信じる者が掬われるのは、何時だって足下だ
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まず、自己弁護から始めたいと思う。
崩子ちゃんからの電話が終わってのち、ぼくはしばらく七々見から借りた春秋左氏伝を読んでいたのだが、あまりにも意味が分からない内容だったため途中で投げ捨てた。時間的には午後十時。寝るにはまだ早い頃合だったため、しかたなく七々見の本シリーズを再度手に取る。とても格好良いヒーローと、とても可愛いヒロインの話。登場人物の若干の類似が見られるのは気のせいだろう。タイトルが『紡がれる奇跡』というのも気のせいだろう。
意外にもそれが面白く、半ばまで読んだ時点で時刻は0時を回っていた。そろそろ寝なければと考え、ベッドに寝転がり、およそ二時間に渡る格闘の結果ようやく睡眠に入った。そして昨日と同じように早朝六時前には目を覚まし、階下へと降りた。
寝起きのコーヒーをすすって秋子さんと二、三の会話。間がもたずに仕方なく再び二階へ上がり、『紡がれる奇跡』の続きを読み、壁越しの大音量を聞きながら着替えて朝食を摂取。
そして、何故か今ぼくは、遅刻を回避するために走っている。
ぼくの行動は昨日と一切変わりない。それでも、何故か水瀬家を出た時間は昨日より十五分も遅い。
ぼくに責任があろうか。いや、ない。(反語)
「ざれ……ごと……だけど……さ」
「えと、しゃべると大変だよ?」
息が荒い。水瀬家から現在学校の半ば。本来人間の全力疾走というのはもって十秒らしいが、ぼくはそれを遥かに超越し既に五分以上のスプリントを敢行している。
そして隣の名雪ちゃんも、またぼくと同じ速度でのスプリントを行っている。にもかかわらず、こちらは涼しい顔でぼくに話しかけてくる余裕すら持っている。ひどい。神様は不公平だ。罪のない戯言遣いにこんな苦しみを与えるなんて。罪がないなんて自分で言うことこそまさしく戯言だけどさ。
「気持ちいいね~」
名雪ちゃんが涼しい顔で呟く。勿論、答えられる筈もない。
明日から名雪ちゃんなんて待つものか。そう決意した十九歳の冬。
ぜーはー。
ぼくと名雪ちゃんが教室に飛び込んだのは、本鈴を三分過ぎた後だった。
石橋教諭はまだ来ていない。ふらふらの足取りで自分の席へ。もう無理。走れない。如何にセリヌンティウスが身代わりになって時間を稼いでくれていても、ぼくは走れないだろう。というか大体、無関係なセリヌンティウスが身代わりになる必要なんてないんだ。あの話で評価できるのは、メロスがシスコンだってことだけだ。
「よう、スリリングな朝だな」
ぽん、とぼくの腰を叩いたのは、当然ながら潤だった。残念ながら机に突っ伏しているぼくには反応が出来ない。心臓の鼓動が恐ろしく速い。が、これを恋と錯覚するほどぼくは乙女じゃねえ。
「名雪と一緒に登校すると、毎朝こうよね。あたしも一度挑戦したけど、二日で諦めたわ」
「うー。もしかしてひどい事言ってる?」
「そんなことないわ。あたしが言ってることは事実だけよ」
斜め後ろではそんな掛け合いをやっている。残念ながらぼくは参加できそうにない。肺が痛い。脇腹が痛い。
石橋教諭は常にホームルームには遅れるらしく、本鈴も既に鳴り響いたというのに、教室はまだ喧騒に包まれていた。そういえばぼくの転校初日の朝も、八時四十五分に教室に入ったっけ。てっきりぼくの遅刻が原因なのかと思っていたが、この様子ではいつもホームルームには遅れてくるのだろう。それなら全力疾走なんてしなければ良かった。心中で名雪ちゃんを恨むも、本人は意に介さない。当然だけど。
「そういえば戯言遣い君。そんな調子で大丈夫?」
「……何が」
荒い息混じりに、苦しい喉から絞り出して返す。横目で香里ちゃんを見ると、やれやれといった風に肩をすくめていた。
「一限目、体育よ」
死刑宣告だった。
「ちなみに、男子はマラソンな」
追い討ちとばかりな、潤の死刑執行。
「……ぼくは見学する」
「休んだ奴はレポート提出あるぜ。くそつまんねー課題のくそつまんねーレポート」
「……死ぬよりマシだ」
昼休みまで、非常に無難な時間が過ぎる。
敢えて言うなら仮病がばれて死ぬほどマラソンを走らされたのは死刑に等しいとか、その後に眠気抜群な老教師の子守唄が待っていたとか、かといって人前で眠ることなんて出来ないからほとんど拷問のような時間だったとか色々あるけれど、滞りなく授業を終えたと言ってもいいだろう。世界は平和だ。平和が一番だ。
当然のように美坂チーム(と、潤が名付けた、つまりはぼくと名雪ちゃんと香里ちゃんと潤の学食組なのだが)で学食に向かい、各自が適当な話をしながら昼食を終える。今日もまた三人とも用事があるらしく、やはりぼく一人で教室へ帰ることとなった。
相変わらず持て余す時間を、少しでも有効活用するために校内を散策することにする。天野美汐であり日中涼である彼女から言われた『零崎一賊』についても、少しばかり調査する必要性があるだろう。彼女がいつから調査に携わっているのか知らないけれど、ぼくが大した眼力も持たずして見つけられる相手だとは思えないが。
それでも、無駄に過ごすよりは良い。ぼくらしくないポジティブな考えのもと、目的も何もない適当な散策が始まった。
とはいえ、ぼくの情報源など特に大したあてがある訳でもない。玖渚づてにちぃくんから聞けばいいのかもしれないが、それは既に天野美汐であり日中涼である彼女が行っているアクションであろう。それを踏まえても、元《チーム》のメンバーに頼るのは愚策だ。ならば。
最も手っ取り早い、外れたパズルのピースを僅かでも埋めてくれる存在に会うのが丁度良い。
それゆえにぼくは今、一年生の教室が並ぶ階層を歩いている。
ここで運命的に物語的に旧知の存在に会える可能性も考慮したが、現実的に考えればそんな可能性など皆無ではないにせよ、天文学的数字になるだろう。例の赤い人なら「十万回に一回しか起きないことは一回目に起きるんだよ」と言って一笑に付すのだろうが、残念なことにぼくは然程運が良くない。
だから一年生の適当なクラスにあたりをつけ、手近な女生徒を捕まえた。
「天野美汐、呼んでもらえないかな」
女生徒は意外そうな顔をしたが、しかし快く「ちょっと待って下さい」と言って教室の中へ入った。彼女の席はどうも奥らしく、女生徒はしばらく歩き、彼女の席近くに言って何か呟く。本に目を落としていた彼女は不快そうに教室の入り口を見やり、ぼくは軽く手を振ってみた。
彼女と女生徒が二、三会話して、そのまま彼女がぼくの方へと歩いてくる。そしてそのままぼくの目の前を通り過ぎ、一人でさっさと歩いていってしまった。やれやれと肩をすくめて、ぼくもその後について歩く。
渡り廊下を曲がり、昨日と同じく、部室棟。どうもここは昼休みに人通りが少ないらしく、ぼくと彼女以外には誰もいなかった。
彼女が止まる。
「――何の用だい? 戯言遣い」
もう、最初っから飛ばして日中涼モードだった。
「ぼくだってきみに会いたくはなかったさ。ただ、今の現状では圧倒的に情報が不足していてね。せめて、きみと会話することで少しでも調査の幅が狭まればと思っただけさ」
「へえ」
彼女が嗤う。笑うではなく、嗤う。
「と、いうことは少しはまともに調べてくれるということだね。結構結構。僕の知っている情報なんてほんの微々たるものだが、教えておこうか。ただし、ただ情報をよこせだけでは僕も何から話していいか分からない。質問を受けることによって回答が誘発されることもありえるし、質問形式で構わないかな。かといって僕ばかり質問を受けるというのも不公平だ。《
「……一応ね」
ターン制の
「きみの手番からだ。どうぞ」
「どうぞ、と言われてもね」
ぼくが先攻、というのにはいまいち慣れないが。
「例の零崎――零崎夜織の、特徴は? 見た目ではなく――」
「殺し方、だろう」
ふふん、と嗤う彼女。
「彼女の別称にしてその武器の名称を、『
「バグナウ、かな」
「そう、それだよ戯言遣い。ただし彼女の扱っていた『
……本人が年食ってる分、例える漫画も古いな。
「
「……ええ」
巨大な角で、体を貫く。
心臓を、貫く。
「では僕のターンだ。生きているとは何だと思う?」
いきなり哲学的な質問かよ。
「親愛なる鏡の向こう側の言葉を借りれば、『生きていると思う事』だそうです」
「そんな哲学的な答えは求めちゃいない。概念論も糞喰らえだ。単純でいいのさ。脳が働き心臓が動き食を求め睡眠を求め性を求め当然のように存在し続けることが生きている事だろう。人間が正常に存在する限りは生きていると同意だ。やれやれ……その程度がきみの戯言なら、僕の方から質問するだけ無駄かもしれないね。まあいい。きみのだ」
貶して貶めて蔑んで蔑ろにして、彼女はまた嗤う。
……本ッ当に全身全霊サディストだ。
「何故、零崎がここに潜伏していると分かったんですか?」
「一言で答えが済む質問だね。それでも僕は饒舌型だ、喋らせて貰うよ。単純に、ここで殺人事件が起こっているからさ。理解できるだろう。過去形ではなく、現在進行形だ。およそ三ヶ月前……十月から、大方月に二人のペースで死んでいる。それも『
胸に風穴を空けられた。
事故死。
「きみが今まで経験してきた事件……人死にについては、二件を覗いて全て隠蔽工作が成されているという事実が存在する。ただし、勘違いしないでほしい。これは異常だ。異常の極みだ。警察権力を黙らせることのできる権力なんて、さして多くは存在しない。鴉の濡れ羽島事件は四神一鏡・赤神家が。澄百合学園も同じく四神一鏡・檻神家が。斜道卿壱朗研究所および西東診療所については玖渚機関が。例の『狐面の男』との抗争関連については、彼自ら手を回したのだろうね。以上の点から分かるだろう。警察権力を黙らせることができる存在など、玖渚機関か、四神一鏡か、『殺し名』の頭領クラスか、もしくはER3システム七愚人なみでなければ有り得ないということだ。『零崎一賊』が全滅した今、この殺人を隠蔽しようとする存在など何一つ存在しえない」
「……ならば、何故」
「それがあの『
彼女が言い終えると共に、昼休みの予鈴が鳴り響く。
「さて――僕は戻ることにするよ。この『天野美汐』は優等生でね。理由なく授業をサボタージュすることなんてないんだ。ただし、質問回数がきみが二回、僕が一回というのは公平さに欠ける。そこで、次までに考えてほしい質問をすることでここは幕引きとしよう」
彼女はいきなり、何の前触れもなく何も前置きもなく、ごく自然にごく必然のように、刹那の躊躇もなく微塵の遠慮もなく、しかし別に高圧な風にも特に傲岸な風にでもなく、見上げるように見下すようにすらりとさらりとまるで当たり前であるかのようにそう言ってみせた。
「『奇跡』を起こすことのできる存在は、いると思うかい?」