――――そう、死ぬその間際でさえ、殺す事を考えるという事。
忍はまた、地下に篭る。
今度は毎日出てくると約束しての行動なので、そう心配はしていない。
非常用の血液や、増血剤なども貯蓄と、入手方法はきっちりとしている。
ただ、余り忍の心は良い感じとは言えなかった。
俺に対してさえ、以前のような全てを開放した感情表現を行わない。
まるでそうする事で、次の痛みに備えるような――――。
山があるから、谷に落ちた時落差を感じる。
喜ぶや怒りと言う大きな感情を無くして、悲しみに対抗しようとする。
それは心を持つ生物としては当然で、しかし勧められない兆候だった。
殻に閉じこもるのは良くない。全てが受動的になる。
己の内にひた耐えている哀しみを、せめて別方向へと向ける事が出来たら。
多少バランスは崩れるだろうが、生きるという意志を取り戻す事が出来る。
――――例えば敵。
これが一番容易く、人の心に火をつける。
しかし敵が居ない。
本来敵にすべき筈の月村安二郎は、既に死んでしまっているのだから。
イレインもまた同じ。パーツとして使う事は有っても、もはや憎しみと呼べるほどの感情は無いだろう。
「っ――――!!」
ズクと膝が、痛む。
息が詰まる。
痛みに視界が染まる。白く、白く。
知らず、手に触れていたシーツを握り締める。
「恭也、大丈夫?」
「く、ぁあ、ふっ……」
「痛いの? ごめん、ゴメンネ? 私が恭也に迷惑かけたから。わ、私が……ノエルが倒れたのも、私が素直にこの家を安二郎、渡してたらこんな、こんな事に なるなんて……」
涙ぐんで切羽詰った声を聞くと、痛みで余裕の無い筈のこちらが心配してしまう。
暖かい。抱きしめられているのか、前面に温もりを感じる。
そこから痛みが引く。視界が晴れる。
忍が泣いて、抱きついている。
何故泣くのか。
抱き返し、親指で涙を拭った。
「泣くな」
「う、うぅ……」
人の涙を止めるには、意表を衝く事だ。
――口を塞ぐ。
「んっ! ん、んぅ……ぅ、ぅん、む……はっはっ、はっ」
「久しぶりに、するか?」
「……私で良いの?」
「意味が分からん。忍以外に誰が居る」
「だって、私と一緒に居たら、大変だよ?」
「構わんさ。元より選んだのは俺なんだ。責任は、俺が取る」
「きょう、やぁ……私、本当に頼っちゃうよ? 全部全部、信じきっちゃうから」
「なら、受け止めるさ」
舌を絡める。そのままベッドにゆっくりと押し倒した。
珍しい泣き顔。ひどく扇情的で、そそられた。
スプリングの音。
俺だって久しぶりなんだ。
溜まった鬱憤も、全部ぶつけよう。
本音を吐き出すのは、事が終わった後でも十分間に合う。
荒々しく服を脱がせた。
珍しく、足腰が立たないくらいにまで続けた。
夜の一族特有の発情期でもないというのに、ここまでしたのは、もしかしたら初めてかもしれない。
最後には二人して気絶した。
日が昇って、もう一度陽が落ちた、様な気がする。
そこから先は覚えていない。嗄れたような喘ぎ声と、水音。スプリング。
ここら辺が断片的にあった。
気付けばまぐわったままの格好で寝ていた。
シーツは悲惨な状態で、正直目覚めた以上、一秒たりとも寝ていたくない。
そんな周囲の状況もお構い無しに、忍は久方ぶりに満足そうな笑みを浮かべている。
……誰よりも愛しかった。守ろうと思う。
ノエルの様にはしたくない。しかし守りきれるだろうか、とも思う。
俺はノエルを守れなかった男だ。
忍を守りきれる確証などない。
最悪な事に、あの日から膝は痛い。痛みは収まらない。
ますます酷くなるだろう。
最近はフィリス先生に言われるまでも無く、鍛錬を控えるようになっていた。
鈍痛。揺り返し。
酷い時は嘔吐感がこみ上げる。
歯を食い縛っても、胃液が溢れて口の隙間から泡を吐いた事もある。
最後に一度だけ自問する。
もう同じ問いは繰り返さない。断固たる決意が必要な時だった。
護れるのか――――。
鈍痛。今度のはまた、一際大きい……。
護れない時は死ぬ時だ。
忍の顔に表情が戻り、笑顔が増えてきた。
学校にも復学し、相変わらず爆睡街道をまっしぐら。
うむ、良い兆候だ。
席を隣に並べて同じ様に寝ていると、似たもの夫婦だと赤星に笑われた。
久方ぶりに手に入れた、本当に束の間の平穏。
その本当の意味でのありがたさは、こうして心許せる親友と同じ時を過ごす時、現れているかもしれない。
「ここ数日、少し面倒ごとに巻き込まれててな」
「そっか。……でもどうせ首突っ込んだのは高町の方なんだろ?」
「そうとも言う。というか、トラブルメーカーを彼女にした俺の責任だ」
「なるほどね……」
ちらりと赤星が忍の方を見やる。
俺の知り合いでただ一人――全ての事情を承知している親友。
忍が夜の一族である事を含めて、全てを吐露した。
本音を話せる相手のいる貴重さ。
俺は自分でも自覚する程人付き合いが苦手だから、赤星の存在は救われた。
赤星は人に嫌がられる様な類の、薄暗い感情を見せた事が無い。
俺に対しても一度か二度。それも偶然に見たというだけで、自分から晒した事は無い。
お互いの本音を知っているからこそ、俺は赤星の親友足りたし、赤星は俺の親友足りえた。
相互補助の関係。
こいつにだけは全てを知っていて貰いたい。
こいつだけは全てを知っていて、俺を軽蔑する事無く、裏切る事無く付き合ってくれる。
それは無条件の信頼。
いつまでもこんな関係が続けばな、と思う。
「良かったら、俺も手伝おうか?」
「良いのか?」
「勿論」
「その言葉忘れるな? なに、後で藤代に泣きつく事が無いと良いがな」
「ぐっ……やっぱ止めだ! くそ、からかいやがって」
「最初に茶化したのはお前だろうが」
申し出は嬉しかった。
しかしいかんせん、赤星は余りにも、俺たちの世界に対する対処法を知らない。
そして教えたとして、その対処法を実行するには、赤星は余りにも綺麗過ぎる。
力を借りたいのに、力を借りれない相手。
まったく、友達甲斐の無い(さいこうの)奴だ。
お前だけは何時までも、綺麗なままで。
弱さから世の中の汚さに走る奴とは正反対に、生きて欲しい。
「……ありがとうな」
「何しんみりとしてるんだよ。本当に必要になったら、言ってくれ」
「ああ」
そんな日は二度と来ないだろう。
そう思いながらただ、はにかむこの親友に感謝の念を捧げた。
放課後、滅多に鳴らない携帯電話が鳴った。
この電話が鳴る時は、いつも必ず只ならぬ時と相場が決まっている。
のんびりと下校していく級友達が視界に納まる風景の中、一人気を引き締めた。
忍はまだ寝ている。あと五分ほどはせめて、寝ていて欲しい。
機種を変更しないで数年。傷付いて古ぼけて、単純な機能しかない携帯電話のディスプレイからは、――――の名前。
無言で出る。聞こえてくるのは静かな息遣いだ。
「何の用だ」
『ふむ、失礼な物言いだ。畜生臭がする下賎な人間には相応しい』
「用が無いなら切るぞ。耳が爛れる様な公害音を聞かされては敵わん」
『ふん、躾がなってないな。以前僕が月村家をバックアップすると言った事を覚えているか?』
「ああ。何か問題でも?」
『大有りだ。水面下で動きがある奴を探っていたら、早速網に掛かった』
「誰が大元だ」
『…………』
無言。相変わらず静かな息遣い。
しかしそこに、微かな動揺が感じられた。
……何故?
『確証が得られるまではっきりとは言えん。が、一つは分かっている。お前のクラスにいる女子、雪原という女はコソコソと這い回るハイエナよ』
「ゆき《・・》、はら《・・》?」
『なんだ、貴様は己のクラスの人間すら把握していないのか』
「いや、分かる。分かるが……」
『この女は元々薄汚い混血でな。偶然同じ学校にいた事で上から目を付けられ、月村を監視していたという所だろう』
くらくらとする。
何故だろう。何故こんなにも簡単に、平穏は通り過ぎるのか。
足元が崩れ落ちる感覚……膝が砕けてきた。
血の気が失せる。
強烈な目眩。膝に手を付いて体を支え、耳に意識を集中させる。
相変わらず耳障りな、蟲が這う様な声で氷村が喋っている。
『こちらで帰り道の途中を捕獲した。処分はこちらに任せて貰う。明日この女が学校に行かない理由は、貴様からしておけよ。親の突然の転勤。それだけで充分 だ』
受話器からくぐもった喘ぎ声が聞こえる。
女の、男を誘う、淫らな……。
「おい、貴様……。何をして、いる?」
『ふん、薄汚い獣にする事などそう多くは有るまい? 調伏と、躾と――――姦淫と。なに、同意の上だ』
「……お前達には暗示の能力が在るだろう」
『そんな無粋な物は遣っていない。確りとした対価に伴った、契約だよ、これは』
――――但し対価は命だがな。
それだけを言って通話は切れた。
気の重くなるような電子音。無力感に溢れる。
くそっ。頑張れって、頑張れって言ったのは他でもない君だろうが……!
顔も余り覚えていないクラスメイトだった。
三年に同じクラスへと編入して半年をともに生活し、随分と薄情な人間だと自分でも思う。
だがそれでも。この結末はあんまりだ。
――――信じれるのは血だけか?
良くそんな話を聞く。
血は水よりも濃し、と。信用できるのは血族だけだと。
だがその血族を失った俺は、その水の濃さを信じたかった。
人は他人にも優しくなれると。
だが現実は強い拒絶を感じる。
一方的なシンパシー。
自分のこれまで貫いてきた生き様を否定される様な、大きなショックがあった。
不確かな足取りで教室に戻る。
忍は目をしばたいて、現状を把握している最中だ。
手を上げる。気付いた忍がにまっと笑う。
深い安堵。
大丈夫。
たとえ他人が信じられなくても、俺は俺を信じられる。
俺は俺の信じた人を、信じられる。
だから俺は信じる者の為に、まだ戦える。
この小太刀を振るう理由を、俺はまだ見失ってはいない。
「忍、帰ろう」
「そうだね」
「お前が居眠りするから、教室にはもう二人だけだ」
苦笑する。
いつの間にか、辺りには誰もいない。
カーテン越しに入り込んだ夕陽は赤く、机と椅子の影が長く伸びる。
人の気配の無い静かな廊下。
小さく聞こえてくる運動場の掛け声。
忍は寂しげに小さく笑うと、頷いた。
「私達、二人だけだね」
「ああ」
「こんな静かな場所にいるとさ、この世に二人しかいないみたい」
「確かに……不思議な静けさだな」
「帰り、ゲームセンター寄ろっか。何だかパーと騒ぎたくなっちゃった」
「お供しよう」
「今度もちゃんと護ってね?」
「……任せろ」
この命に代えても、必ずや……。
――――Piriri! Piriri!
今日二度目の、コール音。
知らず知らずのうちに、息を呑んでいた。
――――Piriri! Piriri!
「出ないの?」
「……出るさ」
しかし、本心は出たくはない。
好からぬ結末など、出来れば目を背けて逃げ出したい。
――――Piriririririririririririririririririririririririririririririririririririririri――――…………!
鳴り続けている。
拒む事を許さない様に。
これから先の事態への逃亡を、赦さないかの様に。
教室に入る夕陽の明かりが急に、弱まったように感じる。
先ほどまで聞こえていた運動場からの声も、今は掻き消えている。
空気はしんとして少したりとも動かず、この場が電子音だけに占領される。
机や椅子の影が深まり、四隅は視認出来ないほどにその闇を増し、教室を異界へと変えるかの様だった。
暗い。昏い。
携帯電話から漏れる薄蒼い明かりが俺と忍の顔を照らした。
液晶画面には無表情に五文字。
『綺堂 さくら』
覚悟を決めて、出た。
奇妙な威圧感が、教室を包む。
いつもと同じ、平静な声が聞こえてきた。
『ああ、高町くん?』
「はい」
いや、違う。
これは……平静を装った声だ。
何か拙い事が有ったな、と予想して、こちらから先に訪ねた。
「何か有ったんですか?」
『ええ……赤外線が感知した、侵入者の痕跡があるの』
「……っ!!」
『幸い侵入対策ゴム弾とか、警報でそのまま帰ったみたいだけど……』
「次の可能性があると、そういう事ですね?」
『そうね。私としては圧力を強くする事くらいしか出来ないけれど……。遊には私から人員配置を増やすように言っておくから。これから直ぐに帰ってこれ る?』
「はい……忍、良いな?」
「うん……」
「すみません、さくらさん。少しだけ寄る場所があるんで、それが終わったら直ぐ帰ります」
『そう……帰り道、気を付けてね』
「はい」
通話を切る。
思わず出そうになる溜め息を飲み込んで、忍を見る。
不安そうな顔でこちらを上目に見ている……これ以上心配させる訳には行かないな。
「それじゃ、遊びに行くか」
「いいの、かな」
「いい。俺が許すから」
「恭也……」
俺達は頷いて、一度だけ口を重ねた。
見上げる顔を見かえし、背に腕を廻して顔を見えないようにしておく。
髪を掻きあげてやり、抱きしめた。
今の顔を、見せてやりたくは無かった。
言い知れぬ不安が、胸を疼かせているから……。
――――昔。
小太刀を見る度に、嘔吐感に苛まされた時期があった。
父さんが死んだ時だったか、膝を砕いた時だったか、初めて を 時だったか。
こみ上げて来る不快な胃液を堪えながら、美由希に剣を教え、自身も振っていた時期があった。
心因的外傷――トラウマという物がそれらしい。
しかしそれを乗り越えると逆に、今では八景を手放す事が出来なくなっている。
その苦痛すらも自身の構成の一部として認識し、苦痛も裏返せば甘露となり。
今の心境はそれに良く似ていた。
コール音の度に訪れる、訃報にも似た凶事。
刻々と迫る最悪の瞬間へと駆け足で近寄る感覚。
しかしそれがどことなく、心に高揚を与えている。
そこに到る苦難が多いほど、最後はハッピーエンドと相場が決まっているのだ。
効果音に溢れかえるゲームセンターには若い世代の男女が多い。
眩いばかりの画面と、俺の視界の中心で神速の指捌きでゲームに熱中する忍。
こちらを見てくる視線は幾つかあるが、それらの全てが好奇心による物だった。
……懐を見つめる。
携帯電話の着信音は完全に紛れてしまい、バイブレーションだけが着信の存在を俺に教えていた。
「忍、少し手洗いに行ってくる」
「うん……えいっ、てやっ、とぉ~~~~!」
「……はぁ」
溜め息を吐いて、念の為周りの気配を確認してから、その場を離れる。
人ごみを通り抜け、言葉どおり手洗いに。個室に入って、通話を押した。
「もしもし、どうした?」
『あ、恭ちゃん。もー、どうしたじゃないよ。昨日は一緒に神社に鍛錬するって約束したじゃない……』
「むぅ……シマッタ」
『シマッタ、じゃないし。今日もお泊りなの?』
「ああ……少し問題があってな」
『愛しの忍さんがそんなに心配?』
「――――違う」
「……恭ちゃん?」
ここら辺は長い付き合いが助かる所だった。
こちらの意図を的確に拾い上げ、察してくれる。話が早くて良い。
それは時に、一つの危機を避ける事が出来る筈だ。
「美由希、一級待機だ」
「――――……ッ!! ちょっ、それって……!?」
「後、可能なら那美さんを送り届けるなり、迎えを呼ぶなりしておけ。絶対に一人にはするなよ」
「そ、そんな危ない状況なの? ねぇ!」
「俺の勘が正しければ、事は二・三日で終わる。但し、対象が俺と忍だけとは限らないのが問題だ」
――――良いか?
――――忍を護るのは俺で、家族を護るのはお前だ。
俺の言葉はどれだけこの愚かで賞賛すべき妹に伝わっただろうか?
俺の美由希に対する信頼と、傷つけてしまうかも知れない事への恐れ。
きっと。
きっと美由希はその全てに気付いているのだろうな、と思う時がある。
俺は美由希の殆どを分かり、美由希は俺の殆どが分かる。
俺達は剣と言う接点を持って、お互いを分かち合った。
だからこそ俺は美由希を任せ、美由希は、例えその本心を如何な物としても、了承してくれる。
「…………うん。分かった。絶対に護ってみせるから……御武運を」
「ああ、お前にも剣神の加護がある様に……武運を祈る」
ああそうだ、と前置きを置いて。
「父さんの部屋にな、金庫が一つある。まあ大丈夫だとは思うが、何かあったら開けて使え。小太刀が入ってる。不破士郎(2846)。……何処までもふざけ た男だ」
「ちょ、恭ちゃん? それってどういう意味!?」
「俺の家も知られている可能性もある。いいか、お前が考えられる限り、皆を一所に集めて、安全を確保しておけ。警備を怠るな。護る為に最善を尽くせ。お前 は大丈夫だ。俺もきっと大丈夫だ。俺達はその為にこそ――――剣を執ったのだから」
「うん!」
威勢良く返事が返ってきたのを確認してから、電話を切った。
電話を懐に戻し、忍の元へと戻る。
3798664!! と大きな文字でハイスコアが点滅するその前、忍はまだワンコインでゲームを続けていた。
……負けない限り永遠に続けられるという訳か。
「忍」
「あ、ほら恭也、見て見て。歴代NO.1! 実はこれなのはちゃんもやってるんだよ、凄いでしょ」
「ふむ」
なるほど。道理でむきになって続けるわけだ。
ノエルがなのはに負けてからと言うもの、結構な対抗心を燃やしていたからな。
しかし、と思う。
前はこれほど執着していただろうか?
そこに忍の不安定さを見出してしまうのは、果たして杞憂か。
言えば否定するだろう。言えば本心を隠すだろう。
これはこれで忍なりの、自己防衛の手段なのかもしれない。
現実に直面するのを少しだけ避けて、何かに没頭して。
そして何時かはきっと、その問題にも真正面から向き合う。
その日まで俺は、隣に立つ事が出来るのか。
まずはこの二日。何が何でも凌ぎ切る。
全てはそこからだ。
心に決意を常に刻んで。
現実に負けないように。現実で曲げないように。
俺達が確りと前へと、進んでいくように……。