転生家庭教師のやり直し授業◆目指せ!教え子断罪回避◆ 作:タナゴコロ
簡単な朝食を終え、イザークと街歩きと言う名の敵情視察に出向く約束の時間まで、ゆるゆると身支度を整える宿屋の一室。
質素ではあるけれど清潔なベッドの上に今日の一着を用意し、シュミーズ姿で寛ぐアグネス様を振り向けば、そんな彼女の白い肌を朝の陽射しが柔らかく彩る光景が視界に入る。
思わず親友に対し、コルセットをしていないとこんなにけしからん胸部だったのかと感心した。本来ならコルセットのいらない体格の私としては羨ましい。
二人で用意してきた村娘風の簡素なワンピースを身に纏って、似合う可愛いと褒め言葉の応酬をし、ひとしきり女子旅の朝らしさを楽しんだのちに時計を確認すればちょうど良い時間になっていた。
「では、今夜の手順をもう一回頭から確認しますわね~」
「はい、よろしくお願いします」
「親友の貴女が旅先で意気投合した現地青年と恋仲に。一度は二人で宿に戻ってきたものの、夕食後に親友が青年に呼び出されて、今度は単身出かけてしまう。宿の鍵は夜の十二時には施錠されてしまうところを、わたしが宿屋の方と交渉して親友が戻って来たら開ける許可を取り付ける……でしたわね~?」
「ええ。そこに解錠の許しが出なかった場合は、荷物に入れてきた“縄を窓から垂らす”を加えて頂ければ完璧です」
今夜は一昨日の約束通り、この街の裏側を覗かせてもらえるのだ。正確には街のというよりも、領地を潤し発展させてくれている当主家の裏側だけど。
「うふふ、合点承知です。片棒を担いでる気分ってこんな風ですのね。物語の重要な導入部分に出てくる脇役みたいで楽しいですわ~」
さもありなん。だって正しく貴女はそのポジションなのだもの親友よ。前世の好敵手が今世の相棒とかなかなかドラマチックだわ。つい「頼りにしています」と言うと、彼女はますます笑みを深めた。
なのでもっと笑って欲しくて、ついついもう少しもう少しとお願いを重ねるうちに、ミッションインポッシブルレベルの内容にまでなったけれど、そんな私に「ベルタ様は
いつどこで悪漢に絡まれてもいいよう、彼女を守れる最善のコーディネートに身を包み、意気揚々と待ち合わせ場所へと向かったのだけれど――。
「脚本としては大変お粗末ですが、女性の好みそうな展開ではありますね」
本職の脚本家様は容赦なく私達の考えた脚本をぶった切った。
まぁ筋書きも何も、単に両親の勧める顔も知らない見合い相手と結婚する約束をさせられた二人が、最後の独身時代の思いで作りに旅行に出て、そこで親友が現地の男性と恋仲になって行方知れずになるとか……普通に事案だもんね。
アグネス様の楽しそうな様子に盛り上がって軌道修正を怠った気はある。あるけど良いのだ。女の子の喜ぶ要素は大衆向けの娯楽に必要不可欠。私だってたまには甘いだけの小説を読みたいときもある。
正気のときには食べられないグリ○のキャラメルだって、疲れていたら凄く美味しく感じるのだ。
「あらあら、現役の脚本家様は厳しいですわね~。ですけど、ご立派な脚本はたまに味わうから楽しいのであって、そうそう皆さん命をかけた恋ばかりしたいわけではありませんわ~」
アグネス様からいきなり飛び出す正論のナイフ。これにドロドロ愛憎劇脚本家がどう対処するのかと思ったものの、イザークは先程屋台で購入したホットドッグに似た惣菜パンを見つめて口を開いた。
「成程。貴方達でもドレスコードのあるきちんとした場所での食事でなく、こうした出店の食事を食べ歩きたくなるようなものですか」
フレンチのフルコースとホットドッグ。並べると差が酷いけど、言いたいことは分かる。別にうちは毎日そんなに御大層なものは食べてませんが。でも貴族全般への偏見がある彼には同じようなものなのだろう。
だったら理解しやすい内容でイメージしてくれたら良い。違いを語るのはもう少し親しくなって、心の距離を縮めてからだ。
「そんな感じですね。重厚な物語は胸に残るものですが、いつも重厚な物語ばかりでは疲れてしまいますから」
当たり障りのないワンクッションを二人の会話にぶちこみつつ、その後も昨日と同じように食べ歩きや買い物を楽しみ、日が沈む前に一度アグネス様と宿に戻って軽く夕食を食べたり、脚本にさらに肉付けをして遊んだ。
そうして深夜十一時を回った頃、宿屋のおかみさんが私を呼びに部屋を訪ねて来てくれた。彼女の前でアグネス様が考えてくれた訳あり感を出す演出も忘れない。役所は初恋にウジウジする女だ。心を殺して演じきったぜ……。
「じゃあ行ってきますね」
「くれぐれも気をつけて下さいませ~」
宿屋の裏口でひっそりと別れ、少し離れた場所に佇んで待っていたイザークに駆け寄る。夜空には逢引をするには明るい月がぽっかりと浮かぶものの、今夜は全体的に大きな雲が多いので、途切れ途切れにしか顔を出さない。
腕を組んでいるように見える距離まで身を寄せると、イザークが微かに身体を強張らせたので一歩下がれば、やや決まり悪そうな空気を纏った彼が腕を差し出してくれた。
切れ切れに月明かりが降る街中をエスコートされること四十分ほど。辿り着いた先にあったのは、明るい時間帯に素通りした高級感漂うブティックだった。
「あそこに入るには仮面をつけてもらうことになります。建前とはいえ、一応顔見せ厳禁というのが約束事なので」
「仮面舞踏会みたいなものですか」
「いえ、そこまで立派なものでは。現物を見てもらった方が分かりやすいですね」
そう言って手渡されたのは、以前フェルディナンド様が作って下さった仮面とは似ても似つかない、のっぺりとした仮面。視界を得るための穴が開けられただけの設計にはいっそ清々しさすら感じる。
材質は木製にしては軽いから、紙製かもしれない。その芯材の上に布を張って頭の後ろで結べるようにリボンがついている。子供でも作れそうだ。
「これは……なかなかの出来映えですね」
「変に凝ったものをつけて目立つよりも無個性な方が良いのでしょう。たぶん」
「ふふ、そうですね。それに視界と秘匿性は守られてますから」
「そういうことです。ここに今夜いる客は、この世のどこにもいないことになっていますから。金と地位が手に入れば、あとは多少の健康を犠牲にしてでも刺激を求めるのが人の性です」
随分と不健全な性もあるものだとは思うけど、実際に前世でも往々にしてそういうニュースが世間を騒がせたのだから、特に不思議はない。不格好な仮面を装着した私に向かい、同じく不格好な仮面で顔を隠したイザークが手を差し出す。
ゆっくりと手を重ねた先。再会してこちらずっと珍しく饒舌な彼だが、細く開けられた穴から覗くアイスブルーの瞳からは、やはり感情らしきものを見出だすことができなかった。
イザークにエスコートされて建物内に一歩踏み入ったところで、会場内の異質さに息を飲んだ。室内は年代物のランタンが幾つもぶら下げられ、フェルディナンド様の髪飾りよりも濁った色ガラス越しに灯りを落とす。
新しく入ってきた私達に同じ仮面をつけた数人が視線を向けたが、反応らしい反応はそれだけで。
すぐにビードロ細工を彷彿とさせる美しいガラス容器に繋がった管から、怪しい紫煙を吸うことに没頭する。甘ったるい香りを放つあれは……水煙草の一種だろうか。中身は明らかにガンガルが嫌いそうなものが入っているっぽい。
紫、赤、黄、橙、青、緑。それらの歪んだ陰影をチラチラと壁に這わせる様は、昼間に見たベージュと薄レンガ色の可愛らしくも品のある外観からは考えられないほど、この空間は何と言うか――……。
「酷い有り様でしょう?」
こちらの心を読んだようなタイミングでイザークから声をかけられて、一瞬ドキリとした。或いはその声にどこか愉悦を感じたからかもしれない。
「……思っていたよりは幾分か」
「成程。ボクが“思っていたより”最悪の状態を考えていてくれたようで助かりました。まだここはほんの入口ですから。煙を吸うことはあまりお勧めしませんので、ハンカチを口にあてておいた方が良い」
口許だけの張りつけたような笑み。粗悪な仮面をつけた顔は、元から感情の少ない彼をより無感情に見せる。
そして彼の言葉通り、奥に進むにつれて事態は悪化の一途を辿った。通路や階段で軟体生物のような格好で紫煙を吸う分かりやすく堕落した人々の姿。時折見かけるガンガルと同じ色彩を持つ若い女性給仕の虚ろな表情。
途中個室のドアが細く開いて、そこからうっすらと室内の灯りと声が零れていた場面では、部屋と私の間に距離を置かせるように身体を滑り込ませたイザークが、冷めた声音で「ここは見ないで良いですよ」と言った。
この爛れた空間とその言葉で何となく室内の様子が窺い知ることができたので、素直にそれに頷いて奥へと進む。
建物内は外観から見るよりも広く、そこからこの建物は地上部に出ている部分の方が少ないのではないかと推測する。要するに地下が広い。明らかにこういった不健全な遊び場として使用する目的で建てられたものだろう。
――仮面、仮面、仮面。
すれ違う無数の仮面をつけた彼等、彼女等の口許は微笑みの形を描いているのに、薄気味の悪さだけを感じてしまう。たまに水煙草の吸い口をこちらに向けて誘ってくれる人もいたけれど、丁重にお断りした。
だというのにさっきから場の空気にあてられたのか、純粋にハンカチ程度であの煙を防ぐことができないからか、足許がフワフワとした心地で心許ない。これではせっかく装備を整えてきたのに存分に動けなさそうだ。
地上部に出ているだけでこの状況なら、今夜地下に降りるのは止めておいた方が賢明かと考えていたそのとき――。
「正直、貴方はもう来ないだろうと思っていました」
ふと隣を歩いているイザークから唐突な言葉をかけられ、一瞬煙で働かない頭のせいで反応が遅れた。
「これ以上この箱庭にいては、母の記憶がぼやけてしまうところでした。だから貴方達が間に合ってくれて助かりましたよ。感謝しています」
その言葉の意味を問いただす前に視界がグラリと揺れて。耳許で「多少の毒耐性まであるとは……本当に規格外なご令嬢だな」と。聞き捨てならない台詞を聞いて。それきり意識は闇に飲まれた。
――、
――――、
――――――。
次に私が目を覚ましたのは、フカフカの寝台の上だった。鼻の奥に残っている甘ったるい香りのせいで目覚めが爽やかとは言い難いけれど、特に身体のどこかに異常がある気配もない。
それどころか着ている服もそのままだ。乱れもない。太股や腰やそれ以外の箇所も、触れる感触が着用時と同じ。要するに装備品がそこにあるということだ。唯一後ろ手にされた両手の親指同士が拘束されている以外は自由。脚も動く。
「おはようございますベルタ嬢。とは言ってもまだ朝の四時ですが。ご気分の方は如何です?」
ベッド傍で書き物机に向かっていた彼は、こちらが目覚めたことに気付くとすぐにそう声をかけてきた。その声音はいつも通り抑揚も感情もない。
「おはようございます、イザーク様。気分はさっきよりもマシなくらいですが……これはどういうおつもりでしょう?」
「急に未婚女性を屋敷に招待したりして申し訳ありません。これも父を国内に呼び戻すためなもので」
「呼び戻す……? このまま待てば、王家が動いてくれるのにですか?」
「ええ。あの男はいま飛び地で戦の準備に忙しくしています。このままだと野心が身体を喰い破る前に、政治的な力で殺されてしまうでしょう。それでは業腹だ。手を組むとは約束しましたが、手段を選ぶと言った記憶はありません」
その瞬間、書き物の手を止めてそう言う感情の一切を廃した声音と、過去の声音が脳内で交差する。
『“ボクは別にあの男に義理などありませんし、公爵家の跡取りとしての地位も必要ない。最初から足を引っ張ってやるつもりで奴に飼われたふりをしているだけだ”』
……ああ、確かに。この人何も嘘ついてないわ。道理でこちらを裏切った感なく街の案内をしてくれたわけか。
しかしこれはアグネス様のミッションインポッシブル的な出動があるかもしれない。ひっそりとお馬鹿なやり取りをして出てきたことに内心安堵した。
少なくとも彼女は早朝の六時過ぎまでに私が戻らなければ、王都まで速達のSOS書簡を出して、迎えが来るまでちょっとお高い宿屋に潜伏先を変えてこの街に滞在してくれるはずだ。
「そう……ということは、言質も書面も取っておかなかった私の落ち度ですね」
「残念ながらそういうことになります。意外と落ち着いているようですが、理由をお訊きしても?」
室内で唯一の光源である卓上ランプの火が揺らめき、彼の作り物めいたアイスブルーの瞳をより無機質なものに見せた。
流石に彼に対して少しは腹立たしさを感じるかと思っていたのに、不思議とそんなことはなくて。どちらかと言えばこの状況を作り出した彼の方が不思議そうにも見えた。
「貴男からは私に対しての殺意も害意も感じないからです。それに貴男はアグネス様と私の脚本を聞いていたのに、彼女をどうこうする気はなさそうですし」
「まぁ実際に彼女に割く時間も暇もありませんからね。この三日間出歩いていた分の仕事が遅れています」
「仕事?」
「脚本家らしく、自分という駄作の幕引き演出を考えているところです。彼女には何もしない。勿論騒がないでいて下さるなら貴方にも」
ひとまず彼の言葉を信じるしかないとは理解した。理解したけど……いまの私のポジションってば、もう元のゲームの要素ゼロじゃないか?