転生家庭教師のやり直し授業◆目指せ!教え子断罪回避◆   作:タナゴコロ

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ベルタとアンナの父、ハインリヒ視点です。


♞幕間♞上からここが見えるかい?

 

 城内の下級文官が使用する渡り廊下。いくつもある柱の一本にもたれ、懐から古びた煙草入れを取り出す。箱の中には一本だけの葉巻とマッチ。

 

 火をつけるのに失敗したら諦めようと思っているときに限って、マッチは折れずに火花を散らした。仕方なく葉巻を口に咥えてマッチを近付ける。

 

 深く吸い込んだ苦味を舌の上で味わってからゆっくりと吐き出すと、ゆらゆらと紫煙が常の空より高く見える秋空に上っていった。

 

 昔はあんなに吸っていたのに、久し振りだと苦い。そのあやふやで心許ない煙を見送りながら、しばらくぼんやりと同じ行為をくり返す。

 

 ベルタが妻のお腹に宿ったときに止めて、最後にこの煙をもう一度口にしたのは彼女を埋葬した日の夜だった。

 

「……十二年ぶりか」

 

 当時ベルタは九歳で、アンナは二歳。身体の弱かった彼女から本格的に手習いを始めてまだ二年しか経っていなかったベルタは、姉の立場から一気に母親の役所になってしまった。

 

 残された人間が故人を忘れるとき、最初に思い出せなくなるのは声だという。彼女の声がベルタに似ていたのか、アンナに似ていたのか……もうほとんど思い出せない。彼女に贈られた数々の言葉だけが鮮明に残っている分、その言葉が正しい声で再生されないことがやるせなかった。

 

 十七歳でベルタを産んで、二十六歳でこの世を去った妻は、生きていれば立派な淑女になった娘達にどんな言葉をかけていたのだろう。王都と領地に離れて暮らす生活で、ベルタに母親と父親の両方の役を演じさせた不甲斐ない私を、彼女は……ルイーゼは怒るだろうか。

 

 没落した男爵家の娘だった彼女の実家も、いまはもうない。彼女が亡くなってしばらく経った頃に、エステルハージの名で借金を残してこの国から消えた。

 

『ねぇ、ハインリヒ……春が来たら、遠乗りに連れて行って。夏が来たら、小川に。秋が、来たら……あの子達も、つれて、皆で楓の紅葉を……』

 

 かさついた唇で最後にそう言った彼女が眠りについたのは、凍てつくような冬の早朝だった。あの日の声が思い出せない。彼女が冬にやりたい言葉を残さなかったことが、いまもずっと気になっている。 

 

 顔立ちはベルタの方が彼女に近いが、性格は幼い頃の引っ込み思案なアンナに近かった。しかしベルタがアンナの面倒を見てくれる間に、すっかり別人のように活発な性格に成長していったことから、さらにルイーゼの面影は薄れていく。

 

 ――ただ、娘達のその姿に救われた。

 

 それにベルタに乗馬を教えたのも、元を辿れば彼女が遠乗りに行きたいと言ったからだったように思う。彼女の面影を残す娘が馬で野を自在に駆ける姿は、私の虚ろだった心を何年もかけて埋めてくれた。

 

 ――どちらも、大切な私と彼女の娘だ。

 

 最後の一息分を吸い切るというそのとき、ようやく待ち人が歩いてくる姿が見えたので、葉巻を踏みつけて火を消す。向こうからやってくる人物はこちらに気付くと、ほんの僅かに緊張したように見えた。

 

「やぁ、待っていたよ。ホーエンベルクの坊や」

 

「エステルハージ殿……」

 

「“その呼び方は止めてくれ”と顔に書いてあるようだが、それは無理と言うものだ。君はこの短期間で私との約束を何一つ憶えていなかったらしい。よくも娘を下らない派閥争いの中に引きずり込んでくれたな」

 

 柱にもたれていた背を離し、目の前で立ち止まった彼にそう意地悪く声をかけると、その長身が萎んだように感じた。

 

「……申し訳、ありません」

 

 戦場向きの体躯から発された絞り出すような謝罪の言葉に、内心で渦巻いていた毒気が薄まる。それに元より本気でかけた言葉でもなかった。

 

「冗談だ。子爵も伯爵も、王族の前では平民とそれほど変わらないだろう。王命に逆らえる貴族などいないさ。ベルタも忠告したのに深入りしすぎた。あの子にしては珍しい失敗だ。しかし同時にいままで見た中で一番楽しそうにも見える」

 

 こちらがあっさりと非を認めて謝罪した内容を笑えば、ホーエンベルクは一瞬その目を丸くした。彼にしてみれば私がベルタの非を認めたことが意外だったのだろう。次第にその表情に困惑が混じる。

 

「私の妻は身体があまり丈夫ではなくてね。本当はベルタ一人の出産でだいぶ命を削った。けれどもしも一人娘が自分に似て身体が弱ければ、私が一人で残されてしまうからと、無理をしてアンナを産んだ」

 

 私達以外に人気のない渡り廊下で足下の葉巻を拾い上げながら、そんな彼を無視して話を続ける。

 

「案の定、アンナを産んだ後の肥立ちが悪くて。ベッドの中や長椅子の上からベルタに手習いを教えられたのは、たったの二年だ」

 

 日に日に痩せ細っていく彼女は、それでも毎日愛おしそうに娘達の髪を結い、糸と針を持って刺繍を教え、本を読み聞かせて、淑女のマナーをベルタに口頭と書物で教えた。

 

 ベッド脇にずっといる私に『ハインリヒは心配性ね。わたしも明日には元気になるから、貴男は自分の仕事をしないと駄目よ?』と。優しく儚い嘘を毎日ついた。

 

「忠告を忘れて引きずり込んでしまった君には、ここでの生き残り方をあの子に教えてやって欲しい。できなければそのときは、全力で君をいまの地位から引きずり下ろす。どんな手を使ってもだ」

 

 私の八つ当たりからくる脅迫めいた言葉に、ホーエンベルク殿は背筋を伸ばし、咄嗟に貴族式ではなく騎士の敬礼を返してくれた。可愛い娘をいつか拐いに来るかもしれない彼の動向を、一緒に見守ろうか、私の君。

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