ユキグニサイクル~北の大地の戯言遣い~   作:桜三里

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雪の街 <往きの待ち> 3

 普通とは便利な言葉だ。

 逃避も傲慢も叱責も担当してくれる、最高に便利な普通の言葉だ。

     

 

 

 

 

 

 

 

 

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 目を醒ますと、外はまだ薄暗い時間だった。いまいち感覚の戻っていない腕で、枕元の携帯電話を開く。時刻はAM6:00。ろくに寝た気がしない。家の中に他人の存在を感じるだけで、ぼくの寝つきは悪い。

 軽い頭痛がする頭を押さえながら、部屋の扉を開ける。

 今日から学校だ。高校……今まで、ぼくが通ったことのない学校。どんなものなのかは知識上でしか知らないし、どういった内容をするのかも知らない。一応ER3プログラムに在籍し、現在進行形で大学生をしているぼくなら、勉強面なら何とかなるだろう。

 

「おはようございます」

 

 階段を降りたそこに、秋子さんが立っていた。

 

「……おはようございます。早い時間から家事されているんですね」

 

「母一人子一人なので、朝の内に家事を済ませないと昼間、仕事に行けないんですよ」

 

 そう言った秋子さんの手には、洗濯物の入った洗濯籠。一番上に女物の下着を乗せないでほしい。目のやり場に困る。

 

「名雪ちゃんは、まだ寝てるんですか?」

 

 まぁ、こんな時間なら仕方ないだろうけど。

 

「あの子は、こんな時間には起きてきませんよ」

 

「そうですか」

 

 大方予測どおりの答えに、そう返す。ぼくの起きる時間が早すぎただけだろう。もっと早い秋子さんに関しては、さらに早すぎるだけだ。

 

「コーヒーでも淹れましょうか?」

 

 手持ち無沙汰にしていたぼくに、秋子さんがそう問いかける。

 色々と家事に追われている秋子さんに、コーヒーまで淹れてもらうのは少し気が引けた。しかし、ぼくの眠気は明らかにカフェインを訴えている。

 

「じゃあ、お願いします」

 

「はい。じゃあ、キッチンの方にいてください。これを済ませたら行きますから」

 

 秋子さんはそう言うとともに、そそくさと洗濯籠を抱えて去ってゆく。ぼくはとりあえず、指示通りにキッチンで待つこととした。

 特に待つこともなく、すぐに秋子さんがやってくる。

 出されたコーヒーを何も入れずに飲む。ぼくは基本的にブラック派だ。砂糖やクリームは、余程まずいコーヒーを何とか飲めるようにするために入れるものだ。秋子さんのコーヒーは、砂糖やクリームでわざわざ味を変える必要のないものだった。

 

 時刻は六時半。

 秋子さんは特に何を言うでもなく、淡々と家事を繰り返している。勿論ぼくの方から話しかけることもないので、会話が成立するはずもない。居心地の悪い沈黙の中、ぼくのコーヒーを啜る音だけが響く。

 コーヒーを飲み干すまで、さして時間はかからなかった。そして飲み干してしまえば、その後にやることなんて何一つある訳がない。

 

 ぼくは椅子から立ち上がり、「学校の準備してきます」と一言だけ伝えてキッチンを後にした。秋子さんからの返事は、薄い微笑みだけ。確かにこれは、哀川さんの言っていた『二十四時間労働』も頷けるというものだ。心休まる暇などない。

 二階にある殺風景な部屋には、秋子さんの用意してくれたベッドとクローゼット、それに中央に小さなテーブルがある以外には何もない部屋だ。敢えて言うなら隅の方にぼくの持ってきたボストンバッグも転がっていたが、中に入っていた僅かな服は既にクローゼットへしまってある。中身に大した物も入っていない、抜け殻のようなものだ。

 クローゼットからまだ新しい制服を取り出して、嘆息。

 

「……毎度毎度、哀川さんはぼくにコスプレをさせたがるんだよなぁ」

 

 いつぞやの女子高潜入に比べれば、幾倍もマシだ。しかし、明らかに高校生男児だということがよく分かる学生服というものは、19歳男児としてはやはり、着ることに微かな抵抗を覚える。

 恥を忍んで、パジャマ代わりのジャージを脱ぐ。そのまま学生服に袖を通すと、思いのほか袖丈はぴったりだった。相沢祐一本人にスペックはぼくより10センチ以上も高いため、心配していたのだが杞憂に終わったらしい。

 もう一度学生服を脱ぎ、やはり新品のカッターシャツの袋を開ける。これもまた、袖丈も首回りもぴったりだった。ズボンを穿き、上着に袖を通して、見事コスプレ高校生の完成。戯言だ。

 

 秋子さんの用意してくれた革製の学生鞄も取り出し、開く。教科書が用意されるのはもう少し時間がかかるらしい。ボストンバッグに入れていた筆箱と、五冊セットで買った真新しい大学ノートを鞄に詰め込む。新品らしい、独特の革の匂いが鼻をついた。

 デジタル時計を腕にはめて、携帯電話をマナーモードにして胸ポケットへ。特に携帯電話を持っていく必要は感じられないのだが、そこはそれ、あくまでも携帯電話なのだがら携帯しようということだ。そういえば昔誰かにこれを突っ込まれた覚えがあるが、誰だっただろう。

 

 全てをすませて、時刻は六時四十五分。

 このまま階下へ降りても、また秋子さんとの気まずい沈黙が待っているだけだ。仕方なくぼくはベッドに横になり、同じアパートの住人である七々見奈波から借りた春秋左氏伝を広げた。やたら古臭い本ではあるものの、どうせ斜め読みなのだから関係ない。読書は勉強か暇つぶしのどちらかを目的としたものであり、この場合は後者だ。

 内容も全く理解することなく、時間だけが過ぎる。

 その時。

 

「――――っ!!??」

 

 激しい轟音が響いた。この家全体を震わすような。壁全体が振動しているような。激しい音はすぐ横から聞こえる。例えるならジュラシックパークで恐竜が大合唱をしているような。まるで古今東西全ての時計塔が一斉に鳴り響いているかのような。まさしく数多くの目覚まし時計が一斉に寝起きの悪い少女を起こそうとしているかのような。

 ぼくは本を投げ捨てて、ベッドから立ち上がる。そしてそのまま部屋を出ると。

 

「あらあら」

 

 丁度、二階へと上がってきた秋子さんに出くわした。

 

「あ、秋子さん。さっきから、その、凄い音が……」

 

「名雪の目覚ましですから、気にしないでください」

 

 うわあ。一言で簡潔明瞭な説明をされた。

 

「朝ご飯できてますから、先に食べていてください。名雪を起こしますから」

 

 そう言って、『なゆきのへや』という可愛らしいプレートの下げられた部屋へと秋子さんが向かう。正直、ぼくもこの大音量の中で耐えたくなかったため、早めに階下へと降りることにした。

 キッチンのテーブルには、既に朝食が並んでいた。ハムエッグとトーストにサラダという欧米風な朝食だが、秋子さんの手作りなら味には問題あるまい。先に座って食べ始めることにする。この辺り、ぼくの遠慮のなさが伺えるというものだ。

 トーストにつけるジャムが、三本並んでいた。赤いツブツブの入ったジャムは、恐らくはイチゴジャムだろう。その横にある紫色は、ブルーベリーか。そしてその横にあるオレンジ色のジャムは、色通りオレンジだろう。

 何も考えずにオレンジ色のジャムへと手を伸ばす。(これが一番、減りが少なかったからだ)

 二階ではばたばたと激しい音が響いていたが、気にしない。

 オレンジのジャムをトーストに塗り、そのままかぶりつく。酸味のあるオレンジの風味が口一杯に――

 

 広がらなかった。

 

「……?」

 

 それ以前に、甘くない。かといって辛くもない。酸っぱいわけでもない。ひどく微妙な味。首を傾げざるをえない風味は、かなり曖昧だ。原料が何なのか想像もつかない。

 しかし――これはこれで、曖昧気質なぼくには悪くないのかもしれない。どこかで買ってきたのか秋子さんの手作りなのかは分からないけれど、変に甘すぎるジャムに比べれば、ぼくにとっては食べやすいものだと言えるだろう。もともと、ジャムはあまり好きじゃない。甘すぎるから。

 食べ終わってオレンジ色のジャムを元に戻すと、同時に秋子さんと、制服に着替え終わったな由紀ちゃんが降りてきた。

 

「うー……いっくん、おはよう……」

 

「目が線になってるよ」

 

 一応、突っ込んでおく。名雪ちゃんは聞いているのか聞いていないのかいまいち分からない顔で、そのまま椅子に座った。そして、おぼつかない手つきでトーストにイチゴジャムを塗る。

 

「いちごー……えへー……」

 

 ぱくりとかぶりつく姿は、とても可愛い。

 ぼくはハムエッグとサラダを適当に食べながら、ちらりと秋子さんを見た。

 

「……秋子さん? どうかしたんですか?」

 

 笑顔の鉄面皮(と、ぼくが勝手に名付けた)秋子さんが、驚きに目を見開いている。秋子さんのこんな表情を見るのは初めてだ。少なくとも、ぼくの記憶にはない。

 その見開いた目は何を見ているのかというと、つい先程、ぼくがトーストに塗ったオレンジ色のジャムだ。

 

「これ……食べたんですか?」

 

「え……ええ。食べちゃいけなかったんですか?」

 

 貴重なものだったのだろうか。まさか世界三大珍味でできたジャムだったとか。ならそんな貴重なものを食卓に並べるなという意見もあるが。

 

「い、いえ。そんなことありません。どうでしたか? お味の方は」

 

 秋子さんがぼくを見る。その目は、まるで100点のテストを持ってきた小学生のような。彼氏に手料理を振舞った後の少女のような。公開した後に感想を待つSS書きのような。

 

「最初は突飛な味に驚きましたけど、変に甘すぎるより美味しいですね。ぼくは結構好きです」

 

「そうですか!」

 

 秋子さんが極上の笑顔を見せる。対照的に、横の名雪ちゃんは顔面蒼白でぼくを見ていた。

 

「このジャムの原料は何なんですか?」

 

「それは……」

 

「わ、わたし学校行くねっ!」

 

 秋子さんが言う前に、名雪ちゃんが立ち上がる。そしてそのまま、トーストも半分残しハムエッグもサラダも手をつけずにキッチンから外へと出る。

 

「……何があったんですか?」

 

「さあ?」

 

 ふふっ、と秋子さんが笑う。ぼくもとりあえず、残ったハムエッグを口に詰めて立ち上がった。

 

「それじゃ、ぼくも行ってきます」

 

「はい、行ってらっしゃい」

 

 鼻歌混じりにそう言う秋子さんは、とても機嫌が良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キッチンの扉から外へ出ると、壁にもたれかかりながら名雪ちゃんが待っていた。

 ぼくの姿を確認すると共に、無言で玄関の方へ向かう。どうやら機嫌が悪いらしいのだが、その理由などぼくに皆目見当もつかない。女心と秋の空とは、よく言ったものだ。

 名雪ちゃんについて歩き、玄関を抜ける。暖房の効いた室内とは比べ物にならない、雪国の刺すような寒さがぼくを襲った。このまま水瀬家へと戻りたい衝動を抑え、名雪ちゃんの横へと並ぶ。

 

「……寒いね」

 

「今日はまだあったかい方だよ」

 

 会話終了。

 名雪ちゃんは相変わらず、機嫌の悪いままだ。まさか秋子さんと名雪ちゃんは精神的に真逆の存在であり、秋子さんの機嫌が良いと名雪ちゃんの機嫌が悪くなるという不可思議な現象が起こっているのだろうか。もしそうならば、ぼくはどちらを優先すべきなのだろう。

 

「……ねえ、いっくん」

 

「決して秋子さんの方が大人の魅力いっぱいだし家主に対する礼儀とか義理とか浮世のしがらみをを考慮してもやはり優先するべきは秋子さんだななんて一切考えていないよ」

 

「……どうしたの?」

 

 いかん、興奮のあまりプチ春日井さん化。

 

「本当に、あのジャム美味しいって思ったの?」

 

「オレンジ色の?」

 

 名雪ちゃんは顔をしかめて、微かに頷いた。

 

「甘くないし、変に甘すぎるものよりは好きだけどね。初めて食べる味だったから新鮮だよ」

 

「……多分、病院に行った方がいいよ」

 

 なんて失礼な小娘だ。

 京都に帰るとき、秋子さんにお土産に2、3瓶貰って帰ろう。きっと崩子ちゃんやみいこさんなら、ぼくの味覚のまともさを分かってくれるに違いあるまい。

 雪に覆われた通学路を歩く。人生で初めての、高校生活が始まろうとしていた。

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