗れ。その上で君自身の素行調査を行ったうえで、我が校への編入を再度検討させてもらうこととしよう」
「いいや、それは聞かない方がいい。
む、と久瀬君は眉根を寄せる。
その表情に浮かんだのは、不安。すぐにかき消したけれど、間違いなく不安が過った。その感情を抱いてもらえれば、やりやすい。
不安という芽は、安心という毒素を得ない限り、永遠に育ち続けるのだから。
「君が何者か知れない以上、編入を認めるわけにはいかない。名乗れないということは、やましいことがあるのだろう。そんな人間が我が校を闊歩し、善良な生徒に迷惑をかけるわけにはいかないのだよ。相沢祐一の生徒情報は、本日を以て抹消する。以上だ」
「そうだね――久瀬君。今、ぼくをここで帰らせていいと思うかい?」
にやり――なるべく悪役らしく微笑みながら、そう問う。勿論、何の裏もない。当然ながら、何の策もない。行き当たりばったりの戯言だ。
だが、不安の芽というものは成長が早い。ぼくの言葉に、久瀬君へ軽い躊躇が過った。
「……どういう意味かな?」
「こちらから質問させてもらうよ。例えばだけれど、とある学校において死亡した一生徒に扮して潜入する、そんな行為にどんな意味があると思うかな? 先程きみが言った通り、前の学校に連絡すればすぐにでも分かる薄氷の方法だ。例えきみでなくとも、相沢祐一の実家に連絡すればすぐに分かるだろうさ。ならば何故、ぼくは相沢祐一としてここにいるのだと思う?」
「……相沢祐一という存在に扮していた方が、都合が良い、ということか」
「その通りさ。きみが相沢祐一という人間についてどこまで調べたのか、ぼくは知らない。だが、辿りついたかな?
無論、全部ハッタリに過ぎない。
久瀬君は頭が随分と回るらしい。頭が回るからこそ、戯言に引っかかる。
馬鹿と天才は紙一重と言うが、ぼくが苦手とするのは本当にその二種類だ。
秀才ほどに、引っかけやすい人間はいない。
「相沢祐一は七年前に、この町にいたのさ。そしてそのまま、この町へ二度と戻らぬまま帰らぬ人となってしまった。それにより、損をする人物がいる――分かるかい?」
久瀬君が、考え込む。考えろ、存分に考えるといい。ぼくは何も考えてないのだけれど。
とにかく今は、煙に巻くことだけを考えるんだ。
結論なんて、戯言の後で構わない。
「……戸籍の変更や書類の改竄が可能な権力を持ち、そして損をする……まさか……いや。七年前……つまり相沢祐一が小学生の時分か。小学生ならば性別の壁も……いや、そうか、彼女の弟か!」
「どうやら辿りついたようだね。頭のいい人間は嫌いじゃないよ」
「だったら――君は、倉田氏の関係者か!」
倉田。誰だろう。少なくとも、ぼくに関わりのある人間ではない。
だが久瀬君がそう思い込むなら、そう思い込ませておくとしよう。
本当に、頭のいい人間は嫌いじゃない。勝手に戯言を作ってくれるのだから。
「そうだ。勿論これは、きみにとっても悪くない話だと思うのだけどね。今、倉田氏に貸しを作っておくのも悪くないだろう?」
「いや……すぐには、信じられないな。きみが倉田氏の関係者であるという明確な証拠を見せてくれないか?」
「そんなものがあるのなら、最初に見せているさ。ないからこそ、こんな風に話をしているわけだろう? そもそも、倉田氏にとってぼくの存在は秘密裏に進められていることさ。戸籍の変更も書類の改竄も、決して表沙汰にしたい話ではない。彼本人に話を持っていったところで、知らぬ存ぜぬで通されるさ」
「……確かに、その通りだな」
「逆に、ぼくが倉田氏に告げてみせようか? 学校の生徒会長が、ぼくの存在に気付いている――とでもね」
今度こそ久瀬君の、鉄面皮は崩れた。
動揺が、ひどく露わに表情へと浮かんでいる。ここまでで、策は八割がた成功といったところか。
あとは如何に煙に巻いて、この場から脱出するか。
「そ、それは、困る。いえ、困ります! やめて、いただけませんか」
倉田氏とやらが何様かはぼくは知らないが、どうやらあまり人間関係のよろしくない人物らしい。ただの権力者でしかないならば、久瀬君はここまで恐れることはないだろう。
つまり、暴力を笠に着ることもできる人間である、ということだ。
倉田。その名前は、覚えておく価値があるかもしれない。
「ならば誓ってくれ。今日、この場での邂逅は全てなかったことだ。きみは相沢祐一という人間を呼び出さなかったし、ぼくは放課後にすぐ帰った。どうだろう? そうすればぼくも、大人しく倉田氏から承った任務をこなすだけさ。決してきみに手出しはさせない。それに――少しばかり、色をつけて話しても構わないよ」
クク、と喉で笑ってみせる。ぼくの言葉に、久瀬君もまた少しだけ笑んだ。
それは権力という蜜に集う、虫のように見苦しい笑み。
権力という笠へと縋る、人間特有の汚さ。
そんなもの、見飽きてはいるけれど。
「わ、分かりました……。いや、無かったこと、か。相沢祐一君、これから、よろしく」
ミッション、オールクリア。
さぁ、ぼくの通称を詐欺師にでも変更してみせようか。
生徒会室を出て、しばらく歩く。もう太陽は西に傾いていた。少しばかり、生徒会室で長話をしすぎたかもしれない。
もう教室に戻ったところで、潤も香里ちゃんも名雪ちゃんもいないだろう。なんとか死亡フラグは回避できたが、どちらにせよ薄氷の状況には変わらない。哀川さんに連絡――いや、秋子さんに報告しておくとするか。相沢祐一の情報操作が少々手抜きだった、とでも言っておけばいいだろう。今日、名雪ちゃんが寝静まった後で。
リノリウムの床を歩く。夕暮れの差し込む廊下は、昼間とは別世界のように感じた。昼間は生徒で賑わう界隈も、こんな時間ともなれば閑散としている。時折聞こえる部活動の声とぼくの足音だけが、この廊下に響いていた。
くい。
さて、まずは現状を整理することとしよう。久瀬君がぼくを相沢祐一でないと知ったのは、二週間前にも遡る。その上で、情報を彼だけが知っているとは思えない。彼以外の生徒会役員も、知っている可能性があるだろう。
だが、と少し思い直してみる。ぼくが生徒会室を訪れたとき、そこには久瀬君以外の姿はなかった。生徒会役員というのは忙しく、ずっと生徒会室に引きこもっている印象があったのだけれど。少なくとも会計あたりは生徒会室にいるべきではないのだろうか。それがいないということは、久瀬君はあまり人望がないのかもしれない。それとも生徒会の全役職を一人でこなすスーパーマンなのだろうか。
くい。
だからこそ、こう推察する。基本的に情報全ての取捨選択は久瀬君にあり、そして相沢祐一の情報は既に死亡している人間だから必要あるまい、と他者に伝えなかった。だからこそ、久瀬君は自分でぼくに接触するまで気付かなかった。うん、自分で考えてそれなりに悪くない結論だと思う。
さて、次にこれからどう動くか、だが。倉田氏とやらがどんな人間かは知らないけれど、少しはお近付きになっておいた方がこれから有利かもしれない。その辺りは、秋子さんか哀川さん、もしくは小唄さんにでも紹介してもらって。あー、でも小唄さんにはしばらく頼らない方が良さそうだ。ただでさえ零崎関連で借りを二つも作ってしまったのだから。
くい。
というか、一体何故ぼくの袖は微妙に引っ張られているのだろう。
限りなく無視をしてみたが、どうやら効果がないらしい。真琴ちゃんのように叫んでくれると助かるのだが、ぼくの袖を引っ張る誰かは終始無言だった。
袖を引っ張られる、というのもされていて気分の良いものではない。
仕方なく、ぼくが振り返ると。
「…………」
ぼくの顔を、至近距離でじっと見つめる女生徒の姿があったとさ。
端正な顔立ちに、鋭い眼差し。それがやや細められているのは、眠いからだろうか。長い黒髪。後ろで括り、残りを前に流した特徴的な髪形。
そこに立っていたのは、今日の昼間に紹介されたばかりの川澄舞だった。
「……何か?」
川澄舞――まぁ、ぼくの方が後輩ではあるが、年齢的にはぼくの方が年上だ。舞ちゃんと呼ぶことにしよう。舞ちゃんは相変わらず無言で、じっとぼくを見つめる。
今日の昼間に紹介をされたとはいっても、それはあくまで遠目で見て、潤により評される言葉を聞いただけに過ぎない。本人との面識はないはずなのだけれど。
何故ぼくは、この人に見つめられているわけなのでしょうか。
「……あの? 川澄先輩?」
「コーヒー」
短く、舞ちゃんはそう呟く。
「砂糖いっぱい。ミルクいっぱい。そこで」
と、変わらぬ声音で続けて、すぐ近くにある自動販売機を指差して。
……つまりあれですか、ぼくに買ってこいと?
いやいやいやいや。何故ぼくが見知らぬ人のパシリをしなきゃならないんだ。そもそもすぐ近くにあるのだから自分で行けるだろう。
しかもお金を出さないということは、ぼくに奢れということだ。世話になっている隣人のみいこさん相手にお茶を御馳走するならばまだしも、見知らぬ先輩を相手にコーヒーを奢る理由などない。そりゃあ見た目は相応に美人だけれど、ぼくは相手が美人だからといって無差別にコーヒーを奢るような女性に優しい人間でもないはずだ。
全く、頼むのならもっと従順そうな男を選べばいいものを。
と考えながら、自動販売機でコーヒーを購入しているぼくがいたりする。
えっと、砂糖いっぱいに、ミルクいっぱい、と。
いや、別に、ぼくも少しばかりコーヒーを飲みたいななんて思っただけですけどね。
深い意味はないよ?
「どうぞ」
ぼくは同じ手順で、砂糖とミルクの量を調節し、ブラックコーヒーを購入して。
砂糖いっぱい、ミルクいっぱいのコーヒーを、舞ちゃんに手渡した。
「…………」
無言でぼくから受け取り、コーヒーをすする舞ちゃん。
少しだけ飲んだのち、カップの淵から口を離して。
「……約束、守ってくれてありがと」
と一言だけ呟いて、去っていった。
さて。
約束って何のことだろう?