呪術廻戦 -0 GAME-   作:柴猫侍

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第3話 マモリとカザリ

 

 

 

 昔、双子の妹が居た。

 今の俺にそっくりな、とても愛らしい女の子だった。

 

『見て、お兄ちゃん! おっきい虫捕まえたよ!』

 

 とても活発な子で、毎日飽きることなく野山を駆け回っていた。

 ロクな娯楽もない田舎では、そうやって自然と触れ合うことが何よりも遊戯だったのだろう。年々若者が去っていく町の中で若い子供が一人だけだったのも、一人遊びに拍車を掛けていた。

 

『ねえ聞いて、お兄ちゃん! 今日はね、こんなことがあったんだよ!』

 

 でも、その子は笑顔を絶やさなかった。

 毎日毎日俺の顔を拝みに来ては、その日にあったことを楽しそうに話してくれた。

 

『私ね、学校卒業して大きくなったらこの町の外に行きたいな~。いっぱいおしゃれして、いっぱい美味しいもの食べるの!』

 

 その子は夢も語ってくれた。

 憂いも曇りもない天真爛漫な笑みは、太陽を彷彿とさせた。

 

『いつかお兄ちゃんも連れてってあげるからね!』

 

 だから俺は、その太陽が曇らないようにと願っていた。

 いつまでもいつまでもずっと輝き続けられればいい。

 俺は心の底から、そう思っていた。

 

 

 

───あの日までは。

 

 

 

■■■■(飲み込め)! ■■■■■(術式を継ぎ)■■■■(この地を)■■(守る)■■■■(ことこそ)■■■■(お前達に)■■■■■■■(科せられた使命)!〉

 

『い……いや! やめてよ!』

 

■■■■(それが掟)! ■■■(それが)■■■■■(代々我々が)■■■■■“■■”■(守ってきた“縛り”だ)!〉

 

『やぁだ! 助けっ……助けて!』

 

■■■■■■■■■■■(もうそこまで来ているぞ)!〉

■■■■■■■■■■(いいから早く飲ませろ)!〉

 

『お、がっ……!? た、助け……!』

 

■■■(抗うな)! ■■■■■(受け入れろ)! ■■■■(今までも)■■■■■■■■■(そうだったのだから)!〉

■■■■■■■■■(誰がこれまで面倒を)■■■■■■■■(看てきてやったと)■■■■(思ってる)! ■■■■■■■(恩を忘れたのか)!〉

 

『げ、げほっ……た、助……!!』

 

■■■■■■■■■(今際の際で生に縋るな)! ■■■■■(お前の命は)■■■■■■■■(ただの飾りなのだ)!〉

■■■■■■■(呪霊がそこまで)……■■■(あがっ)!?〉

 

 

 

『助けて───お兄ちゃん!!!』

 

 

 

───その日、俺は妹を殺した。

 

 

 

 涙を流して縋りつく妹を。

 俺には何もできなかった。何もしてやれなかった。

 ただ、あの時はああすることしかなかった。

 

「……最悪だ」

 

 じっとりと汗ばんだ背中を掻いて身を起こす。

 時刻はまだ四時。朝練にも早過ぎる時間だった。

 けれども、二度寝することもできない気分にもなれないと、何の気なしに部屋の窓を解放した。

 

 もうすぐ12月。

 日はまだ上っておらず、どこまでも続いていそうな昏い闇が空の彼方まで広がっていた。

 

「……カザリ」

 

 もしも天国があるとするのなら、彼女はきっとそこに居るはずだ。

 だから俺は二度と彼女には会えない。俺はきっと地獄に墜ちる。

 

 唯一の肉親を、最愛の妹を殺した罪は消えない。

 永遠に、きっと、だから。

 

 冬の寒空を吹き抜ける風が、白く濁った肌の奥の方まで突き刺さってきた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「お集りの皆々様!! 耳の穴かっぽじってよーく聞いて頂こう!!!」

 

───東京都立呪術高等専門学校、某日。

 

「来たる12月24日!! 日没と同時に!! 我々は百鬼夜行を行う!!!」

「場所は呪いの坩堝、東京新宿!! 呪術の聖地、京都!!」

「各地に千の呪いを放つ。下す命令は勿論“鏖殺”だ。地獄絵図を描きたくなければ死力を尽くして止めにこい」

 

「思う存分、呪い合おうじゃないか」

 

 特級呪詛師、夏油傑による宣戦布告が行われた。

 それに伴い呪術総監部は各地に散らばった呪術師を招集し、夏油による百鬼夜行に対し、最大の厳戒態勢を敷いた。

 

「随分派手に喧嘩を売ったな」

『そうでもしなければ高専の連中は引き摺りだせないからね。必要な芝居を打ったまでだ』

「五条悟に会いに行ったわけじゃないのか」

『ふふっ、まあそれもあるね』

「やっぱり」

 

───そんな男とマモリは語り合っていた。

 

 無論、普通の連絡手段ではない。

 高専内部では呪霊を感知する結界がある為、高専の外に出た上で“窓”に発覚されぬほどの低級呪霊を用いての極秘通話。もしも高専関係者にバレれば、マモリは夏油傑と内通していた者として拘束は免れず、処罰───最悪極刑を言い渡される可能性もある。

 

 だが、そんなリスクを負ってでも夏油と会話する理由がマモリにはあった。

 それは───。

 

「それにしたって24日か」

『都合でも悪かったかな?』

「友達とクリスマスパーティーの予定だった」

『あぁ……それは悪いことをしてしまったね』

「ホント」

 

 12月24日、その日には京都校1年生でささやかな聖夜のパーティーを開く予定だったのだ。

 

「日程変えられない?」

『済まない、それは無理だ。一度宣戦してしまった以上“縛り”ができてしまっている。これで破棄しようものなら、私に罰が返ってきてしまうさ』

「まあ、だと思ったけど」

『本当に済まない』

 

 心の底から申し訳なさそうに謝る夏油に対し、マモリは『別に』と答えた。

 呪術における“縛り”とは案外自由の利く代物だ。時間や場所、その他諸々の事象に事細かく“縛り”を設けた分だけリターンは得られる。

 

 だからこそ。

 

「夏油」

『なんだい?』

「あんたと“縛り”を結びたい」

『……まずは話を聞こうじゃないか』

 

 “縛り”には大きく分けて二種類存在する。

 一つは自らに科す“縛り”、もう一つは他者間で結ぶ“縛り”だ。

 前者の場合、“縛り”を破った際のペナルティは“縛り”で得た能力を失うだけに留まる。

 

 だが、後者は違う。

 不確定。他者間で結ぶ“縛り”のげに恐ろしき点は、返ってくる罰がどのようなものになるか、そしていつ返ってくるか分からないという点にある。

 

 その為、他者間での“縛り”はそう易々とは行われない。

 この“縛り”で必要とされるのは信用だった。

 

「───」

『……なるほど』

「どうだ? あんたにも悪い話じゃないと思う」

『それが君の選択ということだね?』

「……あぁ」

 

 神妙な声色の二人。

 電話越しであるというのに、一触即発の空気が流れる。

 

『……分かった』

「夏油」

『マモリの選択は私が保証する。“縛り”を結ぼうか』

 

 しかし、その空気も夏油の了承で瞬く間に離散する。

 マモリはほんの少し口元を綻ばせた。

 

「……ありがとう」

『礼には及ばないよ。家族(わたしたち)の仲じゃないか』

「家族か」

『やはり不服かい? 血が繋がっていない私達を“家族”と呼ぶのは』

「いや……」

 

 言い淀んだマモリは、しばし考え込むような間を置き答える。

 

「夏油は自分の家族を殺したことはあるか?」

『……それは、どっちのだい?』

「どっちもだ」

 

 夏油が深く息を吐く声が聞こえてくる。

 長考している、という訳でもない。言おうかどうか迷っている、そんな間の置き方だった。

 

『……あるよ。実の両親をね』

「どうしてだ?」

非術師(さる)だったから』

 

 端的。それでいて、余りにも無情な解答だった。

 しかし、それが夏油にとっての全てであった。彼にとって呪力を持たない人間は等しく猿であり、全ての呪術師の為に排斥されるべき存在であるというのが彼の理論だ。

 

 非術師は猿。

 猿であるのならば、たとえ肉親であろうと庇護の対象には入らない。

 だから殺した、と。

 

『特別があってはいけないからね。これは私なりのケジメだよ』

「……夏油は自分の理想の為なら、家族でも殺せたのか」

『ああ』

「殺したくないとは思わなかったのか」

『……』

 

 そこでもまた空白が生まれた。

 過去を振り返り、当時の心境に立ち返っているのだろう。自身の理想の為に何の罪もない肉親をその手にかけるまでの葛藤を。

 

『───『彼らも術師なら』とは思ったよ』

「……そうか」

『マモリ。もしも君が考えていることが私の推測通りなら、まだどちらも本音にする段階じゃないとだけ言っておくよ』

 

 マモリの思考を見透かしているかのように謳う夏油は続ける。

 

『血が繋がっている家族。そうじゃない家族。どちらを本物の家族とするかは、君がこれから選択していくんだよ』

「……そうか。良く分からないけど、ありがとう」

『どういたしまして』

 

 広義の意味がどうこうという話ではない。

 これは価値観の問題だ。何を以て何をどう評価するか、その基準点を明確にする為の問答であった。

 

 マモリには家族が二つある。

 血が繋がった肉親と、そうでない夏油達。

 

 前者は言わずもがな、後者も育ての親という意味では間違いない。

 だが、マモリにはどちらも家族と呼ぶ程の自信がなかった。

 

 そこで思い悩んでいると『おっと』と通話の先から聞こえてくる。

 

『そろそろ時間だ。長話に付き合わせてしまって済まない。だが楽しかったよ』

「こっちこそ?」

『そうだ、マモリ。最後に一つだけ』

「ん?」

『───友達は大切にね』

 

 心の底から滲み出したかのような声音だった。

 それだけ夏油の万感が籠っている言葉を受け止めたマモリは、数か月共にした三人の顔を思い浮かべ、深々と頷いた。

 

「分かってる」

『それならいいんだ。百鬼夜行の後、また顔を会わせよう』

「ああ」

『それじゃ』

 通話に用いていた呪霊が消失し、名残惜しそうな声が消えていく。

 一人残されたマモリはベンチに座ったまま、先程夏油に言い放たれた言葉の意味を理解しようと思案した。

 

───『君がこれから選択していくんだよ』

 

 グルグルと、思考回路はまるで環状線のように廻り回る。

 堂々巡りの思考では解決に至らなかったのか、マモリは諦めるような溜め息を吐いてから立ち上がった。

 

 吐く息は白く、否が応でも冬の寒さをその身に思い知らせる。

 しかし、自身の体に血が通っている証拠であるそれを見て、マモリはどうしようもない空虚感に苛まれる。

 

「俺の家族は……」

 

 おぼろげな記憶の中で笑う妹が居る。

 一方で優しい微笑みを湛える夏油も居る。

 

「俺の……」

 

 そして、笑顔を咲かせる友人達も居る。

 

「俺は───」

 

 決心がついたように、マモリは歩き始めた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 時は流れ12月24日。

 

 百鬼夜行───当日。

 

「はぁああぁああぁ~……」

 

 配置に向かう道中、幸せが魚を盗られた主婦に追われる猫の如く逃げそうな溜め息を吐く少女が居た。

 

「嫌だなぁ……呪霊が千体……千体って馬鹿じゃないですか?」

「皆まで言わないでくれる? ただでさえこっちも憂鬱だってのに陰気が増すじゃない」

「だってぇ……」

 

 涙目を浮かべる霞に対し、真依も苦々しい表情だった。

 千体───通常の任務であればありえない呪霊の数。東京校学長の夜蛾曰く、統計的に大半が二級以下の雑魚という見立てではあるものの、それでも霞や真依にとっては手に余る相手に違いなかった。

 

『だが一人で相手取れという話じゃなイ。俺達は固まって戦えばいイ』

「そうよ。手強い奴はメカ丸とマモリに任せておけばいいわ」

「それはそれでなんだか丸投げみたいで憚られるというか……」

 

 真面目な霞は強敵を友人に任せることに対し忌避感を抱いているようだった。

 しかし、自身の等級以上の呪霊に戦いを挑むのは自殺行為に等しい。真依の言い分に首肯するマモリは、申し訳なさそうに縮まった霞の肩に手を置いた。

 

「いいって。霞は弱い奴倒してくれれば」

「本当に? 後で『役立たずの三輪』とかって言いません?」

『その卑屈は廻り廻って真依に返ってくると思うんだガ』

「え?」

 

 メカ丸の指摘に、ふと真依の方へ振り返る霞。

 すると、この上なく細められた冷たい視線が自分へと突き刺さっていることに気がついた。

 

 失言だったと気付くも、時すでに遅し。

 

「ま、真依……いや、これはそのぉ……」

「……はぁ」

「真依ぃ~!」

 

 今度は別の意味で涙目になって霞は謝り倒す。

 

「何でもするから許してください~!」

「ケーキ」

「え?」

「パーティー用に買ったケーキ……アンタの分寄こしなさい。それで許したげる」

「クリスマスパーティーで私だけケーキ無し!?」

 

 『そんな殺生なぁ~』と霞が泣き崩れたところで、気が晴れた真依はクスクスと悪戯な笑みを浮かべた。

 和やかになる場の空気に、これから始まる一大決戦を前にして程よく肩の力が抜ける。

 

「……でも、本当だったら今日やる予定だったのに」

 

 しかし、だからこそポツリと漏れる本音。

 その言葉を聞いた瞬間、真依やメカ丸は思わず口を噤んでしまった。ただ予定日と重なっていただけなら別の日に改めて開けばいい話だ。

 

 けれども、真に彼らが懸念していたのはもっと別の部分。

 これだけ大規模戦闘だ。負傷者は当然、死者も出てくる。

 その中に自分達が含まれないとは断言できない───そんな一抹の不安が、真依とメカ丸に二の句を継げなくさせていた。

 

「───大丈夫だろ」

 

 そこへあっけらかんとした声が響く。

 

「明日でもいいし、また来年やればいいさ」

 

 ともすれば強者の傲慢にも受け取られかねない言葉だった。

 まるで京都校の面々が生き残れると確信しているようではないか。

 ただ、彼と数か月共に過ごしてきた者達にとっては、それが何よりも頼もしく聞こえたのもまた事実。

 

「この人は……相も変わらず平常運転ね」

「ははっ……まあ、それが心強いというか」

『変に緊張されるよりはマシダ』

 

 横並びに進んでいた四人は、とうとう指示されていた配置場所に到着した。

 しかし、その場に来た途端彼らは息を飲んだ。

 

「えっと……これはどういうことで?」

 

 素直な疑問を口にする霞。

 何故かと言えば、彼女達は囲まれていた。黒い衣服に身を包んだ彼らは紛れもなく高専の呪術師であった。何人か見知った顔も居り、どれも腕の立つ術師として知られている者達ばかりであった。

 ありのままを受け取るのであれば、頼もしい術師が共に戦ってくれるのだと喜ぶべきだ。

 

 しかし、剣呑な空気は四人を歓迎しているとは言い難かった。

 

「(私達なんかしちゃいました……!?)」

「(知らないわよ)」

『(配置は確かにここで合っているはずだガ)』

 

「ちょっと! 待って、待ちなさいって!」

 

「せ、先生!」

 

 そこへ聞こえてくる担任の声に霞が安堵の息を吐くのも束の間、切羽詰まった声色に言いようのない不安を煽られる。

 やって来た歌姫は、どうも四人を囲む呪術師達と揉めているようだった。

 その中の一人と取っ組み合い寸前になる彼女は、必死を絵に描いた形相で何かを訴えている。

 

「どうしても今じゃなきゃ駄目!? せめて百鬼夜行が終わってからでも……!」

「う、歌姫さん落ち着いて! これは総監部からの命令で……!」

「経緯の詳細を明らかにするのが先でしょ! それにあの子の抜けた穴はどうすんの!? 一級が一人抜けた穴で、何人が犠牲になると思って……!」

 

 どうにも納得がいかない歌姫を余所に、囲ってきていた呪術師達が圧を強めてくる。

 

「な、な、な、なんですか……!?」

「用があるなら早くしてちょうだい。今がどんな状況か知らない訳じゃないでしょう?」

『……おイ』

 

 剣呑な空気を垂れ流す面々の視線がある人間を向いていると分かり、メカ丸が呼びかける。

 

 だが、当人が反応するよりも早く術師の一人が口を開いた。

 

「葛城マモリだな」

「……」

 

 術師の敵愾心に満ちた視線が、白い少年へと注がれる。

 少年は無言を保ったまま、術師に紅く揺れる瞳を向ける。

 

 状況が飲み込めずに居る霞が『え?』と間の抜けた声を漏らす一方、真依とメカ丸は急速に自身の血の気が引いていくのを感じた。

 

 

 

 そして───。

 

 

 

 

 

「呪術総監部からの通達だ。お前を“受肉体”の容疑、および“器”となった『葛城カザリ』の殺害に関与した容疑で拘束する」

 

 

 

 

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

「───え?」

 

 ようやく自分の中の時が動き出すや、霞はゆっくりと少年の方へと振り返った。

 

「受肉体……?」

 

 術師が紡いだ言葉をもう一度自分の中で噛み砕く。

 受肉体。それは人間が呪物を取り込むことで変貌を遂げた存在。受肉体となった時の変貌は様々で、一見呪霊にしか見えない受肉体も居れば、ほぼ人間の容姿を遺した受肉体も存在する。

 

 しかし、大抵が受肉の段階で“器”の人格を乗っ取るが為に、呪術規定において受肉体は呪霊同様の扱いを受ける。

 

 すなわち───祓除対象。

 

「え? え? ちょっ、え……?」

「……」

「マ、マモリ? 受肉体、って、嘘、ですよね?」

「……」

「マモリ……何か言ってよ、マモリ!!!」

 

 叫ぶように呼び掛ける霞であるが、そんな彼女を遮るように真依とメカ丸が前に出る。

 

『下がれ、三輪』

「メカ丸、でもっ……!」

「……」

 

 必死に食い下がる霞をメカ丸が制止する間、真依は術師とにらみ合ったままの少年へ凄絶な視線を送っていた。

 

(ちょっとぐらいこっち見なさいよ)

 

 口にしないのは、手を出された時の恐怖心からか。

 それでも真依は自身の裡より湧き上がる激情を収めることはできなかった。いつの間にか食い縛っていた歯がギリッ……と軋んだ音を奏でる。

 

「マモリ、アンタ……」

「真依」

「!」

「メカ丸に霞も」

 

 不意に口を開き、同級生の方を見たマモリはこう続けた。

 

 

 

「ごめん」

 

 

 

 刹那、突如として現れた白波が辺りの呪術師を飲み込んでいった。

 

「逃げたぞ、追え!!」

「抵抗が激しいなら最悪祓除せよという許可も出ている!!」

「相手は仮にも一級だ!! 油断はするな!!」

 

 一瞬の内に逃走を図ったマモリに、彼の拘束の命を受けた呪術師も動き出す。

 

「ま、待って!」

「待ちなさい、三輪!」

 

 弾かれるように霞も駆けだすも、寸前で歌姫が待ったを掛けたことで足が地面に縫い付けられたように硬直する。

 

「歌姫先生……!」

「今は夏油の百鬼夜行に備えるのが優先よ! マモリを追うのは任務じゃないわ」

「でも! このままじゃマモリが」

「いいから配置につきなさい!!!」

「っ……!!!」

 

 滅多に生徒に対して怒鳴らない歌姫の怒声に、霞は呆然自失となりながら配置につく。

 遅れてメカ丸と真依も追う。霞ほどではないが彼らの表情も暗くなっていた。

 

 それを見た歌姫は、生徒らにこのような表情をさせることしかできなかった自分を恥じ入るように奥歯を食い縛った。

 

 だが、二人が歌姫の横を通りがかった時だ。

 

『……アイツはそう簡単に捕まるような奴じゃなイ』

「!」

「ちゃんと後で事情説明しなさいよね」

「……ありがとう、二人とも」

 

 公言はできぬ自身の意図を汲み取った二人の言葉に、歌姫は染み入るような声で礼を告げた。

 

(問題は三輪ね)

 

 彼女には今の二人から事情が説明されるだろうが、三人の中で最も“普通”な彼女の精神状況を鑑みるに、戦闘に悪影響が出る可能性は否めない。

 

「……そういう訳よ。アンタ達がサポートしてあげて」

 

「とーぜん。カワイイ後輩の面倒は任せちゃってよ」

「私達は私達の責務を果たすだけですよ、先生」

「……」

 

 西宮、加茂、東堂の上級生三人に一年のサポートを任せる。

 歌姫はこうなると分かっていた時点で決めていた。だがしかし、こうなってしまったことに対する“上”への不満は拭いようにも拭いきれなかった。

 

(ったく、タイミング悪過ぎるのよ! いくら受肉体って分かったからってすぐ拘束なんてする!?)

 

 勿論、総監部の言い分がまったく分からないという訳ではない。

 僅かにでも孕む危険性を排除するという意味合いで、基本的に人間に害を為す受肉体を拘束することは間違いではない。

 だが、マモリが人間に害をなしているか否かは、この数か月間の学園生活で明白になっていたはずだ。

 

───あの子は敵じゃない。

───呪霊のように人を傷つけたりはしない。

 

 そもそもの始まりは五条からの依頼を受けて戸籍を調べた時からだった。

 言われた通りに戸籍の提出日を調べた歌姫は、明らかになった事実に強烈な違和感を覚えた。

 

 それは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という点だ。

 

 当初、まだ提出日など知らなかった歌姫は生年月日が同じだからと勝手に双子だと思い込んでいた。それに関しては歌姫に非を求めるのは酷な話だ。

 だが、いざ戸籍が出来たタイミングが違うとなると、様々な疑問や憶測が脳裏を過り始めた。

 

 双子の兄だけ後で出すなど普通ありえるか?

 もしこれに裏があるとして、一体どのような意図があるのだ?

 

 調べなければならないことが数多くあると判断した歌姫であったが、高専で友人と笑い合う少年の姿を見た時、彼女はとある決心を抱いた。

 

(せめてあの子が受肉体になった経緯をハッキリさせない内には、極刑なんて絶対許さないわ!)

 

 罪なき命に罰を与えることは許されない。

 たとえ彼が本当に“(いもうと)”を殺してしまったことが事実だとしても、彼自身による意思でなければそれは冤罪でしかない。結果的に妹を殺してしまった経緯があるはずなのだ。

 

(本を正せば……五条、アンタが調べろって言ったからよ! もしあの子が極刑になりでもしたら、アンタに無理通させてでも助けさせるわよ!)

 

 思い出す内に今回の発端となった五条に苛立ちを募らせつつ、それでも尚彼の権力を信用する歌姫は固い決意を胸にする。

 

(死なせないわ、絶対。あの子は───マモリは私の生徒なんだから!)

 

 

 

 ***

 

 

 

 遠くで激しい戦闘音が響いてくる。

 その度に傷口に鈍い痛みが走り、白皙の美貌はわずかに歪む。

 

「はぁ~~~……」

 

 最早人も近寄らなくなった廃墟の中、そこにマモリは逃げ隠れていた。

 追手の術師は振り切った。途中浅くない傷こそ負いはしたものの、相手を殺さず逃げ切ったことを加味すれば上々の結果だ。

 

(いつバレた? 夏油は……違うな)

 

 もしかすると夏油が自分を売った可能性を考えたが、すぐさまマモリは頭を振った。

 彼が家族を売るような真似はしない。たとえ一時的に袂を分かつような“縛り”を結んだとしても、それを破棄してまで約束をふいにするような男でないことは良く知っていた。

 

(別に夏油と繋がってるって知ってる風でもなかったし、受肉のことだけがバレたって感じか)

 

 マモリは改めてタイミングの悪さを呪う。

 だが、そこまで彼に不安はなかった。

 思案を巡らせる間、受けた傷を糸で巻きつけ止血する。反転術式を使うという手もあるが、あれは消費する呪力が多過ぎる。逃走を図る上で無駄な呪力の消費は出来る限り省く為だ。

 

(俺が居なくたって京都校の皆は無事だ。その為に夏油と“縛り”を結んだんだ)

 

 

 

『───夏油が京都に放つ千体の呪霊。そいつらに“京都校の人間は殺さない”。そういう“縛り”を結ばせたい』

『……“傷つけない”じゃなくていいのかい?』

『それだとあからさま過ぎて不審がられる。だから傷つかないように俺が守る』

『ふむ……確かに“縛り”を結べば私の放つ呪霊の力も増す、か』

『悪くない提案だと思う。どうだ? 夏油───』

 

 

 

───いや、待て。

 

 マモリは自身の回想に待ったをかけた。

 

(あの“縛り”だと呪霊はともかく、他の奴等は手出せるな。しまった)

 

 夏油との“縛り”の内容に穴があることに気がついたマモリは、『うーん』と長い唸り声を上げる。

 

(今から戻るか? でも俺追われてるしな)

 

 流石に追手を巻きながら夏油一派の攻撃から京都校を守るのは厳しい。

 たとえ守り切れたとしても、その頃には呪力はすっからかんだ。そのまま逃げ切れないのは目に見えている。

 

───どうする?

 

 マモリの頭にはそれだけが浮かぶ。

 万が一にでも京都校の無事を確約する“縛り”に穴があると分かれば、マモリも落ち着いてはいられなくなる。

 マモリが京都校の負傷を許容したのは、自身の反転術式で傷を治癒できるという算段があってこそ。

 

───どうする?

 

 再び自分に問いかける。

 

「……背に腹は代えられない、か」

 

 自分の失態は自分で挽回する。

 そう腹を決めたマモリは、当初京都校の配置場所となっていた方角を向く。あちこちで戦闘の轟音が響いているところから、混乱に乗じて京都校の面々に会いに行く分には苦労しないだろう。

 

「よし」

 

 いざ出発しようとした、まさにその時だった。

 

───カサカサ。

 

「……誰だ」

 

 階段の奥から聞こえてくる物音───否、足音。

 本能に訴えかける耳障りな足音に顔を顰めたマモリは、足音が聞こえてくる方向を向いて身構える。

 

(追手か? けどこの呪力……)

 

 つい先刻まで自分を追っていた者達とは違う呪力の質感に、マモリは言いようのない違和感を覚えた。

 

───カサカサ。

 

「いい加減顔を出したらどうだ」

 

 すでに両手には糸を絡め、術式を発動できるよう準備を整えていた。

 これで急に仕掛けられようが対処することができる。

 

 そう思っていた───はずだった。

 

───カサカサ、カサ。

 

 不意に足音が止まる。

 

『匂ウ 匂ウ 匂ウ』

 

 そして聞こえる聲があった。

 刹那、ゾゾゾッと全身の肌が粟立つ悪寒に襲われる。感じた呪力の圧力に慄いたからではない。

 

 ただ、その質感が不快だった。

 鼓膜を這いずり回るような、そんな音が。

 

『私ノ 好キナ 味ノ 匂イ』

 

 声の主は近づいてくる。

 同時に階段の奥から黒い影が忍び寄ってきた。床、壁、そして天井にまで。光源の位置など無視するかのような影の正体に対し、マモリは湧き上がる嫌悪感に震える奥歯をかち鳴らした。

 

(こいつは───蜚蠊(ごきぶり)!?)

 

 直後、黒い波濤に乗ってやってくる白い物体を目撃した。

 それは人骨だった。ただし、着ている衣服には見覚えがある。なにより、衣服に付いていたボタンは紛れもなく呪術師であることを示す物であった。

 

『私ノ 好キナ 鉄ノ 匂イ』

 

 カサリ、と。

 それはまるでそこに隙間があるかのように低い天井を潜ってきた。

 

 ()()は少しでも隙間があればやってくる。

 いつの間にか忍び込んでいる。

 いつの間にか数を増やしている。

 そして、いつの間にか貪り食らっている。

 

 時代が現代に近づくにつれ高まった衛生観念と共に、人間の()()に対する負の感情は高まっていた。

 

───“不快”

 

 ただ、それだけ。

 しかし、ただその強烈な一点のみによって生み堕とされる呪霊が居た。

 人口が増えていくにつれ、注がれる人間の感情は加速度的に膨れ上がっていき、ここ数年の間にも()()は何度も現れた。

 

 現在、高専に登録されている特級呪霊は16体存在する。

 

 その内の1体。

 ありとあらゆるものを喰らい尽くしていく黒い魔物を、呪術師はこう名付けた。

 

 

 

───『黒沐死(くろうるし)

 

 

 

 ぐるりと複眼がマモリの方を向いた。

 同時に通路中に犇めく蜚蠊の目も向いてきた。合計で億はくだらないであろう目に晒されて粟立つ肌を擦るマモリに対し、黒沐死はカサカサと羽が擦れ合う不快な声を奏でる。

 

『私ハ 鉄ノ味 ガ好キ ダッ』

「……そうか」

 

 マモリは静かに全身を呪力で覆う。

 逃走に割く呪力など考えていない。今はただ、目の前の呪霊を倒す為だけに全神経を注ぎ込んでいた。

 

(こいつは夏油の呪霊じゃない)

 

 つまり、この黒い悪魔は京都校の皆に牙を剥く可能性がある。

 というより、まず間違いない。

 “百鬼夜行”───呪術師と呪霊が血を流し合う夜祭に乗じてきたこの呪霊は、目に付いたもの全てを喰らい尽くしていく腹積もりであろう。

 

(こいつは、俺が祓う)

 

 故に、その前に祓う。

 未だ追手より負った傷も、消費した呪力も回復し切ってはいない。

 

 それでもやるしかない。

 

 真依を。

 霞を。

 メカ丸を。

 歌姫や東堂、加茂、西宮───他の京都校の面々を守る為にも、今ここで。

 

「お前は祓う。絶対にだ」

『オ前 カラモ 匂ウ』

(たとえ……家族を殺すことになっても)

『私ノ 好キナ 鉄ノ 味ノ 匂イ』

(カザリ)の体を殺すことになっても……友達だけは守る!)

 

 非情な覚悟を抱き、白い呪術師と黒い悪魔は激突する。

 

 

 

 そして───。

 

 

 

 ***

 

 

 

『加茂君! 6時の方向から、さらに10体以上の呪霊が接近!』

「くっ、全員迎撃態勢を敷け!」

 

 上空からの支援に徹する西宮からの報告に、加茂が走り出す。

 それを追うように霞とメカ丸も駆け出すが、唯一屋根の上で狙撃をしていた真依は少しばかり出遅れる。

 

「ったく、キリがないわね。いつになったら終わんのよ」

 

 次から次へと現れる呪霊の大群に辟易しながらも、思考の一部はどこか上の空だった。

 

(あいつ……今頃何してんのよ)

 

 受肉体だと判明し、総監部の手先に追われた同級生。

 彼の安否が判明しない内はずっとこうだろう。なんとなくそう感じていた真依は、一歩遅れて加茂達に追いついた。

 

 加茂が赤血操術で呪霊を射抜き、霞がシン・陰流簡易領域による抜刀で一閃。

 炙れた呪霊をメカ丸が焼き、さらに残った雑魚は真依が的確に射抜いていく。本来居るはずの一人を欠いても京都校の連携は盤石だった。

 特に危なげもないまま呪霊を殲滅した一同は、周囲に呪霊の気配がないのを確認してから一息吐く。

 

「はぁ、はぁ……これで大分倒せたならいいんですが」

『千体の内の十体。割合で言えば1%ってところカ』

「具体的な数字を出さないでください、メカ丸……」

 

「だが、あくまで夏油が放った呪霊が千体というだけで、元々京都に潜んでいた呪霊も“帳”によってあぶり出されるはずだ。実際の数はもっと多いと見ていいだろう」

 

「加茂先輩!」

 

 嘆く霞に対し、加茂は不思議そうに小首を傾げる。

 彼はどうして彼女が嘆いているか分からないといった様子だった。それを見て真依はやれやれと呆れながら撃ち尽くした弾を込めていく。

 

「それより私は一旦補給に行きたいわ。散々撃って残弾が心許なくなってきた」

「確かに……加茂先輩も矢が少なくなってきてますし、今の内に補給に向かっては?」

『俺も賛成ダ。一旦余所と戦況を共有するべきだろウ』

「……一理あるな」

 

 真依のように実物の武器に頼る者は勿論、呪力も無限ではない。

 一旦補給を挟み万全を期すことは、戦略的に見ても合理的な判断であった。これには普段馬が合わない真依と加茂も同意見となり、揉めることなく補給へと向かうことが決定する。

 

「そうと決まれば急ぐぞ。いつ増援が来るか分かったものじゃない」

『───待って、加茂君!』

「どうした西宮?」

『9時の方向!! 何か……何か黒い塊みたいなのがそっちに向かってる!! 呪霊……じゃない? でも、とんでもない呪力だわ!!』

「なんだとッ!?」

 

 上空の西宮からの報告に、言われた方角を見遣る加茂。

 すると、意識を集中するよりも早く圧し掛かるような呪力の波動を感じ取った。

 

(この呪力の大きさ……一つ一つはそこまででもないが、全体を合わせれば二級では収まらないぞ!?)

 

 先刻東堂が一人で戦っていた鎧武者の呪霊に並ぶといっても過言ではない呪力量だ。

 一級───否、それを上回る呪力量に加茂は戦慄する。

 

「全員、構えろ!! 特級が来る!!」

「「『───!』」」

「西宮、応援を要請しろ!! これを引き連れたまま本部には戻れん!!」

『加茂君、でも!』

「殿は私が務める!! いいから早く……───ッ!?」

 

 突如、加茂の真横を通り過ぎる影があった。

攻撃か? そう思って轟音を響かせた着弾地点を見た加茂であったが、そこで再び絶句した。

 

「なっ……葛城!?」

 

「───」

 

 受肉体の疑いで逃亡していた後輩・葛城マモリが、夥しい血を流して地面に倒れていた。

 予想だにしなかった登場。そして、その凄惨な状態に全員が弾かれるように飛び出した。

 

「マ、マモリ!!」

「待ちなさい!!」

「止めないで真依!! すぐに手当をしないと……!!」

『真依の言う通りダ、三輪』

 

───来るゾ。

 

 忠告を無視して駆け寄る霞を守るように、メカ丸は一歩前へと踏み出した。

 次の瞬間、京都の街並みの奥より黒い濁流が押し寄せてくる。一見津波にも見える物体であるが、メカ丸の頭部に積載された高精度のガンカメラは黒い物体の正体をしっかりと捉える。

 

『蜚蠊……だト!?』

「凄まじい速さだ!! 先手を取るぞ、メカ丸!!」

『言われなくとモ』

 

 逃げ切ることは不可能と判断し、加茂とメカ丸は先制攻撃を仕掛ける。

 

───赤血操術『苅祓(かりばらい)

───『大祓砲(ウルトラキャノン)

 

 血で形作られた手裏剣を投げつける加茂に続き、メカ丸も掌の砲口より呪力の炎を噴射する。

 

『ギ!』

『ギキィ!』

『ピギ!』

 

(駄目だ、数が多過ぎる!!)

 

 『苅祓』で切り裂かれ、『大祓砲』で焼かれた蜚蠊の悲鳴が響いてくる。

 が、しかし、黒い大群の進軍は留まるところを知らない。

 あらかじめ用意しておいた血液パック一袋分を用いた攻撃は、加茂にとっても消費の大きい技の一つであった。

 それを用いても尚、有効打にならないという事実は、加茂にこの上ない絶望感を覚えさせるに十分だった。

 

(葛城はこいつらにやられたのか!!)

 

『加茂、こいつらはただの蜚蠊じゃなイ。一匹一匹が呪力を宿し強化されていル!』

「私も今気づいたところだ。だが、一点攻撃では効果が薄い。少し時間を稼いでくれ」

『……何か策があるんだナ?』

「ああ……真依、三輪! こっちだ!」

 

 『いいだろウ』と、メカ丸はこの場から立ち去っていく加茂達を横目に殺到する蜚蠊の大群に向かい合う。

 

『俺が呪骸の体で良かったナ』

 

 でなければ、この生理的嫌悪感による断ったかもしれない。

 しかし、遠隔操作されている呪骸で多少なりとも眼前の害虫に対し抵抗感が薄れているメカ丸は、この場において誰よりも冷静に対処できるという自負があった。

 

『害虫ガ。一匹残らず根絶やしにしてやル』

 

 仲間を傷つけられた怒りを呪力に変換し、さらにそれを炎へと出力する。

 

『ギャキィ!』

『ピギュ!』

『ギィイ!』

 

(やはりナ……いくら呪力で強化されているとは言え、俺の体を喰えんカ)

 

 炎を掻い潜り、メカ丸の体に齧りついてくる蜚蠊は何体も居た。

 だが、戦闘用呪骸として設計されている体を削ることは容易くいかず、張り付いた蜚蠊が四苦八苦している内に刀源解放(ソードオプション)で切り払われていく。

 

(だがこの物量ダ。いくら俺でも飲み込まれれば一たまりもないだろウ)

 

 今は少しずつ距離を取ることで囲まれずに済んでいるが、いざ奔流に囲まれてしまったが最後、呪骸の体とは言え文字通り虫食いにされてしまう。

 

(俺の体が保つまでに間に合わせろヨ、加茂……!)

 

 呪力とて無限ではなく、メカ丸の『大祓砲』には放熱の問題も付きまとう。

 時間が掛かれば掛かるほど進行を食い止めるのは難しくなる。

 だからといって武器を温存すれば進行を食い止められない板挟みの状況に、メカ丸は歯噛みしながら蜚蠊を蹴散らしていく。

 

 一秒が長い。

 百匹殺しても、次の瞬間には千匹が襲い掛かってくる。

 そんな状況が数分間続けば、メカ丸の体表には虫が齧ったとは思えぬ傷が無数に刻まれていた。

 

『まだカ、加茂……!!』

「メカ丸、こっちだ!!」

『ッ!! 遅かったナ……!!』

 

 憎まれ口を叩くメカ丸は足下に『大祓砲』を放ち、自身の体に張り付いた蜚蠊を焼き殺す。

 そして、加茂に呼ばれた地点まで全力で駆け抜ける。その間、妨害がなくなった蜚蠊は大挙して押し寄せてくる。

 ともすれば、すぐにでも追いつかれそうな状況に焦燥を覚え、京都校の面々を巻き込む訳にはいかないとメカ丸は加茂に叫ぶ。

 

『加茂!! 俺は何をすればいイ!?』

「そのまま駆け抜けろ!!」

『なんだト!?』

 

 結局策の内容は明かされなかった。

 だがしかし、加茂が両手を合わせて突き出す構えを見て、メカ丸は彼が何をくり出そうとしているかは分かった。

 

(血液の圧縮!? 馬鹿ナ、あれハ……)

 

「『百斂(びゃくれん)』」

 

 

───『穿血(せんけつ)』!!

 

 

 超圧縮した血液の一点放出、それこそが『穿血』。

 赤血操術の中でも攻撃力───特に貫通力という点で最も強力な技であるが、だからこそメカ丸は目を疑った。

 前述したとおり、『穿血』は貫通力に特化した“点”の攻撃。故に大群のような“面”で攻めてくる手合いに対しては有効とは言い難い。

 

(だがこの軌道)

 

『……そういうことカ』

 

 加茂の『穿血』はあらぬ方向へと射出された。

 狙いが外れた───のではない。

 

 寸々の狂いもなく射出された血の弾丸は、通りのビルの壁面に設置されていたものの、戦闘の余波で崩れかけていた足場───それを支えていた電線を撃ち抜いた。

 直後、唯一の支えを失った足場は轟音を響かせて倒壊。足場を覆っていた飛散防止ネット諸共通りの方へと倒れ、メカ丸のすぐ後ろまで迫っていた蜚蠊を押し潰した。

 

「今だ、メカ丸!!」

『分かっていル』

 

 だが、それだけですべての蜚蠊を殺せるはずはない。

 加茂の呼びかけに応じるメカ丸は『砲呪強化形態(モード・アルバトロス)』を解放。

 全身全霊の呪力を全砲門に注ぎ、尚も迫りくる黒い大群に向けて呪力の獄炎を解き放った。

 

『───『三重大祓砲(アルティメットキャノン)』!!』

 

 ボバゥ!! と灼熱が燃え広がる。

 ネットに燃え移った炎は、そのまま下敷きになった蜚蠊を熱と炎で焼き殺していく。何匹が炎を纏いながら迫ってくる蜚蠊も居たが、これを加茂は難なく打ち払う。

 

 炎は未だ盛んに燃え盛っている。

 流石に蜚蠊もわざわざこの中を突っ込んではこないと加茂は見立てていた。

 

「これでかなりの数をやれたはずだ。今の内に本部と合流するぞ」

『加茂。だが葛城も居ル』

「……それでもだ」

 

 拘束の命が出ている当人を連れて行けばどうなるかなど、皆まで言わずとも分かる。

 自然と言葉に圧が出てしまうメカ丸であったが、加茂は平静を保ったまま返答を返した。

 

「このまま手当てをせずに死なれる方が夢見が悪い。彼には然るべき審議の後、京都校に戻ってきてもらう」

『……オ前でもそんなことを言うんだナ』

「どういう意味だ?」

『いや』

 

 規定側の加茂からすれば、一度祓除対象になれば有無も言わさないと思ったが違ったようだ。

 

 上が是とするならば是となる。

 それ故に、上が是と言えば受肉体であろうと受け入れる。

 

 メカ丸は、そんな加茂の言葉の裏を読み取った。

 

『それなら話は早イ。奴等が居って来ない今の内ダ』

「そう言っている。今でこそ足止めできているが、すぐにでも追いかけてくるぞ」

『あア。俺の体も放熱限界が近イ。これ以上ハ───』

 

 

 

『匂ウ』

 

 

 

『「!!」』

 

 不意に聞こえた部外者の声。

 反射的にその場から飛びのいた二人は、声が聞こえてきた火中を見た。

 

 真っ赤に燃え盛る紅蓮の炎。

 その中を歩いてきたのは、黒い外套を羽織ったような姿の虫顔の魔物だった。

 

『私ノ 好キナ 味ノ 匂イ ガッ』

『……加茂』

「分かっている」

『甘ク ショッパ クテ 蕩ケ ルヨウ ナッ』

 

 身構える加茂とメカ丸の二人。

 そんな臨戦態勢を見るや否や、蜚蠊顔の異形───黒沐死もまた得物を取り出す。蜚蠊の卵嚢を取ってつけたような鉈だった。

 

『私ハ 鉄ノ味 ガ好キ ダッ』

 

 生と死の交雑する魔剣───『爛生刀(らんしょうとう)』。

 得物を手に取り、獲物を見据える。

 黒沐死の捉える獲物は二匹。常に血の匂いを纏う和装の男と、無機質な風体の呪骸。

 

 どちらも黒沐死にとって、喰らうに不足はない。

 

『モット モット モット 欲シイ』

「行くぞ、メカ丸」

『あア……三輪達を追わせはしなイッ!』

『私ニ モット 鉄ノ味 ヲッ 味ワワ セロッ!』

 

 

 

 ***

 

 

 

(あれはメカ丸の『三重大祓砲』!?)

 

 背後で瞬いた火柱を見て霞が瞠目する。

 『三重大祓砲』はメカ丸の放熱性能ギリギリの炎を解き放つ大技だ。

 

(あんな大技を使った上で仕留めきれなかったら、メカ丸は確実にやられる……!)

 

 相手が特級であることを考慮すれば、たとえ『三重大祓砲』でも仕留めきれたかは不安が残る。

 メカ丸自体は呪骸である為、逃げ遅れようが最悪本体は生き残れるだろう。

 だがしかし、自分達は違う。

 追いつかれる=死。その事実に胃がキリキリと痛み始める感覚を覚える霞は、少し前を走って進む真依に呼びかける。

 

「真依!! 急いで離れよう!!」

「分かってるって!!」

 

 そうは答える真依であるが、彼女の足取りは重い。

 なにせ負傷したマモリを担いで走っているのは彼女だ。いかに呪力で身体強化しているとはいえ、元の呪力量が少ない真依では雀の涙に等しい上昇量である。

 

「重いなら私が代わりますよ!!」

「いいから!! 私は銃だから片手で応戦できるけど、アンタは刀なんだから両腕空いてないと動けないでしょ!!」

「そ、それは……そうだけど……」

「だったら黙って私達を護衛してちょうだい!! ()()()()()()!!」

「っ……はい!」

 

───けっして彼がお荷物とは言わない。

 

 そんな真依の心の変遷を感じ取り、霞は一人僅かに頬を綻ばせた。

 

「……なによ」

「い、いえ! なんでも……ははっ」

「ったく……早く桃との合流地点まで向かうわよ」

「はい!」

 

 せめて西宮と合流できれば、負傷したマモリを預けられる。

 それさえしてしまえば自分達の退避も相応に早くなると、二人は加茂らの作戦成功を祈りながら進んでいた。

 

「真依、もうちょっと! もうちょっとです! 頑張って!」

「ああ、もう五月蠅い! 頑張ってる人間に頑張れなんて、今日日流行らないわよ!」

「それでも頑張って!」

 

───『あとちょっとだから』

 

 そんな霞の静穏を遮るように、爆音が轟いた。

 次の瞬間、彼女らの走っていた通りの建物に見慣れた人物が突っ込んだ。驚く間もなく壁に着地───否、着弾した男子生徒は受け身を取ることもできず地面に崩れ落ちる。

 

「ぐっ……うぅ……」

「憲紀……!?」

 

 2年の先輩、加茂憲紀だった。

 焼かれたような傷を負う全身からは焦げたような臭いがこれでもかと漂ってくる。

 

「加茂先輩!? 何があったんですか!?」

「メ、メカ丸、が……!!」

「メカ丸が……!?」

 

 まさか、メカ丸が?

 

 となると、先程聞こえた爆音は『三重大祓砲』だろうか。それならば加茂の火傷にも説明がつく。

 訳も分からぬまま、霞は加茂に肩を貸そうと抱きかかえながら疑問を投げかける。

 

「メカ丸がどうして……!?」

「メカ丸が……私を、逃がそうと……!」

「え?」

「自分を犠牲にして自爆を……!! クソッ!! 私を置いて、早く逃げろッ……!!」

 

 柄にもなく荒れる加茂に理解が及ばない霞であったが、理由はすぐに理解できた。

 

───カサカサ。

 

 ()()は間もなく現れた。

 ()()が全速力で走れば、1秒で体長の50倍もの距離を移動できるとされている。秒速では2m、時速に置き換えれば7㎞に相当するが、これは人間の大きさで言うところの時速300㎞になる。

 秒速に置き換えれば80m。10秒弱で1㎞を走破できる俊足の持ち主は、さらに呪力で身体能力を強化することで、それ以上の快速を可能とした。

 

 故に、人を背負って走る人間に追いつくなど瞬く間の出来事だった。

 

『ドウシテ 私カラ 逃ゲル』

 

───ゾッッッ。

 

 声を聞いた瞬間、真依と霞は余りの不快感に全身が固まってしまった。

 動かなければならない。でなければ追いつかれ、殺される。

 分かっているというのに、身体は言うことを聞いてくれない。

 

 そんな中でも、せめて敵の正体だけは確認しようとした。

 そして、心の底から後悔した。

 

『ドウシテ 私カラ 逃ゲ切 レルト 思ッタ?』

 

「ひ」

「ッ……!!!!!」

 

 本能に訴える不快感。

 最早忘れることはできないであろう害虫の要望に、霞はそれっきり呼吸という動作を忘れてしまったように固まる。

 

 だが、そんな彼女の手を真依は強引に奪った。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、無理やり連れて駆け出したのだ。

 

「ま───真依!!! 真依!!! 真依!!!」

「黙って!!! 死にたくなかったら走るのよ!!!」

「加茂先輩がッ!!?」

「逃げろって言ったのは憲紀よ!!! ここで全員死ぬ気!!?」

「でもぉ!!!」

 

 霞は加茂を見捨てるという選択をできずにいたが、それで死んでは元も子もないのも事実だった。

 真依は今も尚鳥肌と震えが収まらない体を必死に動かしながら、それ以上に頭を動かす。

 

(桃に乗せてもらう!!? いえ、無理に決まってる!!! 一人乗せたらそれで限界よ!!! なにより下りてきたところを襲われたら、それこそ全滅じゃない!!!)

 

 思い浮かんでは、すぐさま切り捨てる。

 そんな思考の環状線はいつまで経っても現状を切り抜けられるだけの妙案まで導いてはくれなかった。

 

 そうこうしているうちにタイムリミットは目前に迫っていた。

 

『モット 欲シイ』

 

「真依!!! 真依ぃ!!!」

「黙って走りなさい!!!」

 

『欲シイ 欲シイ 欲シイ』

 

「「ッ!!」」

 

 ほとんど一瞬の出来事だった。

 数十メートルは離れていたであろう距離が一瞬で詰められ、黒沐死が二人の行く手を阻むように回り込んできたのだ。

 呆然とする二人に対し、黒沐死はその手に握っていた爛生刀を振りかぶる。

 

(死、)

(ぬ……?)

 

 ようやく状況を飲み込んだ二人であったが、もう遅かった。

 引き金に指をかける真依に対し、霞も鞘に納めた刀の表面に呪力を走らせる。だがどちらも黒沐死が振り下ろすより早く動き出すことは叶わなかった。

 

 だが、そんな彼女達に影が掛かった。

 真依を後ろへ押し退けた影は白く、それでいて流れる紅から濃密な鉄の匂いを漂わせ───それでも二人を庇うべく飛び出したのだ!

 

「マモリッ……!」

「お、おおおおおっ!!!」

 

 なけなしの呪力をその身に纏わせ、振り下ろされる斬撃を腕で受け止めた。

 無論、それだけでは斬り落とされる。マモリは呪力で生成した糸で腕を防御していた。

 結果から言えばマモリの腕は斬り落とされなかった。刀身を受け止めた部分から血飛沫が舞うが、それでもまだ許容の範疇だった。

 

 しかし、

 

『ギィイイイアアアアアアア!!』

「ぐっ───!!?」

 

 刀身から射出された卵嚢。それより生まれた幼体の蜚蠊がマモリの腕を食い破ったのだ。

 外側からではなく内側からの攻撃。これには糸による防御も有効とは言い難く、食い破られた腕は皮だけが辛うじて繋がる状態となった。

 

「こんのッ……いい加減離れなさい!!! 気持ち悪いのよ!!!」

『ギイイイッ!!!』

 

 瞬間、脳味噌が沸騰する感覚に陥った真依は、尚もマモリを喰らおうとする蜚蠊目掛けて鉛玉をぶち込む。

 ただ、数発では死ななかった。

 全弾撃ち尽くしても暴れる蜚蠊に、真依は銃弾を込めるよりも銃床で殴りつける方を選んだ。

 

「死ね!!! この害虫が!!!」

 

 何度も殴りつけて、ようやく蜚蠊は息絶えた。

 ただし、マモリも同じぐらい死に体だった。腕からとめどなく血を流す彼の瞳は虚ろで、最早焦点が合っているかも定かではなかった。

 

(───シン・陰流)

 

 友人に近づく“死”。

 それを目撃し、次に動いたのは霞だった。

 

 先までの狼狽が嘘のように凄絶な眼光を迸らせる彼女は、マモリへ一撃叩き込んだ黒沐死の懐に潜り込み、居合の構えを取る。

 

(簡易領域!!!)

 

 広がる呪力の円。

 彼女の間合いを示す領域に立ち入った者へ与えられるのは“最速”だった。

 

───抜刀

 

 黒沐死の胴体目掛けて放たれる一閃。

 しかし、それよりも早く黒い外套のような半透明の茶羽から覗いた腕が、決死の一閃を難なく受け止めた。

 

「!!」

『モット 欲シイ』

「あ……あぁ……あ」

 

 返り血を舐めとり、狂ったように黒沐死は唱える。

 

『モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット モット───』

 

 

 

 私ノ 好キナ 鉄ノ味 ガッ

 

 

 

 カサカサと、耳障りな音を奏でながら指が絡み合う。

 

 果たして、結ばれる掌印は───愛染明王印。

 釈迦を堕落へ堕とそうと画策した仏教の魔王・魔羅(マーラ)と同一視される、密教の忿怒相の尊格の一つが結ぶ印だ。

 

 

 

(リョウ)

(イキ)

 

 

 

(テン)

(カイ)

 

 

 

 黒が、黒が、黒が。

 黒が、果てしなく広がっていく。

 

 

『───『無間阿久多(ムケンアクタ)』』

 

 

「え……」

 

 刹那、全身を這う違和感に真依は視線を落とした。

 

「あっ───ッッッ!?!?!?!?!?!?!?」

 

 蜚蠊。

 脚に、太腿に、腹に、胸に、腕に、首に、顔に。

 体の至るところを蜚蠊が這いまわっている。その脚が動く感触が肌に伝わった瞬間、真依は堪らず金切り声を上げて藻掻き始めた。

 

「真依!!!」

 

 すかさず助太刀に入ろうとする霞であったが、領域内を全て埋め尽くす蜚蠊の群れにたたらを踏んだ。

 いや、違う。()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

 彼女が今、黒沐死の領域展開の必中効果を受けていないのは、簡易領域による中和効果があるが故。

 しかし、彼女の簡易領域は両足のいずれかでも地面から離れてしまえば解除されてしまう。

 

 そうなってしまったが最後、彼女もまたこの無限にも思えぬ蜚蠊の大群に呑み込まれる。

 もっとも───。

 

「あ、あぁあ、あぁあああ……!!?」

 

 カサカサ。

 カサカサ。

 カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ───。

 

「あぁあぁああぁぁあぁ、いやああああぁぁあああ!!!!!」

 

 必中は防げても、術式によって生み出された蜚蠊は消えない。

 間もなく領域内に侵入した蜚蠊は、半狂乱になって刀を振るう少女の足を這い上がり、その柔らかな肌に牙を立てる。

 呪力で守ればギリギリ耐えられただろうが、平静を保つにはここは地獄だった。

 

 少女の全身が黒光りに覆われるのに、一分と掛からなかった。

 刀が手から滑り落ちる音が、蜚蠊の犇めく領域内に虚しく響く。

 

(霞……)

 

 その間、真依は辛うじて全身を呪力で覆うことで身を守っていた。

 だが、この物量を前にはどれほどの効果があるかも分からない。今も尚全身に張り付く鋭い痛みが消えた頃、自分は死ぬのだろう。そんな漠然とした思考だけが脳裏を過るばかりであった。

 

(……マモリ)

 

 残された時間は少ない。

 そんな中、真依は傍に倒れていた少年の手を取った。

 今にも消えそうな風前の灯火からは、本当に微かな熱しか感じられなかった。

 

 それでも真依は最後の力を振り絞り、少年の手を握りしめる。

 これが最期の言葉になると薄々感じとりながら、それでも。

 

 

 

 縋りついた少女は、か細い声で紡ぐ。

 

 

 

「マモリ、起きて」

 

 

 

 全身を齧られながら、もう一度。

 

 

 

「マモリ」

 

 

 

 その時だった。

 

 

 

───起きて、お兄ちゃん。

 

 

 

 どこからともなく聞こえる聲と共に、少年の指が動いた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 その世界は紅かった。

 血をひっくり返したように鮮やかな紅の空を、白い雲が流れて行っている。

 

「……」

 

 その光景に少年は見覚えがあった。

 大の字になって寝転がっていた少年は身を起こし、今一度確かめるように辺りを見渡す。咲き誇っていたのは彼岸花だ。別名は曼珠沙華、英名ではスパイダーリリーとも呼ばれる植物。

 

「生得領域か」

 

 現実と呼ぶには余りにも浮世離れな光景に少年が呟いた。

 

『お兄ちゃん』

「!!」

 

 すると、不意に背後から足音が聞こえてきた。

 跳ねるようにその場から飛びのく少年は、声が聞こえてきた方を見遣る。先程まで平静を保っていた顔からは滝の汗が流れ、まるで声の主を畏れているような様子だった。

 

『こっちだよ』

 

 だが、声は再び背後から聞こえる。

 またもや咄嗟に離れようとする少年。

 しかし、彼は手を何者かに捕まれて逃げられなくなった。

 

 諦めるように立ち尽くす少年は、せめてもの抵抗にと振り返らぬまま声に応じる。

 

「……カザリか」

『うん』

 

 それは、最愛の妹の名。

 血を分けた双子の片割れは、否定することはないままに手をキュッと握りしめてくる。

 

『……行かなくていいの?』

「行くって……どこに?」

『皆のとこ』

 

 どこか幼さを残した喋り方に、今度は胸を握り潰されるような気分に陥る。

 俯いたままのマモリは、カザリの問いに対し熟考に熟考を重ねて答える。

 

「俺は……行けない。行きたくても行けないんだ」

『どうして?』

「だってこの体は、カザリから貰ったものだから」

 

 生温い風が吹き抜ける。

 まるで、人から溢れた出た熱を攫ったような。

 

『……それが行けない理由?』

「うん。やっぱり俺は家族を……カザリを二度と殺したくないッ!!」

『……』

 

 いつも淡泊な反応ばかり少年から、柄にもない声が迸る。

 

「ずっと、ずっと、ずっと!!! ずっと苦しかったんだ!!!」

『お兄ちゃん……』

「お前を殺したあの日から!!! お前を守れなかったあの日から!!! ずっと夢に見るんだ……泣きじゃくるお前を見てることしかできなかったあの日の夜を!!!」

『でも、お兄ちゃんは守ってくれたじゃない!』

「違う、守れてなんてない!!! お前は俺の“器”になって死んだ!!! 『葛城カザリ』は、『葛城マモリ』に殺されて死んだんだ!!!」

 

 彼は赤子のように泣きじゃくる。

 恥も、外聞もない。

 だが、それこそマモリという少年の精神の正体だった。

 

 受肉体の兄。

 器である妹。

 

 双子で、兄妹で、でも戸籍は妹の分しか提出されていなかった。

 妹より後に生まれる兄など存在しない。

 では、何故そうなったか? ───理由は単純だ。

 

 マモリが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に他ならない。

 

 堕胎した胎児を呪物化し、守り人(ひとばしら)となる人間に取り込ませる閉鎖された土地の醜い因習。

 呪霊という脅威から人間を守るべく捧げられた人身御供の血。

 それこそが、マモリとカザリ。

 『()()()()()』を継ぐ、呪術師の家系の正体であった。

 

「この体はお前のものなんだ!!! 俺のものじゃない!!! だから、俺が俺の為に使い捨てることなんてできない!!!」

『でも、友達を見捨ててもいいの?』

「───」

 

 呼吸が、死んだ。

 あれだけ泣き叫んでいたマモリが、カザリの優しい声音の一つで泣き止んだ。

 涙の代わりに、ポツリと一つ零れ落ちる。

 

「……見捨てたく、ない」

『じゃあ、助けようよ』

「でも……それじゃ……」

『いいんだよ、お兄ちゃん』

 

 ふわり、と。

 包み込むような優しい両腕が、マモリの体に回される。

 

『お兄ちゃんはお兄ちゃんのやりたいことをしてもいいんだよ』

「……お前の体なんだぞ?」

『いいよ、全部あげる』

 

 抱き着いたカザリの体温が、マモリの背中に伝わっていく。

 

『お兄ちゃんがしたいこと、ぜーーーんぶしてもいいの。だって、私は生まれてから12年もやりたいことたっくさんしてきたんだから』

「カザリ……」

『だから、今度はお兄ちゃんの番』

 

 じんわりと伝わる熱に、冷え切っていたマモリの体に熱が戻っていく。

 同時に、一度は引っ込んでいた涙がボロボロと零れ落ちる。家族の───双子の妹の優しさに触れたマモリの感情は、まるで濁流のようだった。

 

「いい、のかな」

『いいんだよ』

「お前の体で……俺のしたいことを……」

『私だけの体じゃない。この体はお兄ちゃんのものでもあるの』

「……じゃあ」

 

 ようやく振り向くマモリ。

 彼の瞳に映り込んだのは、数年越しの妹の笑顔だった。自分と瓜二つなのに、自分とは比べ物にならないくらい飛び切り明るい太陽のような笑みは、ずっと目を背けてきた罪悪感を吹き飛ばすくらい眩かった。

 

 そんな妹に向けて、兄は言い放つ

 

「俺と一緒に……()()()()()()()?」

『うん』

 

 躊躇うことなく、カザリは頷いた。

 

 

 

『一緒に───連れてって』

 

 

 

 それから双子は手を繋いだ。

 生前繋ぐことは叶わなかった手を、固く。

 

 

 

 そうやって兄妹は彼岸を渡った。

 

 

 

 魔物の犇めく黒い地獄に向かって歩く二人の指には、紅い糸が絡まっていた。

 血で染めたような、真っ赤な糸が───。

 

 

 

 ***

 

 

 

「───術式反転『(くれない)』」

 

 黒い地獄に、一本の紅い糸が奔った。

 

『ギキィ!?』

『ギィアア!!』

『イアア!!』

 

『?』

 

 黒沐死は怪訝に思う。

 尽きることない無限の食欲が行動の根底にある彼は、たった今感じた違和感に向けて視線を投げる。

 蜚蠊が散る。散る。散っていく。

 茶羽が次々に宙を舞い、バラバラとなった蜚蠊の脚や胴体が撒き散らされていく。

 

『何ダ コレ ハッ』

「……俺の術式……順転は糸を『紡ぐ』術式でな……」

 

 ゆらりと立ち上がる少年が居た。

 辛うじて皮で繋がっていた少年の右手は、それまでに散々蜚蠊に齧られていたか、完全に腕から零れ落ちた。

 だが、少年は食い千切られた自分の肢体に一瞥もくれず言の葉を紡ぐ。

 

「反転なら、その逆……糸を……『()()』……」

『何ヲ 言ッテ イルッ』

「だからなんだって思うだろ……けど、術式の反転が使えるってことは、反転術式が使える……」

 

 肉体の再生し得る正の呪力(エネルギー)を生み続ける少年。

 血が滴る断面からは、僅かに肉眼で捉えられる細さの糸が延々と伸び続けていく。

 

「こいつは負の呪力で再生する……お前ら呪霊には使えない技だ……ははっ」

『?』

「考えたことはないか? もしも肉体を再生し続けられるなら……」

 

 

 

───()()()()()()()()()()()()こともできるんじゃないか、ってな。

 

 

 

『!!!!!』

 

 黒沐死は気づく。

 少年の背後。紅い糸が伸びていく先で、解かれたはずの糸が複雑に絡まり、編み込まれ、形作られていく体を。

 

 

 

『───』

 

 

 

 間もなく、一糸まとわぬ糸体(したい)の少女が生み堕とされた。

 白い髪に白い肌。血のように紅い瞳を揺らす少女は、その幼さを残す肢体とは裏腹に妖艶な空気を纏いながら、右手を失った少年に後ろから抱き着く。

 

「……いこう、カザリ」

 

───うん。お兄ちゃん。

 

 血で塗ったような唇が、妖しくも美しい弧を描く。

 するや、双子の兄妹は共に差し出した片手を複雑に絡み合わせ始める。失った兄の右手を補う少女は、まるで分かり切っているような澱みない動きで一つの形を創り出す。

 

 それは、あやとりで言う『まもり、かざり』と呼ばれる技。

 またの名を『蜘蛛の巣』。

 何よりも、最後の一手を出す前の形はとある掌印の形によく似ていた。

 

 

 

「領域展開」

 

 

 

 不空羂索観音菩薩。

 その者の生み出す領域は、心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する。

 

 

 

 

 

───『魔守禍去(まもりかざり)』───

 

 

 

 

 

 刹那。

 黒い地獄を、白い繭が呑み込んだ。

 

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