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突き抜けるような青空と、天高くに伸びる白い雲。
燦々と照り付ける太陽に、きらきらと輝く水面。
水平線から押し寄せる波が、潮騒の音を響かせる。
そんな光景を前に、ヒシミラクルはぽつりと。
「海だ……」
「うん、二週間前からずっといるよね?」
まるで始めて海を目にしたような彼女の呟きに、隣に立つトレーナーは至って冷静な声でそう返した。
トレーナー契約を交わしてから、かれこれ四年目。もはや恒例行事となってきた夏合宿である。
「ほら、トレーナーさんっ! 海ですよ、海!」
「そうだね、海だね。何なら昨日も来たよ?」
「アレは違いますよ! だってトレーニングで来ただけじゃないですか! 私の中ではもうほぼ大っきめのプールです! ノーカンですよ、ノーカン!」
「重症だね。え、今までずっと熱中症だった?」
「違いますけど!?」
「あはは、冗談冗談」
もぉー! なんて声を荒げるヒシミラクルを見て、トレーナーが少しだけおかしそうに笑う。思えばこんなにはしゃいでいる彼女を見るのは、ずいぶん久しぶりかもしれない。そう考えれば、少し不満げなその姿もどこか微笑ましく感じられた。
「でも、ほんとにいいんですか? 今日は丸一日、トレーニングお休みだなんて」
「最近がんばってくれたから、たまにはね」
事の発端は数日前に遡る。
とはいえ何か特別な出来事があったわけでもなく、単純にヒシミラクルが連日続くトレーニングに対し、ウダウダといつも通り文句を垂れただけの話である。
普段――ここで言うなら二、三年前の彼であれば、そんな意見など一蹴して空き缶を取り出していたが、とはいえここ最近はレースの出走やトレーニングがそれなりに落ち着いてきたというのも事実だった。
なので今回ばかりはその要望に耳を傾けるのも、まあ悪くも無いかと思った次第である。
それに。
『やっぱりわたしも、たまには青春したいですよぉ。三年間ずーっとレースばっかりでしたし……』
あんな顔をされては、という話でもあった。
「早く行きましょうよ、トレーナーさん」
なんて先日のやり取りを思い出すトレーナーに、ヒシミラクルが呼びかける。そうして二人で砂浜へ降りて行ったところで、ふとトレーナーが。
「それにしても、俺でよかったの?」
「何がですか?」
「いや、ほら。遊ぶのに誘うんなら俺じゃなくて、友達の方がよかったんじゃないのかな、って」
別に、友人は少ないというわけでもないはずだ。それこそ以前から交流のあった生徒もそうだし、同じクラスのネオユニヴァースやタニノギムレット、シンボリクリスエス――まあ、確かにそのあたりの生徒を誘うのには少し気が引けるかもしれないが、とにかく友人には困っていないはずだ。
なのに、どうして自分なのか。それこそ彼女の口にしていた青春に、自分はそぐわないのではないか。
そんな意味を込めたトレーナーの質問に対して、ヒシミラクルは鬱屈とした表情になって。
「……トレーニングでした」
「え?」
「みんな、今日はトレーニングでした」
「……あー」
どうやら、タイミングが合わなかったらしかった。そもそもこの予定もかなり突発的なものであるため、それも仕方のないことではあるが。
「ホントはみんなと遊びたかったんですけどね」
「……それなら、また別の日に回してもいいよ? その代わり今日はトレーニングになっちゃうけど」
丁度、彼女が着ているのも学園指定の水着なので、今からトレーニングに切り替えても何も問題はない。
そういう意味も込めて伝えたトレーナーの言葉に、ヒシミラクルは少しだけ間を置いてから、
「んー……いや、今日はゆっくりしましょうよ」
はじめ、まあこの子ならそう答えるだろうなあ、なんて思った。しかし彼女の横顔を眺めていると、いつもより少しだけ何かが違うようにも思えた。
「ほらほら、トレーナーさんも座ってくださいよ。わたしだけゆっくりしてるのも、申し訳ないですし」
「……うん。そうするよ」
違和感は確かにあった。大きく、歪んだものが。
だけど彼女はすぐいつもの調子に戻ってしまって、トレーナーは口を噤んだ。そうして流れる沈黙は、もしかすると彼女と過ごす中で初めて感じるような、そんな新鮮で――あるいは、居心地の悪いもので。
潮騒の音が、二人の間で響いている。
「泳がなくていいの?」
結局、先に口を開いたのはトレーナーからだった。
「え?」
「せっかくの海なのに、ずっと浜辺にいるのもなあ、って。……君が泳ぐの嫌いなのは知ってるけどさ」
日頃からプール練習をこれでもかと嫌う彼女に、そんな提案をするのもどうかと思ったが、それよりもこの沈黙が続く方がトレーナーにとって苦痛だった。とはいえ、苦し紛れの提案であることも事実であり、ヒシミラクル本人は曖昧な表情を浮かべるだけで、何も答えてくれなかった。
一体どうしてしまったのだろうか。少なくとも、こんな面倒――いや、気の難しい子ではなかったはず。もしかして自分が何かしてしまったのだろうか、と不安に思ったトレーナーは思考を巡らせてみたが、主にトレーニングに関しての心当たりが多すぎるので、参考にならなそうだと思ってやめた。
そうして、また得体のしれない沈黙が流れる。
しかし、それは長く続くことはなかった。
「……やっぱり、ダメですねえ」
不意にぼそりと漏らしたヒシミラクルの言葉に、トレーナーが振り返る。
「ダメって、何が?」
「こうやって、ウジウジ悩んじゃうことです」
「……え、悩んでたの?」
「えっ」
いやだって全然そんな風に見えなかったんだもん、なんて言葉をトレーナーは全力で飲み込んだ。
「何に悩んでたの? トレーニングのこと? それか、レース? ……もしかして俺のことだったりする?」
「……なんか焦ってます?」
「まさか」
「先に行っておきますけど、別にトレーナーさんのことじゃないですから、安心してください」
「……そっか」
どこか呆れたようなヒシミラクルのその言葉に、トレーナーは心の中だけで胸を撫で下ろした。でも、すぐにじゃあいったい何に、という疑問が浮かび、それに応えるように彼女は言葉を続けた。
「もう私は青春できないんだなあ、って」
「ああ、そういえば言ってたね。青春したいって」
「覚えてたんですか?」
「あんな顔されたら、ねえ」
それはどこか寂しげで、諦めたような顔だった。
「友達が誘えなかったから?」
「……半分、正解かもしれませんね」
「どういうこと?」
「どうしようもない話には、なるんですが」
それから、ヒシミラクルはぽつりぽつりと語り始めた。
「別に何か不満がある、ってわけじゃありません。わたしは充分恵まれてる自覚はあります。友達にも、環境にも。……もちろん、トレーナーさんにも」
「………………………………」
「だけど、やっぱり思っちゃうんです。もしも私が、レースに出走していなかったら。普通の学生として、あのまま過ごしていたら。何かこうなってほしい、っていう希望があるわけじゃありません。だけど、どうなってたんだろう、って疑問はやっぱりあって」
それは、後悔によって訴えられたものでなかった。語る彼女の横顔を見れば、それはすぐに理解できた。それはきっと、憧れに近い感情かもしれなかった。
何の変哲もない、普遍的で退屈でしかない話だ。
あの時ああしていたら、なんて思い耽るのは。
だから。
「……今更、どうしようもない話なんですよ」
トレーナーは何も答えられなかった
「漫画やドラマも、ぜんぜん追えませんでしたから。友達ともあんまり話が合わなくなっちゃって。ああ、別に居心地悪いとか、そういう話じゃないですよ? でも……あー、もう私はこっち側なんだなー、って。覚悟は決めてたはずなんですけど、どうしても」
「……距離を感じちゃった?」
「そうですねえ。あーあ、恋愛もしたかったなあ。ウチって女子高だから、たぶん他の学校のヒトと、ってなると思うんですけど。憧れちゃいますよね、そういうの。いやまあ、漫画の読みすぎだろ、って言われたらそうかもしれませんけどね?」
言葉の調子はいつものそれと変わらない。むしろ、普段より多く口が回っているまである。だからこそ、トレーナーは耐えられなかった。彼女をここまで、こんな風になるまでに追い詰めたのは、他でもない自分自身だと認めざるを得なかった。
言っても仕方のない言葉だとは、思う。それこそ、どうしようもない、ただ空白を埋めるだけの言葉だ。
だけど。
「ごめんね」
震えたその言葉に、ヒシミラクルはきょとんと。
「え? ……あ、いや、違いますって。別にそんな、トレーナーさんに八つ当たりしてるとかじゃ……」
「でも、君の時間を奪ったのは他でもない俺だ」
「だから大げさですって……」
「大げさじゃないよ。事実だから」
いっそ、八つ当たりでもしてくれればよかった。そしてその衝動を正面から受け止めることだけが、今のトレーナーにできる唯一のことだったから。
だけど、彼女がそんなことをするはずがなかった。彼女と三年間寄り添ってきたトレーナーだからこそ、分かりきったことだった。
沈黙が訪れる。潮騒の音が遠くで鳴り響いている。
「わたしの時間を奪った、って言いましたよね?」
やがて口にした彼女の言葉に、トレーナーが頷く。
「うん。俺が君の青春を奪ったんだ」
「だったら、返してください。私の青春」
「…………………………………………」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「私の青春を奪ったのは、トレーナーさんなんです。だからトレーナーさんが返してください。私の青春」
「……君の言ってることは理解できた。だけど」
「返し方が分からない、ですか?」
「うん」
素直に頷くと、彼女はにんまりと笑って。
「簡単ですよ。私に付き合ってくれればいいんです」
「……そんなことでいいなら、いくらでも」
「あ、言いましたね? 約束ですよ?」
その時点で退路が断たれたのが分かった。それが、トレーナー一人だけではなく、彼女自身も一緒に、ということも含めて。
「じゃあ、そうですねえ……まずは日焼け止めでも塗ってもらいましょう。お願いしますね」
「…………………………」
言葉と共に差し出された日焼け止めを受け取って、トレーナーは無言でそれを掌へ広げ始めた。
今更、特に何か意識することはなかった。元より、マッサージやストレッチで彼女の体に触れるのには、もしかすると彼女には悪いが慣れていることだった。
だが。
「好きな人にこうしてもらうの、憧れだったんです。どこかの漫画で見たときから、ずっと」
「……それ、本当に俺でよかったの?」
「いいんですよ」
結局、その理由は口にしないままだった。
それを青春と呼ぶにはあまりにも歪で。あるいは、ただの悪足掻きでしかないのかもしれない。だけど、今のヒシミラクルはどこか満たされている気がした。
彼女がこの歪さに気づかないフリをしているのは、分かっている。だが、それを口にするのも憚られた。これ以上、彼女の時間を奪うことはしたくないから。
だから、せめてこの歪さに気づくまでは。
「これから、どんどん私に付き合ってくださいね。わたしの青春、一緒に取り戻してくださいよ」
いつも通りの笑顔で、ヒシミラクルが告げる。
トレーナーからの返答はない。
ただ、潮騒の音だけが砂浜に響いていた。
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2023年10月29日に開催されたプリティーステークス32Rで頒布したものです。