今回は八田翠視点
今日も疲れた。
大学を卒業して入社したこの会社だけど、思った以上にハードだった。普段の業務はもちろん、必須になる資格勉強や、三年目になってから始まった預かり産の販売など。最近は先輩社員にもぐちぐち言われることが増えた。元々さほど情熱をもって入った業種というわけでもなくて、だから益々やる気も出ない。毎日与えられた仕事を漫然とこなし、波風立てないように過ごしているだけだ。
思えば、学生時代を振り返っても同じようにしてきた気がする。人と接したり関わったりすることは避け、目立たないように穏便に生きてきた。だから人付き合いも苦手なままだし、普通にしているだけでも「怒っているの」と聞かれることもある。
「はあ……」
そのせいか、喫煙量もすこぶる増えた。
入社してから上司に半ば無理矢理勧められて吸ったのが初めてだったが、私には合っていたのか、ずるずるとハマってしてしまい、今ではたばこが無いと不安になってしまう。依存できるものがあるというのはいい。私みたいな弱い人間は、何かに寄りかからないと生きていけない。
仕事終わりに立ち寄るこの喫煙所は少し好きだ。私のように生気のない顔をした社会人も勿論いるが、学生の街という事もあって若い子が来るから。夏でもこの時間なら昼間よりも涼しく快適だし。溌溂とした様子の彼女らを見ていると、少し気分も明るくなる気がする。男の子がいればもっといいけど、あまり吸っている人がいないのでレアケースだ。
いつものようにふらりと吸い寄せられるように入って行き、喫煙所を求めて陰鬱に歩いている様は何かそう、蜂に宿主にされるゴキブリのようだ。私のような陰気な人間は意思を奪われたゴキブリがよく似合っていると、自嘲気味にため息がこぼれた。
「あれ……点かない……」
運の悪いことに、ライターのオイルが切れてしまっている。
喫煙所では、よくたばコミュニケーションなんて言って火を貸してもらう話はよく聞くけど、当然私はそんなことしたことがない。知らない人に声を掛けるなんてできない。
ここはスペース的にも広いし、人に声を掛けるために近寄っていく暇にも恥ずかしさや恐怖が鎌首をもたげるのだ。しかも奥にいる男の子の周りだけ人口密度が高くて、入り口付近に立っている私からは誰も彼も距離が遠い。
仕方ない。ちょっと歩くが、コンビニまで買いに行こう。
そう思った時だった。
コンビニに行こうと顔を上げた私と、今ちょうど喫煙所に入ってきた大学生と思しき男の子の目が合った。なにが、というわけではないのに、私は目を見開いて彼を見つめていた。
スローモーションのように光景がコマ送りされていく。清潔感のある服装だが、別に何か特別目立っているというわけではない。顔は整っているけれど、テレビから出てきたような絶世の美人というわけではない。包容力のある優しそうな人という、私の理想の男性像というわけでもない。
なのにどうしてだろう。一瞬目が合っただけのこの男の子が、脳裏から離れない。彼の何が特別なのか分からないまま、とくんと跳ねた鼓動に従って、私と同じく入り口付近の壁に寄りかかった彼を見る。
取り出したセブンスターをまじまじと眺め、火を点けようとしているところだった。キンと、ジッポライター独特の小気味いい音が聞こえる。
「あ……」
行かなくちゃ。
なぜかは分からないがそう思った。ここで何もしないでいるのは良くないと、そう思った。幸い、こちらには火が無いという声を掛けるには絶好の理由もある。
「あの」
「な、なんですか?」
びっくりした様子の彼の声音とは裏腹に、その態度や雰囲気には警戒の色が見て取れない。こちらを窺い、胸のあたりで一瞬目線が止まる。なぜかは分からないが、その後もちらちらと胸の方に目線がいっている。
やっぱり美人だと再認識しつつも、あまり女の人に慣れていないのかな、と自分のことを棚に上げて少し嬉しくなってしまう。
「火を、貸していただけませんか……」
「い、いいですよ。どうぞ」
おっかなびっくりという様子で火が差し出されてくる。
え、ど、どうしよう私も言ったはいいけど誰かに火を貸してもらうなんて初めてだ。こういう時ってどうしたらいいんだろう。手に持って火を点けるのはちょっと違うだろうし、やっぱり咥えた状態で火を点けるのかな……?
私はハイライトメンソールを一本取り出して加えると、目を閉じて彼の差し出した火に近づけていった。なんだかキスをしているみたいでドキドキする。緊張してると思われたらどうしよう……。
「……平野君さあ、何やってるの?」
火が点いたと思ったその時、怒った様子の女の子が現れた。
たばこには、その人が差し出したターボライターによって火が点いていた。
「何って……火を貸していただけだが」
びっくりして硬直している私をよそに、男の子が地雷系の服を着た女の子に話しかけている。当たり前だが二人は知り合いだったらしく、女の子が怒っている様子を見るに付き合っていたりするのだろうか? ああ、きっとそうだ。顔がいい男の人なんて大体もう既に恋人がいて、私が付け入る隙なんて無いんだ。いつもそうだ……というにはそういった経験があまりにも足りないけれど、片手で数えるくらいの経験則から言えばいつもそう。
「あ、お姉さんお姉さん」
「えっ、は、はい」
勝手に落ち込んでいる私を呼び込むように男の子が声を掛けてくる。
「連れが来たんで俺行きますね。じゃあ、また」
「えっ、あっ、はい……」
火のついたたばこを胸の前で持ったまま棒立ちしている私に、彼はにこりと微笑むと去って行った。
残された私の持つたばこから、灰がぽとりと落ちる。一口も吸わないで持っていたためか、火種も落ちてしまったようで火が消えた。
「また……」
また、と言った。
確かに言った。
きっとなんでもない別れの一言。本当にまた会いたいと思ったわけではないだろうけど。
でも、何となく彼とはまた会える気がして。
「ふふ……」
ほんの少し前に彼と会ってからというもの、何となくばっかりだ。そう自嘲する。
落ち行く灰とは裏腹に、私の心に何かが灯ったような気がしてならなかった。
☆
今日も頑張った。
少しだけ晴れやかな気分で、最寄りのバス停に降り立った。
あの男の子に会ってから、またどこかで会えるのではないかという確信めいた思いからか、前よりも積極的になった気がする。先輩や上司の言葉に負けないで頑張ってみると、ちょっとだけだけど「変わったな」って思えるし、向こうも何故か少し嬉しそうだしで、最近は仕事も前向きになれた。
それも彼のおかげ……ではあるが、数か月もそんなメルヘンな気持ちで頑張り続けられるかと言われればそうではない。
す、とスマホのフォトアプリを開き、パスワードを入力し秘匿にしているフォルダを開いた。
「……」
今は未だ少ないけれど、これを開けばいつでも彼に会える。
言っておくが、私は別にストーカーなどではない。たまたま彼を見る機会があって、たまたまいい画角だったからこっそり撮っただけだ。勿論ネットに拡散する気などない。そんなもったいないことはしない。これは私が完全個人用に使っているものだ。言うなれば元気の源である。
残業をしてから帰ったため少し遅いこの時間は、バス停から家まで人の気配がないので彼を眺めながら歩けていい。流石に人がいるところで開いたりはしない。
思えば、一目惚れというやつなのだろうか。初対面の時はあまりそんな感じは無かったけれど、そのあと偶然駅の近くで見かけて、「あ、スーツ着てる」って思って体が勝手に写真を撮って以来、その写真を見返すたびに気持ちが大きくなっていった気がする。私の最寄り駅で見かけることが多くて、いつもスーツを着ている彼は、もしかしたら大学生ではなく私と同じく社会人なのかもしれない。
ちょっと前も、先輩に彼の写真を見ているところを見られて、「彼氏?」なんて聞かれ、咄嗟に「そうです」と答えてしまった。罪悪感を感じつつも、その先輩の中では私と彼が付き合っていることが事実化したことに、言い知れない満足感を抱いてしまった。心の中でごめんねと謝りつつも、そうなったらいいなあなんて思う。私もまだ25歳だし、彼とはどれだけ離れていても5歳差だ。5歳差なら、世間的にも許される範疇だろう。これが逆だったらちょっと分からなかったけど。
これまでたばこ以外に何かに熱中したりハマったりすることがなかった私。最近は推しなんて概念が流行っているが、これもその一種なのだろうか?
かつかつと、夜の住宅街に私のヒールの音が響く。数か月前とは違い、その足取りは軽い。夜空を見れば、煌々と月が照っており、何だかいい気分だ。こんな夜は何か特別なことが起こりそうな予感すらする。
「ふふ。なんてね……え?」
そんなことあるわけない、そう自虐めいて笑った時だった。
「……え?」
私の家の前の生垣から男の人の下半身が生えているのを発見した。な、なんで……?
「ぇ、あ、あの……? 大丈夫、ですか?」
おそるおそる、というように抜き足差し足で近寄って行き、少し遠巻きに声を掛ける。流石に死んでいるわけではないと思うが、もし何かしらの事件的なあれだったらめんどくさいな、と思う。
「う、うーん……死ぬぅ……」
あ、よかった酔ってるだけだ。
男性のお尻に向かって話しかけている成人女性という絵面は流石にどうかと思い、生存確認も取れたことだしもう少し近づいて見ることにする。
「大丈夫ですか? 立てま……!?」
回り込んで生垣から生えているこの男の人を確認した私は、思わず持っていたバックを落とした。どさり、という音が他人事のように聞こえてくる。
彼だ。
間違いない。間違えるはずもない。
先ほどまでスマホの中にいた彼が、今ここで生垣から生えている。いや状況が特殊過ぎて頭の処理が追い付かないけど、確かにここにいるのだ。
「……」
火事場のなんとやらというべきか。
酔った人を無下には出来ないという善心も確かにあった。このままだと、色々な意味でちょっと危なそうだったし。
でも彼の腕を肩に回し、部屋に連れていく私の顔には、今まで浮かべたことがないような笑みが浮かんでいた。