Last time …… are you happy?   作:肥前文俊

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その昔個人サイトで掲載した作品をサルベージしておきました。
修正もしておらず、見やすいように調整もしていないのですが、かつてを知る方が読まれる可能性を考えて、掲載しておきます。


前編

 別れはあまりに唐突だった。

 世界はあまりに無情だった。

 思いはあまりに無力で、想いは何も成しはしなかった。

 世界はあまりに無慈悲で、力はあまりに無意味だった。

 

 

「恭也君……貴方は、後、半年の命です」

「……そうですか」

「原因はいまだ不明。ですから治療法も見つかってはいません」

 

 突然の事実。

 それは死刑の宣告に似ていた。

 

 意味合いは全く違うというのに、それは何故か死刑の宣告と似ていた。

 残された時間が、行える自由が、それら全てが違うというのに……。

 

 

 ――それは何故か死刑の宣告に似ていた。

 

 

 

 

 

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Last time …… are you happy?

「Sentence of death=死の宣告」

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「フィリス先生。ひとつ、お願いが有ります」

「なんでしょうか」

 

 深い絶望を感じながら、フィリスはそれでも医師の勤めとして最低限余裕を持たせようと努力しながら頷く。

 恭也はそれを見るとどこか微笑、とも取れる表情で頷き返した。

 

「この事を、家族には黙っていてもらえませんか?」

「それは、……っ!!」

 

 フィリスは一度反論しようとして、制止の為に上げられた手を見、止めた。

 恭也は続ける。

 

「治療法が見つかるというのなら、俺はそれに賭けましょう。しかし見つかっていない。 だとすれば俺はそれを伝える事で家族の今の雰囲気を壊したくないんです」

「でも、それでは家族の……」

「蓮は戦いました。長い闘病生活、気の遠くなるような苦しみだったでしょう。

 そして、俺はそんな蓮に対し何も出来なかった。最後に蓮を後押ししたのは晶です」

「でもそれは恭也君達がいてこそ……」

 

 恭也は顔を振る。

 

「俺は全てを変える事無く、一人で死にたい。

 

 傲慢だと言われても、それが、俺の望みです」

 

 その目は決して、死を宣告された者ではなかった。

 その目は決して事実から逃げようとしていなかった。

 その目はただ、事実だけを見据えていた。

 誰よりも人の死に接してきた医師達よりも――――

 

 ――その瞳はただ、死、そのものを見つめていた。

 

 

 

 ――止められない

 

 その瞳を見て、フィリスにはそれが分かった。

 硬い決意。

 こくり、と頷くフィリスを見て、恭也は逆に励ましの言葉をかける。

 

「そこまで気にやむ事は有りません」

「でもっ!」

「もし……もしフィリス先生が自分を責めるのなら、それなら新しく治療法を見つければ良い――違いますか?」

「いいえ、いいえ!! 私、絶対に治して見せます!!」

「安心しました。では、それまで俺は待っています。フィリス先生が治療法を見つけるまで、俺は決して死にません」

「……約束ですよ? 絶対、絶対に破っちゃ駄目ですよ?」

「ええ。約束です」

 

 一瞬、キラリとフィリスの瞳が輝いたのは、果たして見間違いなのか。

 一瞬、ほんの少し寂しげに恭也の唇が動いたのは、果たして見間違いなのか。

 それは誰にも、誰にも分かりはしなかった……

 

 

 

「それではお大事に」

「また、来させて貰います」

「本当は、来なくて良いのが一番なんですけどね」

「それでは失礼。ありがとう御座いました」

 

 いつもと変わらぬ対応。

 いつもと変わらぬ表情。

 こうして歩き、会話を交わすだけで呼吸もままならない程の激痛を味わっているはずなのに。

 

 本来ならかなりの麻酔が必要なはずなのに。

 鍛錬に響くからと言って使用しない。

 でも――

 

 彼は全く変わらない。

 彼は傷みを顔に出さない。

 彼は不安を私に窺わせない。

 

「頑固な所は変わってくれても良いと思うんですけど……」

 

 歩み去る背中に向けてぼそりと呟いたそれは、微かに震え、発したはずの自分自身にも確りと聞こえなかった。

 

「さあ、私も頑張らないといけませんね」

 

 自分自身に言い聞かせるつもりでいったその言葉は、既に遠く離れている恭也の耳にまで不思議と届いた。

 

 

 

 

 自分が死ぬということ。それをどこか納得している自分がいた。

 自分が死ぬということ。それをどこか理解している自分がいた。

 自分が死ぬということ。それをどこか、ずっと前から知っている自分がいた。

 自分が死ぬということ。それをどこか客観視している自分がいた。

 

 だから……自分が半年の命だと言われ、驚かない自分がここにいる。

 嘘だ。本当は呆然としている。

 だけどこれまでの人生で幾度も襲い掛かった、唐突で驚愕するような事態に味わった経験が、脳の停滞を許してはくれない。

 

 それよりも、と思う。

 それよりもこの事が家族に知られたら。

 その事の方が遥かに恐ろしいと、自分が思っている事に先程初めて気が付いた。

 

 ――俺は、周りの人間に恵まれすぎたんだろうか?

 

 もしそうだとすれば。

 それはとても喜ぶべき事だ。

 それはとても自慢できる事だ。

 それはとても幸せな事だ。

 だとすれば…………

 

 この苦しい気持ちは一体なんだというのだろう?

 

 

 考える。

 分からない。

 考える。

 やはり、分からない。

 

 これは余りにも贅沢な悩みなのかもしれない。

 苦笑が漏れる。

 病院からの帰り、駅へと続く道を自動的に人を避けながら歩いていると、先程の出来事のせいか、ふと父さんの墓に寄りたくなった。

 

 父さんならどうしただろうか、と考える自分と、そして俺なら如何しようとしているのだろうか、と考える自分がいる。

 俺の中には父さんがいる。

 

 墓の石室の中じゃなく、記憶の中で何時でも真剣に日々を生きていた、父さんの記憶がある。

 父さんはフィアッセを守るために命を賭けた時、一体何を思ったんだろう。

 それが無性に知りたかった。

 

 

 道を変え、月見台へと続く道を選ぼうとし、どうせ父さんに会いに行くのなら酒か甘い物が必要だと考える。

 酒を選り好みする人じゃない。

 甘い物ならかあさんが作ったシューが一番だが……。

 

 

 

 足は真っ直ぐ酒屋へ。

 どうやら俺の心は俺が思っている以上に臆病者な様だ。

 それとも俺は自分のそんな弱ささえ、知らなかっただけなのだろうか。

 

 こんな顔を家族に見せたくなかった。

 きっと、かあさんたちなら気付くだろうから。

 気付かれたら俺は、隠し通す自信がないから。

 だから足は翠屋に向かわなかった。

 

「ありがとうございましたー」

 

 背中から聞こえる店員の声が、とても遠く感じた。

 

 

 

 月見台墓地。

 海鳴という街が一望できるこの場所は、その景観とは不釣合いなほどの墓だけに満たされている。

 ……思えばそれが当然か。

 

 墓は山の上に。

 死者が安らかに眠れるよう、家族の安否で心残りを作らぬよう。

 昔からそう決まっている。俺ももう直ぐその仲間だ

 先程買った一升瓶の酒はひとまず置き、偶には墓石の掃除も必要だろう。

 備え付けられているバケツとたわし。

 なるだけ綺麗な、新しい物を探す。

 水をバケツ一杯までに入れ、柄杓で掬い、かける。

 ――いびつな放物線を描いたそれは、しかし確りと墓石にかかった。

 

 ごし、ごし、ごし……

 一つ一つの汚れを丹念に落としていく。

 かあさんが頻繁に来るためか、それほど汚れてはいないが、それでも風雨に晒され続けていたのだ。

 埃にまみれる所も出てくる。

 そんなのは決して父さんに似合わない。

 あの人は、普段身だしなみだけはきっちりしていた。

 性格と服装は似ないものなのか、なんて生意気な事をいった事もあったかな。

 

 ごし、ごし、ごし、

 一つ、どうやっても取れない汚れがあった。

 ……気になる。

 何故か無性に気になる。

 執念のように擦り立てる。

 

 

 小さな小さな汚れ。

 しかしたわしのめが粗いのか、幾ら擦っても取れない。

 取れろ、取れろ、取れるんだ!!

 

「……恭也?」

 

 突然気配も無く後ろから声をかけられた。

 驚いて振り向く。

「ああ。なんだ、かあさんか」

 全く気づかなかった。冷や水をかけられた様に、急激に冷静になっていく。

 俺は特段隠しもしていない母さんの気配も分からない程、そんなにも集中していたのか。「なんだって一体何よーっ!! 母さんがここに来ちゃいけないって言うの?」

 子供っぽい動作。

 それが嫌味に映らない。それが母さんの凄い所だと思う。

「……いや、これだけ確りと磨いてるんだ。父さんが感謝の言葉でも掛けてくるんじゃないかと思ってな」

 急に真面目な顔。童顔だと普段言われている姿からは想像も出来ないその顔を見て、思わず言葉が詰まる。

「そう。でも、母さんいい事だと思うわ。やっぱり士郎さんも、汚れたままじゃ可哀想だもの」

「父さん聞いてるか? とうとう貴方も憐れまれるようになりましたよ?」

「恭也っ! もうっ! し、士郎さん?  そんな事はないですよ? 旅から帰ってきて泥だらけだった貴方も、結構素敵でしたもの。って、何てこと言わせるのよ!」

「ああ、いや……すまなかった。それよりも、俺はまだ最後まで磨いていくつもりだが、母さんはどうする気だ?」

「あっと。まだ仕事が残ってるしねー。今日は直ぐ帰ることにするわ」

「そうか。じゃあまた後で。今日の飯はレンだったかな?」

「ええ。今日は魚を使った料理って聞いてるけど。美味しい事は間違いないわね」

「それは言えてる」

「ふふふ。じゃあねー」

「……バイバイ」

 去っていく背中をぼんやりと眺め、今度は反転して父さんの墓の掃除を再開する。

 ごし、ごし、ごし、ごし、

 今度は我を忘れる事は無かった。

 ただ墓を磨き、その向こう側に見える、“今”と“明日”を見やる。

 そして目の前にある、今は亡き父の墓。

「俺も……下手をすると“そっち”に行く事になる。その時は、一世一代の親子喧嘩でもかまそう」

 もう居ないのに、一番傍にいて欲しかった時にもいなかったのに…………

 

 ……何故か父さんが笑ってる気がした。

 

 

 

 帰り道。

 “今から”と、“これから”についてずっと考えていた。

 今から俺は何をすべきなのか。

 これから俺は何をすべきなのか。

 そして、これから俺は何を“したい”のか。

 ――――全く分からない。

 まずは家に帰って、何をするべきかを考えよう。

 何かをする為に

 何をすべきかを考える

 思わず苦笑が漏れた。

 それはひどくおかしな事に思える。

 何かをするのに理由が要るのか、と聞かれれば、俺はきっと必要ないと応えるだろう。 では何故迷うのか。結局そこに行き着き、俺は自問自答する。

 時間が無いからか?

 否、剣士として生きると誓ったその日から、死は俺と隣り合わせにあった。

 では何故?

 ……明確な時間が分かったからだろう。

 ならば今、一番に何をしたい?

 今、一番に思い浮かぶもの。それは、美由希に教えておくべき事。

 それならやるべき事は決まっているじゃないか。

 ……確かにな。その通りだ……。

 

 

 

 食事を終え、いくらかの会話をし、今夜の鍛錬を中止して、俺は美由希を道場に呼び出した。

 この家に引っ越してきて、父さんが作ろうと言い出した道場。

 俺は今、先にここへ来て美由希を待っている。

 カラカラカラ

 扉が開く。向こうからは美由希の顔。

「恭ちゃん、大切な話って?」

「まあ、入ったら扉を閉めておけ」

「え? う、うん」

 言われた通り扉を閉め、俺の前に正座する。

 その瞳には疑問はあるが不信は無い。真っ直ぐな信頼の目。

 今日から半年、俺は皆を――騙し続ける。

「一度しか言わない。最後まで聞き漏らすな」

「はい」

「一週間後、もうひとつの皆伝を行う」

「はい」

「これは自立するための卒業試験だ。だから今日から一週間お前は全てを一人で、訓練から準備までの全てを行え」

「はい」

「場所は深夜の鍛錬所。時刻はその場より夕の陽が完全に沈んだ瞬間から」

「はい」

「そして……この儀は一度しか行わない」

「は……い」

「以上だ。身体を楽にしていい」

 姿勢はそのままに、しかし先程よりも神経を緩め、辺りに満ちていた張り詰めた空気が幾分か楽になる。

「お前ならできる。今のお前に足りない物は覚悟だ」

「え……?」

「俺が常にお前に数年早いと言うのはそういう事だ。お前は俺より強い。俺がお前に勝るのは経験と、覚悟の差だ」

「恭……ちゃん?」

 不信な呼びかけを態と無視して続ける。

「これは一度しか行わない。だから……最高の結果を出せ」

「あ……はいっ!!」

 元気に応えた美由希の瞳は、やはりと言うか何処までも真っ直ぐで、俺に対し、全幅の信頼を寄せているそれを見たとき、俺の胸がずきり、と痛んだ。

 誤魔化すように慌てて、

「これから、いつも通り鍛錬を行いたいと言うなら、今日はここでな」

「はい」

「じゃあ、俺は少し忙しいんでな。先に部屋に戻っている」

「あ、はい! 師範代、お疲れ様でした!!」

「ほどほどにな……期待してるぞ」

 早くも龍鱗を振るう風斬り音を背中越しに聞き、俺はそっと、扉を閉めた。

 何が何でも合格して貰わなければならない。

 入れ込み過ぎないかどうか、少し心配だった。

 

 

 

「何か、悩みがあるんでしょう」

 たった今美由希に皆伝の儀を伝え、まだ一週間丸ごとあると言うのに、体が火照っていた。

 何かを飲んで鎮めよう。そう思ってキッチンに向かい、かあさんに声を掛けられた。

 言葉だけを取れば疑問に聞こえるが、しかし節々に断定を含ませている。

 俺は質問に答えなかった。返したのは疑問。

「何故?」

 対するかあさんの答えは酷く簡潔。

「私は……恭也の母親だから」

「なるほど」

 

 他人に言われたら自惚れと取れるそれも、かあさんが言うと不思議と納得できた。

「反論しないのね……」

「事実だからな」

「話してくれる?」

「来週過ぎまで、何があろうと他言無用、という条件なら」

「分かったわ。聞かせて頂戴」

 俺の真剣な雰囲気が伝わったのだろうか、かあさんの喉がぐびり、と音を立てる。

 高町家の朝は早い。家で起きているのはかあさんと美由希だけ。

 今、ダイニングは束の間の沈黙に満たされている。

 

 

 

「……で?」

 先に沈黙を破ったのはかあさんだった。

「膝がな…………持たないそうだ」

「そう」

「全力を出せるのは後一度だけ。それもフィリス先生に意識の曖昧にならない特殊な鎮痛剤が必要だ」

「それを美由希には?」

 静かに俺は首を振る。

「言っていない。次の土曜に試験をして、俺の持つ全てを伝える。実質……俺の最後の晴れ舞台だ」

「悔い――」

「は無いつもりだ」

 何を聞くは分かっていた。だから、途中で遮る。

「今の時点で実際の所、俺が美由希に教えられる事は殆んど無いんだ。ただ一つ残念なのが、これからは一緒に……鍛錬を行う事も無い、という事だ。

 ……上を目指したかったなぁ。

 

 原因は膝ではなかった。

 だがこれから先、共に闘う事も叶わなかった。

 その時、俺はどんな顔をしていたんだろうか。

 かあさんの顔が一瞬、悲しげに歪んむ。

 

 ドサッ!!

 

 背後の物音に驚き慌てて振り返る。

「美由希ッ!?」

 部屋の雰囲気を察したのか、余程丁寧に気配を消していたのだろう。全く気づかなかった。

 その美由希が俺の掛けた声にビクリッ! と身体を震わせ、走った。

 向かった先は家の外ではなく中。

 美由希の走り去った後を見て、かあさんの方を振り向き、コクリ、と頷いたのを見ると、俺は美由希の後を追った。

 美由希がいるのに気づく原因になった龍鱗を拾い、階段を駆ける。

 

 

 

「美由希」

 扉の前に来てノック、ノブは回らない。

「……美由希」

「…………」

 返事は無い。だが、生涯最も共にいた人間だ。この一枚の板隔てた向こうで、必死に耳を澄ましているのは分かっていた。ドア越しに一方通行の会話を始める。

「お前に隠していた事、謝ろう。すまなかった。だが俺は、お前の本当の実力を見たかったんだ。俺の最後の舞台だからこそ、お前に気を使われたりせず、二人ともが全力で戦いたかったんだ」

「…………」

「前に言ったかも知れないが、俺の膝の怪我はお前のせいじゃない。俺は父さんが死んで、支えの無くなった不安に負けたんだ。もう一度だけ言ってやる。……お前は、俺の宝だ。なあ、美由希。お前は覚えているか? 父さんが死んで、約束が叶いそうに無かったとき、お前はふらつきながら自分の身の丈もある小太刀を振り回していた。そして、それからずっと、一緒だった。ずっと一緒で…………もう直ぐ別れる」

「――――っ!!」

「だから……待ってるぞ?」

 

 踵を返し、自室に戻る。

 返事は無かった。

 ただ、扉の向こうから聞こえる、押し殺した嗚咽だけが何時までも耳の中で木霊していた。

 きっと来てくれる。

 そう、信じていた。

 

 

 ――――待ってるからな

 

 

 

 

 皆伝の儀まで残り六日

 恭也に残された時間、あと

 

 

 

                 ―――― 半年 ――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

02

 ――足りているのは何だろうか――

 ――足りていないのは何だろうか――

 

 足りているのは、足りていないのは……一体なんだろうか?

 ……分からない

 分からないよ……恭ちゃん。

 足りていると言われたものは力と技。

 足りないと言われたものは心の覚悟。

 だけど……分からない。

 尊敬する師範代であり、同時に兄であり、隠された、ほのかな愛情の対象の高町恭也その人が、何故私には何も話してくれないのか。

 何故、かあさんには教えられて、私には駄目だと言うのか。

 

「私には……分からないよ。恭ちゃん」

 

 

 

 

 

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Last time …… are you happy? 02

Case by MIYUKI

『 足りるという物、足りないという物 』

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 冷たいベッドが有った。

 物言わぬ枕が有った。

 ふたつ共、真っ白な清潔さを出していて、しかし私の心は温まらない。

 

 心を躍らせる、数多の本が有った。

 夢の世界へと誘う数多の物語があった。

 ふたつ共、穏やかな色をしていて、しかし今の私には苦痛でしかなかった。

 

 

 心を、背中を冷やす得物が有った。

 人を殺す為に作られた暗器が有った。

 ふたつ共、闇に溶ける様な闇色をしていて、そしてそれだけが今の私と恭ちゃんを繋ぐもの……。

 何故こんなものに繋がれているのだろう。

 もっと暖かな、辛さを感じない繋がりが、どうして二人の間にはなかったのだろう。

 

 私は父さんがくれた無銘の小太刀を両手に抱き、清潔感に溢れるベッドに体を沈める。 目に映る真っ白な天井。

 少し青みがかった蛍光灯が静かな音を立たせ、私の心を掻き毟る。

 目蓋を閉じ、電気を消し、深呼吸を繰り返して、無理やり心を落ち着かせる。

 

『違う……。そうじゃないんだ……こう、こうだ。分かるか?』

『こ……う?』

『そうじゃない。こうだ』

 

 昔、本当に昔の事だ。

 初めて私が小太刀を握り、恭ちゃんが教えてくれるようになって、

 最初は基礎体力をつけるばっかりで、面白くなくて……。

 それから少しして、恭ちゃんが始めて小太刀を振らせてくれて……。

 

 恭ちゃんは厳しかった。

 恭ちゃんは一般に言われる優しさが全く感じれなかった。

 恭ちゃんは普段めったに笑う事がなかった。

 だけど、私が恭ちゃんの言われた事が実践できたとき、恭ちゃんはいつも静かに、小さな微笑を浮かべてくれた。

 

 その笑みは私だけの物。

 その笑みは他の誰にも出せない、私だけが見ることのできる微笑。

 フィアッセにはフィアッセに、レンには、晶には。

 皆にもある、だけど私にとって一番大切な、恭ちゃんのその微笑。

 その微笑みを見るたびに、その微笑みを思い出すたびに、

 

 

 私の心は小さな鼓動を奏でる。

 

 

 私の小太刀を振る姿に、恭ちゃんは苦笑を浮かべ、私の手を取って太刀筋を体になぞらせた。

 直ぐ近くにあるその顔に、

 何処までも前だけを見るその瞳に、

 私の心はとくん、と跳ねる。

 

 それは大切な思い出。

 それは私の初恋の思い出。

 とってもとっても大切で、ずっと一緒にいた大切な人への、大切な……淡雪。

 踏みにじられる事無く、今まで大切に育ててきた想い。

 それを想う度、私の心はいつも優しい鼓動を立てる。

 だけど…………。

 ……今はそれが胸に痛い。

 

 

 助けて欲しいよ。胸が張り裂けそうだよ。

 ねえ、嘘だと言ってよ。

 これからも一緒だと言ってよ。

 膝なんか全然大丈夫だ、余計な心配だ。

 いつも言ってたのに。

 そうやって一緒にいたのに。

 次が最後だなんて、許せないよ……。

 

「だから…………待ってるぞ?」

「――っ!! 恭ちゃん!?」

 

 

 

 いない。

 そうだよね。恭ちゃんは、覚悟したんだよね。

 二度と剣を握れなくなる事を知って、大切な、最後の機会を私にくれたんだよね。

 分かったよ、恭ちゃん。

 私、全力を出すよ。

 覚悟を決めるよ?

 

 だから…………全力でいこうね。

 

 胸に抱いた小太刀を見て思う。

 向かわなければ、戦わなければ。

 全てを賭けて、皆伝を得なければ。

 それこそが、これまで私を師事してくれた恭ちゃんに対する、一番の孝行ではないだろうか。

 

 

 少しだけ。ほんの少しだけ。

 恭ちゃんの言う覚悟が出来た気がした。

 

 

 

 水曜日、皆伝の儀まで残り3日――

 人を待つ。

 先日の美由希を待ったときと同じように、違う人を。

 ゆっくりと目蓋を閉じ、人を待つ。

 静かに気配を消していく。

 目蓋越しに感じる柔らかい白昼の陽光。

 目蓋を閉じ、耳に集中し、聞こえるのは小鳥のさえずり。

 閉じたときと同じように、ゆっくりと目を開く。

 ……誰もいない。だが、

「疾っ!!」

「応っ!!」

 背後に向けて「殺す気で」放った一撃。

 一種、手に慣れた、小太刀同士の押し合い。弾けあう衝撃。

 甲高い金属音が鳴って、太刀先が細かく震動する。

 後ろに向かって一言。

「お久し振りです、美沙斗さん」

「ただいま」

 ここで初めて小太刀を鞘に納め、互いに姿勢を崩して座る。

 美沙斗さんが口を開く。

「しかし、相変わらずいい太刀筋だ。それだけに惜しい」

「そう言わないで下さい。代わりに、美由希がいます」

「そう、だね……勝算は?」

 全くもってはっきりと、痛いところを突かれる。

「五分……地形戦術や経験を生かしてやっと六分……」

「正直辛いな。何か決め手がいるだろうね」

「ふふふっ」

「どうかしたのかい?」

「いえ。美沙斗さんは実の娘の美由希と俺、どちらを応援しているのだろうか、と」

「それを言われると困る。私も複雑な立場さ」

「ただ……」

「ただ?」

「美由希は感情で実力が左右しすぎます。それ故に、却って勝率が読み辛い」

「そうだね。あの子は鍛錬の時と、あの日私と戦った日と、全く実力が違う。でも、分かってるんだろう?」

 懐かしむ目。

 それはフィアッセ達の旅立ちの日。

 世界を巡るコンサート。

 俺は頷く。

「ええ。美由希は必ず、全力で戦ってきます。そしてその為に……今日は美沙斗さんに型を見直して貰おうと思いまして」

「私で良いのなら」

「お願いします」

 

 そこから先、俺たちは一言も口を開かない。

 俺は剣を振るい、美沙斗さんはそれを見る。

 斬を、徹を、貫を、そして無数の技の流れを……。

 問題があれば指摘し、俺はそれを直す。唯、それの繰り返し。

 ゆっくりと、真南にあった真っ白な太陽が傾き、色を着ける。

 全てが終わる頃には朱色に変わっていた。

 最初ひんやりとしていた体はぽたり、ぽたりと汗が滴になって道場の木目に吸い込まれていく。

 身体は酸素を要求し、全身の血行が良くなってほんのりと赤みを増す。

 右膝の熱が身体全身に回りそうだ。

 思わず膝を折り、そのまま座り込む。

「大丈夫かい!?」

「……少し休めば」

 心配そうに聞く美沙斗さんに、楽に答えれるだけの気力はなかった。

 こんな状態で本当に美由希と戦えるのだろうか?

 その疑問に答える間も無く、日々は忙しく進んでいく。

 

 

 

 

 

「――――っ!! ぐっ、ぉおあぁああ――――!!」

 激痛。

 突然の覚醒。

 体中に走る痛みに呼吸が出来ず、言葉にならない呻きだけが漏れる。

 何かからか身を守ろうとするように身体を小さくして蹲る。

 

 ――痛い痛い痛いっ!!

 

 目に光が飛び散る。

 神経がすり潰される様な、独特な痛み。  はっ、はっ、はっ、はっ、

 幾分楽になると同時に、短く、荒い呼吸。

 同時に混乱をきたしていた頭を少しばかり冷却し、状況を確認する。

 

 場所は自室。間違いない。

 窓の外には漆黒の闇。

 …………どうやら深夜のようだ。

 眠りについて、気を緩めた途端に激痛――といった所か。

 これではおちおちと眠りにもつけない。

 やはり、鍛錬の為と最後まで呑む事を躊躇っていたが、ここまで酷いと仕方が無い。

 布団から起き上がり、鞄を探って錠剤を取り出す。

 ――痛み止め。

 それは緩い麻酔剤と同じだ。

 痛みこそ緩和してくれるが、だからと言って状況は好転してくれない。

 おまけに眠気が襲ったり、繊細な感覚に障害をきたす。

 ――これだけは使いたくなかったのだが……フィリス先生に感謝するべきだな。

 要らないと言っていた俺に、フィリス先生は半ば無理やりに薬を持たせた。

 おかげで今、直ぐに痛みが引いて来た。

 だが同時に眠気まで襲ってきたな。

 まあ、あれだ。

 俺自身、眠たかったのもあるんだろう。

 布団を掛け、今度こそ朝まで目覚めない眠りに就く。

 

 ――おやすみ

 

 誰に言うとも無く、あえて言うなら自分に向かい、就寝の挨拶。

 すぐさま俺は眠りに就いた。

 だって、俺はこれ以上現実を直視したくなかったのだから。

 

 

 

 

 

 ――足りているのは何だろうか――

 ――足りていないのは何だろうか――

 

 足りているのは、足りていないのは……一体なんだろうか?

 足りているのはある種への覚悟。

 人を斬るという覚悟。

 人を傷つけるという覚悟。

 人を殺すという覚悟。

 人を守るという覚悟。

 

 そして足りない、自分の死を告げる、平穏を崩す事への――――覚悟。

 

 

 足りている物と足りない物、どちらが多いのだろうか?

 ……きっと足りない方。

 誰かを助けるための体。

 誰かを傷つける為の技術。

 今望む、死を打ち破る――たった一つの事柄を打ち破るだけの、絶対的な――力

 今望む、死の恐怖を乗り越える――たった一つの事柄を乗り越えるだけの、絶対的な――勇気。

 

 力が欲しい。

 みんなを守れる為の。

 力が欲しい。

 自分を守れるだけの。

 力が欲しい。

 全てを変えるだけの。

 

 全てを変えれるだけの……力が欲しい!

 

 

 

 そして、とうとうその日はやってきた。

 待ち望んだその日がやってきた。

 ほんの少し、来て欲しくないと願ったその日がやってきた。

 人生の殆んどをそれに注ぎ込んだ、一人の男の最後の舞台。

 

 とうとうその日はやってきた。

 きっとこれが最後のその日。

 剣を握れる最後の日。

 

 とうとうその日はやってきた。

 誰が望もうと、誰が拒もうと、変わりなく時は一定に進んだ。

 誰もが知りながら、舞台の主役だけが、その場に入ることができた。

 そんな最後の晴れ舞台がやってきた。

 さあ始めよう。

 そして終わらせよう。

 

 全ては始めた男から、

 全てを終わらせる女まで。

 二人だけの晴れ舞台。

 

 さあ、幕を上げよ。

 そして幕を下ろしてしまえ。

 二人だけの晴れ舞台。

 常に一緒だった二人の最後の舞台。

 これが最後の晴れ舞台。

 さあ、

 

 

 

――――――始めよう――――――

 

 

 

 

 

03

 

 どくん、

 

 どくん、

 

 どくん、

 

 ……心臓が大きな鼓動を立てている。

 

 どくん、

 

 間も無く、日が暮れる。

 

 どくん、

 

 間も無くだ。間も無く、戦いが始まる。皆伝が始まる。

 

 どくん…………どくん…………どくん…………ドン!

 

 さあ、日が暮れた。

 試験ではなく試練。

 戦いではなく闘い。

 訓練から実戦へと。

 さあ、はじめよう。

 

 ……最後の、舞台だ………………

 

 

 

 

 

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Last time …… are you happy? 03

Cruelty truth = 残酷な真実

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 美由希は、疾る。

 森の中、複雑な道を迷い無く。

 ただ一駆けに、ある場所を目指して。

 走る、疾る、疾る…………。

 走りぬいた末、やがて辿り着いた場所。

 そこは月守台の裏、大きな野原と湖がある場所。

 更に走り、その中ほどまで来て彼女は止まり、振り返る。

 始まったのは夕の日の入り。今は月が出ていた。

 夜空に浮かぶ満天の星空、そして私たちを照らす夜の太陽=満月。

 その光に照らされて、美由希は小太刀を両手に持ちながら優雅に、浮かび上がった目の前の人物に頭を下げる。

「お待たせしました。今宵、相手をさせて頂きます。 流派、永全不動八門一派、小太刀二刀術、御神真刀流が高町美由希。推して参る!」

 納刀。士郎の遺品である無名の小太刀では無く、龍鱗。

 既に表の皆伝を得た彼女は、体格からすれば少し大きいそれを巧く重心を利用する事で扱いこなす。使い方次第で女性の非力をカバーする見事な技術。

 対し恭也。

 無言で八景を納刀。

 深く腰を落とし半身に構える。

「流派、永全不動八門一派、小太刀二刀術御神之裏。不破真刀流が高町恭也。今宵お相手仕る。いざ、いざ!」

 

 その言葉と共に美由希が弾けたように動いた。

 ほぼ同時に、恭也も。

 芝を噛み、確実に力の伝わった移動はまさに神の如し速さ。

 究極的な移動をこなし、抜刀。

 最初の一撃はやはり、と言うか射抜だった。

 美由希自身が改良を重ねたそれは抜刀からの連撃。

 派生、派生、派生……。

 瞬時にして四連檄が放たれる。

 対し恭也。

 己の技術の集大成。

 奥義、薙旋。

 光の筋となった四連檄。

 互いの技が混ざり合い、交じり合い、火花が夜闇を照らす。  そして停止。

 四檄目の直撃で押し合いが始まる。

 ぎりぎりと刃が擦れ、青い火花が闇に散る。

 お互いが一点を中心に弾かれたように後退。

 交差する飛針。

 それを薄皮一枚でかわしながら、再び反転し急加速。

 そうして刃を交え続ける。

 

 

 これが美由希の本当の実力か!!

 一撃一撃の圧倒的なまでの徹の浸透力。

 それは下手をすれば赤星のそれよりもきつく感じる。

「くっ!」

 

ビュオッ!!

 

 思わず背筋が粟立つ。

 紙一重での攻防のやり取りは俺の髪の毛を幾本か巻き込み、髪が空に舞い上がった。

「ぜやっ!!」

 一歩大きく後ろに下がり、美由希とのしのぎの削りあいに使う力を空回りさせ、踏み込み。

 腰を中心として肩口に小太刀が隠れるように振りかぶり、袈裟斬り。

 それを屈む事でかわした美由希はすぐさま足に鋼糸を絡ませる。

 引っ張られる前に、自らが後ろに飛び去り体勢を崩させる。

 だが手応えはなかった。

 瞬間、鋼糸を放し、美由希自身も後退していた。

 一つ一つの動作に油断が無い。

 倒すと言う気迫無しでは出来ない技の冴えだった。

 ――覚悟が出来たって言うのは本当らしいな。なら俺も……全てを賭けよう!!

 

 

 

 神々しいまでに大きく見える満月の空。

 その光の下舞うは二人の剣士。

 踏み込みが、刃が楽を奏でる。

 

 ドン! キーン!

 

 ドン! キーン!

 

 ドン! キーン!

 

 二人が舞う、最初で最後の月の舞台。

 恭也が――笑った。

 これまでに無い程、嬉しそうに、楽しそうに。

 美由希が――笑った。

 これまでに無い程、嬉しそうに、楽しそうに。また悲しそうに。

 

 そして――終決。

「…………終わったね」

 ぽつり、と口を開いた美由希。

「ああ…………終わったな…………」

 頷き、今にも抜刀しようとしていた八景を仕舞う恭也。

「強く…………なったな」

 首を振る。

「恭ちゃんの、おかげだよ」

「嬉しい事を言ってくれる」

 美由希が恭也の首元に添えていた龍鱗を納刀。

 それをどこか、寂しそうに眺める恭也。

 美由希を力一杯に抱きしめて、顔を見えないようにしてから、恭也は話し始めた。

「きょっ、恭ちゃん!?」

 美由希の慌てた声。そこには羞恥と喜びが含まれている。

「そのまま聞いておけ」

「……うん」

 恭也は緊張の切れた為に起こった頭痛と眩暈を少しでも悟られないように、話に集中させる。

「最初、お前に剣を握らせるのは父さんとの約束があったからだ。 俺は反対していた。だが何時しか、俺はお前に自分の持つ技術を教える事が嬉しくなっていた」

 

 真っ暗で、何も見えなくなっていた。

 愛しいはずの美由希の感触までもが手から失われていた。

 恭也は、自分の意識が殆んど無い事を、悟る。

 そして気を失う寸前に、美由希を抱きしめて過去へと回想する。

 

 

 

 ――道があった。

 長い長い道があった。

 数百年前から続くその長く、太い確りと舗装された道に、俺は多くの人と共に歩いていた。

 ある日、

 その道に残ったのは父さんと俺だけになった。

 寂しかった。

 悲しかった。

 だが父さんがいた。

 父さんは俺を引っ張って、その長い長い、しかも細く険しくなった道を歩いて行った。 静馬さんも一臣さんもいない、二人だけの道。

 でも、まだ父さんがいた。

 ある日、

 その道に残ったのは俺だけになった。

 手に残ったのは未熟な技術と、遺品である八景。

 寂しかった。

 悲しかった。

 そして、美由希が加わった。

 

 長く長く続いた道は、もう少しだけ先に延びていた。

 俺は頼りなく、しかし俺に出来る全てを使って美由希を導いたと思う。

 ある日、

 その道に美沙斗さんが加わった。

 一度外れていた美沙斗さんは、偶にだが確りと美由希を育てて行った。

 そして俺が美由希を確りと育て上げれた事を知った。

 …………嬉しかった。

 これで御神の道はまだまだ続いているのだと、安心できた。

 

 そして……ある日。

 その道が、俺にだけ続いていない事を知らされた。

 幾年も、幾人も、練磨し続けた道。

 それはひとつの終わり。

 剣士としての生涯の終わり。

 辛いときも美由希との約束が俺を支えた。

 悲しいときもその約束が俺に剣の道を長らえさせてくれた。

 そして、俺の最後の道の終わり、引導を美由希が渡してくれた。

 だから…………今こそ俺はお前に胸を張って言うよ。

 

 

 ――――ありがとう

 

 

「恭…………ちゃん? 恭ちゃん? 恭ちゃんっ!?」

 愛しい人のその声が、とても遠くで俺を呼ぶ。

 それに応える事も出来ず、俺は闇へと引きずり込まれた…………。

 

 

 

 

 

 

 

04

 

 

「とりあえず、大事には至っていないようです」

「よか…………たっー」

 胸を撫で下ろす、といった様子で溜息をつく美由希さん。

 そこから、彼女の恭也君に対する信頼といった感情が伝わってきた。

「でも……完治するには本当に時間がかかります。それこそ、剣士としては二度と生きれない位……」

「そう……ですか」

「そんな悲しい顔しないで。明日には恭也君も目を覚ますだろうから。それより今日は家に帰って、皆に無事を伝えてあげないと、心配するわよ?」

「あーー! 忘れてたっ!! あの、えと、それじゃあ失礼します!!」

 慌てて立ち上がり部屋を出て行く美由希さんに携帯電話で連絡を……と言おうとし、 その背中が既に無い。その速さと、病院内を走っている事実に溜息をひとつ。

 良く見ればその携帯電話を忘れて行っている。 後で連絡が必要そうだ……。

 そう思いながら振り返って、肺から無理やり言葉を吐き出し一言。

 

「私は……全てを美由希さんに話したかったです」

「…………」

 返事は、無い。

 先程鎮痛剤を投与したばかりだから、それは当然の反応とも言える。

 返事が無くても、止まらなかった。

 溢れ出した想いが形になって、くぐもった嗚咽と共に、次々とこぼれ出るのを止められない。

「美由希さんは……本当に貴方の心配だけをしてましたよ? それなのに、黙っているのは……卑怯じゃないんですか!? 本当の事を言うと、皆伝なんてして欲しくなかったっ!! それがどういう結果に繋がるか、恭也君だって分かってたじゃないですか!! っ!……ヴぅううう~~~」

 

 思わず涙がこぼれた。

 私は…………医師失格だ。

 私は、恭也君を止める事も出来ず、救う事も出来ない。

 皆伝の儀によって恭也君の体も、精神も、酷く消耗している。

 唯でさえ激痛が普段から疾る病気だと言うのに、このままじゃ痛みの許容量を超えて…………。

 このままだと……このままだと恭也君の命は…………

 

 

 

「フィリス。その話は聞き逃せないな」

「リスティ!! どう……してここに?」

 後ろからかかった突然の声。どうしてここに?

 それよりも何処から聞いていたの!?

 リスティは詰め寄って鋭い目で私を射抜いた。

「飯をたかりに来たんだが……そんな事はどうでもいい。一体どういう事だ? 納得するまで説明してもらおうか」

「これは……その…………」

「フィリスッ!!」

 

 明らかに怒気を含んだ鋭い声に、私の身体がビクリッと震える。

 例え、幾ら普段姉妹として仲良くしていても、こうやって強く言われるとさざなみ寮に襲撃をかけたあの日の恐怖が……

 こわい恐い怖いコワイ――!!

 ガタガタと震えだす身体。

 身体を抱いて無理やり震えを収まらせる。

 その様子に気づいたのだろう。

 幾分柔らかくなった-それでも厳しい視線は変わらない-雰囲気で、リスティは再び問い詰めた。

 

「本当はどうなんだ?」

 

 急に変わる優しげな声色。

 それに私は、逆に危険を感じた。

 真実を知るために警察が使う常套手段でもあることは素人でも知っている。

 だけど、それに対抗するには……私はあまりにも疲れていた。

 恭也君の死を抱え込むのは辛かった。

 後で皆に黙った事を責められてまで、秘密を守る必要が有るのか?

 家族が死を知りながらも優しく見守る。それが必要じゃないのか?

 

 駄目だ。駄目だ!!

 当人の恭也君が自分の死を知りながらもなお、頼まれたことだ。

 そう思いながらも私の口は開き始める…………。

 

「恭也君は……………………」

 

 

「何も問題ないわ」

 ……言えた。

 本当に、直ぐそこまで言いかけていた言葉を飲み込んで、私は恭也君の意思を優先できた。

 感動……とはまた別の物だろう。達成感。そういうのが恐らく、最も適切な感情の私に対し、リスティは激怒した。

「フィリスッ! 幾ら言おうと、さっきまでお前の考えは思念波になって頭に直接入ってきたんだ! 考えは誤魔化せない、下手な嘘をつくのは止めろ!!」

 今度は退かない。退くわけにもいかないし、もう……怖くない。

 私も、『覚悟』を決めよう。

 彼も持っていた、覚悟を……。

「リスティ、貴女に知る権利があるの? 恭也君はおよそ全てを犠牲にしてもいい、って思って……。そして私には黙ってくれるよう頼んだわ。貴女にはそれだけの覚悟があるの? 全てを知り、そしてその全てを受け止める覚悟が!!」

 リスティは…………たじろいた。

 それは私の気迫に。

 リスティはたじろいで、一歩後ずさる。

 でも、そこで終わらなかった。

 強情なのは、二人とも一緒だった。

「覚悟なら幾らでもしよう。……言っただろう? 世界は優しくないって」

 首を振り、頑なに反対。

 …………私は迷う。

 リスティに覚悟が本当にあるのか、私に秘密を曝け出す覚悟があるのか。

 先程まであれほど話したいと思っていた誘惑は、それに乗り越えると、今度は話すことによって起きる責任が私を責める。

 たっぷりと時間を掛け、考えさせて貰う。

「それだけの必要が医者という立場にはあるのだ」、と説明するとリスティは渋々ながらも頷いた。

 言うべきか、秘密を守るべきか。

 私から言うのか、恭也君の口から言うのか、それは酷く差のある事に思える。

 結局私は他言無用、という条件で、かいつまんで話すことにした。

 同じ暗い過去を持つ姉妹として、気持ちを許してしまっていた。 「まず最初に、一番重要なこと……。恭也君はあと――――」

 

 

 

 夜の病院は薄暗くて、なんてお化けが出てきそうな位怖いんだろうか。

 非常灯以外点かない電気。

 普段暗闇の中鍛錬をしている、と言っても、それはそれだ。

 怖い話は物語ならば読むけれど、こんなのは絶対に駄目だと思う。

「どこかからウラメシヤ~て、聞こえてきそうだよ…………」

 ひとり言を呟き、実際にそうなるんじゃないかと自分でビクビクしている姿は他人から見ればかなり滑稽だろう。

 恐怖を押し込めて病院にまで舞い戻って来たのには理由があった。

 ――携帯電話だ。

 急いで家に帰ったのは良いが、途中電話をすることも忘れ、家に着いてから言われて思い出し、同時に携帯電話が無いのに気づいたのが先程の事だ。

 

 とぼとぼと、いや、びくびくと廊下を歩き、恐らく忘れた場所であろうフィリス先生の診察室に向かう。

 ドアが開いている。

 ドアの隙間から漏れた診察室の光が廊下を照らし、そこだけ明るさが違った。

 光に集まる虫みたいにふらふらとドアまで来てノブに手を伸ばし、止まる。

 中から声が聞こえてきた。

 勿論普段ならそんな事は気にしない。そのままドアを開けていただろう。

 だけど、私はその時ふと嫌な予感がし、厭らしく盗み聞きという行為に走ることにした。

 何だか最近、そんな事ばかりをしている。  知らない方が良いことも世の中にはあると言うのに…………。

 歯を食いしばったように聞こえにくい低い声でドアの向こうからフィリス先生は言う。

 

 

「―――――――恭也君は、後一月で死ぬわ……」

 

 

 

 それは死刑の宣告に似ていた。

 

 

 

 

 

05

「莫迦な。急過ぎるだろう」

「前から少しだけ、変だとは思ってたの。でも、診察嫌いでしょう? 精密検査を受けてくれるのが遅れて」

「恭也はこの事を?」

「気絶し続けて、投薬をしたからまだ何も知らないわ……」

 薄いベニア板一枚向こう。

 フィリス先生とリスティさんは恭ちゃんについて未だ話を続けていた。

 呆然とする私に聞こえてきたのはほんの少しだけ。

 恭ちゃんの残り時間が一月で、しかも死んでしまうという事。

 普段から激痛を感じていながら、それを私たち全員に秘密にしておきたがっている事。 そして私のせいで……

 

 ……私のせいで……恭ちゃんの死期が早まってしまった事だけだった。br>

 

 

--------------------------------------------------------------------------------

Last time …… are you happy?

case by MIYUKI

―― Each doubt = それぞれの疑惑 ――

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 ふらつきながらも、決して見つかってはいけない。

 それだけが私を動かしていた。

 ゆっくりと一歩後ずさり、つま先は出口に向かう。

 視線が恭ちゃんの眠っている個室に向かい……振り切って走った。

 

 

 

 走って走って、無茶苦茶なスピードで走り続けて、息が切れてアスファルトの汚れた道路にへたりこんだ。

 配分を全く考えない走りのせいで息は切れて、普段なら何も考えられないはずなのに……今は違う。

 一時たりとも、決して忘れる事が出来ない。

 決して触れたくない、触れてはいけない事柄に、私は無遠慮に手を伸ばした。

 これは罰? 隠し聞きばかりしている私…………。

 最近こんな事ばかりだと思う。

 恭ちゃんが剣士として最後だと知って、その最後の日を私にくれると良い、全力で戦った。

 だけど、それが恭ちゃんの死期を早めるのなら、私はしたく無かった。

 

『恭也君は、後一月で死ぬわ』

 

 嫌でも思い出す先程の光景。

 どうして恭ちゃんが死ぬことになるのか。

 どうして死期が近づくことが分かっていて皆伝の儀を行ったのか。

 分からない。

 どれだけ考えても……ワカラナイ。

 …………ワタシニハワカラナイ。

 疑惑、混乱、驚き、恐怖……。

 思い浮かぶ一文字――

 

――死――

 

 吐き気がした。

 眩暈、頭痛。

 思わず口を押さえたが、直ぐに放すことになった。

「うっ、ぐっ、う…ヴぁ゛あああっ!!」

 胃が蠕動を起こすが、口から出たのは胃液だけ。

 一晩にいたる運動と、その為に皆伝の数時間前から食事を抜いていたからだった。

 口に広がる酸味と、目に溢れ出す涙が止まらなかった。

 止まらない。

 目に映る景色全てが歪む。

 何がいけないのか。どうしてこんな事になるのか。

 そして、どうして皆伝を強行したのか……分からなかった。

 ひとつ。

 恭ちゃんは誰にも知られたくない――それだけが分かった。

 泣いて、啼いて…………

 ――家に帰ろう

 それだけが頭に浮かんだ。

 そう。

 私は帰らなくてはならない。

 そして私は家族に笑顔で言うんだ。

 ――私、やったよ!? ……恭ちゃんは膝、また悪くしちゃったけど、大丈夫だって――

 

 …………言えない。

 私、言えないよ。

 

 

 …………恭ちゃん……………………

 

 

 

 

「じゃあな。フィリス、おまえ自身が一番良く分かっているだろうが、くれぐれも恭也にこの事は知られるなよ」

「ええ、そうね。リスティも誰にも言わないようにね。」

「分かってる。それで何かが変わるわけじゃないしな」

 “シュン”と目の前でリスティの姿が消えた。

『テレポート』。対象物を瞬時に移動させる力。

 そしてそれは異形の力。

 本来人にあらざる力。

 それ故に、私たちHGSを恐れる者は多い。

 恐れる者。武器として利用を企む者。人と認めず迫害する者…………。

「私たちは最新医学の手にかからないと命を永らえさせる事も出来ないというのに…………」

 海鳴は本当に良い場所だ。

 他の場所と比べ、最も理解のある町のひとつでもある。

 それでも。

「それでも恭也君。貴方のような人は特別なんですよ……」

 思った事がそのまま口に出た。

 何一つ、奇異の目で見ない人。そんな人は数少ない。

 だからこそ、私は彼を救いたい。

 いや、私は彼『だからこそ』力になりたいのだ。

 ――私はやっぱり、医師失格かも知れない…………

 本来医師は患者によって付き合い方を変えてはいけない。

 でも、今だけは、私は彼を一人の人間……いいえ。女性として救いたい。

 そう思うのはいけない事だろうか?

 新と静まり返った診察室に、蛍光灯が耳障りな音を立てていた。

 とりあえず、美由希さんに携帯電話の忘れ物、連絡しておこう。

「あ、桃子さんですか。え? 美由希さん? 実は恭也君が膝で倒れ……」

 救いたいじゃない。

 私は彼を救うんだ。

 

 

 

 移動された個室。

 真っ白な部屋の中、カーテンが開かれてそこだけが白以外の色。

 闇を見せていた。

 皆伝のときは自分たちの姿を明るく照らしていた満月が今は見えないな。

 寝転がっていた身体を起こし、ベッドの上であぐらを組み、考えに浸る。

 今まで、とても色んな事があったと思う。

 父さんと旅に出たのが記憶の中の、剣士としての始まりだったっけ?

 そう言えば、皆伝のとき、美由希は強かったな。

 本気を出して、それでも上を越された。

 経験を実力で潰された、という奴だ。

 悔しかったが、それよりも嬉しかった。

 完成された芸術品の如き出来栄え。

 思わず首に刀を突きつけられながら身震いした。

 これで、美由希への手向けは出来たわけだ。

 ――で。

 これから、俺が死ぬまでどうしようか?

 フィリス先生が俺にいった注意事項。

 過度の運動による身体への負担。それによる寿命の短縮。

 自分に残された時間とは、後どれ位なのだろうか?

 三ヶ月? 二ヶ月? 一ヶ月? それとも明日か。

 この闇を映す、窓にダイブするだけで人は簡単に死ぬ事が出来る。

 カラカラと窓を開き、外に手を伸ばす。手は空を掴んだ。

 サッシに身を乗り出し、下を見る。

 唯でさえ郊外ということもあって家が少なく、おまけにここは病院。

 視線の先は月が隠れているのもあって殆んど完全な闇だ。

 そんな中、ポツリと明かりが灯っているのは何処なのだろうか?

 それ以前に俺は今、病院の中というだけでどの場所にいるのかも分からない。

 夜目に適した目でやっと見える景色と、頭に浮かべた病院の見取り図。

 それらに適合してみるとあの場所は…………

 

 

「…………フィリス先生、か」

 クリップオン時計を見ると時刻は深夜三時。

「無茶をしないでいてくれると良いが…………」

 ふと、そう言う自分こそが普段人から言われている事だったな、と気付き苦笑する。  窓を閉じて鍵を掛け、カーテンも閉めてベッドに倒れこむ。

 一切の余分な力を抜いた為に、自由落下を始めたそれは9.8メートル毎秒の加速でベッドに顔が叩きつけられた。

「~~~~~っ!!」

 倒れ――――激痛。

 鎮痛剤と寝起きのために自分が今、完全な病人だという認識を忘れていた。

 だが逆に、この痛みこそが生きている証、とも考える事が出来た。

 顔に浮かぶ表情、鏡で見ればきっと、自分でもぞっとするであろう程の自虐的な笑み。

 くくくっ、とくぐもった笑い声が部屋に木霊する。

 なんと。

 なんと無様な姿だろう。

“死は怖くない”か…………。

 それが薄っぺらい嘘であると自分にばれるまで、そう時間も掛からなかったな。

「俺は今、死ぬのが怖いよ…………」

 助かる見込みが無い事は分かっていた。

 そして、美由希との皆伝で助かる可能性を更に無くす事も判っていた。

 だから、俺は思う。

 それなら少しでも、少しでも…………最後は笑って死んでやりたい。

 そう思う事くらい、許してくれるよな?

 ……返事は無い。

 だが元より期待していた訳でも、誰にいったわけでもなかった。

 ただの自己満足だ。

 自分に対し一人ごちた筈なのに、自分の心に返事は無かった…………。

 

 

 

 

 

 エンドレスリピートのかかった考えを押し込め、溢れる涙を焼き、漏れ出す嗚咽を押し殺して。

 やっとの事家の前の通りにまで来る事が出来た。

 ――泣いてはいけない。悟られてはいけない。

 家を目にしたことで消し去ったはずの感情が湧き上がり、決意を揺らがせる。

 駄目だ駄目だ駄目だ!! 決意したんだろう? 覚悟は出来たんだろう?

 アスファルトの道路に穴が開くほど見つめながら、自らに課した誓いを再確認。

 ――今度は大丈夫だ。

 そう思い、前を向き、息を呑んだ。

「……お帰り、美由希」

「母さんっ。でもどうして?」

「二人とも皆伝を行って何時間も経つのに帰ってこないから捜しに言ってたら、家にフィリス先生から携帯電話を忘れてたって話を聞いてね。その帰りといった所だよ」

「あ…………連絡しないでごめんなさい」

「いや、美由希も動転していたんだろう」

 先程まで全く気配を感じさせなかったその人は、今となっては残るところ三人となった御神の剣士。

 そして私の実の母。御神美沙斗。

 真っ直ぐな目で見る、信頼を寄せる母さんを、私はこれから騙さなくてはいけない。

 恭ちゃんも、恭ちゃんもこんな気分だったのだろうか?

「あっ…………あのっ!」

 駄目だ。緊張で舌が回らない。

 手のひらにじわりと汗をかき、数少ない唾液を飲み込んでしまった。

 喉が潤うわけでなく、かと言って口の中は干からびたような状態。

 私が何も言い出さないのを見ると母さんは首を傾げた。

 深い疑惑を持っている訳ではない。

 そう思う事で、ほんの些細ながらもほっとしている自分に気付く。

 今始めればきっと引き返せない。

 ――最後まで騙し続ける。

 その覚悟が私には――――

 

 

 ――有る!!

 「か「美由希。恭也の状態は如何だった?」

 先を越された。

 やっとの事で覚悟を決めて口を開いた瞬間、遮るように質問。

 ひとつの事で頭が一杯になり質問にも答えられない状態だ。

「…………どうした? 一応フィリス先生からも聞いたんだが、美由希からどう見えたかも気になったんだけど。 恭也の状態はそんなに悪いのか?」

 

 如何した? 笑え! 笑うんだ!! 絶対にばれてはいけない。

 自分でそう決めたんだろう? 誓ったんだろう?

 笑え!! 絶対に母さんに悟らせるな。

 さあ、大した事無かったと言うんだ!!

「うん。母さん。恭ちゃんは…………」

 如何した? 笑うんだ! 美由希っ!

 恭ちゃんが望んでいるんだろう?

 誰にも知られてはいけないんだろう?

 笑え…………

 笑えないなら完全な嘘を通せ。

 さあ……相手は母さんだ。

 私は。

 ……私は!!

「恭ちゃんは……戦えないけど…………大丈夫だったよ?」

 

――笑わなくてはいけない――

 

 

 わっ、と泣き崩れた美由希。

 結局私には何も分からなかった。

 ただ、恭也が言っていた通りに、本当に二度と戦えない身体になったという事なのだろう。

 だが、それよりも私には今、緊急にするべき事があった。

 可愛らしい顔を台無しにして号泣する愛娘を抱きしめてやらなくてはいけない。

 そしてただ一言、二言。

「お帰り。そして…………お疲れ」

 その言葉で美由希は更に泣き始めた。

 そのまま肩を抱き門をくぐる。

 すすり泣く美由希の姿を見て何事かと言い合う桃子さんたちを悪いとは思いながら無視し、風呂を薦め、その間に、まだ食べていない遅い夕食を晶ちゃんたちに作ってもらう。「それじゃあゆっくりと汗を流すんだよ」

「うん……」

 ドアを閉め、ダイニングへと赴いた私を待っていた五対の瞳。

 思わずその真剣な様子に溜息を吐く。

「美由希は…………いや、恭也も含めて大丈夫なようだ」

「でも美由希ちゃん泣いてましたね……」

 確かに。そう思う。

 美由希は多分、本当に滅多に涙を人に見せないだろう。

 その美由希が泣くとなればそれ相応の理由が有る。

 私でも、普通ならそう思う。

 だが、恭也の事を考えると、美由希にとっては「普通」ではないのだろう。

「多分…………美由希は恭也に依存しすぎていたんだろうね」

「依存……ですか?」

 桃子さんの言葉にええ、と頷き続ける。

「美由希にとって恭也という存在は師であり、兄であり、同時に父のような存在だったのでしょう。その恭也がふと別れを告げた。それは勿論剣士として。ですが、それでも失う気持ちが大きかったんでしょう」

「失う気持ち、ですか」

「私も、大切な者を失う機会は多々ありましたからね…………」

 桃子さんとフィアッセさんの顔が少し沈む。

 ――兄さん。貴方はこんなにも愛されていたんですよ?――

 心の中だけで兄に一言。

 沈みそうになった空気が気まず過ぎ、私は何とか場を盛り上げたくなった。

「でも、恭也が居なくなる訳じゃないんですから。あくまで剣士として終わり、これからは新しい人生が待っていますよ」

「「「ええ。そうですねっ!」」」

 急に場が軽くなった事に、自分が思っているよりは私には場を和ませられるのかと思い、思い直す。

 私が上手かったんじゃない。彼女たちが皆、信頼してくれているからだ。

 それぞれ頷きあうのを横目に一人庭に出て、空を見やる。

 黒い空。

 分厚い雲に覆われていながらも、満月の効果だろうか?

 雲の隙間からごく僅かに月の明かりをのぞく事が出来た。

 きっと、二人が最後の皆伝を楽しんでいた時は、この月も餞別とばかりに二人を照らしてくれたに違いない。

 だけど、そんな考えとは全く関係なく、異様な胸騒ぎがする。

 それは美由希の泣く姿を見てから。

 私はあれを、恭也が剣士として引退せざるを得ない状態になったからだと考えたのだが…………。

 あれは……………………

 

 

―――― 本当にそれだけだったのだろうか? ――――

 

 

 

 

 

 それぞれがそれぞれに疑念を持ち、それでも日々は変わりを見せようとせず進む。

 恭也は平気な顔を見せ、裏では薬を使用しなければ満足に動けなく。

 美由希は心の中で血の涙を流しながらも、家族に対し嘘をつき続ける。

 フィリスは恭也に対し。そして皆に対し。

 こうして日々は過ぎていく。

 自分の残った寿命すら知らず…………。

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