転生家庭教師のやり直し授業◆目指せ!教え子断罪回避◆   作:タナゴコロ

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◇エピローグ◇

 

 いったい何がどうしてこうなったの――……と。朝目を覚まして自室の天井を見上げるたびに自問自答するようになってから、早いものでもう二ヶ月。

 

 もっと詳しく言うのであれば五国戦記の最終公演から二ヶ月後であり、ベルタ様が婚約者のホーエンベルク様と交換留学生ごっこを始めて二ヶ月でもある。

 

 そうして何より――。

 

 ノロノロと書き物机の上に置いてある卓上暦に目をやれば、三日前に自分の手で描いた不格好な花の模様が日付を彩っている。その下に踊る【フェルディナンド様とお出かけ】という浮かれきった文字。これが一番この二ヶ月で変わった大きな出来事で。やっぱり今日もわたしは初恋の人と交際中なのだわ。

 

「はあぁ……今朝もまだ幸せな夢の中ですのね~……良いですわよ、もうこうなったらとことん幸せを謳歌してやりますわ~」

 

 二ヶ月前の公演でフェルディナンド様が下さった手紙は、大切に大切に管理してある。内容だって諳じられるほど読み込んだ。始まりは、そう――。

 

“この間は刺激的な告白をありがとう。見れば分かると思うけど、この手紙はあの日の返事だよ。手紙の流儀とか詳しくないから早速本題に入るね。オレにとってはたぶんベルタ先生が初恋だった。だから失恋したばっかりですぐに新しい恋は難しい。だけど、まあ……やっぱりと言うかアグネス嬢と友達になるのも無理っぽい”

 

 この時点ですでに結構色んな記憶を抉られたわ。あの日の失態を事細かに憶えているとは思っていなかったのだろうけれど、それ以上に内容が衝撃的すぎて。それなのに次には――。

 

“だけど次にオレが誰かを好きになるとしたら、それはきっと君だと思う。色んな女性に絵を描いて欲しいって言われたことはこれまで一杯あった。でも描かせて欲しいって頼んだのも、描きたいって思ったのも、ベルタ先生と……君だけだった。それにさ、気付いたんだけど、この四ヶ月君に会えなくて寂しかった”

 

 ですもの。乙女心に緩急をつけた攻撃だなんて流石にモテる方は違う。軽妙な文章を形成する文字は意外なほど繊細で美しい。

 

“オレにしては珍しいことなんだ。ずるいことを言ってるのは分かってる。だから少しだけ返事をする時間が欲しい。期限のない約束はしたくないから、それもちゃんと決めてあるよ。あんまり長くは保留しない。その時がきたら君に教えるから、それまで待ってて”

 

 だなんて。どこまでもどこまでもどこまでも、心に甘く囁きかける魔性の手紙は、父が昔まだ趣味が悪い時分のわたしにねだられて買ってくれた、レースの意匠をふんだんに凝らした宝石箱の中。

 

 あの手紙を読んでわたしはある仮定に辿り着いた。それが、芸術家の間では一般的だと噂の【疑似恋愛】という高難度の遊戯。恋愛で心に栄養を与えて感受性を刺激し、その力を作品へと昇華させる。これなら納得の理由だわ。

 

 だから決して勘違いして浮かれすぎてはいけない。芸術のためだもの。例えば先日ベルタ様に送ってしまったような恋人っぽい相談なんて、もってのほか。自重すべきね。大丈夫。勘違いは……まだ、そこまでしていない……はずだもの。

 

 【その時】が今日かもしれない、次回かもしれないと怯えながらも、ベッド脇のベルを鳴らして身支度を整えてくれる侍女と一緒に、午後からのお出かけへ着ていく服のことについてあれこれ話す時間は、この上なく幸せなのだわ。

 

***

 

「ごめん、アグネス嬢。次の画集のことで出版社の担当と話が長引いてさ。結構待たせちゃったよねー?」

 

「い、いいえ、いま来たところですわ~」

 

「ふーん……本当に?」

 

「ほ、本当、ですわ~」

 

 いつも四人で来ていたカフェのテラス席。持参した本を読んでいたところ、急に頁に影が差したことに気付いて顔を上げれば、そこには紙袋を抱えたフェルディナンド様が立っていた。

 

「へー? 店員に聞いたらもう一時間近く待ってるって言ってたよー」

 

 そう言いつつ目の前の席に腰を下ろし、長い脚を組んでテーブルに肘をついたフェルディナンド様がこちらに身を乗り出す。キュウッと悪戯っぽくつり上がった目には、オモチャを見つけた猫のような光が宿っていた。いまが初夏で、わたしが彼を待つのが苦にならないから店員への口止めを忘れていたわ。

 

 その魅力的な表情のまま「今日の格好も可愛いね。耳飾りも似合ってる」と言って、前回もらったフェルディナンド様お手製の耳飾りをつつく。つつかれた耳飾りと一緒にわたしの耳朶まで揺れるから、まるで耳を触られた気になってしまう。

 

「あのさー、オレ相手に気を使って下手くそな嘘ついたら駄目だって。付き合う時に約束したのにもう忘れたのー?」

 

「いえ、そういうわけではありませんけど~」

 

「じゃあアグネス嬢は彼女らしく、デートに遅れて来た恋人に我儘言ったら良いんだよー……ってことで、はい、どうぞ?」

 

「ええ~? 我儘って、急に言われても困りますわね~」

 

「んー、それなら三択にしよっか。①ケーキの追加注文②この後のデート代金全部オレの奢り③この場で頬にキス、とかでどう?」

 

「是非①でお願いします~」

 

「早っ。迷う素振りすらないじゃん」

 

「②は論外で③はこの後のお出かけが継続不能になってしまいますわ~」

 

 というかわたしが死んでしまう。好きな方とのお出かけかご褒美の死か選べと言われたら、誰だってお出かけを選ぶと思うの。こちらの切実な言い分を「ま、良いや。だったらこのケーキの中のどれにする?」と笑ってメニューを勧めてくれた。

 

 待っている間にケーキを食べなくて良かったと思いつつケーキセットを二人分注文し、それらが無事に配膳されると、彼はまたその魅力的な微笑みを深くしながらティーカップを手に取る。

 

「さ、アグネス嬢。他には何かない? 我儘が足りないから追加注文してよ」

 

 この感じの時の彼は欲しいものを手に入れるまで諦めてくれない。これまでの友人としての付き合いでそれは良く分かっていたから、こちらも真剣に悩んで答えざるを得なくなってしまう。そこで何とか悩みつつ、今朝も気になっていた例のことを尋ねてみることにした。

 

「では、そうですわね~……フェルディナンド様は、どうしてわたしとお付き合いして下さるおつもりになったのですか?」

 

「本当のこと言っても怒らないなら教えるよー」

 

「大丈夫ですわ~。どんな答えでもドンとこいでしてよ」

 

「そう? それじゃあ素直に言うけど、君の恋文が物凄く下手だったからだよ」

 

 可愛らしいタルトをフォークで口に運びながら、まるで悪びれずにそう言う姿に流石に言葉も出ない。それでも何とか苦笑らしきものを浮かべる努力をしていると、彼がベリーを突き刺したフォークをわたしの口に突っ込んで「オレさー、困った顔をさせるのが好きなんだ」と笑った。

 

 甘酸っぱいベリーを咀嚼しながら思わず「良いご趣味ですことね~?」と皮肉を言えば、フェルディナンド様はやっぱり悪びれずに「そうでしょ?」と言う。あざとい。こっちは“これも広域なら間接キスかしら”と考えているのに、余裕なようで羨ましいわ――……と。

 

 そこで不意に彼がこれまでとは少々違った微笑みを浮かべていることに気付いた。どことなく壊れやすい氷か、いまも彼の髪に揺れているガラスビーズのような淡い微笑み。その表情に見惚れるわたしの前で、彼は口を開いた。

 

「駆け引きの“か”もないくらい、純粋にオレのどことどこを【好きでした】って。過去形でそればっかり。アグネス嬢、知ってる? 過去形ばっかりの手紙ってさ、寂しいんだよね。もうオレみたいなのと関わりを持つのが嫌になったのかなーって。そう思ったら何か急に胸に穴が空いたみたいに感じたんだ」

 

 言いながら、紅茶に添えられていたブランデーを数滴ティーカップに落とす姿。

 

「ベルタ先生はさ、オレにとって本当に初恋だった。でもその半分よりちょっと少ない部分は憧れで、恋じゃなかったんだと思う。それでも“ごめんなさい”をもらった時は、やっぱり辛くてさー」

 

 言いながら、微苦笑を唇に乗せて紅茶をかき混ぜる姿。

 

「この子はオレのことをこんなに【好き】なくせに、どうしてあんなにいつもオレが自分の気持ちに気付くよりも早く気付いて、背中を押したんだろうって。そうしたら何か【好き】の形が分かった気がしてさ。ああ、今度こそ誰にも取られたくないなーって、思った」

 

 気弱なことを言うこの人を初めて見た。いつも飄々と冗談を言って、すぐに落ち込むわたしを掬い上げてくれるこの人が、気弱なところを見せてくれている。そのことにこの場で胸を掻き毟りたくなる感動を覚えていたら、ふと紅茶をかき混ぜるのを止めた彼の手がこちらに伸びてきて。

 

 咄嗟のことで反応が遅れたせいであっさりと捕まってしまったわたしの手は、油絵具が染み込んだ爪の手にすっぽりと包み込まれてしまった。隠れた手の中で何か冷たいものが左手に触れたような気がしてビクッと手を引けば、元から緩かった囲いはスルリとほどける。

 

「君の【好き】はオレの持ってるこんなガラスじゃなくて、本物の宝石みたいだ。えーっとね……要するにアグネス嬢がオレにくれる【好き】はさ、すーっごい綺麗ってこと。例えば、ほら。そういう感じ」

 

 フェルディナンド様に指差された左手に視線を落とせば、そこには雪の結晶を模したような華奢な指輪がはまっていた。驚きすぎて声より先に涙が溢れたわたしの耳許で、悪戯好きな彼は低く笑って。

 

「ほんとはね、出版社に行ったりしてない。これの微調整に手間取ってた。嘘ついてごめんね? それから返事は“はい”が良いなー」

 

 拝啓、きっと今頃幸せな時間を過ごしているわたしの親友へ。

 

 嘘が上手な友人で、恋人で、確信犯な彼は、今日からわたしの婚約者になってくれるつもりのようです。願わくばわたしの心臓が破裂してしまわないうちに、帰ってきてくれると嬉しいですわ。

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