Last time …… are you happy?   作:肥前文俊

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後編

05

 

 

 ――その日は雨だった。

 昨日の満月が嘘のように、と言いたくもあったが、

 深夜には既に分厚い雲が出ていたから仕方がないと諦める事にした。

 ふう、と溜息をひとつ。

 雨と言うのはどうしても、心を陰鬱な物にしてくれる。

 分厚い雲のカーテンの下では、大きな雨粒がしんしんと降り注ぐ。

 窓から見える木の枝に伝って落ちる雫を眺める。

 時は朝の五時。

 そんな早朝から起きなくてもいいと思ってしまうが、日々の習慣はすぐに消えてはくれない。

 おまけに何時間寝たのかは分からないが、普段よりも眠気が覚めて仕方が無かった。

 もう、こんなに早く起きる必要も無いのに。

 ……いかんな、気分を変えないと。

 何か暇つぶしになる物は無いだろうか?

 そう思ってベッドから這い上がろうとした所で、思わず息を呑む。

 

「――――――くッ……ぁ…………」

 

 ――膝が痛い。

 幾らなんでも神速を多用しすぎたか。

 そう思うがどうしようもなかった。

 昨晩の美由希の動き。

 あれは神速を使用しなければかわせない、そんな物が幾度かあった。

 強く、早く、鋭く。

 そして、一切の躊躇無く。

 天賦の才あっての動きだが、それでもその高みにまで鍛え上げてきたのが自分だと言う事が、とても誇らしかった。

 あの突きが、あの斬り返しが、得意技の射抜でさえも囮にするその発想力が――

 ひどく――誇らしかったのだ。

 

 唯ひとつの問題。

 美由希の持つ、眩いばかりの美しさを放つ、硝子細工のような心。

 それは美しい。

 しかし脆く、一度壊れれば決して元には戻らない。

 その危うさも今回で少し、護る術を手に入れている様に思える。

 やっとの事訴えを収めてきた膝の上に手をやる。

 ……別れは急にやって来て、直ぐに思いつく事も少なかった。

 それでも。

 それでも、やりたい事、やらなければいけない事は沢山あった。

 だから――

 それまでは、死ねない。

 膝を優しく、ぽんぽんと叩いて、もう一眠りする事に決めた。

 するべき事をする時に、できるように。体は資本だから。

 

 

 

 

 

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Last time …… are you happy?

予感=Presentiment

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 次の目覚めは、心地良い、とはほど遠かった。

 目覚めは大音量の、騒音だった。

 

 ガン! ドカッ! ガシャーン!!

 

 けたたましい音を耳に感じながら、俺の意識は瞬時に覚醒する。

 眠気は一瞬で吹っ飛んだ。

 目を開けると、ベッドのパイプに盛大に頭をぶつけたまま固まっている、忍の姿。

 

「いたたたたたたっ! おっはよ~ん」

 

 のんきなその声に、その仕草に、驚きから次第に心がほぐれて行く。

 自然と、頬が緩むのを自覚する。

 

「おはようございます。お加減は如何でしょうか?」

「なかなか悪くは無い、と言ったところかな」

 

 忍の後を、ゆっくりとした動作で部屋へ入ってきたノエル。

 恭也の目を優しく見つめる彼女には、いつも通り隙ひとつ見られない。

 別段、彼女が俺を怪しんでいるわけではない。

 既に、俺の勝手な思い上がりでなければ、忍と俺は親友だと思っている。

 だが、彼女の癖とも、職業上の義務とも思える行為は、僅かに心を騒がせる。

 

 ――ばれてはいけない

 

 そう心が訴えるのだ。

 信頼してくれている人間を騙すのは容易い。

 だが、今の自分は怪我をしていると言う事になっていて、そして病気はばれてはいけない。

 酷く、面倒な事だ。

 

「それで忍。額は大丈夫か?」

「うん! 大丈夫、大丈夫!! あ~、恭也に心配して貰えるって良いわ~」

「忍お嬢様。心配をかけないのも大切な事ではないかと思いますが」

 

 ノエルの冷静な突っ込み。

 確かに忍には、少し突っ走りすぎる嫌いがある。

 俺も注意しておいた方が良いのだろう。……否、心配しているのが本心だな。

 

「そうだぞ。体を大事にして悪いことは無い」

 

 俺の会話の流れと、本心からの一言。

 しかし、それが逆に部屋の空気を重くさせた。

 体を大事にせずに、入院を余儀なくされた人間の言うべき事ではなかった。

 歯切れの悪い沈黙が続く。自業自得だ。

 場の空気を変えたい、そう思うのに口は動いてくれない。何も言葉が思い浮かばない。

 

 その時、ノエルがその空気を無理に断ち切るように動いた。

 身体を屈ませ、俺の顔に視点を合わせると、じっ、と窺う様にそのまま止まる。

 

 ドクン、ドクン、ドクン……

 

 今度は俺にだけ、嫌な汗を掻く時だった。

 直ぐに、ばれはしないかと鼓動を乱す、臆病な心臓が恨めしい。

 

 ――冷静に、機械的に。

 

 それだけを意識して、ノエルに訊ねる。

 

「ノエル。俺の顔がどうか?」

 

 少し、声が上ずってはいなかったか?

 震えてはいなかったか?

 気にしすぎて失敗、というのは余りにも『都合が悪い』のだ。

 ノエルが口を開くまでの一瞬が、余りにも長い物に思える。

 しかし、ノエルは俺の微細な変化を感じ取っていながら、それに対し別の解釈をした様だった。

 

「少し、顔色が優れないようです。まだ体調が整っていないようですので、無理はなさらずお休み下さい。さあ」

 

 肩に手を優しく置かれ、甲斐甲斐しく布団に寝かしつける。

 仕方なく寝転んだ俺に、柔らかい病院の掛け布団が掛けられた。

 ノエルの優しい好意に喜びながらも、とりあえず、男の安い尊厳を込めて、少しだけ反発したかった。

 

「……俺は子供じゃないんだけどな」

「承知しております。ですが手伝える事を手伝う。それ位でしたら、宜しいのではないでしょうか? メイドとして、私の存在意義を考えていただければ」

「む」

 

 見事な反論。道理に適っていては、今度は反論する事さえ許されない。

 嬉しくて――――その優しさが恨めしい。

 

「そうだよ。恭也も無理しちゃ駄目だよ」

 

 忍が続く。

 さて、これで俺は今、四面楚歌か……。

 悲しそうに、少し涙ぐんだ忍の顔と、真面目なノエルの表情に、俺は頷く事しかできなかった。

 

 

 

 

「それじゃあ、ちゃんと寝てるのよ?」

「ああ、分かってる。かあさんも帰り道、気をつけてな」

「また来るからね」

 

 ガチャリ。

 

 ドアノブが完全に閉まる音と共に、俺は溜息をひとつ。

 少し、疲れた。

 これまで常に動かし続けてきた体は燃費が良くなり過ぎていて、病院という動けない場所では精神的苦痛にしかならなかった。

 疲れは肉体よりも精神的なものだった。

 しかし疲れたと言ってばかりもいられない。

 考える事が一つ、否――二つ。

 美由希と、美沙斗さんだ。

 今までに、二人を除く皆がそれぞれ見舞いに来てくれた。

 それは一方で酷く精神が疲弊する物だったが、同時に自分に対し見舞いに来てくれる者がそれだけいる。

 その事実はとても心温まるものだった。

 戦いに身を置いて早、十数年。

 常に駆け足に生きてきて、そして死を間近に迎え始め、初めて心休まる日々が来る…………。

 なんと皮肉な事だろうか?

 それが自分の身に起きた事だというのに、可笑しくて仕方が無かった。

 くっくっくっ、と歯の隙間からこぼれ出るようにして、皮肉な笑い声が漏れた。

 ふと正気に返る、というのだろうか。

 急に心が波一つ立たず、冷静になり、部屋が沈黙に包まれる。

 そうなると、今笑っていたのがとても馬鹿らしく思えた。

 

「まだ、もう少し、遣り残した事があるんだよな…………」

 

 

 

 

 

「う、うぅ~~~ん」

 

 ああ、眠い。

 元からそう朝に強い訳じゃなかったけど、今日は特別に、眠い。

 鏡を見れば、きっと目の下にはクマが出来て、ちょっぴり自慢の銀髪はぼさぼさになっている筈だ。  昨日、ちょっと根を詰めすぎたみたい。

 つけっ放しになっていたパソコンの電源を落とし、不安定な椅子に寝ていた自分の身体を起こして伸びを一つ。

 自然とあくびが出た。

 パソコンに映っていた概要を思い起こせば、直ぐにでも一人の患者頭に浮かぶ。

 

 一人の患者に起こった奇病。

 それは治らぬ故の、不治の病。彼は難病指定に罹っている。

 私は今、それに対し闘いを挑んでいる。

 治らぬ病を治したい。

 救えぬ命を救いたい。

 今、私は初めて医療に携わった、自分の素性に対する復讐ではなく、真っ当な医師の想いとして、病に向かおうとしているのかも知れない。

 

 助けたいと切に思う。

 それが世界でたった一人でも。

 その人がもし、次の日事故で亡くなったとしても、その一日だけでも生きる事の喜びを感じれるように。

 医療には、延命のためだけに行う措置という物がある。

 例えば植物状態となった人を、二度と意識が戻らなくなっていたと判っていても、永らえさせる。

 それが医師のする事なのか、必要な事なのか、分からない。

 

 

 私は今、一つの分岐点にいると思う。

 復讐心から始まり、養父の偉大さに触れ関心を持ち、その心が自分の仕事に対する義務感となりかけている――そんな分岐点。

 きっと、これから短い一月という間に、私のこれからが決まってしまうだろう。

 漠然と。

 しかしはっきりと、そう感じる自分がいる。

 

 

 

 

 救わなくてはならないのではなく、救いたい。

 心からそう思っている、そしてそう思わせてくれる、一人の患者が居た。

 症状について調べ、次に薬に対するシュミレートをパソコンで一つ一つしていく。

 どれが効果のある物か全く分からない。

 そして、計算上合っていたとしても、それが副作用という面で人体に悪影響は無いのか。

 また、人に対して行った場合、計算とは全く違う効果だったと言う事もありえる。

 それが臨床実験を行う一番の理由だが――。

 

 そして、一晩できうる限り挑戦した結果が、今の寝不足だ。

 外来の診察、外回り、論文の提出――

 するべきことは数多くある。

 まさか睡眠不足でむくんだ顔と、寝癖頭で患者さんを診察するわけにも行かない。

 真っ白な自分の研究室。

 カーテンが少し開いていて、窓からは透明な、強い光が入ってきている。

 少し、いや。かなり寝過ごしたみたいだった。

 今、何時だろうか?

 素朴な疑問で、壁に掛けられた時計を見る。

 

 クルックー、クルックー。

 

 アメリカにいるシェリーがプレゼントしてくれた鳩時計が、不思議な声で、不吉な時刻を告げた。

 時計の針は――――

 

 ――――午前11時を指していた。

 

 

 

 

 

 無音ながらも感じる、微かな気配。

 ともすれば、直ぐ近くに来ても分からないほどのそれに気づいたのは、彼女自身が気配を抑えていなかったのと、彼女の気配が慣れたものだったからだろう。

 常人なら、隣を歩いていても気付かない程の気配を隠すのが巧いその人は、廊下を歩き、今、俺の部屋の前で立ち止まった。

 

 コン、コン。

 

「どうぞ。開いてます」

 

 随分と控えめなノックも、美沙斗さんらしい。

 そんな事を思いながら、中に促す。

 本当ならドアまで歩いて、自ら開ける所だが、そこはそれ。

 今の自分の状態を考えると、そういう訳にも行かない。

 ノックの音も控えめなら、ドアが開くのも、と言わんばかりの遠慮がちにドアが開く。

 開きながらも直ぐには入ってこない美沙斗さんに、この人も自分と同じ――トラップの警戒を全くの無意識にしてしまう習性に思わず苦笑が漏れる。

 最初にドアの中に入るのも、足から。

 足を打ち抜かれても死ぬ人間はまずいないが、頭だと、と言うわけだ。

 

「お邪魔するよ」

 

 そう言うと、後は普通に入る美沙斗さん。

 入ってきた瞬間、不自然にならない程度に探りを入れる。

 知っているのか。はたまた気付いているのか。

 それとも全く感づいていないのか…………。いや、それは無いな。

 多分、確証は無くても、必ずと言っていいほど、疑問を持っているはずだ。

 甘すぎる考えは捨て去らなくては。

 

「いらっしゃい、美沙斗さん。何か食べます?」

「いや、遠慮しておくよ」

 

 見舞いにと皆が持って来てくれた、くだものの詰め合わせを指差すが、流石に来る人来る人、皆がくだものを持ってくるとなると、籠は一つや二つでは利かなくなる。

 

 安価なパイプ椅子と、棚だけしかないその病室で、見舞い品として集まった果物だけが異色を放っている。

 美沙斗さんが、逆に果物の皮を剥いてくれようとするのを察し、止める。

 既に、何人もが同じ事をしてくれた為、腹は張っていた。

 

「良い天気ですね……」

「ああ。確かに燃えるような真っ赤な夕陽だ」

「綺麗だ…………」

 

 窓の方を向いて言う。

 朝方の雨が嘘のように、夕陽が窓から入り、壁の一面が白から赤に変わっている。

 美沙斗さんの顔も夕陽の光を浴びて、少しだけ赤くなっている。

 

「綺麗だなあ」

 

 思わず、思った事が声に出た。

 男女の綺麗さとかではなく、完成された一枚の絵画のような美しさ。

 正直に、綺麗だと思う。

 

「な、何が綺麗なんだい? あ、ああ。夕陽かな? 確かに綺麗だね」

「美沙斗さんが綺麗なんですよ」

「なっ! …………大人を……からかうんじゃ無いよ」

 

 ぼそぼそと、少ししか聞き取れない声で美沙斗さんが反論する。

 何だか、俺も何時もより饒舌になっているようだ。

 今度は夕陽のせいだけじゃなく、本当に赤くなっている美沙斗さんを、さらに可愛いですねと言ってやろうと思い…………止めた。

 美沙斗さんの顔は、ほんの数秒前と違い、酷く真剣な物になっていた。

 嫌な、予感がした。

 何か……失敗しただろうか?

 気づかれるような事は、していない筈だ。

 何故、美沙斗さんがこんなにも急に表情を変える必要がある。

 少し。

 いや、かなりヤバイのかも知れない。

 無理にでも顔を和らげる。

 大丈夫。こんな事はもう、ずっと続けてきた事だ。

 今更失敗などするはずが無い。

 極めて単純。極めて機械的。

 そうして、感情を時に殺して生きてきた。

 

「どうかしたんですか?」

「ん? いや…………何でもないよ」

 

 直ぐに美沙斗さんの顔は柔らかな物に戻った。

 だが、俺だって気付いている。

 ――嘘だ。

 確実に何かに疑問を持っている。

 既に、完全に何かに気付いているのか、それとも動揺させて探りを入れようとしたのか。

「ところで恭也。お見舞いに来て今頃っていうのも何だけど、身体の方はいいのかい?」

「ええ。肝心の膝を痛めはしましたが、今月中位には通院に変わるんじゃないでしょうか。誰かに聞いてませんでした?」

「午前中はちょっと用事があってね。桃子さんたちに聞く時間が無かったんだよ」

 

 やはり、何かに気付いている。

 何故だ?

 俺の膝が悪い事を知っているのだから、普通なら膝を聞くはずだ。

 なのに何故、『身体』と言う。

 本当に……厄介な事になった。

 

 スッ…………

 

 

 音も無く、美沙斗さんはベッドに近づき、労わるように膝に手を押さえた。

 

「ッ!!」

「痛かったかい? 済まない。しかし、かなり悪くなっているみたいだね。フィリス先生の言う通り、移動が許されるまであまり無茶をしてはいけないよ」

「……はい」

 

 膝に手を置きながら、視線は俺の顔を見ている。

 目を合わせ――――

 

 

 

 

 

 ――戦慄した。

 黒い。

 余りにも真っ黒い、深海を思わせる、深淵の闇を持った瞳。

 目を合わせてはいけない……そう思うのに、一瞬たりとも離す訳にも行かない。

 離した瞬間、殺されるような予感さえ感じさせる――

 ――絶対的なまでの深み。

 戦いの場とも違う、殺し合いとも全く違う。

 しかしそれは、全く別な意味での闘いだった。

 

「身体は……大丈夫なのかい?」

 

 ゆっくりと、ワンテンポ置いて強調された、再びの問い。

 絡め取られる。

 思いも、意志も、矜持も、自らに課した誓いさえも…………。

 

「……心配ありません」

 

 この人は、これまでどんな人生を歩んで来たんだろうか?

 素朴で純粋ながらも、本心から気になった。

 愛する者を失い、復讐に走り、その間一体何を学んだのか。

 何を拾い、何を捨てて生きてきたのか。

 

「そうか……。さて、面会時間もそろそろ終わりだし、帰るとするよ」

「はい。帰り道、お気をつけて」

「ああ、また来るよ」

 

 来たときと同じく、静かにドアを閉め、他人に気配を悟らせずに帰っていく美沙斗さん。

 ふと時計を見やれば、美沙斗さんが来て、まだ二十分ほどしか経っていなかった。

 それなのに、酷く疲れていた。

 

「ああ、本当に疲れた…………」

 

 

 

 

 

 病院からの帰り道。

 私は恭也について思う。

 少し、やり過ぎたかも知れないな。

 しかし、何かを隠している――秘密にしているのは間違いないみたいだ。

 表情を変えなかったのは流石とは言え、無表情に過ぎた。

 きっと言いたくなくて、そして、言えないような秘密なのだろう。

 だが、美由希は泣いていた。

 それも怒りなどからじゃなく、本心から湧き上がる哀しみに。

 隠しているのは大切な事。

 私も知る必要があるようなこと。

 恭也は話さなかった。

 だから――――

 

 

「まだ時間はある。次はフィリス先生に聞くとしよう」

 

 

 

 

 

06

 ――疲れた。

 心底そう思う。

 今日一日、朝からひたすら自分の部屋にこもって心の整理に勤め、夜からは母さんとの鍛錬に励んだ。

 不思議な事実。

 恭ちゃんに勝てたなのに、母さんには勝てない。

 少しは上がったらしい自分の腕で実感させられた。

 母さんは鋭い斬撃を使う訳でもない、受ければ腕が痺れるような重たい一撃も無い。

 ただ、巧いのだ。

 私の攻撃を見事に“いなし”、無駄の無い動きで小太刀を滑らせる。

 剣という武器を持つという事は、刃を引けばそれだけで人を殺せる、 無駄な力は必要ないのだと、暗に言われた気がした。

 

「ああ。しんど……」

 

 ぼふっという柔らかい弾力を感じて、私は自分のベッドに倒れこむ。

 スプリングが少しぎしぎしと軋みの声を上げたが、今は疲れてそんな事に気を配るどころじゃない。

 鍛錬で掻いた汗を、シャワーで流すついでにパジャマに着替えていたから、そのままもぞもぞと這うようにして、枕元にまで向かう。

 顔を枕に埋め、今にも眠ってしまいそうなのだが、疲れた身体と頭に鞭打って、もう少しだけ考える事があった。

 

「恭ちゃん……」

 

 口に呟いて考える。

 もう少し、もう少し、いつまでも――。

 考える事も、考えられる事もそれ一つしかなかった。

 それほどそれは、衝撃的な事実で――。

 

 どうやら恭ちゃんは後一月で死ぬらしい。

 

 酷く冗談じみていて、残酷なくらい本当の話。

 フィリス先生の悲しみとも、怒りともとれない表情と、リスティさんの笑いながらも歪んだ表情が、それが真実だと私に教えた。

 知らずに、全てが勝手に進み、終わってからその事実に気付くのと、知ってすべき事が何も無いのだと苦しむのと、一体どちらが幸せなんだろう?

 

 私は今――――――――無力なのだ。

 

 

 

 恭ちゃんを救う事なんて出来ない。

 恭ちゃんの代わりに死ぬことも出来ない。

 病気を治す事はおろか、却って心労の原因の一つとなっている。

 私は今、無力だ。

 どうしようもなく無力で、そのくせ知りたくて、どうしようもなく知りたくない事実に首を突っ込んでばかりいる。

 何ができるんだろう?

 生まれてこのかた剣以外、半人前以上になったことも、なろうと努力した事も無かった。

 目が悪くて、本ばっかり読んで、友達も出来なくて、恭ちゃんの為に料理一つ作って上げられない……。

 そんな私にできる事は何だろうか?

 もしこの世に神が、悪魔がいるのなら、私は代わりに地獄に行ったって構わない。

 それだけの想いがある。

 それだけ思っているのに、私には何一つしてあげれる事が無い。

 

 ――護ってあげたい。

 ――苦しみも、悲しみも、全部私が包み込んであげるから……。

 

 それは自分についた、卑しい嘘。

 本当は、こんな時でもないと恭ちゃんに告白も出来ない自分を誤魔化しているだけ。

 

 愛している。他に何も要らない。

 それは裏を返せば、恭ちゃんが死んでしまえば、自分も死んでしまうという事。

 私にはそんな事ができるのか。

 桃子かあさんを、美沙斗母さんを、みんなを悲しませてまで私は恭ちゃんだけを見続けることができるのか。

 

 分からない……。

 

 電気は元からついていなかったから、そのまま布団を被って目蓋を閉じる。

 

 

 すぐに「できる」と言えない。

 そんな自分が酷くちっぽけで、どうしようもなく、愚かに見えた……。

 

 

 私は、無力だ――――。

 

 

 

 

 

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Last time …… are you happy?

Betrayal of Truth = 裏切りの真実

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 夢を見ている。

 とても、幸せな夢だ。

 かあさんがいて、美沙斗さんがいて、フィアッセも、美由希も、晶も、レンも、なのはもいて、楽しく飯を食べている。

 テーブルの上には晶とレンが共同で作ったらしい、和食と中華の大皿が並び、みな微笑ましく箸をつつき合っている。

 テレビを見て、あれだ、これだ、違う。

 推理物らしい。みんなが頭を捻って、真剣に結末を考えている。

 そしてそこに……俺の姿は無い。

 楽しげな、みんなが幸せそうな一家の団欒。

 そう、これはきっと幸せな夢だ。

 誰もが俺の事を忘れたように幸せに暮らす。

 それこそが俺の望んだ事で、今している事なのだから。

 だからこれは幸せな夢。

 そう。

 

 

 ………………きっと。

 

 

 夢を見ている。

 とても、幸せな夢だ。

 

 

 

 

 

 夜が明ける。

 暗い夜の、闇の孤独な世界が終わる。

 臆病な私は夜が苦手だった。

 この世に幽霊が実在する事を知って、想像として捉えている人よりも更に、私はその類の話に臆病になった。

 そんな私の為に、自分の貴重な時間を費やして励ましてくれた人がいた。

 常に黒の服だけを着て、お世辞にも洒落た格好をしているとも思えないのに、彼には非常に黒の服が似合っていた。

 私が深夜コンビニでお弁当を食べているのを知ると、家から料理を作ってきて貰い、共に夜食を口にした。

 最初遠慮した私に、自分もお腹が減りますから。そう言って不器用そうに、ほんの少しだけ顔に笑みを浮かべる。

 私は、彼のそんな顔が好きだった。

 自分のするレポートが終わると、じっと横顔を見つめられて、頬を赤くしたときの気恥ずかしさは何時になっても忘れられない。

 私は――彼が好きだ。

 強くて、優しくて、不器用で、どんな事でも一生懸命、本当に命すら賭けてしまう彼。

 自分も護って欲しい。

 そして、護りたい。

 彼と背中合わせに、お互いを信頼して生きて行けたら、どれだけ幸福だったろう?

 付き合うどころか、彼は酷くそういった事にだけ鈍くて、私の気持ちには全く気付いていない。

 最近、彼が私の気持ちに気付いていなくても良いと思うようになってきた。

 ただ、純粋に彼の笑顔が見たかった。

 それは私が一個人としてから、医師として彼を見るようになってきているのかも知れない。

 それは私の成長を告げているのに、酷く残念に思えた。

 

 間も無く、完全に夜が明ける。

 朝焼けに赤く燃える東の空は、間も無く白光となって部屋を明るく照らすだろう。

 それは残り少ない彼の命の日がが、また一日分燃え尽き、短くなったという事。

 護られたかった。

 でも、今はそれ以上に護りたい。

 自分が死んだ事を誰にも悲しませないよう、誰にも自分の死を悟らせようとしない彼の、あまりにも不器用な性格、あまりにも純粋なココロを護りたかった。

 さあ、貴重な時間を考えに費やすのも終わるとしよう。

 今日もまた忙しい一日が始まる。

 少しだけ仮眠を取って、いつも通り診察をこなし、より多くの人の笑顔を守る。

 私は彼の恋人ではない。

 私は彼の主治医だ。

 そう、私は医師なのだ。

 護るべき笑顔は一つだけではない。

 この病院に訪れる全ての患者が、私にとって護るべき対象なのだ。

 私はパソコンでとったこれまでのデータを保存すると、明らかにVIP用患者よりも粗末なベッドに横になった。

 目蓋を閉じれば直ぐにでも睡魔が襲ってきた。

 ああ、電気を消さなければ……。

 …………。

 …………。

 

 

 

 

 

 誰かがいる。

 それなりに深い眠りについていて、安らぎを得ていたその時、急に部屋に気配が現れた。

 それは本当に不意で、無から一が生み出されたかのようなそれは、俺の経験ではHGSしか該当する物がない。

 その気配は俺の良く知る人物だったから、警戒は無かった。

 目を開け、しかしまだ身体は起こさずに声をかける。

 

「おはようございます。リスティさん」

「Good Morning……ちぇっ、恭也はいつも気付いちゃうんだよな……」

「剣士は常時警戒が生業ですから。それはそうと、こんな時間にどうしたんですか?」

 

 身体を起こす。

 リスティさんはベッドの直ぐ脇に立っている。

 俺に感づかれたと舌打ちするリスティさんだが、そう残念そうには見えない。

 フィリス先生に会うわけでもなく、面会時間の前に俺に会うこと自体が少し不思議だった。

 何か用があるのだろう。

 俺の問いに、リスティさんは子供の悪戯、というような壮絶な笑みを浮かべる。

 正直、これから何をされるのか少し怖くなる。

 両手で頬を掴まれてお互いの吐息が触れるほどの近くまで顔を寄せられた。

 キスをする訳じゃないだろうが、免疫の無い俺には顔が赤らむのを止められない。

 視線が合う。

 普段の俺ならそこで更に緊張するはずだが、リスティさんの瞳に真面目な色をしているのを見つけ、逆に落ち着きを取り戻した。

 わざわざ顔を掴んだ理由は何なのか、そう思い、しかし意味をどうとでも取れるようぼかして問いかける。

 

「どうか……しましたか?」

「フィリスから、全てを聞いたよ」

「――!!」

 

 顔が硬直する。

 言葉に詰まり、心拍数が格段に増えた。

 だが、例えリスティさんが全てを知っていたとしても、自分の今の対応はいけなかったと少し反省する。

 もしも今の言葉に偽りがあったとき、みすみす何か隠しています、と語っている様なものだ。

 だが、リスティさんは俺の様子を気に止めていない。

 今も変わらず顔を掴み、俺の様子を伺うように目線を合わせる。

 俺の反応に対する対応、その瞳を見れば判る。

 リスティさんは嘘でも何でもなく、本当に全てを知っているようだった。

 当事者の俺よりも詳しく。

 顎を掴んでいたのは俺の内心を探るためだったのか……。

 知らず、溜息が出た。

 

「……恭也は気付いているのかい?」

「え?」

 

 ポツリと、一瞬だけ悲しそうに顔を歪め呟いたリスティさんの声。

 それはもしかしたら、聞かなかった方が良かったのかもしれない。

 呟いたときの顔が、あまりにも悲しげだったから。

 だが俺とリスティさんは顔をつき合わせた状態。

 嫌でも耳に入ってしまう。

 リスティさんは、今度は呟きでなく、はっきりと口に出す。

 柔らかく掴んでいた手は離された。

 

「僕は、君より君の事を良く知っている」

「どういう意味ですか?」

「恭也は昨日、フィリスと会ったかい?」

「いえ……フィリス先生なら一昨日から見てませんね。どうかしたんですか?」

「そうか……。僕が恭也に全てを話したら、フィリスは一体何と言うかな?」

「何を言っているのか、良く判りません」

「それはそうだろうね」

 

 そうだな。

 そう言って、何かを考え込むリスティさん。

 それは、全てを知っている者と、知らない者との絶対的な立場の差。

 フィリス先生が俺に隠すこととは何だろうか。

 そして、それをリスティさんが俺に言って、怒ることとは何だろうか。

 

 ――決まってる。

 

 俺の病気についてだ。

 

 

 

 

 

 言うべきなのだろうか?

 それとも、全てを黙してフィリスに任せるべきなのだろうか?

 私は今、後戻りできない一歩手前で、ただ何もせず迷っている。

 フィリスの意志を尊重すれば、僕が言うべきではない。

 それは百も承知。

 だが、だからといって、自分の口で恭也に事実を告げるという事で起きる、恭也のショックを見届ける悲しみは、測りきれないものがある筈だ。

 あれだけ頑張ってる大事な妹に、そんな悲しみを負わせたくない。

 ――分かってる。

 例え如何に苦しい出来事であろうとも、あいつならば耐え切れる。

 その悲しさ、苦しみをばねにできることを。

 そう、最初から分かりきっている。

 耐えられないのは僕自身。

 全てを知りながら、諦観するしかない、どうしようもなく非力な自分。

 僕はそれに耐えられないだけ。

 耐えて、堪えて……。

 だけど、僕の信念は絶えてしまう。

 フィリスを言い訳にして、自分を偽って。

 それでも僕は、この展開に加わりたいと思っている。

 それを駄目だと抑えつける自分がいる。

 言うべきだろうか。

 それとも全てを黙して、フィリスに任せるべきだろうか。 

 僕は……

 

 

 

「何ヶ月だと思っていたかは知らないけど、恭也は後、一月で死ぬよ?」

 

 

 

 自分でもどうしようもなく弱く、愚かなんだ。

 どうして僕は……。

 どうして…………。

 

 

 

 

 

 全てが白の、清潔感というよりは、どことなく潔癖症を思わせる廊下。

 手摺と、床と壁との繋ぎ目にある木目が、何とか殺風景な場所を彩っている。

 時間が早い為か、一部の看護婦と、入院患者くらいしか姿は見られない。

 普段なら多くの患者でざわめく病院の待合室も、自分唯一人だけで、目立つことこの上ない。

 少し早足になり、結構な長さの廊下を歩きながら、私は今後の予定を再確認する。

 昨日、とうとう恭也は何も話してはくれなかった。

 不破の一人と言えど、大した物だった。

 探りを入れて見た所で、何かを隠している。それ以上は分からなかった。

 恐らく、恭也のこれまでの生き様が、あれ程の精神力を備えさせたのだろう。

 素直に感心する。苦労の数だけ人は強くなると言うが、私は過去の絶望から目を逸らして生きてきた人間だ。

 真っ直ぐに生きる恭也の生き様に、私は誇りを持てる。

 そこで関係がありそうな、フィリス先生に聞くわけだが、答えてくれと言って答えてくれるだろうか。

 そんな事はないのだろう。

 彼女もまた強靭な精神力で今日まで生きてきたしぶとさがある。

 真っ直ぐに向かっても、彼女はきっと耐えて見せるだろう。

 騙すのは辛い事だが致しかたないか……。搦め手で行くとしよう。

 ……私たちには知る権利がある。

 さて、そのフィリス先生だが……寝ているのかな?

 

 

 

 

 

 コンコン。

 誰かが扉を叩く。

 

「はい、どうぞ」

 

 ベッドから跳ね起き、完全な条件反射で返事を返す。

 時計を見れば、診察にもまだ早い。

 扉が開いて顔を現したのは意外な人物だった。

 

「美沙斗、さん? どうしましたか?」

「おはようございます」

「あ、おはようございます」

 

 会話が咬み合わない。

 美沙斗さんは一体何の為か、部屋に入るのを一瞬躊躇したかと思うと、直ぐに普通に入ってきた。

 

「どうぞ」

「ありがとう」

 

 椅子を勧める。

 静かな返事は陰鬱と言うより一切の感情を感じさせない。

 感情に起伏がない訳ではない。

 ただ表面に出さないだけ。

 そういう所は恭也君に似ていると思う。

 恭也君の家族の中で、一番似ている人。

 それは常に闘いを心の一分に留めている人だと思う。

 私は真っ直ぐに美沙斗さんに視線を合わせる。

 

「ココアでも飲みます?」

「できれば日本茶が嬉しいのだが……」

「……わかりました」

 

 何故みんなココアの良さが分からないんだろうか?

 私は椅子から立ち上がると、ポットに常に入れてあるお湯を使い急須にお茶を準備する。

 コポコポと60℃ほどのお湯が急須に入り、お茶の香りが漂う。

 確か、一分ほど蒸らすんだったかな。

 ココアばっかり飲んでいて、お茶の正しい入れ方を忘れている私は、そんな事を考えながら準備を続けていく。

 

「フィリス先生……」

「はい?」

「恭也は……どうなるんですか?」

「膝ですか? そうですね……時間は掛かりますが、ゆっくりと治療を続ければ治りますよ」

 

 心臓が止まるかと思った。

 だけど、本当に嫌な事だ。私は医者になってある程度、嘘には慣れている。

 きっと今回も大丈夫。

 驚きに拍動を増した心臓が、落ち着きを少しずつ取り戻す。

 そう……大丈夫。

 

「膝じゃありません」

「え?」

 

 今度は駄目だった。背中を見せていた良かったと思う。

 だけど、私の疑問の言葉は、何故膝じゃないと言えるのか。

 その一点、純粋な疑問だったから、判別はつかなかったと思う。

 つかなくあって欲しい。

 私は追及が嫌だったのもあり、充分に蒸されたお茶を、湯飲みが無かったのでマグカップに入れて美沙斗さんに手渡す。

 

「ありがとう」

 

 それは多分、笑み。

 ふとすれば見落としてしまう程、小さく持ち上がった口の端。

 強張っていた自分の顔が、幾分か緩むのを感じた。

 自分の椅子に座り、お茶を啜る。

 ズズズ……

 口に広がる苦味と甘味。

 うん、お茶も悪くない。

 入れ方はお世辞にも良いとは言えないから、お茶の葉っぱが良かったのだろう。

 それとも急須?

 確か、赤茶けた色のが良いと聞いたことがある。

 ちらりと給湯室に目を向ける。

 急須の色は――朱。

 どうやらお茶と急須が良かったらしい。

 

「フィリス先生」

「は、はい!?」

 

 そんな事を考えていると、美沙斗さんはマグカップを机において、膝の上で手を組み私を見ていた。

 恥ずかしい。

 

「実は、恭也から聞きました」

「え? あ、ああ……そうなのですか?」

 

 心の中にある感情は、本当に、ただただ、驚きだけだった。

 私の先程までの行動は意味が無かった?

 どうして恭也君は話したことを言ってくれなかったのだろうか。

 ああ、良く考えれば……昨日は会ってない。

 それでかな。

 昨日の間に意志が変わったのかも知れない。

 恭也君自身が言ったんなら、死期が後一月しかない事以外は、言って良いかもしれない。 家族にも言ったのかな?

 

「ご家族にはもう?」

「今晩、夕食の後にでも言おうと思います。みんな、恭也の事を知る権利がある」

「そうですね……」

「それで、治す方法は?」

「それは――――」

 

 症状から治療法の有無まで、簡潔に述べていくうちに、美沙斗さんの顔が固まっていく。

 

 ああ、この人は知らなかったのだ、とそのとき理解した。

 

 

 

 

 

08

 何か大切な事があったのだと思う。

 燃え尽きる直前の蝋燭のような身体で、成さねばならない事が確かにあったはずだ。

 思い出せ。

 思い出せ。

 思い出せ。

 今日まで何のために生きてきたんだ。

 今日まで何のために剣を握った。

 戦うためか? 誰かを救いたいと言う傲慢からか?

 違うはずだ。

 断じてそうじゃない。

 思い出せ、思い出せ、思い出せ。

 これこそが、と言える俺の原点を。

 

 

 そう、これこそが俺の――――

 

 

 

 

 

Last time …… are you happy?

08 一つだけ救い

 

 

 

 

 

 考えなければいけなかった事はこれまで幾つも有った。

 そして今、俺は自分が経験した中で、最も複雑な問題を抱えていると言ってもおかしくないだろう。

 問題は一つ。原因もまた、一つ。

 できる選択肢は少ないながらも幾つか。

 後は如何に、自分の気持ちに冷静になり、無駄な誇りとか、不必要な感情を排他して考えられるか。

 

――――結局の所、高町恭也として、如何に自らの死を受け入れるか。

 

 問題はその一点に限られていると思う。

 抗っても、諦めても、達観しても、悲しんでも、如何なる行動を取っても、死ぬときは死ぬ。

 嘆く時間はもう過ぎた。

 悲しむ時間ももう、要らないだろう。

 後はひたすら静かに死を受け入れるか、残された時間を精一杯使って、自分はまだ生きている、ここに居るんだと訴え続けるのか。

 

 ――どちらも自分らしくないような気がする。

 

 今こそ、きっと決断するときだと思う。

 そのための材料は揃っている。

 肝心の自分の心も、不思議とその考えに反対する気は無い。

 目を瞑れば何時だって思い出せる。

 鮮明に、詳細に、目の前で、はっきりと。

 あの人は風のようだった。

 誰よりもだらしなくて、誰よりもいい加減な性格をしている。

 だけどする事はいつも正確で、真っ直ぐで、容赦なく、そして全てに半端じゃなかった。

 何よりもまず想いを大切に動いて、そして誰よりも何よりも友を大切にした。

 正義を好んで悪も嫌わず。

 自分だけを信じて決めた。

 あの人は誰よりも強かった。

 体も、心も――――

 甘い物が好きで、酒も飲んで、多趣味で特技が多く。

 俺とは似ても似つかない人だ。

 

――――何故だろう?

 

 あの人の背中をいつも目標にしていたのに。

 一体どうしてここまで似ないのか。

 

 ぽつぽつぽつ、と雨が降り出した。

 空を見れば別段曇っておらず、西側からは光が差し込んで顔を顰めた。

 狐の嫁入りという奴だ。

『高町家之墓』と彫られた墓石が雨に濡れだす。

 無骨な真四角の墓石は、濡れた箇所から徐々に色を濃くしていく。

 まるで涙を流すようだ、なんて似合わない事を一瞬考えた。

 それだけまだ、自分の考えに確信と、自信が持てていないんだろう。

 立ち上がり、膝に付いていた小石を払う。

 ――父士郎は尊敬に値する人物だった。

 強く、正しく、父さんなりの優しさもあった。

 俺は一生敵わないと、そう思っていた。

 剣の腕は遠く、器は遥か高く、大きく。

 追いつき、追い越せるものなど、一つもないと思っていた。

 

「父さん。俺は間も無く死にます――――病です、助かりません。家族には黙っているつもりでした」

 

 だが、違う。

 一つだけ。一つだけ追い越せるものがあった。

 

 ――目を瞑れば何時だって思い出せる。

 

  鮮明に、詳細に、目の前で、はっきりと――

 

 

 真っ黒な布でおおわれたへやの中。

 真っ黒なふくをきた、たくさんの大人。

 みんな泣いてたり、悲しんでたり。

 めのまえには父さんのしゃしん。

 “ものくろ”なへやの中、父さんがうつるしゃしんだけに色があった。

 小さなきばこの中、とつぜん消えてしまった父さんに、みんなはとても悲しんで………

 おかあさんが泣いている。みゆきも泣いている。

 フィアッセは泣きながらぼくにあやまって。

 きゅうにしんでしまった父さんと、わるいやつらがゆるせなかった。

 

「――――俺は違う。違う、絶対に違う。

 もう少しで一緒になりかけたけど、これだけは譲れない」

 

 俺は俺の口で、

 自分の死をみんなに伝えて見せます。

 さようなら、また直ぐ会う事になるでしょう。お父さん。

 それと――

 

「これで一勝四十七敗ですね。では」

 

 墓が応える事は無い。

 父さんは既に死に、俺ももう直ぐ死ぬと言うのなら、話は地獄で幾らでも付き合おう。

 

 

 

 

 通いなれた道をゆっくりと歩く。

 見なれた景色が視界を横切っていく。

 歩きなれた角を曲がると、住みなれた我が家の姿が見える。

 目を細め、門へと数歩歩いた所で、急に、左足に、力が――――

 身動きできずにアスファルトに叩きつけられると、体内から何かがせり上がって来る。 ゴポリ。

 そんな音を立てて――――

 

 

 真ッ赤ナ水ガ、口カラ溢レタ。

 

 

 

 

 

「忍お嬢様。少し、速度の出しすぎではないでしょうか」

「大丈夫だいじょーぶ。夜の一族は動体視力とかも良いんだから」

「そのような問題ではないような気がしますが…………」

 

 少し出しすぎた速度を落とし、ノエルには冗談交えて応える。

 なにやらノエルがジト目で睨んできたが気にしない。私だって出したくて出してるんじゃない。ただ、気付いたら標識から三十キロほど速くなっただけだ。

 少し気がはやっているのかもしれないな、と冷静に自己分析する。

 速度を落とし、勝手に早まる鼓動を抑えながら、T字路を曲がる。

 後、二・三角を曲がれば、直ぐにでも目的地の恭也の家が見えてくる。

 別に、家に行けば恭也に会える訳じゃない。

 けれど、どうせなら他の人と一緒に行くのもいいと思った。

 

 ――そして出会う。

 

 角を曲がり、目に入った一人の物陰。

 

 ――それは偶然か、それとも必然か。

 

< この直ぐ後、向かおうと思ったその人物。

 

 ――倒れ行く背中。

 

 活動を完全に停止した脳は、唯ひたすらにアクセルと、ブレーキ両方を踏む誤作動を起こす。

 近づいて直ぐ止まるという動作が簡単にできなかった。

 猛スピンする車体。一瞬の後、停車した車。

 直後、ノエルが外へ出ていた。

 

「忍お嬢様はインターホンを押して直ぐ連絡と救急車を」

「わっ、分かった!!」

 

 落ち着いた、それでも焦燥を隠し切れないノエルの声が、何時までも何時までも心の中をリフレインしていた。

 慌てた声と、救急車のサイレンが海鳴の街に響く。

 

 

 

 

 

08

――――目覚めは病室だった。

 

 白い天井が視界に納まっている。

 何故、とは考えない。

 痺れたように重たい体。

 かすかに、倒れた時のことは覚えていた。

 ぼんやりと虚空を見ながら、ふと、不意に身体を起こす。

 

「みん――な」

 

 知らず、声が零れた。

 少し他の個室よりは広めな空間の中、かあさんを初めとして、眠気が辛いであろうなのはや、赤星や忍までもが部屋にいた。

 聞こえてくる幾人分もの寝息。

 起こすべきではなく、起きた所で何を言えばいいかは解らない。

 ただ、一言。

 

「……ありがとう――――」

 

 そう、言わずにはおれなかった。

 

 

 

 

 

 全てが白い。

 床も、壁も、天井も。

 ベッドのシーツから枕カバーまで。

 着ているパジャマまで白かった。

 窓から見える景色は青と、やはり白。

 雲が三割ほど、緑に包まれた海鳴の空を覆っている。

 今、部屋に居る皆が俺の前に立っている。

 その表情は悲しみに押しつぶされそうなほど痛ましく、辛そうに見える。

 これだけ集まると、流石に重圧が違うな。

 場所が家じゃないのも関係有るのかもしれない。

 本題に入る前に、そんな事を考えてみた。

 

「じゃあ、全てを話そうか」

 

 見回す。

 真剣な表情で、皆が頷いた。

 

「最初に、フィリス先生からはどこまで聞いた?」

「あなたの症状についてだけ。他は何も言ってくれなかったわ」

「そうか」

 

 心の中で、今はこの場にいないフィリス先生に感謝する。

 あの人は全てがバレ、それでもなお、俺に説明するか、しないかという選択の余地を与えてくれた。

 

「聴いた事を繰り返すつもりは無いが、一つだけ。俺はもう、助からない。そしてその事を覚悟している」

 

 息を呑む音がした。

 見れば、一応に皆が瞳を伏せる。

 その態度が少し、悲しい。

 

「気付いたのは少し前だ。確か、その日の晩に、美由希に皆伝について話した。

 ……覚えているか、美由希?」

「うん、覚えてるよ」

 

 その声は、はっきりと鼓膜を震わせる。

 少し奮え、それでも気丈に振舞う。

 父さんが死んだ時と比べて、随分と、強くなった。

 

「最初、俺は自分の死ぬ事を、誰にも言うつもりは無かった。今思えば、知らない間に、俺が自分の人生の短さに嘆き、他人の生を見て羨んでたんだろう」

 

 そう。考えてみれば簡単な事だったんだ。

 自分が一番悲しんだのは、突然いなくなった人への虚無感だった。

 

「だが、今は違う。生憎と、自分の口から全てを告げる事は出来なくなったが、それでもフィリス先生は俺の意思を尊重してくれたんだ。あの人の事を、絶対に責めないでくれ。……さあ、みんな聴きたい事もあるんだと思う。出来うる限りのことなら答えよう」

 

 どうだろうか、父さん。

 俺は、少しでも貴方を超えることが出来ただろうか?

 倒れた事から考えても、時間が無いのは解っている。

 解ってるからこそ残りの時間を共にしたい。

 美沙斗さんが視線を向けた。

 

「恭也」

「はい」

「君は、遣り残した事はないのか」

「ありません。……正直に言うとそれは、まあ幾らでも出てきますが、これは絶対に、と思った事はすべて済んでいます」

「――――そうか、それなら良いんだ」

「はい、ありがとうございます」

「いや、君は本当に強くなった」

 

 最後に美沙斗さんは、にっこりと笑った。

 多分、これまで見た中でも一番哀しそうで、一番辛そうで、だというのに、それは一番――――

 

 もう、美沙斗さんは笑ってはいない。

 ただ瞳を閉じて、入り口脇の壁に背をもたれさせている。

 俺はしばらくその姿を眺め――――顔を皆の中心に合わせるように向ける。

 等しく、皆の視線は俺に向いている。

 

「さあ、皆も思うように聴いてくれ」

 

 

 

 

 

「さて、これで全員が終わったかな」

 

 見回す。窓からは既に陽が高く昇っていた。

 窓を開けば、心地よい風が入り込む。

 知らず、目を細め、窓の外を見る。

 変わらない景色。対して珍しくない景色。

 それが何よりも美しく見えるのはただの感傷だろうか?

 きっとそうじゃない。今まで何度も見ながら気付かなかっただけ。

 

「――――ああ、ちょっと損をしたな」

「え?」

 

 ポツリと呟いた言葉に、忍が反応した。

 

「いや、何でもない。できれば、赤星と二人にしてくれないかな」

「……分かった。また来るからね」

「ああ、暇だからいつでも来てくれ。楽しみに待ってるぞ」

 

 笑えているだろうか?

 俺は今、何よりも大切な時間の中、充実した笑いが浮かべれているだろうか?

 ぞろぞろと出て行く、赤星を残した俺の大切な人たち。

 まだ時間はある。また、次も会える。

 

 かちゃり、とノブが回り、部屋には二人だけになった。

 中学以来連れ合ってきた親友がそこにいる。

 

「馬鹿やろう……」

「スマン」

 

 真っ直ぐに、それだけを言われた。

 

「謝らなくていい」

「そうか」

 

 会話は短く、途切れ途切れに。

 だが、その間がなんとも言えない心地よさをかもし出している。

 いつだってこいつは変わらない。

 いつも自然に、相手が話しやすい環境を作る。

 だからか――――

 

「頼みたい事がある」

 

 自然と、言いたいことがはっきりと言えた。

 

「なんだ、俺に出来ることか?」

「ああ、お前にしか頼めないコトだ」

 

 ざあっ、と風が吹いて、お互いの髪を揺らした。

 赤星は首を傾げる。

 

「俺にしか頼めない?」

「そうだ。だが難しいことじゃない。寧ろ、相手の条件さえ整えば、誰でも良かったんだがな――――」

 

 そう。

 必要だったのは、信頼できる人間。

 交友範囲の狭い俺には、こいつが最も信頼できる人物だったというだけの話だ。

 

「お前には、あるものを渡して欲しい。いつかは、追って連絡する」

「分かった。それでそいつはどこに?」

「これだ」

「これはっ――?」

「頼んだぞ」

「あ、ああ」

「じゃあ、少し眠ることにする。やる事をやったと思うと、急に眠たくなってきた」

「じゃあな、いい夢見ろよ」

「ああ」

 

 目蓋が重い。

 考えるのが少し億劫になって、直ぐさま眠りがそこにあるのが分かる。

 本当に、すこし、安心しすぎたのかもしれない。

 まだあと少しだけ、する事は残っている。

 

 

 

 

 

 空は赤く染まっている。

 秋の夕方が、落ち葉と紅葉と、朱に染まった雲と空によって、妙に物寂しく見える。

 普段は真っ白な病院のシーツも、この時間だけは赤色に変わる。

 病院の屋上。

 ベッドのシーツが右から左へと干し並び、入り口側の、視界の殆んどを奪っていた。

 偶然にも、屋上には誰一人いなかった。

 柵に手をつき、町並みを見下ろす。

 赤い葉をつけた枝が風に揺れ、落ち葉が舞い上がる。

 病院の周りには遮るものがない為か、随分と風が強い。

 洗濯バサミで止められたシーツがバサバサとはためく。

 風が顔を撫で、熱を奪っていく。

 澄んだ空気は心地よく、自分の心まで晴れやかになるようだ。

 赤星には確りと頼む事が出来た。

 次にする事はなんだろうか。

 かあさん、美沙斗さん、フィアッセ。

 この三人は仲がいいし、家族の死を知っている。

 すぐに、と行かなくても、月日が経てばまた元通り、元気にいてくれるだろう。

 晶とレンの二人は、元々心配していない。

 喧嘩というのも、あの二人にとっては溜まるストレスを発散するのに丁度いい方法の一つなんだろう。

 忍はどうだろうか?

 いや、ノエルがいてくれる。

 哀しんでくれるだろうが、俺が忍の事を心配するなど、ノエルさんに対して失礼になるぐらいだ。

 残るは美由希となのはか――――

 ふと、良く知る気配を感じた。

 

「美由希……か?」

「……恭ちゃん」

 

 赤い陽射しだ。

 美由希の白い肌色の頬は、全てを紅潮してみせる。

 一際強い風が吹いた。

 シーツが大きな音を立てながらはためき、最近少しも切ることが無かった自分の髪が、視界を黒く塗り潰す。

 

「恭ちゃん……」

 

 呟いた美由希の声に、午前中に思った認識は間違いだと気付かざるを得なかった。

 声は震えている。

 か細く、弱く、風の音に紛れてしまいそうな程に。

 気が弱いため、朧になった存在感は、死を間近に迎える自分よりも弱々しかった。

 

「どうした、なにを泣く」

「……だって、だってッ!」

 

 耐え切れないように大声を一度。

 嗚咽を耐え、それからは無言。

 病院の屋上はやはり静か。

 この場所に来たときから変わること無く、風だけが耳に響く。

 

 唐突に、

 

「美由希!!」

「――――ッ!!」

 

 腹から美由希を呼んだ。

 ビクリ、と震える美由希に、自分が今出来る最高の笑みを向けて頷いてやる。

 美由希の口が、あ、と開き、しかし風に流されたのか耳に届く事は無かった。

 

「美由希」

 

 大切な人の名前を呼ぶ。

 出来るだけ優しく、出来うる限りの真剣さで。

 

「なにを悲しがる必要がある。俺は今、紛れもなく生きている。泣く必要もない、悲しむ必要も無い。もし本当に泣いてくれるなら、それは死んでからでいい」

 

 自分は優しい人間なのだろうか。

 それともどうしようもないほど酷い人間なのだろうか。

 

「お前に泣かれると、心配で、安心して死ぬ事すら出来ないじゃないか」

「――――ッ!! 恭ちゃんッ!!」

 

 駆け寄り、胸を殴られた。

 今まで培ってきた技術を、一つも使われていないようなパンチ。

 俺の胸に顔を埋めながら、美由希は狂ったようにポカポカと殴り続ける。

 嗚咽が響く。

 ……今度は風に遮られることは無かった。

 少しも痛くない、軽い、まるで本気じゃない拳。

 それが何よりもココロに痛い。

 

 確信する。

 やはり自分は、どうしようもないくらいに酷い人間だ。

 こうして泣く美由希を見て、こうして悲しむ姿を見て、怒りを胸に受けて、嗚咽を耳に聞いて……。

 それはどうしようもないほどココロに痛いのに、絶えがたいほどの幸福を感じてしまっている。

 

「恭ちゃん……逝っちゃやだぁ…………」

 

 何と答えるかは判っていて知っている。

 誰よりも優しくなりたくて、父親を越えたくて、どうしようもない程に酷い人間である俺は――――

 

 

「――すまない……」

 

 

 そう、答えるに決まっている。

 

 

 

 

 

 ――――私は今、『酷い顔』をしていると思う。

 

 涙に顔はむくれ、目は充血して、鼻水と涙で顔がびしゃびしゃになっている。

 しょっぱい水でピントの合わない視界の中、必死にお手洗いを探した。

 階段を降りて、直ぐ脇にそれはあった。

 扉を開けて、タイル張りの、そこだけは白くない空間で、私は水道の蛇口を捻る。

 ザーと、惜しみなく水が流れ続ける。

 鏡を見れば、想像通り、酷い顔をした自分の姿がそこにあった。

 顔を洗う。

 油で汚れたようにしつこく、念入りに、意味も無い程に……

 そうすれば、いつの間にか悲しみも洗い流せるかもしれない。

 無茶苦茶のぐしゃぐしゃに乱れきった心で、そんな事を冷静に考える自分がいた。

 

 とっくの昔に役割を果たしたハンカチも水で洗い、良く絞って顔を拭く。

 目はまだ充血していて赤かった。

 だけど、脹れも幾分かひき、少しはマトモになった。

 乱れた心を少しでも整えようと深呼吸をした。

 思わず、顔を顰めた。

 よっぽど冷静を失っていたのだろう。

 考えてみればそこは当然のようにトイレだった。

 酸度のきつそうな薬品と、排泄物の異臭に顔を顰めながら、

 

「――――アハ」

 

 なんて笑った。

 少しだけ、ほんの少しだけ、

 気分が楽になった。

 笑いながら扉を潜れば、また白い空間の、長い廊下が続く。

 時間のせいだろうか?

 もう面会時間は終わり、廊下には人の姿が無かった。

 朱色の夕日が窓から射しこむ。

 長い長い影法師。

 自分の影が天井にまで届きそうなほど伸びているのに、決して届く事は無いのだと知っている。

 以前、

 知らずに、全てが勝手に進み、終わってからその事実に気付くのと、知ってどうしようもないと苦しむのなら、一体どちらが幸せなんだろうか、と考えた事があった。

 その答えは未だに判らない。

 ただ、どちらも不幸せ。

 それだけは、身に沁みて判ったような気がする。

 ふと、前を見た。

 それに気付いたのは気配だったのかもしれないし、

 長く伸びた影法師だったのかもしれない。

 もしかしたら、静かながらも確かに響き続けている足音だったのかもしれない。

 長く伸びた影法師は壁の中央部分にまで届いている。

 だけど、私に比べると一寸足りない。

 シルバーの髪。

 病院の白と良く似合う真っ白な、ところどころに薬品の跡が残る白衣。

 恭ちゃんの主治医にして、フィアッセの親友。

 昨晩会ったときも驚いたけど、フィリス先生の顔は目にくまが出来、痩せこけていた。

 フィリス先生はぺこり、お頭を下げる。

 自分の不甲斐なさを恥じているのか、とても腰の低い礼だった。

 

「あ……」

 

 何も言えなかった。

 何も言えないのが何よりも悔しかった。

 あの人はまだ闘っている。

 まだ完全に諦めること無く、戦い続けている。

 ほんの少しの可能性を賭けて、今も治療法を探して奔走している。

 それに比べて今の自分はどうだろうか。

 悲しみ、嘆き、泣くだけしかしていない。

 あまつさえ恭ちゃん自身に励まされ、一人いじけている。

 負けられない?

 そうじゃない。

 ただ、断じて今のままじゃいられない。

 恭ちゃんが生きている間に、自分の決心が間に合うか間に合わないかは判らない。

 だけど、間に合わなくても、自分は死ぬ直前まで、恭ちゃんの望むようにあり続けよう。

 そう心に決めた。

 一度だけ振り返る。

 どれだけ座っていたのだろう。

 皺くちゃになった白衣は、持ち主の体に合わせて細くなっている。

 それでも、その背中は誰よりも大きく、その心は誰よりも強く思えた。

 前を向く。

 もう、振り返らない。

 きっと、私がどれだけ頑張ろうとも、恭ちゃんがそれによって少しでも長く生きれる事など無いだろう。

 私は恭ちゃんの身体を救えない。

 そしてそれはフィリス先生の仕事だ。

 だから、私にできることは本当に少ない。

 だけど、それでも、そうだからこそ――――。

 

 

――私は恭ちゃんの心だけでも救おう――

 

 

 それもまた、フィリス先生の仕事の一部だとしても。

 

 

 

 

 

 満天の星が瞬く海鳴の空。

 風は変わらず吹き続け、昼にはあった雲も、今では遠い空のどこかに向かったか、それとも霧散してしまったのか。

 今、空には星と暗い闇だけが見える。

 暗い、黒い空、一つだけ輝く月。

 白く、だけど黄金色に。

 月は煌々と夜空を照らし、周りの夜も黄金に染める。

 大きく、大きく、不変の如く存在する月は、暗い自分の部屋を照らす。

 窓は家にあるものより一回り小さく、部屋を照らすには少しばかり心細い。

 それでも、窓から見上げた空は格別だった。

 柄にもなく、月見酒もいいかもしれない、なんて事を考えた。

 もちろん自分は病人で、そもそも酒を好む人間でもない。

 これまで幾度と酒を誘われて、好みではないからと断ってきた。

 だから、これはきっと一時の気の迷いなのだろう。

 何時死んでも良いなどといいながら、それでもなお未練を捨てきれない自分の――――

 カーテンは閉めない。

 今夜は寝るその直前まで、綺麗な、満月の月明かりを眺めていたいから。

 

 

 

 

 

 夢を見る。

 とても幸せな夢だ。

 かあさんがいて、美沙斗さんがいて、フィアッセも、美由希も、晶も連もなのはも、遊びに来たのか忍も、ノエルさんも、那美さんも、赤星もいる。

 一杯になったダイニングで、皆で仲良く食事をする。

 テーブルの上には数々の料理。

 皆して最高の技術を惜しみなく奮ったようで、和洋中、全てが絶品と思える品々が並ぶ。

 ほかほかと湯気が立つ料理を、皆が好き好きに箸をつき合う。

 同時に視線はテレビを見ている。

 推理物らしい。時に箸を休め、こいつが犯人だ、いやそうじゃない、こいつこそが犯人だ。

 なんて真剣に首を捻りながら犯人を探す。

 そしてその一角に、俺の姿があった。

 静かに、いつもと変わらない位、黙って皆の様子を見ている。

 皆が楽しくしている姿こそが、自分の楽しみだから、その事には一切の不満が無い。

 だが、何故だろう。

 何故、今更になってこんな夢を見るのだろう。

 叶えられない事は判っているというのに。

 もう、二度と……こんな幸せな時間がやってこないという事を……誰よりも理解しているというのに…………

 これは俺自身が持つ望みなのだろうか?

 そうかも知れない。

 だが、余りにも幸福で、それが叶わぬ夢だからこそ……何よりも辛い。

 何故、今更になってこんな夢を見るのか。

 分からない……ワカラナイ………………

 

 

 

 

 夢を見ている。

 俺と、家族と、親友と――

 楽しく食事をする夢だ。

 これはきっと俺の望み。

 だから、これは何よりも幸せな夢。

 そう。

 

 ………………きっと。

 

 

 

 

 

 

 目覚めは最悪だった。

 思わず頬に涙が伝っているか、と手をやるが、何のことはない。

 一切の湿り気を感じることは無かった。

 目をしばたき、辺りに視線を向ける。

 それなりに自信がある体内時計は、およそ三時半から四時。

 夜明け前という時間、暗い空が窓の外から広がっている。

 部屋は暗い。

 真っ白な部屋も闇の中では流石に暗いんだな、などと考えながら、ベッドに備え付けられているスイッチを入れる。

 パッと電灯がつき、部屋が一気に明るくなった。

 寝すぎて軋む身体を伸ばす。

 空気を入れ替えるために窓を開け、そのまま顔を出して外をうかがう。

 暗い、病院の裏手。

 いつの日か、レンが一人隠れて涙を流した森が見える。

 きっと、もう少し光があれば、その手前に矢沢医師の大切な盆栽が見えるだろう。

 もしかしたらシャオフェイの姿も見れるかもしれない。

 あそこに居れば、シャオフェイは家に居ないときは良くここに来ると聞いていた。

 フィリス先生は手を引っかかれ、腕を噛まれてしまうのを良く見た……。

 

「フフフ……」

 

 以前に、フィリス先生が、リスティさんの動物に好かれているのを羨ましがっていたのを思い出し、思わず口から笑いがこぼれた。

 フィリス先生か、とそこまで考えて視線を横に向ける。

 暗い病院の中、そこだけがぼんやりと明かりを点っている。

 

「まだ起きているのか……」

 

 わずかに黄色を含んだカーテンが、室内の蛍光灯の光によって浮き上がっている。

 今も仕事をしているのだろうか……。

 自分と交わした、守れるかどうかもわからない約束の為に――――

 

「――頑張りすぎなんですよ……全く」

 

 窓から顔を戻し、ベッドを降りる。

 カモフラージュが半分あったとはいえ、膝は今も確かな痛みを訴える。

 全身の痛みを薬で誤魔化しているというのに、何故かそこだけは効きが悪い。

 ここまで来ると因縁めいた物を感じるな……。

 そんなどうでもいい事を考えながら、松葉杖をついて扉を開ける。

 暗い、どこまでも薄暗い廊下が続く。

 だが、それも森の中、月明かりも届かぬような場所で鍛錬を続けて鍛えた夜目には問題がない事だった。

 迷うこと無く廊下を進み、階段を少々苦心して降りる。

 同じ構造になった長い廊下。

 だが、二階というその場所は、診察室が存在する。

 一箇所だけぼんやりと明かりが点る場所へと、急がず、ゆっくりと進む。

 

 ドアの前まで深呼吸をした。

 理由という理由は特にない。

 強いて言えば、不思議とそういう気分になったから、と言うところだろうか。

 

「フィリス先生……フィリス先生……?」

 

 深夜ということもあり、静かにノックを続ける。

 何度か扉の向こう側に向かって声を掛けるが、返事は無い。

 ……おかしい。

 気配が感じられない。

 しかし電気がつきっぱなしだということは、寝ているのか……

 もう一度だけノックと呼びかけをしよう。

 少し強めに。

 

「フィリス先生っ」

 

 返事は同じ。

 全くの無言。

 仕方なし、気付いてもらえないのなら、とドアを開ける。

 内側から鍵を掛けれる、横開きの白いドアだった。

 カラカラ、と意外に軽い音と軽い手ごたえと共に部屋の中が伺えた。

 最初に、壁にもたれかける様に置かれているぬいぐるみが目に入った。

 …………ぬいぐるみ?

 うん、まあ許容範囲内。フィリス先生の雰囲気に合っていると言えば合っている。

 気を取り直して視界を中央に。

 部屋の奥に机。

 椅子はドアの方を向き、先程まで使われ、フィリス先生にその場を少しの間だけ離れる意思があったことを教えている。

 右手側にも机。しかしこちらにはパソコンがある。

 電源はついており、起動音が低く、鈍い音を発している。

 入り口の近く、右手側にはドアがあった。

 今は閉じられていて奥がどうなっているのかは分からない。

 もしかしてそちら側に居るのか、と無断で入る事を心の奥で詫びつつ、堂々と部屋の中に入る。

 ふと気付く。

 窓が大きく開いていた。

 ひんやりとした空気がゆっくりと入ってくる。

 奥へと進み、少し深呼吸でもしようかと窓際に立った。

 あ、と驚きの言葉が口から漏れた。

 

「フィリス……先生」

 

 窓の直ぐ下、病院の裏手に、フィリス先生はぼんやりと空を見上げていた。

 つられて上を見る。

 綺麗な、本当にそれだけしか感想が思い浮かばない、満天の星空と満月。

 道理で……今夜は空気がいいわけだ…………

 

「――あれ? 恭也くん?」

「はい、こんばんはフィリス先生」

 

 しばらく経って、本当に不思議そうな顔で呼ばれた。

 きょとんとした顔は、疲れ、痩せた今も少しも変わっていないのが嬉しかった。

 

「フィリス先生」

「はい?」

 

 小さな声で呼び、そのまま下に行きます、と指でジェスチャーをする。

 フィリス先生はしばらく考えた後、

 

「はいっ!」

 

 とにこやかに笑った。

 

 

 

 

 

 フィリス先生と並んで芝生に座る。

 芝は夜露から今だ乾燥していないのか少し湿っていて、手の平に冷たい感触を与える。 足を伸ばし、両手を背中側に伸ばして身体を支え、視線は空を見上げる。

 上空では強い風が吹いているのか、月と星に照らされた雲がかなりの勢いで流れていく。

「恭也くん」

「はい?」

 

 横を振り向く。

 フィリス先生は仕方ないな、というような、どこか諦めを匂わせるような表情で俺の顔を見ていた。

 

「こんな時間に表を出ていたらいけないんですよ?」

「すみません」

 

 めっ、と怒るフィリス先生に、座ったまま素直に頭を下げる。

 だが、フィリス先生は俺の姿をしばらく見ていると、

 

「ふふっ、本当に仕方のない患者さんですね、恭也くんは」

 

 と笑った。

 俺もつられて笑う。

 心がひどく平静で、そのくせ楽しさが湧き上がっていた。

 一際強く風が吹く。

 たなびく髪を押さえつけ、そのまま背中から芝生に転がった。

 着替えのことなんて気にしなかった。

 きっと気持ちいいだろうな、とそう考えたら、思わずやってしまっていた。

 背中にもひんやりとした、柔らかい芝の感触が伝わる。

 ああ、きもちいい。

 

「恭也くん、気持ちいいですか?」

「はい。とても……空がきれいに見えます」

「んー……えいっ」

 

 思い切った声で、フィリス先生もまた芝生に寝転がった。

 そしてそのまま腕を大きく上げ、体を伸ばす。

 

「ほんと…そらが……きれいですねー」

「ええ。きれいですね」

「…………」

「…………」

 

 沈黙が続く。

 星は瞬く。

 風が吹き芝がかさかさと音を立てる。

 月明かりに照らされた木々から紅葉が舞い落ちる光景に心奪われる。

 ぼんやりと静か。

 

「ありがとう……ございます」

「え?」

 

 疑問の言葉を無視し、続ける。

 視線はそのまま満天の星空を見続けていた。

 

「最後の最後までフィリス先生が俺との約束を守ろうとしてくれたこと、とても……感謝しています。そして、今でも希望を失わないで、最後の最後まで諦めず、俺なんかの為に治療法を見つけてくれていることを…………ああ、こういうとき自分の口下手が少し恨めしい。とにかく――ありがとうございます。俺は、あなたと言う人と知り合えた事を誇りに思う」

「…………あ。あの、その! ……その、約束ですし」

「それでも、本当に嬉しかった……」

 

 風が吹く。

 真夜中の、秋の冷たい風が顔を撫でる。

 火照った頬に気持ちよかった。

 ああ、

 今夜は、

 とても気分がいい。

 とてもとても、空がきれいだ。

 

 

「さて、そろそろ戻るとします」

「…………」

「フィリス先生?」

「スー、スー、スー…………」

「ああ、こんな所で寝て……風邪ひきますよ。先生、フィリス先生……」

「スー、スー……………………スー」

 

 完全に熟睡している、か……。

 だが、元々こうなったのも俺が原因なんだ。

 こんなに白衣を汚しているのも、荒れた肌をしているのも。

 

「全く……フィリス先生も年頃のお嬢さんなんだから……」

 

 出来るだけ優しく背負う。

 そして驚いてしまった。

『フィリス先生って、こんなに軽かったのか…………無茶をさせてすみません』

 この思いは決して口に出したりはしない。

 フィリス先生はそんな風に言われることを快く思わないだろうから。

 年下に見られがちで、いつも笑顔を絶やさないで、人のために医療というカタチで努力を怠らず、とてもしっかりとして見えた人。

 だけど、今はこんなにも軽い。

 とても軽い。風が吹けば、何かの軽い拍子で、どこかへ行ってしまうような――――

 

「本当に……ありがとう、ございました」

 

 病院へと入る。

 暗い廊下。

 静かに、静かに。

 背中には、

 

 

 ――――きっと誰よりも優しい温もり――――

 

 

 

 

 

10

 ――何故か。

 フィリス先生に退院を言い渡されて、我が家のリビングの上座に座る自分がいる。

 部屋には垂れ幕と、熱く湯気を立てる種に豊富な料理の数々。

 退院おめでとう、と書かれた垂れ幕は、一体誰が書いたのか。

 異様なまでの達筆は、もしかしたらノエルかもしれない。

 アツアツの料理の数々は、きっと晶、レン、フィアッセやかあさんまでもが腕を振るって作ってくれたのだろう。

 リビングにはソファーまで持ち出してきて、那美さんや忍、赤星も充分に座れる。

 普段翠屋で行われるパーティが、家で行われるのは俺の身を案じてのことだろう。

 それを考えると嬉しく、また心苦しくもある。

 

「恭也、今日はアンタが主役なんだから、音頭とりなさいよ」

「む……」

「む、じゃないわよ。ほら、さあさあ!」

 

 かあさんが無理やり腕を取って立ち上がらせる。

 強引な所が変わらない。

 慣れないことをさせる、と困惑しながらも、それが決して不快ではない自分。

 

「本日は皆様お集まりいただき――」

「おにーちゃん、それじゃ演説だよー」

「む……そうか? じゃあ手短に行こうか」

 

 そう、皆がこうして笑っていることは、夢にまで見たことで。

 それ故に、胸が張り裂けそうになるほど嬉しく、そして心苦しい。

 

「それでは皆様グラスをお持ちいただき――」

 

 自分が退院できた理由が――

 

「乾杯!」

『かんぱーい!』

 

 末期がん患者のそれと酷似していることに気付いてしまったから。

 

 

 

 

 

Last time …… are you happy?

最終話

I am ……

 

 

 

 

 

「恭也さん、今日から退院許可を出します」

「……わかりました。これまで、本当にお世話になりました」

「いいえ。これからもお世話ですよ、恭也“くん”」

 

 恭也さん、と初めてフィリス先生はさん付けで俺を呼んだ。

 それはきっと、医師と患者という一種のケジメのような物だったのだろう。

 調合用の白衣を新調し、ほんの少しだけ体調が回復した様子を見せるフィリス先生は、しかし顔に疲れた笑みを浮かべてさえいる。

 悼む必要は無いというのに。

 痛まれるほどの存在ではないはずなのに。

 自分はもう、受け入れ始めているというのに。

 今なお微かな希望に賭けてまい進するこの人を、俺はどこかで尊敬と、そして羨む気持ちがあることに気付いてしまった。

 だと言うのに、この人は最後にはやっぱり、一人の友人として、一人の大切な人として、俺を恭也くん、と優しく呼んでくれるのだ。

 嬉しさと申し訳なさに、俺は静かに頭を下げた。

 

 

 

 

 

「恭ちゃん、ほら、お腹が膨れ始めたんなら杏仁豆腐でもどう?」

「ああ……、頂こうかな」

 退院祝いという名の祭りは続く。

 空気は軽く、自分独りが盛り下げるわけには行かない。

 かあさんとフィアッセは既に飲酒。

 へべれけ一歩手前という状態で、泣き上戸のように涙流すかと思えば、二人してカラオケに盛り上がる。異様な巧さの歌が部屋に鳴り響く。

 近所の人の迷惑じゃないだろうか、と少しも祭りの主役らしくない考えに、思わず苦笑。

 歌い終わった二人の前に、98点とテレビが採点を終え、狂喜乱舞する。

 テーブルの上、晶とレンは、かあさんとフィアッセが作った洋食の味を解析し、腕を磨くのにいとまが無い。きっと、明日には今日よりも美味しいご飯が並ぶのだろう。

 こんなときだけ仲が良いのは既にご愛嬌か。

 なのはは写真とビデオの調整に忙しく、四隅にセッティングされたカメラは途切れること無くシャッター音が鳴り続く。

 いつか、思い直すようにして、撮った写真を見直す日が来るのだろうか?

 ああ、どうせなら俺も、今のうちに写真を見直しておこう。

 久遠はいつも通りに甘酒を飲み、ご満悦と言った様子を続ける。

 那美さんは先ほど大皿をこぼして、今は着替え中だろうか。

 

「きょうーやー。食べて飲んで騒いでるー?」

「忍……お前酔ってるだろ」

「ノン、ノン、ノン。忍ちゃんはこんなちょっとのOSAKEで酔うことはありませーん」「ノエル。少し酔いを醒ませてやってくれ」

「ファイエル!」

「ぎょべっ!」

「それでは、お食事をお楽しみください」

 

「ふ、ふははははっ!」

 

 珍しく、

 日本酒を飲む自分がいる。

 ちびちびと、酔うのが惜しいこの状況で、

 しかし自分は確実に酔っているのだろう。

 体を包む心地いい気だるさ。

 ほんわかと温まる体。

 騒ぐ俺の大切な“家族”たちの声をバックミュージックに、

 部屋の隅から眺める光景のなんと大切な物か。

 それをつまみに酒を飲めば、味は分からずとも美味いとは思う。

 ふと、隣に座っている美由希がこちらを向いているのに気付く。

 

「恭ちゃん、私にも注いでよ」

「駄目だ。悪酔いしたらどうする気だ?」

「いーじゃない。チョッとだけだからさ。かあさんだって絶対に良いって言うよ?」

「む……、本当に少しだけだぞ?」

 

 トクトクッ、と日本酒が注がれる。

 美由希は大切そうにコップを持ち、お神酒を飲むようにして、ゆっくりと口に入れた。

 無言で飲み干し、美由希はコップをテーブルに置く。

 

「恭ちゃん……」

「ん?」

「…………」

「どうした?」

 

 早くも酔いが回ったのだろうか。

 美由希の頬は紅潮し始めている。

 震える美由希の唇が、ゆっくりと形を作って言葉を紡ぐ。

 

 スキ、と。

 

 それは偽らざる本心で、だが、きっと酒のせいなのだろう。

 そうでなくてはならないのだ。

 死にゆく人間に、その想いに答えることなど出来ないのだから。

 

 ――それは傲慢なのだろうか?

 ――そんな事を考えるのは、おこがましいのかも知れない。

 

 だが、結局。

 俺には美由希の気持ちに応えてやる事が出来ないのだ。

 俺が未熟だから。

 全てを解決する方法を知らないから。

 

「ああ、俺も美由希のことは好きだぞ? かあさんも、晶も、レンにしたって、血のつながりこそ無いが、本当の家族だと思っている」

「そうじゃない……そうじゃないよ」

 

 うわ言のように、少し涙に潤み、目を赤らめて美由希が言った。

 だが、俺は頷かない。そして頷けない。

 きっとここで頷けば、後々美由希は悲しむだろう。

 きっとここで頷かなければ、後々俺は後悔するだろう。

 

 酷く、迷うのだ。

 

 愛していると、その一言が重い。

 

 

 

 

 

「ああ、知ってる。…………。…………。……俺も、愛してる」

 

 

 

 心の奥で、未来を思って懺悔する自分がいる。

 心の奥で、これで良いと、ほっとする自分がいる。

 いつしか祭りは静かになり、こちらを見つめる視線の数がある。

 恥ずかしい。

 もしかして、聴かれてしまったのだろうか。

 だとしたらこれは一生の恥と、一生の誇りだ。

 もう、心はさらけ出してしまった。

 いっそ清々しい想いを胸に、やはりやり切れない気持ちもある。

 きっと俺は、死ぬまでこの事を考え続ける。

 どちらも正しく、正解など無い問題。

 

「恭ちゃん――っ!」

「ああ。ここに居る」

 

 感極まったように泣き出す美由希を抱きしめる。

 もう、告白を見られてしまったのだ。

 後は素直に、自分の気持ちをさらけ出そう。

 

「恭ちゃん、恭ちゃんっ――!」

 

 嗚咽混じりに名を呼ぶ美由希を、強く強く抱きしめる。

 今の自分に後悔しないように。

 後で美由希が後悔しないように。

 強く、強く。

 もう、離せない――――。

 

 

 

 

 

 あれから、数日が過ぎる。

 良いのか、と視線で訊ねた。

 頬を染め、美由希が頷く。

 深い夕空。

 家には俺達を除けば無人。

 橙に染まる空を見上げてから、障子を閉じた。

 障子越しに明かりが届き、部屋は薄ぼんやりとした明るさを保つ。

 

「愛してる」

「恭ちゃん……」

 

 見詰め合う。

 自分のガラじゃない、と分かりながらも、瞳を逸らさないよう気をつける。

 顔が近づき、軽いキス。

 ただ愛しい。

 額に、頬に、うなじに、想いを込めて、しかし想いに流されないよう気をつける。

 次第にそれは舌を絡め、唾液を交換し合う濃厚なディープキスへと変わる。

 舌で歯をなぞり、上あごを舐め、美由希の舌を吸う。

 激情に流されるように、

 それを愛という言葉に代えて、

 ただただ、歯をぶつけ合いながらも唇を重ねる。

 いつまでも放したくない。

 いつまでも離したくない。

 次第に酸欠で、頭が朦朧とし始め、やっとの事口を離す。

 大きく息をつきながらも、瞳が逸れることは無かった。

 

 

 

 

 

「ねえ、恭ちゃん」

「どうした?」

「子供……できるかな?」

 

 まだ出来るかどうか分からないお腹を美由希がさする。

 頭に火がついたように恥ずかしい。

 だが、冷静に答えなければいけない問題だった。

 考える。

 生まれた時から父親の居ない子供と美由希。

 子供が生まれず、いつか他の男を夫とする美由希の姿。

 どちらが良いのか。

 欲を言えば、いつまでも独占していたい。

 子供がいる限り、美由希はいつまでも俺の事を過去の一つとして捉えることはないだろう。

 目の前で、自分の子供がいるのだから。

 だがそれが幸福だという保証は無い。

 だけれども、

 だからこそ。

 正反対の思いが頭によぎる。

 

「ふふっ、恭ちゃんは……やっぱり恭ちゃんなんだね」

「なにがだ?」

「鈍感で、優しくて、幸せの中には自分を入れないところ」

 

 にっこりと美由希が笑う。

 透明な、本当に純粋な笑み。

 その笑みを自分が引き出せたという事が、もしかしたら答えになっていたのかも知れない。

 つられて、自分も笑った。

 きっと、同じ様な笑みだったと思う。

 

 

 

 

 

 虫の知らせなのかもしれない。

 そう広くない自分の部屋に、不思議と大勢の人で埋め尽くされる。

 何故こんなにも、自分の狭い交友範囲で集まるのか、

 少し不思議で、思わず笑ってしまいそうになるほどの可笑しさ。

 身体は重く、気を抜けば直ぐさま死んでしまいそうな状態。

 だが、まだ死ねない。

 それに、まだ死なないだろう。言う事が、するべき事が残っている。

 右手には暖かい温もり。

 その先には美由希の顔がある。

 

 ――泣いていない。

 

 屋上での約束どおり、美由希は泣いていない。

 誰も、この部屋で泣く者はいない。

 本当に、

 本当にありがたくて、

 思わずこちらが泣いてしまいそうになる。

 

「……美由希」

「うん」

「かあさん、フィアッセ、なのは、晶、レン。

 それに、赤星に忍、ノエル、那美さん、フィリス先生」

 

 言い残した言葉がある。

 

「俺は皆に、心から言いたい言葉がある」

 

 それを言わない限り、きっと俺は成仏できない。

 

「俺は――」

 

 だから、

 

「俺は――!」

 

 本当に――――

 

 

「皆に会えて、幸せでした」

 

 

 ――――ありがとう。

 

 

 

 

 

 ああ、もう、本当に。

 何も思い残しがなくなってしまって。

 そのせいで、指一本すら動かす力も無くなって。

 そんな時になって初めて気がつくのだ。

 きつく、まるで放さないかのように握り締められた 美由希の腕の震えに。

 まだ思い残した事が一つだけあった。

 ならば体は動くだろう。

 ならば動いてくれるだろう。

 力を込める。

 右腕に、精一杯。

 そして無理やりにでも笑みを作れ。

 

「美由希……」

「うん――!」

 

 にこりと、きっと笑えた。

 

 

 

 

 

 

 

「愛してる」

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