世界が善良で勤勉で良識あるまともな人間ばかりだったら。
きっと物凄くつまらない。
7
少女が突進してくる。栗色の髪とダッフルコートが印象的な、小学生か中学生かの少女。少女の見た目はさておき少なくとも現状問題であるのは、少女の突進する直線上にぼくが存在していることだ。このまま何もしなければ、少女の突進はまさしくぼくに激突するだろう。この場合の選択肢は二つ。ぼくが避けるか、少女が方向転換をしてぼくを躱すか、だ。
そして少女の方はというと、スピードに乗っているゆえに方向転換はできそうにない。そしてぼくの方はといえば、半溶けとはいえ慣れぬ雪道であるうえに反応も遅れているし、何より先住権を主張したいので避けることはできない。ここで道を開けることは、即ちぼくの敗北を意味する。道を譲る相手は車だけと決めている以上、年端もいかない少女相手に道を開けるなど屈辱の極みだ。
どちらも回避が不可能な以上、採る手段は二つに一つしかない。
即ち、攻撃か、防御か。
反射的に、右腕を突き出す。ぼくの選んだ選択肢は攻撃。突き出した右手を開き、少女にクロスカウンターで掌底を食らわせれば停止するだろう。紳士としてはここで受け止めるべきなのだろうが、残念ながらぼくは英国生まれではない。自分に都合の悪いレディファーストなどするものか。
「う、うぐぅっ!?」
少女もぼくの目的に気づいたのか、驚きの表情を浮かべる。突進している先に掌。それが顔に当たれば、慣性の法則に従って後方にすっ転ぶ。
少女の額に、ぼくの掌が当たる。
「うぐぅっ!」
ぱちーん、といい音をして、少女が後方に転倒。
予測通り。計算通り。予定通り。とても気分が良かった。
「これからは前を見て突進するようにね」
軽く前髪をかき上げて、最後の台詞を終える。きびすを返す余裕。これぞ主人公。決まった。
「うぐぅっ! いきなりひどいよっ!」
そして勿論、復活した少女からの激しい抗議。
「どいてって言ったのに、なんで攻撃するのっ! そんなのひねくれ者だよっ! 人間として間違ってるよっ!」
「人生で一度くらいはカウンターを決めてみたい日もあるよね」
「そんな日ないよっ!」
月並みなツッコミだった。
「う、うぐぅ。そ、そうだ、逃げなきゃ!」
ばっ、と少女が立ち上がり、走り出す。
ぼくは敢えて、少女の背負っている羽の生えたリュックをがっしりと掴んだ。
「事情はよく知らないけれど、走るのは感心しないな。第二第三の犠牲者が出る可能性もある」
「う、うぐぅっ! お、追われてるんだよ……」
「追われてる?」
意外な言葉に、眉根を寄せる。この少女が、誰かに追われて逃げているというのか。
果たしてどのような恨みを買っているのか。はたまた特殊な趣味の変態さんか。
「逃げる、ね」
「そ、そうだよっ! だから離してっ!」
「ぼくは今までの人生、全てから逃げ続けることで生きてきた」
「う、うぐっ?」
「いいだろう。逃がしてあげようじゃないか。ただし、きみの思う逃げ方ではなく、ぼく流の逃げ方だ。安心してくれていい。きみを確実に逃がしてあげよう。ぼくを信用しろ」
言い終えて、少女がやって来た方向に向き直る。その方向から、やはり同じく走ってくる影が見えた。
多少、頭の寂しくなってきた中年の男性。ねじり鉢巻にエプロンの姿からして、どこかの屋台でも経営しているのではないかと思える。男は少女の姿を確認すると共に、目を見開いてスピードを上げた。
「こら待てっ! このクソガキっ!」
この人が、特殊な趣味の変態さんか。
男が少女の前で止まる。ぼくは敢えて、男と少女の間で壁を作るように移動した。
「……何だお前。邪魔するな」
「まぁ、少々お待ち下さい。通りすがりの戯言遣いですが、こんな真昼間から少女を追い掛け回すなんて感心しませんね。よろしければ事情を教えて頂けませんか?」
「……ザレゴトツカイ? なんだそりゃ。まあいい。こいつがうちのたい焼きをかっぱらいやがったんだ!」
びしっ、と男が少女を指差す。成程。単純に、この少女が盗みを働いたということか。
非は確実に少女にある。ならば、やはり戯言で切り抜けるしかあるまい。
「まあまあ、その程度のことで目くじらを立てる必要などないでしょう」
「その程度だと? 立派な犯罪だろうが!」
「いえ、そうでもありませんよ。これは単純に、お互いのメリットの問題です。確かにあなたは自分の商品を無償で提供したことになりますが、これが確実に損失になるかといえばそうでもない。ここで一つ伺いたいのですが、ここでこの少女を見逃すことで、あなたに利益があると仮定します。その場合は見逃していただけますか?」
如何に、言葉巧みに伝えられるか。如何に、論点をずらすか。
肝心なのは例え表向きであっても、男を煙に巻くこと。
「……見逃すことで利益だと? そんなもんあるわけねえだろ。あるんだったら幾らでも見逃してやらあ」
「その言葉に嘘偽りはありませんね。言質はとりました。では、こちらから提供する利益をお話しましょう。まず第一に、この少女がたい焼きを盗んだ理由を話します。この少女は、あなたが作っているたい焼きが食べたかった。しかし、残念なことに持ち合わせが足りなかった。それでも食べたいという欲求に変わりはなく、仕方なしに悪いことだとは理解しながらも盗んでしまった。そうだね? 少女」
「ボ、ボク月宮あゆ……」
「きみの名前については現状関係ない。ではここから導き出される結論として、この少女はあなたの作るたい焼きがとても好きなのです。大好きだといっても過言ではない。そんな最高の顧客なのです。この娘を捕らえたとして、あなたは何をするおつもりですか?」
「……そりゃあ、親に連絡して……」
「その時点で、あなたのイメージは格段に低下する。こうなると大変だ。あなたのイメージが悪化するということは、この少女が吹聴する言葉もまた、あなたのイメージを損なうものとなるでしょう。たい焼きの露店である以上、あなたの客層は子供がメインであるはずだ。子供同士の噂というのは、おばさんに負けず劣らず流れるのが早い。少なくとも数日中には、この少女の通う小学校の生徒が、あなたの店を訪れることはなくなるでしょう」
「うぐぅ……ボク十七歳……」
「少し黙ってろ。さて、ここからが本題です。ここであなたが見逃した場合、その結果として限りない宣伝効果が発生するでしょう。曰く、『あそこのたい焼き屋はとても美味しいし、店の主人も優しい』という噂が流れることとなる。少なくともこれにより、あなたの店の売り上げが増加することは間違いない。ここで少女に、そういった宣伝をするという確約を得ることで、この場は見逃していただけないでしょうか」
商品に対し、労働で返す。金がないから皿洗いをすると同意。
男は少し、悩んだ素振りを見せる。さて。今一瞬だけの利益を得るか。はたまた後々も続くであろう利益を得るか。宣伝効果というのは目に見えない分、過信してしまうのだ。
策は、八割方成功。
「……本当に、ちゃんと宣伝するんだな?」
「う、うんっ! ボ、ボク、友達みんなにちゃんと宣伝するっ!」
少女も必死なようで、間髪入れずにそう言った。
「……分かった、今回だけは見逃してやる」
メリットとデメリットの入れ替え、成功。戯言だけどさ。
少女と二人で移動し、適当なベンチへ。少女の方はさっさと座ってしまったが、ぼくは半ばまで溶けた雪が積もっているベンチになんて座りたくなかった。
「えっと……ありがと?」
「何故疑問文なのかが気になるけれど、別段それは現状関係ないから放置しておくよ」
少女が紙袋を開き、中からたい焼きを取り出す。
無垢にかぶりつく姿は、特殊な趣味をお持ちでない人間でも可愛いと感じるだろう。盗品だけど。
「それじゃ、ぼくはこの辺りで失礼するよ。もう盗みなんてしないようにね」
「う、うん……もう帰っちゃうの?」
「ぼくもそんなに暇な人間じゃないんだ。方向感覚、町内図といった最大の難敵とこれから格闘しなければいけないんだよ」
「うぐぅ。難しいよ」
「それじゃ、バイバイ」
立ち上がり、少女に背を向ける。そのまま立ち去ろうとするも、少女に服を掴まれた。
「ま、待って!」
それ以前に学生服に濡れたミトンの手袋で触るなとか言いたかったのだが、なんとなくイイヒトぶってみたかったので黙っておいた。
「何かな?」
「また、会えるかな……?」
その言葉にどんな意味が込められているのか知らないけれど。
その視線にどんな意図が込められているのか知らないけれど。
ぼくを誰と重ねているのか知らないけれど。
ぼくが誰と重なっているのか知らないけれど。
「縁が《合ったら》ね」
狐面の男を真似て、そう嘯いてみせた。
水瀬家に帰り着いたのは、既に時計の針が六時を回ってからだった。
どうやって帰ったのかと聞かれると、あまり誇って言える方法でなかったことだけは確実だ。何せ、ぼくの人生全てが何もかも他人任せだったのだから。
玖渚に連絡をして現在地を伝え、元《チーム》のメンバーであるちぃくんとやらにぼくの位置情報及び水瀬家の位置情報を調べてもらい、そこから最短距離で帰れる道順を教えてもらったという見事な人任せ。でもぼくはぼくなりに必死で頑張ったと思う。少なくとも五時半までは自力で頑張ったのだ。向かった先は逆方向だったけど。
「いーちゃんはほんと物覚えが悪いんだから、常に地図を持ち歩いた方がいいと思うんだよ」
玖渚に言われたことは、まさしくその通りであることを否めない。
ぼくが家に辿り着いた頃には、既に名雪ちゃんも帰り着いていた。
「一体何してたの?」
「男というのは、時々旅に出たくなるものなんだよ」
食卓でメンチカツを齧りながら、そう答える。今日の夕食も美味しかった。
滞りなく夕食を終え、一人でぼーっとテレビを見る。まだ時刻としては七時半を僅かに回った程度だが、名雪ちゃんは既に二階へと上がっていってしまった。
水瀬家の電話が鳴り響く。
「はい、もしもし。水瀬です」
秋子さんが2コール目で電話を取り、「少々お待ち下さい」と一言だけ伝えてぼくの方を見た。
「お電話ですよ。『戯言遣いのお兄ちゃん』さん」
「……はい」
見事なまでに、誰が相手なのかよく分かる説明だった。
秋子さんから子機を受け取り、耳に当てる。
「もしもし」
「今日のためのおはようと明日のためのおやすみを言いたくて、闇口崩子、初めてのお兄ちゃんへのラブコールを行いました」
そんなクールな挨拶から始まったのは、やはり同じアパートの住人である当年とって十四歳、闇口崩子ちゃんだった。いつ話しても、この子は全然少女らしくない。
「突然だね。一体どうしたんだい?」
「出来ることならばこの場でわたしのお兄ちゃんに対する偏執的なまでの想いを伝えたく思うのですが、他人様のお電話ということもありますしみい姉さまの手前もありますので手短に用件だけ伝えさせて頂きます」
「そうだね。それがいい」
「狐面との抗争が終結した後に故郷へと帰郷したものの、お兄ちゃんへの狂信的な想いからつい先日骨董アパート改めただの塔アパートへと引っ越してきたにも関わらずその三日後にお兄ちゃんが旅立ってしまったというあまりにもタイミングの悪い澪標姉妹が、つい先程アパートを出て行きお兄ちゃんのところに向かいました」
これっぽっちも予想していない内容だった。
というか、崩子ちゃん誰に説明してるんだ。
「お兄ちゃんに対する狂信からの行動かと思われます。恐らくは一週間程度でそちらの方に伺うと思いますので、伺い次第こちらへ戻るようお伝えください」
「分かったよ。どうして一週間なんだい?」
「あの二人、走って行きました」
京都から富山まで。
走ってかよ。
「以上です。名残惜しいですが、これで」
「そうだね。次の電話は、出来れば携帯の方にしてもらえるかな。ぼくも自分の電話の方が落ち着くからね」
「大きなお世話かと存じますが、携帯電話は持ち歩いた方がいいと存じます。恐らくは自室に置いてあるのでしょうが、約十分間に渡りコールいたしました」
本当に大きなお世話だった。
「ごめんね」
「問題はありません。お兄ちゃんの声を聞けただけでも、わたしはもう満足です」
「お詫びに、戻ったら美味しいジャムをプレゼントするよ。きっと崩子ちゃんも気に入ってくれると思う」
「はい。楽しみにしています」
ああ、やっぱりいい娘だな。崩子ちゃん。
「では、息災と、友愛と、再会を」
電話が切れる。ツー、ツー、という規則正しい電子音が、ひどく耳についた。