転生家庭教師のやり直し授業◆目指せ!教え子断罪回避◆ 作:タナゴコロ
社交界シーズンが終わるまでもうあと一週間。まだアウローラに契約期間の話しはしていないので、このままだと私も彼女も一度自分の領地に帰ることになるだろう。
特にアウローラに至っては今回私との顔合わせに王都に呼ばれただけで、まだデビュタントまでかなりあるから、それまで自領から出されることはまずない。
何かしらのイベント分岐があったのかもしれないけれど、初めてのシナリオに沿うことに必死で綻びを見つけることができなかった。残念ながら来年の社交界シーズンにまたこちらに出てきて侯爵に自ら接触をするしか、現状のルートに戻る道はなさそうだ。
しかし最初のうちは私が傍にいる時間にしか課題を開くことのなかった少女は、徐々に解けるコツを掴み始めると、夜の間に九頁ほどを片付けて翌日すぐに前日の話の続きをねだるようになっていった。
この場合、答えが合っていようが間違っていようが構わない。それは確かに合っているに越したことはないのだが、自発的に机に向かって勉強をするということが大切なのだ。
夜な夜な自室に蜂蜜入りのミルクを持ってくるように頼む少女の変化に、まず屋敷のメイド達が気付いた。以前までは侯爵家の令嬢であるのに常にビクビクとし、使用人達からすら逃げていた彼女が自分から話しかけて頼みごとをしたという、そんな些細な変化。
けれどそれを些細かどうか分かるのはいつだって身近な人物である。
「昨夜娘がわたしの執務室を訪れて、貴方が作ったという教本の問題のヒントになりそうなことを訊ねてきた。以前までなら考えられなかったことだ」
授業を終えて帰ろうとしていた私に、美味しい紅茶を分けてくれると言う教え子を玄関ホールで待っていたら、珍しく屋敷にいたコーゼル侯爵に呼び止められてそう言われた。
「まぁ、それは……ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません」
「いや、違う。そうではないのだ。そうではなく――……あれは、貴方の授業についていけているのか」
「はい。家庭教師としてそのようにお教えしておりますので」
教え子を“あれ”呼ばわりされたことに、少々カチンときてそうやや慇懃無礼に答えると、侯爵は視線を床に落とし、綺麗に整えられた口髭を撫でながら「そうか……」と呟く。
侯爵は教え子のふんわりとした見目とは対照的に、全体的に硬質な印象を纏った人物である。少し暗めの金髪と鋭いダークブラウンの瞳は、見る者に威圧感を与えるし、顔立ちも渋めで整っているのだけれど……威厳を持たせる口髭もあの子の目には怖く映るのだろう。
初めて本物を見たときは、ゲームに登場しなかった人物に出会う不思議さを味わった。ちなみに侯爵夫人はプラチナブロンドにトルマリンの青い瞳を持つ、柳腰のたおやかな美女である。育成ゲームの出番のない夫婦に随分な大盤振る舞いだなと思ったのは内緒だ。
黙り込んでしまった侯爵に位が低い私から言葉をかけることはできない。無言で床に張られたモザイクタイルの数を数えていると、先にお土産の紅茶を持って駆けてくる小さな足音が聞こえてきた。
――時間切れだ。そう思って床から視線を上げた直後。
「エステルハージ嬢。貴方にも領主代理という使命があるのは、重々理解しているつもりだ。こちらから急に頼み込んだ挙げ句、雇用期間まで決めておきながら身勝手な願いだと分かっている」
突然話始めた侯爵がそこで一旦言葉を切る。続きを口にしようか迷いの残るその瞳を見つめ返して、僅かに頷き返すことで先を促した。
「どうか娘のためにこのシーズン後は、我が領地まで同行してもらえないだろうか。期間は……半年ほどで。謝礼はそちらの提示する要求額を用意させて頂く」
二つも階級の低い相手に言葉を選ぶ侯爵を見つめながら、内心では“はい喜んでー!”と居酒屋のバイトさんのように元気に返事をしたものの、表向きは令嬢らしく深く腰を落としたカーテシーを取りながら微笑む。
「私のような者を相手にそのようなお言葉を……過分なことでございます。ですが、家族と一度話をしてからお返事をさせて頂きたいのですが」
「それは勿論だ。一週間後に返事を聞かせて欲しい」
「畏まりました」
こうして途中退場秒読みの段階でシナリオに新たなルートが現れた。前世の感覚でいくと親御さんのお試し期間が延長なら、本採用だってあり得るのだ。この好機必ずものにしてみせるぞ!
***
半年間の雇用延長と、向こうの領地への同行を打診されたと父とアンナに伝えたら、父は渋い顔をして『階級社会が恨めしいが、嫌だと思ったら途中でもいいから領地に帰れるようにしよう。あまり深入りしないように』と言い、アンナは『そのお嬢さまの成長に期待ね』と真逆の反応を見せた。
反応としては父が正しい。子爵家の人間と侯爵家の人間など、貴族社会においては同じ人間と言うくくりでしかないからだ。
そして今夜は領主代理を一時的に承諾してくれた妹が、シーズン最後の夜会に一度だけ姉妹揃って行きたいと言い出したので、苦手な場所ではあるものの、何故か父が用意していた私用のドレスに身を包んで出席中である。
煌びやかなシャンデリア、視界の至るところで翻る流行のドレス、父以外の貴族男性、アンナと同じ歳頃のご令嬢達のキラキラとした瞳。
触れ合うグラスの音と、さざめく声、談笑の中で弾ける笑い、ひっそりと聞こえる嘲笑。良いものも悪いものも入り交じるこの空気を、きっと六年前に私も味わっているのだろう。
シナリオになかったから知らないだけで。ゲームの舞台裏設定か何かにはあったんだと思う。たぶん。
「お姉さま、この果実水とチーズもとても美味しいわ。あと、こっちのサーモンが乗ったクラッカーも」
「ふふ、アンナは素敵な殿方とのダンスよりも美味しい食べ物の方が好きなのね。私がいない間の社交もずっとこうだったのかしら?」
「そうよ。そのおかげでお父さまと一番多く踊ったくらい。だからわたしは素敵な男性とのダンスよりも、領地では見ないような美味しいものの方が好き。でももっと好きなのはお姉さまよ」
まだお酒を飲めないアンナは、それでも私が口にする果実酒に興味津々といった風で、時々「一口だけ……駄目?」とねだってくる。傍を離れる予定もないので「ちょっとだけね」と与えれば、嬉しそうに笑う。離れている間の分は、今のうちにしっかり甘やかして愛情を感じさせないと。
「あらら、それは嬉しいけれど、随分と勿体ないわね」
「だってどの人も同じことしか言わないのだもの。退屈よ」
「具体的にどんなことを言われるの?」
「ええと……お綺麗ですね、お一人ですか、妖精かと思いました、この会場内で一番お美しい、恋にご興味はおありですか、今夜貴女の瞳に映るのが私だけなら良いのに、よろしければこの後一緒に抜けませんか……とか。そんなのばっかり」
――妹よ、彼等の何割かは本気で言っていたのだと思うよ。確かにお酒が入っていない状態で聞かされても不審感しか持てない内容ばかりだけど。特に――。
「そう。取り敢えず、最後の男にだけはついて行っては駄目よ? すぐにお父様の元に戻って、誰に言われたのか教えるの。良いわね?」
「うふふふ。はーい、お姉さま」
私の腕に自らの腕を絡めてふにゃりと笑う美少女に、周囲にいる男性陣からの視線が集中しているのが分かる。隣にいる保護者の私を邪魔に思っている視線も。綺麗な衣装に身を包んだ野獣共の群れから姉である私が妹を守らねば。
ドラマや小説にあるような“身分の低い貴族の娘だから、ちょっとくらい遊んでも”などと思われては堪らない。妹にそんなことをしたら何をとは言わないけど、伐採してやる。こっちも領主代理をする程度には護身の心得くらいあるのだ。
もともとの悪企み顔を利用して周囲をうろつく男性陣を睥睨すると、疚しい者達はそそくさと立ち去っていった。けれど会場の入口付近がにわかに騒がしくなり、遅れてきた主賓かと思ってそちらに気を取られていたそのとき――。
「あ、あの!! エステルハージ嬢!!」
突然そう声をかけられて妹と一緒に振り向いた先に立っていたのは、私が人のことを言うのもなんだけれど、垢抜けないぽっちゃり型の青年だった。背が大きなことでかえってぽっちゃりが強調されている。どうやら周囲にいた不埒者達に押し退けられて今まで近付けなかったようだ。
気の毒に酷い癖毛なのだろう。不潔さはないのに絡まった黒い前髪の間から、古酒を思わせる赤みがかった琥珀色の瞳が気弱そうに覗いている。落ち着きなく小刻みに震えている様から彼の尋常ではない緊張感が伝わってきた。
しかし問題はそこではない。私と妹は顔を見合わせ、再び彼へと視線を戻して同時に口を開いた。
「「どちらのエステルハージ嬢でしょうか?」」
「え、どちらの……とは、そちらの方も……?」
その困惑顔に“あ、似てないからか”と思うのは私だけだったらしく、妹は彼に向かって眉と目尻をつり上げた。淑女教育の賜物か声こそ上げないが、その表情はかなりご立腹である。
――が、彼はいきなりガバッとその長身を折って「あ、貴女の翻訳書のファンなんです! す、すみません、それだけ伝えたくて!」と、叫ぶように告げて思いのほか機敏な動きで逃げ出した。
妹も、周囲も、勿論私もポカンとして立ち尽くす。何だろう……ここまで注目されることをしたなら、せめて名乗っていけばいいだろうに。ちらりと妹を見下ろせば、困惑の中にほんの少しだけ喜びが見える。せっかく妹の記憶に斬新な登場と台詞を刻み付けられたのに勿体ない。
この会場のどこかにいる父にあとで聞いてみようか――。
彼が走り去った方向を気にしている妹を観察しながらそんなことを考えていると、今度は会場の人々の隙間を縫ってこちらに向かってくる人物が一人。
その人物はいつかどこかで見たような、赤みをおびた金髪と紺色に近い青の瞳を持つ青年だった。