転生家庭教師のやり直し授業◆目指せ!教え子断罪回避◆ 作:タナゴコロ
十一月の鈍色の雲に覆われた空を見上げる。いまにも雪の一片でも落としそうな嫌な空模様だ。久しく装備していなかった軽鎧の放つ鈍い銀の輝きが、より寒々しさを感じさせた。
「ホーエンベルク隊長、今年は例年より雪が早く降りそうですね」
ふと向こうから歩いてきた兵士がそう口にしたことで、余程端から見ると自分が空模様を気にしているように見えたのかと苦笑が浮かぶ。
「ああ。お前の父はこの間魔女の一撃を腰に食らったのだったな。雪が降るほど冷え込むと腰の痛みが増すと聞く。母君だけで心配なようなら、いまからでも配置替えをするが」
「いえ、自分から志願しておきながらそのようなことは。うちの実家を気にかけて下さってありがとうございます。ですがいまのは隊長が空模様を気にしてるみたいだったので、それで。紛らわしくてすみません」
「そうか。こちらこそ心配をかけたようで済まなかった。空模様を気にするのは戦場にいると癖になるだけだ」
慌てて頭を下げようとする目の前で必要ないと手で制したところ、一瞬強張っていた表情が緩んで笑顔になった。元部下だった父親に似た兵士の笑みは、それでも母親の血が混じったことで幾らか柔らかい印象になったようだ。しかしそれもまたすぐに曇ってしまった。
「戦場……ああ、このままだとそうなることも考えておかないと駄目ですよね。ただ現状膠着状態で埒があきません。年末の式典までには終わるでしょうか」
直前までの笑みを引っ込めてそう言う表情にはこれが初の任務であるからか、緊張感が窺える。物見遊山気分では困るものの、不必要に怯えさせることもないので「肩肘を張りすぎるのも良くない。気を引き締める程度にな」と笑えば、相手も少し安心したのか頷いて持ち場に戻っていった。
再び一人になり、今度は空ではなく周囲に目を向ける。すると遠目にも数年前に見たときより家々の屋根が増えていることが分かった。
ここは元々が政治的衝突を避けるための空白地である。だからこそ情勢不安に陥る危険性のあるこの地に居を構えるのは、他国から弾き出された流れ者が多い。どこにも支配されないということは自由であると同時に、何の後ろ楯も恩恵もないということだ。
商業も農業も医療も、この地の元の規模から発展させることは難しい。それはこれらのほとんどを知識人がもたらすからだ。しかし武力に頼る傭兵達と違い、知識人というものは基本的に国という囲いの中を好む。
勿論そうと限った者ばかりではないが、腰を据えて研究をしようとすれば自然とそうなることが多いせいだろう。それ故に国家は自国からの知識人の流出を避ける傾向にある。
だというのに現在この地には、かの国の知識人が移り住んでいる形跡がある。間違いなくランベルク公の手引きだろう。いつの間にかゆっくりと毒が侵食するように、この地はあちら側の実効支配下に入っていた。
狡猾で野心を糧に生きるあの男の姿を思い出し、同時にエリオットが彼女があの男の息子によって攫われたという手紙を持って駆け込んで来た日を思い出す。
『フランツ、この内容にある青年がわたしとお前の従兄弟だと仮定して、従兄弟殿は自分から内戦の引き金になるつもりだと思うか?』
『どうでしょうね……伯父上に何か吹き込まれただけかもしれません。ですがひとまずフェルディナンド殿の持って来て下さった情報を、アウローラ嬢とマリアンナ嬢にも報告をしましょう。攫われたのは彼女達にとって最も近しい人です』
『ああ、そうだな。ホーエンベルクもそれで構わないか?』
あの日見たベルタ嬢の遊戯盤で培った彼等の状況判断能力は、正しく貴族社会を……ひいては国を背負う次代の王族として相応しいものだった。そしてそれはあれほど仲の拗れていた兄弟の成長だけに留まらず、彼女が一番熱心に教育した小さな姫君に最も強く色濃く出た。
『もしも先生の身に害が及ぶようなことがあれば、わたくしは死にます。ですがお相手がフランツ様達の従兄弟様とあられては、表立って争いたくないことも承知しておりますわ。ですので代わりにお姉様とお義兄に
『それは良い案ねローラ。だったらハインツ家からも出してもらえるようにお父様に頼んでみるわ。アグネス先生も敵の手の内みたいなものだもの』
王子達の説明を最後まで聞いたところでそう言うや、本当にその言葉通り今回どちらの家もこの場に私兵を投入している。ホーエンベルク領からは勿論のことだが、意外にもランベルク公の妻と一緒に息子を処分されたダンネル子爵家からも傭兵部隊を投入されていた。
王家はこの国最後の公爵家を潰すことになるが、恐らくマキシム様が玉座についた暁にはフランツ様が臣下に加わる際に、公爵としての地位と領地を拝命されることだろう。
すべてが正しく機能するようになる。素晴らしいことだ。そうなれば俺は今度こそ領地に戻って領主の仕事をこなせば良い。戦場に長く身を置き、束の間傍目には穏やかな第二王子の教育係という立場になった。しかしいまになってその褒美として与えられた地位と肩書きが恐ろしくもある。
この身に余る名誉に押し潰されそうになる俺は、結局学園を途中退学しただけの小領地の子爵家長子だ。口では年長者ぶってみても、学園を卒業したエリオットに対して引け目を感じることもままある。フランツ様達を通しての交流だった彼女との縁も切れてしまうことだろう。
――だが、そんなことは所詮私事の些末な話だ。
あそこまで慌てるエリオットの顔は、学生時代を通してから今日に至るまでで初めて見た。あいつも彼女を好いているのだろう。エリオットはあの通り調子の良いところがあるし領地経営能力は心許ないが良い男だ。女性の社会進出にも理解があるからきっと彼女を――。
「……しっかりしろヴィクトル。第一に考えるべきは彼女の救出。第二に考えるべきはエリオットとアグネス嬢の保護。第三に考えるべきはランベルク公の処遇。彼女のことだ、必ず捕まったことに対しての動きがある」
腰に帯びた剣帯を叩いて自身にそう言い聞かせ、一筋縄ではいかない癖の強い諸侯達と今後の作戦を立てるべく、天幕へと踵を返した。
天幕に戻るとすでに顔見知りの姿がいくらか見受けられたが、皆一様に表情は固い。こちらに気付いて目礼を返す者はまだ良いものの、こんなときだというのに叩き上げの俺を目の敵にする一部の貴族達から睨まれた。
本来の爵位では作戦を練るために天幕に入ることも難しかっただろうことを思えば、いまはフランツ様の教育係を受諾することで得た伯爵位がありがたい。彼女のために僅かでも助力ができる。
唯一話せそうなハインツ侯爵家とコーゼル侯爵家の私兵を束ねる者達は、まだここに集合していないようだ。
周囲を見回しても誰も彼も自領から連れてきた副官と話し込んでいるため、こちらから声をかけるにはもうしばらくかかりそうだと判断し、せめて漏れ聞こえる内容だけでも拾おうと端により耳をそばだてることにしたのだが――。
ふと天幕内で俺と同じように端に寄って誰と話す風でもなく、周囲の会話に耳を傾けている兵士が一人いることに気付いた。しかしどこにでもいそうなその風体に奇妙な違和感を感じて、その違和感の正体を見極めようと彼を観察していると、相手側もこちらの視線に気付いたのかこちらに視線を寄越す。
肩までの金髪に緑色の瞳に白い肌。特別取り立てて何かが珍しい色味ということもない。視線がぶつかったと思うと兵士は微かに驚いた表情を浮かべ、そしてすぐに薄く笑った。そのまま視線を天幕の外に一瞬向けて“ついてこい”とでもいうようにその場を離れる彼を追い、少し遅れる形で天幕から出た。
外に出たところでヒヤリとした空気が肺を締め付け、初めて天幕内の熱気が凄まじかったことを知る。
温度差で一瞬鎧の下の肌が粟立ったが視線を巡らせ、いつの間にかかなり離れた場所に立つ彼の姿をみとめてそちらへと歩を進めた。近付くにつれ大きくなる違和感は、彼の目の前に立つ頃には確信に変わっていた。
「すまない……こう呼ばれることは不快だろうが、貴殿は白い蝙蝠だな?」
尋ねたところで答えることはないだろうと思っての言葉だったが、意外なことに相手は一つ頷く。白い蝙蝠とはガンガル達リベルカ人と他民族……とりわけ白人種の色が強く肌に出た者達を指す。言い方はあまり良くないが要は混血児だ。
ただ、彼等のような血はどちらの人種からも迫害される。片方からは普通に他民族に紛れて生きられることを妬まれ、もう片方からは自分達の姿形を利用して土地に潜り込んでくる異端として疎まれるのだ。それは呼び名にも現れており、鳥にも獣にもなれないことを揶揄する蝙蝠が使われていた。
目の前の彼のようにこうして表の世界に出てくる者もいる。ミステル座にも一人女性がいるにはいたが、ここまで肌の色素は白くなかった。先の戦争で白い蝙蝠を見たことがないわけではなかったものの、彼に至っては瞳の色すらリベルカ人の特色を持っていない。
「どうして俺を外に呼び出したのか尋ねても構わないだろうか」
相手は再び頷く。しかしそれでも何故か口を開くことはせずに、小さなメダルらしきものと手紙を一枚懐から取り出してこちらに差し出してきた。反射的に受け取ったものの、それを見て今度はこちらが驚かされる。
メダルには王家の紋章。それもフランツ様やマキシム様の使う略式のものではない。顔を上げると相手は視線で手紙を開封するよう促してくる。言葉での説明がないのは、人前に姿を見せるだけでも充分に譲歩しているということだろう。
封蝋のない封筒の中に入っていたのは二枚の便箋で。そこに書かれていた内容に思わず溜息をついてしまった。
「……影は名前を明かせないと聞く。無理にその名を聞こうとはしない。だが貴殿が彼女達の伝言を一度王都に持ち帰ることなく、
メダルを返して目の前に立つ一兵卒の格好をした青年に騎士の礼を捧げれば、彼はメダルを大切そうに懐にしまい、踵を鳴らして手本のような敬礼を一つ残して去って行った。影は見える。影しか見えない。それでも王家に絶対の忠誠を誓う影ですら動かす彼女の存在に言い様のないものが胸に湧く。
彼の立ち去った方角を見つめる俺の背に、ハインツ侯爵家とコーゼル侯爵家両陣営の私兵が揃ったことを報せる部下達の声が届いた。