転生家庭教師のやり直し授業◆目指せ!教え子断罪回避◆ 作:タナゴコロ
「ああ……?」
朝、父を仕事に見送ってから、新聞と一緒に自分宛に届いた手紙の内容を読んでいた最中に口から出たのは、淑女らしからぬ声だった。
そのことに驚いて顔をこちらに向けたのは、最近紅茶の淹れ方をメイド達に教わり、朝食後にその用意をしてくれているところだったガンガルだけだ。アンナは昨夜も遅くまで執筆していたから、お昼まで眠っていることだろう。
「ん、んん、ごめんなさいね、喉の調子が悪いみたい」
目を真ん丸にして私を見ていたガンガルに慌ててそう告げると、彼はホッとした様子でまた紅茶の用意に集中する。手許が覚束ないのはご愛敬だ。
なかなかメイドと執事から私達に出していいとの許しが出ず、項垂れるガンガルを見ていて、それでは上達しないからせめて私にだけ出させて欲しいと頼んだ手前、邪魔をするのは忍びない。
前日に口にしたいがらっぽい紅茶の味を思い出し、これ以上気を散らせるような真似をして彼の邪魔をしないように唇を噛んだ。彼の方を気にしつつ、一枚しかない立派な便箋に視線を落として読み返してみるが、当然そこに書かれている文面は変わらない。
《ベルタ・エステルハージ嬢。来月三月一日をもって、貴殿の第一王子教育係の任を解く。後任者への引き継ぎなどについては追って沙汰を待て》
記念式典から四日後には予定通り今年の最後を飾る大舞踏会が執り行われ、その後はホーエンベルク様やフェルディナンド様が心配していたような沙汰もなく、すっかり日常のリズムを取り戻していたのに――。
「何か不興を買うような失敗をしたかしら……?」
頭を整理するためにそう口に出してみるも、思い当たる節など何もない。
大舞踏会が終わってからすでに一ヶ月半が経っているけれど、その間にマキシム様と険悪になったこともなければ、フランツ様のご不興を買うような真似もしていないはずだ。
今日は貴重な非番であり、お昼過ぎからは屋敷にアウローラとアグネス様とマリアンナ様を招いて、アンナと一緒にもてなす約束もしていた。第二王子の婚約者で元教え子である彼女とも円満な関係を保っている。
にもかかわらずそれを少しも加味していない、寝耳に水なクビを申し付ける書状。まったくもって意味不明だ。
王のお膝元であり得ないとは思いつつ、騙りを疑ってじっくり届いた封筒の封蝋と便箋の透かしを確認するが、以前王城から来た使者に攫われたときに見たものと同じである。これが偽造品なら作った者達は死罪だろう。
どうしたものかと悩んでいると隣で食器の触れ合う音がして、便箋から視線をそちらに向けると、そこには紅茶をカップの縁ギリギリまで淹れてしまい、テーブルに置くことができずに困っているガンガルがいた。
「お、お嬢、紅茶が、入り、ました」
「ええ、ガンガル……私が受け取るから動かないでね?」
並々の紅茶をそっと揺らさないように受け取っていると、頭に上りかけていた血がゆっくりと下がっていくのを感じる。行儀が悪いものの、テーブルまで無事に着地させることは難しいだろうと感じ、ティーカップに唇を寄せて恐る恐る一口飲む……と。
「ん、何かしら……梨の香りと、味がする?」
鼻を抜ける爽やかな香りとエグ味の中に仄かに甘い梨の風味。直後にエグ味に塗り潰される味覚。斬新な飲み心地だ。総合評価としては“飲めなくもない”くらい。けれどガンガルはパッと顔を輝かせて「そう。梨ジャム、喉に良い」と頷いた。
おうおうおーう……褒めて欲しそうにしちゃって、可愛いじゃないの。
しかも数ある彼のジャムコレクションの中でも、梨ジャムは特別大切にしていた気がする。時間にしてたった数分だろうけれど、ガンガルは私が考えごとをしている間に自室に戻り、梨ジャムを持ってきてくれたのだろう。
肝心の紅茶がエグいのは離れている間に蒸らし時間が過ぎてしまったからで。カップに溢れんばかりに並々入っているのは、紅茶を淹れてからジャムを沈めたせいだと推測される。
――うん、これは総合評価を変えるべきだろうな。
「ありがとうガンガル。とても美味しいわ。きっと喉の痛みもすぐ治まるわね」
「じゃあ、もう一杯淹れる!」
それはできれば遠慮したい。が、眩い笑顔の圧が私の舌が否と言うのをよしとしなかった。
「そ……そうね、頂くわ。あとね、紅茶を飲んだらガンガルにお願いがあるのだけれど。誰かにこのあと何かお仕事を頼まれたりしている?」
紅茶のお代わりを取り付けたガンガルは、嬉しそうに「ない。庭は明日頼まれてる」と答えてくれた。その答えに内心手を叩いて喜びつつ、表面上はしっかりと淑女の微笑みを心がけて、ティースプーンに山盛り細かい茶葉を掬う手を止めるように合図する。
「待って、ガンガル。今度は私と一緒に淹れてみましょう。それからね、紅茶を飲んだら護衛を頼みたいのだけれど……お願いできるかしら?」
「良いよ。でもお嬢、お昼過ぎからお茶会、違った?」
「まぁ、私の予定を憶えてくれているのね。嬉しいわ。でもそれまでには戻るから大丈夫よ。お城にほんの少しだけ用事があるの。ホーエンベルク様にお話したいことができたのよ」
「うん、分かった。オレ、ちゃんとお嬢、お城まで連れてく」
目的地が城と聞いても心強い返事を返してくれるガンガルに、私も微笑み返して。若干不安を感じる手紙のことはほんの一瞬だけ視界からおいやり、梨ジャムに合いそうな大きな茶葉の缶を用意しながら、二杯目の紅茶の準備に取りかかった。
教えているのではなく、あくまでおさらいをしている風を装った紅茶の練習と試飲を終え、執事にもしも帰りが遅くなってしまったら先にお茶会をしておいて欲しいとアンナへの言付けを頼み、用意してもらった馬車でガンガルと屋敷を出た。
小さな馬車の中で向かい合わせに座っていると、窓の外に興味津々のガンガルが「お嬢、あれ何?」「お嬢、あれは?」と訊ねてくる。けれど彼がどれを指差していたのかは、馬車が動く速度と噛み合わない。
すぐに見えなくなってしまう対象物を教えてやるには、隣に座っていた方が良いと結論付けるのにそう時間はかからなかった。
中でもガンガルは色とりどりのタペストリーと絨毯を扱う店が気に入ったのか、窓の外にそういった店が現れると楽しそうに「お嬢、今のやつ、キレイだったね」とはしゃいだ。
そんな姿を微笑ましく眺めながら、行きは馬車に乗ったけれど、帰りは普段あまり出歩けない彼のために徒歩で帰ろうかと思っていた――……そのとき。路地裏に消えていく見覚えのある人物にギョッとした。
「あ、ちょっ……馬車を止めて頂戴!」
焦りから思わず席を立ち、馭者席の後ろの小窓を叩いてそう言うと、慌てて馭者が馬の脚を緩めてくれた。
ポカンとしているガンガルに視線で謝り、馭者席で「どう、どう、よしよし、良い子だ」と馬を宥める馭者に小窓越しに「ごめんなさい」と謝る。振り向いた馭者は人好きのする表情で「大丈夫ですよ」と応じてくれた。
馬車が停まったのを確認してから内鍵を開け、誰の手も借りずに石畳へと降り立つ。次いで降りてきたガンガルは「お嬢?」と小首を傾げるものの、説明する暇も惜しい。
馭者に向かって「すぐに戻るから、少しだけここで待っていて」と言い残し、ガンガルの手首を掴んで、見覚えのある人物が消えた何本か通りすぎた後方の路地へと走った。こちらの様子に彼は疑問を口にすることなくついてきてくれる。
そして目印にしていた角の小間物屋の路地の前で一旦脚を止め、そっと路地の奥を覗き込もうとしたら、手首を握っていた私の手をほどいたガンガルがふるふると首を横に振った。
「……お嬢、ダメ。ここで待ってて。この奥から、嫌な臭い、する」
「え? 嫌な臭いってもしかして――、」
「うん、あの臭い。すごく薄いけど、する。だから待ってて」
まるで目に見えない臭気から庇うように路地へと続く壁と私の間に滑り込んだガンガルは、意識を奥へと向けていた。しかしそうは言ってくれても顔は強張っているし、僅かにだけれど震えている。無理矢理付き合わせた上にこんな状態で一人で行かせるのは嫌だ。
「それなら尚更一緒に行くわ。守ってくれるのでしょう?」
我ながらずるい聞き方だとは思う。けれど大人は元来ずるいものなのだ。ガンガルは一瞬だけ眉間に力を込めて黙っていたが、すぐに「傍、離れたらダメ」と言って手を繋ぐように差し出してきた。
頷いて手を重ねれば、思っていたよりも大きな手に力強く握り込まれる。緊張しつつも冷静に空気中に残った香りに鼻をひくつかせるガンガルに手を引かれ、昼前のまだ陽が届かず薄暗い路地へと脚を踏み入れた。
なるべく摺足を意識してガンガルの一歩後ろを歩く。最初のうちはこちらの足運びを気にしていた彼も、私の歩き方に不安がないと分かると速度を上げた。それにしても……意外というか、路地は薄暗いながらも普通の家庭の営みを思わせる生活感がある。
そこに件の薬の香りが混じっているというガンガルの言葉に、少しだけ恐ろしくなった。王都の――しかも王城の程近くにガンガルを怯えさせるあの臭いがしている。何て気分の悪い話だろうか。
腹の底に怒りが燻るものの、視線だけは前を見据えて先を急ぐ。するとガンガルがピタリと背中を壁に張り付けるようにして足を止めたので、私も慌ててそれにならう。唇に人差し指を当てた彼が覗き込むよう促した先には、古いアパルトメントの前で何か話している二人の男の背中があった。
一人は痩せぎすで背を丸めた見知らぬ男だったが、もう一人は見間違いようもない。彼の姿を馬車から見かけてここまで追って来たのだ。
ランベルク公を思い起こさせる色の髪が、建物の狭間を抜ける風に靡いた。離れているために会話の内容までは聞こえない。歯痒い気持ちで二人の後ろ姿を見つめていると、不意にガンガルが「何が気になる?」と小さく訊ねてくれた。
けれどまさか会話の内容がとは言い出せず、つい「どちらの人の方が臭いがキツイかしら?」と訊ねてしまう。ああしてつるんでいるのだから同じ臭いがして当たり前だし、先入観ではあるけれど、絶対にランベルク公に似た彼の方が臭いを纏っていそうだと思う。
けれどこちらがその失言を引っ込めるより先に、ガンガルが「ここで待ってて」と言い残してサッと二人のいる方向へ歩き出した。突然のことにポカンとする私の視界には、何でもなさそうな……ともすれば日課の散歩を楽しんでいるような足取りで二人の横をすり抜けていく。
一瞬だけ二人の視線がガンガルを捉えたけれど、あまりにもスタスタと横切っていく彼に対して、彼等もすぐに興味を失った様子だった。
その後ガンガルは一筋先の角を曲がって姿を消し、ランベルク公に似た彼はアパルトメントの一室へ、もう一人の男はガンガルが曲がった角のさらに一筋先の角を曲がって消えた。
誰もいなくなった路地で、まだ動いては駄目なのかと一人でソワソワとしていたら、フッと背後で風の起こった気配がして振り返ると……そこには紅茶を褒めたときと同じ表情を浮かべたガンガルが立っていて。
「ただいま、お嬢。オッサンの方が臭くて、若い方はほとんど臭わなかったよ」
そんな意外すぎる報告をしてくれた彼の後ろに尻尾が見えた気がして、思わずその頭を撫でてしまった。