今日も夏らしい暑い一日だ。青空から照りつける太陽がギラギラと射し、中庭にいる猫たちもバテるほどの暑さだった。
「うう……暑い……」
「大丈夫? 鈴」
授業の合間の休み時間、机にぐったりとしている鈴に僕は声をかける。
「畜生、こんな時に限って冷房の調子が悪いとかついてねーぜ」
すぐそばで同じく夏バテしている真人。その鍛え抜かれた筋肉は汗だらけだ。
「本当だね」
真人の言葉に頷く。これからどんどん暑くなっていくのだろう。早く冷房を直してもらわないと死活問題に関わりかねないかもしれない。
「暑い……。 理樹、なんとかしろ」
「なんとかしろって言われても、僕には無理だよ」
「うー……。 こんなに暑いと、猫たちが死んでしまうじゃないか……」
鈴はいつも中庭にいる猫たちの世話をしている。どうやら猫たちもこの暑さにはバテているらしい。
「猫たちはどうなってるの?」
「みんな死んでる」
「あ、もう死んでるんだ……」
「もー、くちゃくちゃだ。 みんな寝そべって、動こうとしない。 特にドルジが一番ジュウショーだ。 あいつ、本当に死ぬんじゃないか?」
僕は人一番体格が大きい真人の暑さにやられている姿を一瞥する。猫の中でも特別大きいドルジも同じ姿になっているのだろうか。
「うー、暑くてうっとおしい……ッ!」
遂にイライラし始める鈴。まるで機嫌が悪い猫のようだった。
「それにしても、謙吾は平気そうだね」
「む、ほんとだ。 暑くないのか?」
みんなが猛暑に倒れている中、蒸し暑い教室で唯一平然としているように見えるのが、謙吾だった。いつも持ち歩いている竹刀を組んだ腕に抱え、この暑さにも全然根をあげていない。
「へっ、どうせやせ我慢だろ?」
真人の挑発的な言葉に、謙吾はそれも無反応だった。
「それともあれか、えーと……」
真人は何か言葉を思いだそうと、思考を巡らせる。
「そうだ、思いだしたぜ。 確か、“火も股には気持ちいい”だろ?」
奇跡的に壮大な間違いを口走っていた。
「……サイテーだな」
鈴が引くのも無理はないかもしれない。
「……火もまた涼し、だ。 この馬鹿」
「なにぃぃぃぃッッ!!?」
衝撃的に驚く真人。僕はよりによってそんな間違いをする真人に衝撃的だけどね。
「そ、そんなはずはねぇ…ッ! 俺は確かにその言葉をどこかで……!」
どこで聞いたのさ……?
謙吾が呆れたように溜息を吐き、頭を抱える真人に向かって口を開く。
「ちなみに、正しく言えば“心頭滅却すれば火もまた涼し”だ。 無念無想の境地にあれば、どんな苦痛も苦痛と感じない。 そういう意味だ」
「うおおお、よくわかんねえ難しい言葉ばかり並べやがって……ッ!」
「お前が馬鹿なだけだ。 この暑さでさらに頭をやられてしまったようだな、真人」
「……言うじゃねえか」
汗を流し、机にへばりついていながらもニヤリと笑った真人は、ガタンと立ち上がる。
「いっそ運動しちまえば、暑さも吹っ飛ぶかもしれねぇな。 俺の筋肉がこんな暑さでバテるほどヤワなもんじゃねえって所を見せてやるぜ」
「既にバテていたではないか」
「るせぇッ! さっさと勝負しやが――――」
「このクソ暑い時に、余計に暑苦しいんじゃボケ―――――ッッ!!」
「ぐほぉッ!?」
鈴のハイキックによって、真人は撃沈した。顔面から煙をあげる真人は、その場に倒れてピクリとも動かなかった。
「筋肉馬鹿のせいで余計に暑くなったわッ!!」
鈴は怒り心頭で、何度も真人のお尻を蹴り続ける。あまりにも真人が可哀想になった僕は鈴を止めに入る。と、同時に休み時間終了のチャイムが鳴り、僕はフーッと怒りがおさまらないでいる鈴を宥めて、鈴と一緒に席に戻った。真人は教室に入ってきた授業の先生に言われるまで、その場に沈んだままだった。
授業を受けている間、僕は確かに思った。
冷房をなんとかしてもらわないと、確かに困る。
もうすぐ夏休みとはいえ、一学期が終わるまでの辛抱と言っても、生徒たちも耐えられるかわからない。
それに、夏休みの直前にはアレがある―――
僕は今日の放課後に、この意思を伝えようと決意した。
やっぱり暑さが変わらない放課後。
部活に属している者は各々の部活動に向かい、部活に入っていない生徒は冷房が生きている寮へと急いで避難する。
しかし、僕は冷房の調子が悪い学校の中に居残っていた。
今日もまた、彼女の手伝いをするためだ。
「二木さん、ちょっといいかな」
「忙しいから、短く済ませて頂戴」
二木さんは各委員会から提出された資料の整理や、風紀委員会内での書類に対する仕事に没頭している。僕もその手伝いをしている最中だ。
「ここ最近、結構暑い日が続いてるじゃない?」
「そうね」
二木さんは視線を書類に外すことなく、筆を走らせる手を動かしたまま、僕の言葉に応える。
「学校の冷房が調子悪いけど、なんとかできないかなって思って」
「……そういえば、そんな話があったわね」
この暑さなのに、二木さんは相変わらず長袖の上着を着込んでいる。だけど、その表情に苦悶の一つも無く、汗も浮いていない。この暑さにも負けていない表情で仕事に集中し、なおかつ僕の話に耳を傾けてくれている二木さんは、やっぱり凄い人だと思う。
「うん。 これからどんどん暑くなっていくと思うし、どうにかならないかな」
「……それを私に言ってどうするの?」
「う……いや、二木さんなら、なんとかしてくれるかなって思って」
「随分と頼られたものね」
「あ、いや……ご、ごめん」
「なにを謝ってるの?」
ふんと鼻で笑う二木さん。
そして二木さんは手の中でくるりと弄んだ筆を口元に持っていき、ぽつりと口を開く。
「ま、そうね……。 夏休みの直前にはアレがあるし、あまりに暑いと授業に集中できなくなる生徒も出るかもしれないから……その辺りに関して、検討した方が良いのかもしれないわね」
「で、でしょ?」
「アレが近づいているから、生徒には本業としての勉強をしっかりしてもらわないといけないし」
そう、夏休み直前のアレとは―――
期末テストだ。
勉学を本業とする学生なら必ずしも定期的にぶつかる壁、それがテストだ。
一学期の最後、夏休みに入る前にはまず期末テストという難問がある。そこを突破しなければ、真の夏休みは訪れない。もしテストで落としてしまえば、真人が何度も経験したことがある補習付きという夏休みが待っている。
「ほ、ほら。 やっぱりしっかりと勉強できる環境は整えたほうがいいじゃない?」
「確かに一理あるわね」
「でしょ?」
二木さんは風紀委員長として絶大な権力を持っているし、各委員会の中でも結構頼られている存在だ。学園の風紀を取り締まる二木さんに何かと相談するのは最良の手段だと思う。
「わかったわ、私から冷房の修理を早急に行ってもらうように生徒会に掛け合ってみるわ」
「やった。 ありがとう、二木さん」
「……ッ。 べ、別にあなたなんかの為じゃないわよ……」
僕の笑顔を見て、顔を赤くしてそっぽを向く二木さんが可愛らしい。
こんな可愛い子が僕の彼女なんだなと思うと――――イダダダッ!!
「……なんか調子に乗ってない? 直枝」
「ヒョ、ヒョッヘハイッ!(乗ってない!)ヒョッヘハイ!(乗ってない!) ヒハイヨ、フハヒハン!(痛いよ、二木さん!)」
ジロリとした視線で僕を睨みつけながら、僕の頬をぎゅ~っと抓る二木さん。
二木さんがぱちんと手を離し、僕は解放され、抓られた頬を擦る。
「うう、ひどいよ二木さん……」
「あなたがニヤニヤしてるからよ、直枝」
二木さんは「まったく……」と額に手を当て、溜息を吐く。
「あなたはどうして、私といる時は気持ち悪い所を見せつけてくれるのかしら。 あなた、本当にどこかおかしいんじゃないの?」
「……二木さんになんて言われようが、もう慣れたよ」
「ふん、遂にMに目覚めたのかしら?」
「でも僕は、二木さんといて楽しいから、こうしていつも笑えるんだ」
「――――ッッ!」
二木さんがぼっと顔をトマトのように真っ赤にして、バッと背を向ける。
背を向ける二木さんが「その……が、反則……なのよ…」と、何かボソボソと言っているみたいだった。
くるりと振り返った二木さんの顔には、まだ微かに赤みが帯びている。
「いい加減にして、さっさと仕事を再開するわよ」
「そうだね」
ニコッと微笑む僕。二木さんはまた唇を噛んだが、無言で筆を走らせる作業を再開した。
「それにしても……二木さん、暑くないの?」
「……平気よ」
この暑さに、二木さんは相変わらず上着を着ている。だが、この暑さでも二木さんは上着を脱ぐ様子はまったくなかった。
冷房が効いていない状態で、暑くないはずはないのに。
「それに、これを脱いだら私の身体がどうなっているのか、あなたは知っているはずよ」
「……………」
二木さんの上着に隠されているその身には、二木さんの傷ましい過去が刻まれている。
それは、二木さんにとっては生涯忘れられるはずがない記憶のもので、他人には絶対に見せたくないものだった。
「……こんなのを見ても、あなたは気持ち悪いだけよ」
「そんなこと、ないよ」
上着の長袖部分に手を触れ、ぎゅっと握る二木さんに対して僕ははっきりと告げ、首を横に振る。
「ここには僕と二木さんの二人しかいないし、僕は全然平気だよ」
「これはね、直枝。 私の忌々しい過去なのよ。 だから、思い出したくない。 だから、脱がない。 どんなに暑くても、この傷は私をとことん凍らせる。 だから、私は現実の暑さの方を選ぶのよ」
「二木さん……」
二木さんの過去は、僕だって知っている。
どんな境遇だったのか、どんな忌まわしい過去が二木さんを、そして―――葉留佳さんとの間を蝕んでいたのか。
二木さんは上着を手放したくないと示すように、ぎゅっと袖を掴んでいる。
その長袖の下には、二木さんの辛い過去が隠されている。
だけど、僕は思う。
それは確かに二木さんにとって、とても辛いものだっただろう。だけどそれは同時に、二木さんの努力の結晶でもあると思うんだ。
葉留佳さんと二人で闘い、乗り越えてきた証でもあるんじゃないかな。
「はっきり言って、他人である僕が出しゃばるのはおせっかいにも過ぎるかもしれない。 だけど、それが僕だから遠慮なく言わせてもらうよ。 二木さんのソレは、必ずしも全部を否定するのは良くないと思う」
「本当に遠慮がないわね……」
「それは、確かに二木さんにとっては辛いものだったんだと思う。 でも、それと同時に、二木さんが一生懸命生きてきた印だとも、僕は思うんだ。 だから、全部を否定するのは、良くないと思う。 それは、二木さんの努力や、生きてきた証も、否定することになってしまうから」
「……………」
「僕は、そんなのは嫌だな。 二木さんは、今の今まで、立派に生きてきたんだ」
そして、これからも。
二木さんは強い。あのバス事故で、鈴と共に虚構の世界を駆け抜けてきた僕なんかよりも。
僕とは比べ物にならないほど、二木さんは強い人なんだ。
「そんな二木さんの強さや生き方は、本物だから。 僕が、保障する」
「……随分と、偉そうに言うわね。あなたは」
二木さんは嘲笑するように笑うが、その笑みもすぐに消えた。
「あなたは簡単にそう言ってくれるけど、私自身はもう誰かを簡単に信じることなんてできないのよ」
「少なくとも、僕は二木さんを信じてるよ」
「……………」
「僕は二木さんにどんな傷があっても、気にしない。 これは、本当のことだよ」
「……だから、簡単に信じられるわけないじゃない……私は、もう……」
長袖を両手で抱くようにぎゅっと掴み、小さく震えるような声を絞るように呟く二木さん。
「忘れた? 僕は、二木さんの――――佳奈多さんの彼氏だ」
「――――!」
大きく目を見開いた二木さんが、僕の方に視線を向ける。
「佳奈多さんは僕の大切な人だよ。 僕は、佳奈多さんを信じている」
「直枝……」
二木さん―――いや、佳奈多さんは顔を俯け、自分の身を抱き締めるように両手で袖を掴んでいたが、やがて口元を緩ませ、顔を上げた。
「本当に、直枝は無遠慮で、お人よしね」
「よく言われるよ……」
苦笑する僕だったが、佳奈多さんはクスリと、とても綺麗な微笑みを漏らしてくれた。
「あなたなんかに気を遣うのが馬鹿馬鹿しく思えてきたわ」
「うん、気を遣ってくれなくてもいいよ。 僕は、佳奈多さんの彼氏だから」
「…それ、とてつもなく恥ずかしいから、やめてくれないかしら」
「え? いや、そろそろ下の名前で呼ぶのもいいかなーって思って……」
「下の名前もそうだけど、か、彼氏とか……その、そういうのをはっきり言うのは……」
「なんで? 事実じゃないか」
僕がそう言うと、佳奈多さんがキッと睨んでくる。
そして顔を赤くしながら、ちょっと怒っているような表情で、佳奈多さんは僕にズイッと顔を近づける。
「そういうのは、もうちょっと心の準備が出来てからお願いできるかしら……悪いけど…」
「僕はもう平気だよ」
「私が平気じゃないのよ…ッ!」
恥ずかしさと怒りで真っ赤にしている佳奈多さんの顔が、お互いの息がかかるほど近いと気付いた僕だったけど、佳奈多さんはどうやら気付いていないみたいだった。
「まったく…ッ! あなたのおかげで全然仕事が進んでないじゃない! さっさと片付けるわよ」
「う、うん。 あ、佳奈……」
ギロリと睨みつける佳奈多さん。
「―――二木さん」
言いなおす僕。
「なに?」
「上着……」
「脱がないわよ」
「あれ~」
「大体、もうすぐ日が落ちれば少しは涼しくなるから、脱ぐ必要はないわ。 …って、もうこんな時間ッ!? あなたのせいで全然進んでないじゃない、直枝ッ!」
「え、ええっ? ぼ、僕のせい??」
「当たり前よ。 ほら、ちゃっちゃとやるわよ」
「うん……」
こうして、なんだか少し機嫌が悪くなってしまったような二木さんと仕事を再開する。ちょっと気まずい微妙な空気だったけど、それは日が落ちるまで続いたのだった。
その日の後、生徒会から数日以内に出来るだけ早く、学校内に設置されている冷房の点検と修理が実施される旨が全生徒に通達された。真夏に近づく暑さに参っていた生徒たちには喜ばしい報せだった。その裏では、厳しくもやる事はしっかりとやる風紀委員長の促しがあったのはまた別のお話。