意識し始めたのは、あの冬の海。
ずっとずっと、海風にも負けない熱とともに残っている。
何度夜を越えても、何度も走りの先に向かおうと。
彼の声と、それに比例して熱くなる自分の頬と、真っ直ぐな眼差しが、忘れられない。
「トレーナ〜、今日のメニュー終わったよー、……めっずらし、寝てんじゃん」
シニア期1年目、現在宝塚記念に向けてトレーニングの真っ最中。トーセンジョーダンは予め決めていたメニューと、許されている範囲の自主練を終えて、トレセン学園内のトレーナールームに入室した。茜色から紫に変わる空からの光が部屋に差し込み、窓際にある仕事机を照らしている。その机に突っ伏しているのは、自身のトレーナーだ。日焼けした髪が鈍い色を反射し、ぐぐぐ、と伸ばされた腕に埋まる顔からうめき声が聞こえてくる。だいぶヤバそーじゃん、と背負っていたボストンバッグから予め買ってきていた缶コーヒーを取り出しつつ、起こしてあげようかと側に寄った。
「おーいトレーナー。しんせー書類? だっけ? 今日中出すとか言ってなかったけ? だいじょぶなん?」
曖昧な言葉ばかりが並ぶ心配をかけながら、机に缶を置き、正面から眠り続ける彼を見た。腕を枕にして、計算が、計算が合わない、とうわ言を呟く顔立ちは眉間にシワが寄っているが、以前聞いた年齢にしては若く見え、10代後半でも通じるかもしれないレベルだ。書類仕事をしている時にはつけている眼鏡はずれ落ちて、仕事道具のキーボードの上まで落ちていた。まつ毛は普通、目元は隈が目立つが二重、痩せすぎず太すぎずの中肉中背。頬や顎にも変な肉はついていない。パッと見たら、もしかしたらイケメンかもな、と頭の片隅で思う程度のものだ。
そんなありふれた顔から、目が離せない。
気づけば膝を折って、寝顔と同じ高さに目線を合わせていた。両肘を立てて即席の杖を作り顎を支えて、何となくその顔を見続けてしまう。ウマ娘特注の長い耳も彼に向けており、その声や吐息を聞き漏らさぬようにしていた。
「………なんであたし、またこんなことしてんだろ」
そして、ここまでほぼ無自覚にやってしまったことに気づき、らしくもないため息を付いてしまう。
これでもう、何度目だろう。気づけばトレーナーのことを、意味もなく目で追ってしまう。指導を受けている中で、その目や口元に視線が集中してしまう。突拍子もない閃きとトレーニング方法を話されたときにツッコミを入れたとき、触れてしまった胸元や肩の硬さにドキリとした。男性用のネイルをしてあげるとき、楽しそうに輝く目に嬉しくも恥ずかしくなった。いつも大事なときに手を取ってくれることに、胸の高鳴りと安心感を同時に覚えている。
こうやって、彼が不意に眠っていた時には、起きるまでその顔を見続けることも、しばしばあった。
「変な病気かよ……相談するの、なんか恥ずいし……」
このことはまだ、誰にも話せていない。レースのコンディションには影響のないものだし、トレーニングや彼の話を聞く時にはもっと集中するようにしているので問題はない。勉強のときだって、いまは彼に分からないときは教えてもらって、何とか理解できることが楽しい。
けれどなお、その隙間を縫うように、この病気は顔を出す。勉強の時に、ふと彼の目と合い、視線を反らすようにノートに集中することや、走る時に地面の凹凸に意識することなど、日常茶飯事だ。相談するとしても、病気と思われる以上、詳しそうな相手に相談したい。保健室の先生が浮かぶが、それより先に同室のウィニングチケットや親友のゴールドシチーが浮かんだ。
だがいざ相談しようと思うと、急に気恥ずかしくなり、別のことが口から出てしまう。おかげで2人から疑問符を浮かべられたこともあった。
「あたし、ほんっとバカだなぁ。なんでこんな、恥ずいだけなのに……」
聞く相手がいないからか、ついつい自分自身に対しての悪態が溢れてしまう。聞こえているはずのトレーナーはまだ夢の中で、まだ云々うなされている。
「……人が悩んでんのに、すぴすぴ寝やがって。なんかムカつく」
とりゃっと腹いせに頬を突いてみる。男性特有の少し硬い感触と、少し凹む頬。うーん、と息苦しそうになった。それが愉快でプニプニと押し続けてみた。最後に頬ではなく、今にも提灯を作りそうな鼻頭を押した。フゴっ、と動物が鳴くような声が彼の口から漏れて、うめき声が響く。やばっと思わず手を離すが、起きる気配はない。
「もう、脅かさないでっつーの……」
「……ジョーダン……ぜったい……」
「うエッ!? ……って、寝言か」
流石に起きたか身構えたが、どうやらまだ睡眠欲が強いらしい。そのことに少しホッとしつつ、何で安心したんだろ、と自分自身の気持ちに疑問を浮かべそうになった。
「キミが……キミの走りが、一番キレイで、速くて、サイコーだから……だから、俺も……」
「ッ! ……な、なーに小っ恥ずかしい夢みてるっつーの……ばか」
たったそれだけで、胸が高鳴って、尻尾がピンと伸びてしまった。跳ねた心臓はドキドキとなり続け、送り出される血液は顔に集中して、頬の当たりを熱くする。たまらず片手で胸元を抑えるが、それだけで収まることはない。むしろ心音がより強く感じられてしまい逆効果だった。音と一緒に耳と尻尾が忙しなく動き、視線も左右を彷徨ってしまう。
たった一度キレイと言われただけではないか、そういうキャラではないというのは自分が一番分かっているではないか。自分はバカキャラ、最強のバカを目指すバカで、キレイとかそういうのは親友や友達の領分だ。
たまらず、もう一度トレーナーの頬を突いてしまう。それは、誤魔化しだ。だからこそ力加減を誤って、グイッと強くやってしまった。
いてっ、と声がして、彼の目が薄っすらと開いていく。ヤバっ、と考えた時には彼の目が、顔がまだ赤いままの自分を見つけてしまった。
「あれ、ジョーダン……? しまった、寝てたのか」
「そ、そうそう! やっとトレーニング終わったって思って様子見見に来たら爆睡してんだもん! マジウケたわっ! はは、はっ」
「あーそれは確かに、ここ最近遅かったからなぁ……」
失敗失敗と、悪戯が見つかった子供のようにはにかむトレーナーを見て、まだ顔が熱くなった。時々は見てるだろうその顔に、今さら恥ずかしがる要素などどこにもないだろうに。
そんな思考が止まった自分を、目ざといトレーナーは見逃さなかった。
「……ジョーダン? 大丈夫か? 何か、顔が赤いような……」
「そ、そんなことないしっ! ほ、ほほほら今日、眩しいじゃん! 光の反射ってヤツ!? 知らんけどッ!!」
「うーんだけど……少しゴメンな」
何を、と聞く前にトレーナーの手がジョーダンの額に触れた。ちょっ、と抗議を上げようとするが、真剣な顔付きで自分を見る目に、振り上げた手を下ろせなかった。
そして何よりも、男性特有の硬く大きな彼の手が、自分の顔に触れているという事実が、何故か嬉しく、気恥ずかしく、胸の高鳴りがどんどん高くなっていることに、困惑を隠せなかった。本当に自分はどうしてしまったのだ。
「うーん、確かに熱はなさそうだ……と、ごめんごめん。軽率だった」
「……べつに」
ぱっと離れた手が、変に名残惜しく、じっと見つめてしまった。それを抗議と受け取ったのか、困ったような顔をするトレーナーに、不満はあれど、何も言えず、視線を外して立ち上がり、踵を返した。
「とりあえず、今日の分は終わったから帰んね」
「ん、分かった。お疲れ様、また明日な」
笑顔を向けてくれる彼が、今日は直視できない。いつもなら憎まれ口か労いの言葉か、何か言っていた気がするのに、今日はそんな気持ちの余裕がなかった。辛うじて片手を上げて返すのが精一杯で、自分の顔をこれ以上の見せることができなかった。
気持ち逃げるように、トレーナー室を出る。そのまま廊下の先の階段を降りて、ようやく一息付き、冷たい段差に腰を下ろした。
「うー……なんだよこれぇ。何で今日に限って強いんだよぉ……」
膝に髪ごと顔を埋め、強いままの心音が収まるようにと祈る。目は閉じない。そんなことをすれば、先程のトレーナーの顔を思い出して、高鳴りが止まらなくなってしまうだろうから。早く戻れ、戻れと、強く祈る。
それは、彼に知られれば、今度こそ見限られてしまうだろうという、かすかな不安からでもあった。
トーセンジョーダンはまだ、自分の恋に気づくことができないでいた。
ゴルシ「アタシにいい考えがある」
ライス「ゴールドシップさん!!」(無言の機神黒掌
※続きません。誰かジョーダン怪文書書いてください。