転生家庭教師のやり直し授業◆目指せ!教え子断罪回避◆ 作:タナゴコロ
十一月も終わりとなれば、時計の針がまだ六時にもなっていないのに、窓の外は夜を感じさせる。あの教え子の誕生日にあった重大発表から一ヶ月と三週間。
もうすぐ第一王子の家庭教師に引き抜かれるのだと思うと、焦りから授業の質や量もかなり詰めているのに、教え子は弱音や不満の一つも吐かない。むしろ教われる範囲が増えたことを喜んでいる節すらある。
そんな健気な彼女を前に今日も今日とて大切な話を切り出せないまま、メイドから帰りの馬車の準備が整ったとの報せを受けて、一日の
この屋敷から仮屋までの距離は大したものでもないけれど、一応貴族の令嬢と子息を暗い時間帯に帰すのは危険なので、冬季は大抵朝は自分で屋敷を訪れ、夕方にはこうして馬車を用意してもらうのだ。
「もうそんな時間ですか……。ベルタ先生、フェルディナンド様、今日も授業と楽しいお話をありがとうございました」
「今日もいっぱい勉強お疲れお姫様。最後に描いたやつはなかなかいい感じに描けてたし、彩色教えるのは年明けにしようかと思ってたけど、この分だともう十二月からは彩色の仕方を教えてもいいかもね」
「ほ、本当ですか?」
「うん。最初はまずいつも通り基本練習だから、一色だけ使って濃淡のつけ方を教える。油絵は最終授業に回す予定だから、使うのはパステルか水彩ね。どっちがいいか明日までに決めといて」
憧れの画家にいよいよ彩色を教われるとあって、喜びの興奮からか教え子の頬にみるみる赤みがさしていく。しかし彩色の話が出たと言うことは、芸術レベルが中級の中くらいに届いた頃か。
ダンスの授業でも、一通りのステップを詰まることなく流して踏めるようになったから、間違いなく中級の下には引っかかっているだろう。
学力の方は数学で苦戦しているけれど、十二頁に及ぶ近隣諸侯百年の歴史年表を八頁まで暗記できているし、外国語もエステルハージ領でのアンナとの勉強で飛躍的に伸びたから、上級の下に食い込めるまであと少しと言ったところ。
十歳でそのレベルに到達できるとは、流石は私の教え子。前世ではこの域に到達するのはまだだいぶ先だったから、育成記録を大幅更新してしまった。
いつも通り屋敷の玄関ホールまで見送られ、そこで一度今夜の予習分を口頭で確認し、教え子の「また明日もお待ちしておりますわね」という言葉を合図にドアをくぐり、待たされていた馬車に乗り込む。
ゆっくりと動き始めた馬車の速度が一定になり、外への音が漏れ聞こえにくい速度になったところで、前の座席に腰かけたフェルディナンド様が口を開いた。
「ベルタ先生さー……あんま追い詰めるようなこと言いたくないんだけど、いつアウローラ嬢に家庭教師ができなくなるって言うつもり?」
「……あ、明日には、言うつもり……です」
「そう言い出してから今日まで引っ張ってるんだけど。明日から十二月だよ? そろそろ話しておかないと、あれだけベルタ先生に懐いてるんだ。オレが引き続き家庭教師を受け持つって言ったって、なかなか納得しないと思うんだよねー」
フェルディナンド様はそう苦笑しつつガラスビーズの髪飾りを弄って、こちらにダメージを与える正論を口にする。彼の言うことは至極尤もだ。これ以上告げることを引き伸ばしては、教え子を宥め諭すことにかける時間がなくなる。
けれどそんな正論で割り切れない思いが私の胸の中にあるのも、また事実なのだ。返す言葉を失くして俯いていると、不意に顔を隠すように流れ落ちていた髪を一房掬い上げられる。
二人しかいない馬車の中でそんなことをしてくるのは、当然フェルディナンド様しかいない。恨めしい気分で少しだけ視線を上げれば、美しい翡翠色の双眸がこちらを覗き込んでいた。
「そもそもさー、ベルタ先生は第一王子の家庭教師に抜擢されることの何がそこまで嫌なの? ある意味教育者としての頂点じゃない?」
「それを貴族同士のしがらみから逃げているフェルディナンド様が問います?」
彼の指先からやんわりと髪を抜き取り耳にかけ、彼の翡翠色の双眸をジト目で睨んでそう返すと、フェルディナンド様はニヤリと笑う。意地の悪い笑い方なのに嫌な感じがしないのは、ひとえにこの人の持つ飄々とした雰囲気のせいだろう。
「おっと、墓穴掘ったかー。でもどうなるにしても、アウローラ嬢の家庭教師役はオレだけになっちゃうってことか。劇団と遊戯盤は引き続き相棒でいられるけど、やっぱりちょっとつまらなくなるなー。それに絵画とダンスは自信あるけど他の教科は普通なんだよね」
座席に深く腰かけ直したフェルディナンド様は、そう言って顎を撫でる。男性とは思えない女性的なラインを持つ輪郭の彼が取るこういう動作には、いちいち色気があって時々羨ましい。
「それについてはアグネス様に文通方式で出題と添削をして頂けるよう、すでに手を打ってあります」
「うわー、まさか最初からあてにされてないとは思ってなかった」
「フェルディナンド様をあてにしていなかったわけではないのですが、確実性を求めた結果ですわ」
「はは、どうだかー……っと、先生の家の前に到着したみたいだな。それじゃあ今夜一晩しっかり眠って、明日こそはお姫様に伝えられるように祈ってるよ」
――と、いうような会話をして別れた翌日。
身支度を整えて、さぁ今日こそ伝えるぞと気合いを入れて仕事に向かおうというときに、家のドアがノックされた。一瞬フェルディナンド様かと思ったものの、どのみち昼にはコーゼル伯爵の屋敷で会えるのだ。彼であるはずがない。
そもそもコーゼル領で与えられているこの仮屋に来客があったことなど、いままでなかった。訝かしみながらもドアを開ければ、そこには上質な服を隙なく着込んだ人物が数人立っていて――。
「おはようございます。ベルタ・エステルハージ嬢ですね? 我々は陛下の命により、王都から貴方のお迎えに上がりました。本日はコーゼル伯爵にお許しを頂いておりますので、このまま王城までご同行願います」
あんの顔だけ良いタヌキ親父めぇ!! ズルズル引き伸ばしても年末まで時間があると思っていた私も私だけど、こんなことならフェルディナンド様の言うように、昨日のうちに言っておけば良かったわ。
身なりのキチンとした人攫いに馬車に押し込められて、教え子に伝言もできないままコーゼル領を出立してから二日後。私は一人王城の中にある図書室のような場所にいた。
煌びやかな柱時計を見やれば、昼過ぎに王城に到着し、馬車を護衛してきた人達の中で一番偉そうな人にここで待つように言われてから、すでに一時間半ほど放置されている。
あからさまな招かれざる客の扱いを拐って来た人間にするとは……傍迷惑を通り越して無礼だ。
図書室という空間で暇を持て余すことがないのがせめてもの救いか。待っている間に本に触るなとは言われていないので、棚から興味のあるものを見繕って机に積み上げ、読書をしながら時間を潰す。
時々私がこの部屋から抜け出していないか城のメイドが覗きにくるが、城勤めとなれば子爵家どころか伯爵家のお嬢さんもいる。身形が地味な私を一瞥したその表情に嘲りの色が浮かんでいるのを見て、思わず“そんなに暇ならさっさと誰か呼んで来い”と言いそうになった。
そもそもこっちは冬の最中二日間も馬車で移動して来たのだ。正直眠気すら感じる。これ以上待っても誰も来ないなら、この図書室を出てまともそうな人に伝言を頼んで王都の屋敷に戻ろうと考え始めた――……そのとき。
廊下から城内で耳にするには相応しくない、バタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。それはどんどんと近付いて来て、図書室のドアの前で止まる。
足音からしてメイドではないだろうと踏んでいたら、勢い良く重い両開きのドアが開かれ、見覚えのある配色の少年が飛び込んできた。
出たな……マキシム・ニコラウス・ジスクタシア。将来的にはとんでもないクズに成長する男も、現時点では流石にルドの兄というだけあって、類似箇所の多い整った顔立ちだ。
奴は一瞬だけこちらを見たもののすぐにフイッと視線を外し、誰かを探すように周囲をキョロキョロと見回す。私はまだ第一王子の顔を知らないふりをして、声をかけられるまでは放っておこうと観察を始める。
深みのある金髪に、
何というかテストの点数が毎回赤点で、顧問の先生に“次のテストで赤点取ったら、しばらく試合に出さんからな”とか言われるバスケ部男子っぽい。前世の塾では割と聞く話だったな――と。
「新しい家庭教師が来ていると言われたのだが、そこのメイド。お前、ここでそれらしい人物を見ていないか?」
「さぁ……私は朝勤め先に向かおうとしたところを拐われたので、ほとんど何のお話も伺っておりません。ここで誰をお待ちすればいいのか分からないまま、かれこれ一時間半ほど過ごしておりました」
メイド呼ばわりされたことが腹立たしかったわけではないものの、手にしていた本を閉じて暗に非難してみる。すると奴は初めて私に対して興味を持った風に向き直り、上から下まで値踏みするように見つめた。
「……次の家庭教師はまさかとは思うが、お前か?」
「私をここへ連れて来られた方々の気の迷いでなければ、恐らくは」
「だがお前は女ではないか」
間髪を入れずに返してきたその言葉に、前世も決して浸透していたわけではないにしろ、根本的に男女平等という認識がない世界に転生したのだなと、改めて妙な感動を覚える。
今の発言を前世でしようものなら、ニュースや新聞で三週間は引っ張られるに違いない。ここが魔法の使える世界で、もしも私に転移の魔法が使えたら、すぐにもあっちの世界に送ってやりたいくらいだ。
「ええ、仰るように私は女です。しかしそれが家庭教師をする上で何か弱味になるのでしょうか?」
「女にそこまでの学は必要ないだろう?」
ああ、その台詞画面で見たことがあるわ。確か学力をカンスト間際まで上げたとき、アウローラに向かって憎々しげに言ってくれたよね。あのあと一時的に教え子の教育コマンドからしばらく学力を選べなくなった。
「成程。男は強く賢く、女はか弱くて馬鹿であれと」
「べ、別にそこまでは言っていない」
「仰ったも同然ですが……深く考えてのことではないでしょうから、このお話はここまでに致しましょう。それよりも新しい家庭教師が来ていると告げられたのに、いらっしゃるのが遅かったことの方が気になります。家庭教師であればいくら待たせておいても平気だと?」
今度は分かりやすく二重の意味で非難する。一つはそのまま“馬鹿なのね”と。もう一つは“傲慢な奴だ”と。
いくら脳筋でも言葉の端々から私の発する多少の毒気が分かったのか、みるみるうちに表情を険しくさせていく。前世パソコン画面越しに見たコイツの成長した面影と一瞬重なる。
その顔を見て思い出すのは毎回死に至るアウローラ。可愛い私の教え子。彼女は私という味方を突然失って、今頃泣いているだろうか。
――というか、本当なら出会い頭に顔面に拳……は、私が痛いから、お高い鼻っ柱に鼻血が出る勢いで肘鉄かましてやりたいくらい鬱憤が溜まっている。
「私は勉強をしたくないという生徒に無理強いすることはありませんが、単純に不真面目なだけの生徒は苦手です。時間は有限なものですから」
読みかけの本を片手に近付き、視線一つ分低いトルマリンの瞳を正面から見つめる。カーテシーはしない。だって私達はまだお互いに名乗ってすらいない。私は彼の正体を
「貴男はどちらでしょうね?」
使い慣れた微笑みを張り付けたこちらの問いかけに、まだ