映画『アリスとテレスのまぼろし工場』の二次創作です。前半は仙波康成、後半は菊入正宗と佐上睦実の「その後」の物語です。
消えてしまった者達をただのバッドエンドにしたくないあまり、非常に安易な力技になってしまいました。

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【注意】
・オリ要素・捏造だらけですので苦手な方はご注意ください。特に仙波については人生を捏造しすぎなのと、あまりに安直すぎるのですがご容赦ください。扱いがひどいのは自覚しています。
・前半パートは、書いている本人がずっと「ありえんやろ…」とツッコミながら書いていたので、読むほうはなおさら「ありえんやろ…」と感じるのではないかと思います。ただ、話のテーマ上、あえて「ありえんやろ…」を突き詰めることにしました。合わない方にはすみません。
・件の界隈は完全に素人なので間違いがあったらご指摘下さい。1991年の世相・習俗・時代考証も怪しい部分があります。


こたえのかわりに、曲をかける

   【RIGHT DECK】

 

 

 長い夢を見ていた。

 

 とてつもなく長い夢だった気がする。夢の中で何年もの歳月が過ぎたような痺れた感覚が、頭の芯にまだ残っている。

 そもそも、非常に奇妙な設定の夢だった。中学三年まで住んでいた()(ふせ)の町に、俺は閉じ込められていた。俺だけではなく住民全体がそうだった。夢の中の町の外には誰も出ることができず、不思議なことに季節さえも中学三年の冬、つまり一九九一年一月のまま繰り返されていた。そして、夢ではよくあることだけれど、俺を含め、誰もがそのことを知っていて、しかも特に疑問に思うことなく受け入れていた。

 時が止まった世界で、永遠とも思える日常を家族やクラスメイトたちとただ無為に過ごしていたことは、何となく覚えている。どこか現実感のない、退屈な日々。

 夢の最後の光景は、中学の校庭だ。たしか体育の授業でランニング中に、正面からいきなり猛烈な煙に呑み込まれ——そこで、目が覚めた。

 

 五感が俺をゆっくりと〝現実〟に引き戻し始める。最初に刺激されたのは嗅覚だ。パンの焼ける香ばしい匂い。続いて、どこか遠くのほうでスマホの目覚まし音が鳴り続けているのに気づく。このまま夢うつつの境界でまどろんでいたい気分を断ち切り、ようやくここで目を開ける。遮光カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。そうだ、ここは見伏ではない。一人暮らしの俺の家だ。

 スマホをタップして、耳障りな目覚まし音を止めた。画面は午前六時半を示している。いつもの朝だ。

 

 現実の情報量に押し流されて、夢の記憶は急速に薄れていく。だけど、目が覚める直前の感情をなんだか忘れてはならない気がして、俺は必死にそれをたぐり寄せようとする。

 あの時、煙の奔流に襲われる瞬間に感じたのは。

 何かこう、虚無に似た深い絶望だったような気がする。

 けれども、夢まぼろしの世界で、俺はいったい、何に絶望していたのだろう。

 

 どうしても、思い出せない。

 

 

 予約してあったホームベーカリーから漂うパンの匂いが、狭い1Kの部屋に充満している。TVは今日も殺人的な暑さになることを告げている。洗面台で顔を洗い、髭を剃る。鏡に映るのは、くたびれた中年男の情けないハの字眉だ。

 

 

 食パンを囓りながら、見伏とはまた、ずいぶんと昔の夢を見たものだな、と思う。

 一九九一年一月に起こった新見伏製鉄の爆発火災事故は、鉄の街・見伏市の住民の生活、いや人生そのものを一変させた。俺たち、見伏中の生徒とその家族も例外ではなかった。俺たちの父親のほとんどは製鉄所勤務だったから、事故によってかなりの割合が亡くなったり重傷を負ったりした。かつて軍事目標として艦砲射撃を受けて以来の大惨事に、製鉄所もさすがに操業を停止し、確かその年の暮れには完全に閉所となった。生き残った数千人の従業員や協力会社の社員も、配置換えや離職を余儀なくされた。見伏で働けば豊かな暮らしが約束される、そんな時代は終わった。

 俺の父はその日は甲番で朝勤務だったから事故の瞬間には家で寝ていて、直接の被害を免れた。しかし狭い町では、そのことはかえって肩身が狭かった。俺に似て気弱な父は新見伏製鉄にさっさと見切りをつけたのか、山向こうの(もと)(まさ)()に新しい働き口を見つけてきて、俺たち一家は翌月には引っ越すことになった。元柾目の私立高校が特例措置として二次募集をかけてくれ、俺の願書も出願ギリギリでそちらに変更して、何とか合格した。

 卒業を機に、クラスメイトは散り散りになった。家庭の事情で進学を諦めた者や、遠くの街に去った者も多かった。ダベり仲間の(まさ)(むね)の父親は、事故で帰らぬ人となった。いつも放課後に正宗の家に遊びに行くと、文庫本を片手に夜勤に出かけるところによく出くわしたものだった。工場の荒くれ者たちとはちょっと違う内向的な雰囲気の大人で、勝手に親近感を感じていた俺はショックだった。正宗は結局、地元の高校に進んだ。母子ともども、叔父さんが援助してくれることになったのだという。「だけど俺、ほんとは早く都会に出たいんだ」と言っていたのを覚えている。家が電気屋の(ささ)(くら)も、そのまま工業高校に進学したんだったか。(にっ)()は年の離れた兄を頼って、東京に越していった。

 それ以来、見伏に戻ったことはない。

 正宗とは卒業直後も一、二回手紙を交換したが、何しろインターネットも携帯電話もない時代のことだ、互いの高校生活や進学・就職準備が忙しくなるにつれ、やり取りは自然消滅した。

 俺は私大への進学を機に元柾目の実家を出て、数百キロ離れた地方都市に引っ越した。トレンディドラマのような大学生活はそこにはなく、就職氷河期のあおりをまともに受けながらも、何とか滑り込みで地元の小さな精密機械工場に雇ってもらうことができた。規模は違えど、工場というのはどこも似たようなものだ。かつて製鉄所で父がやっていたように、交代制で現場に入り、朝礼と引き継ぎの後、黙々と検査や組立をこなし、夕礼で終わる。その繰り返しだ。人を相手にしなくていいし、肉体的には比較的楽な仕事だけれど、生きている実感は正直ない。実家にもずいぶん帰っていない。両親はもう結婚の話を俺に振らなくなった。

 

 

 作業着に安全帽でアパートの階段を下り、車に乗り込む。作業着で通勤するなという通達は一応あるが、誰も守ってなどいない。どうせ工場内では無塵衣に着替えるのだ。カーラジオも聴かなくなって久しい。二十代半ばまでは洋楽邦楽問わず広く浅く聴いていたものだけれども、今や、どんな曲が流行っているのかも、よく知らない。

 見飽きた田舎の風景が窓の外を流れていく。今週はずっと昼番だから、夕方には定時で上がれる。夜にはイオンで適当に買った惣菜をつつきながらYouTubeとソシャゲのデイリーで終わるのだろう。アパートと工場とイオンの三角形を、意味なくぐるぐると周回するだけ。そんな変わり映えしない一日が、今日も始まろうとしている。

 夢で見た見伏の町は、ふたたび俺の記憶の奥底に沈んでいく。

 

   * * *

 

 そんなふうに惰性で繰り返す日々の中で、一度だけ、心がざわついた出来事があった。

 

「次のニュースです。二〇〇五年八月から行方がわからなくなっていた、見伏市の当時五歳の女の子が、昨晩およそ十年ぶりに、見伏市内で開かれていた見伏盆祭花火大会で発見され、無事保護されました。警察によりますと——」

 その日、つけっぱなしのTVが不意に「見伏」という単語を連呼して、俺は思わず画面を凝視した。十年前の少女の行方不明事件自体、俺には初耳であったが、盆祭で走行させた新見伏製鉄の記念列車の車内で保護されたという、あまりに奇異な顛末に俺の野次馬根性は疼いた。ネットニュースやSNSをほじくり返す。まともなメディアは実名報道を控えていたが、二、三のアングラサイトは十年前の行方不明のポスターを一次ソースに、少女の実名を掲載していた。

 記事に書かれていた固有名詞に、俺はレトルトの容器をひっくり返しそうになった。

 

 少女の姓は、「(きく)(いり)」といった。

 それは正宗の苗字でもあった。

 

 見伏は狭い町だ。菊入なんていう珍しい名前の家はそうそうない。正宗の親族である可能性が高い。もしかすると、正宗の子供かもしれない。少なくとも年齢的には、ありえない話ではない。結婚して子供も生まれていて、しかもその子供がこのような深刻な事件に巻き込まれていた、ということは十分に考えられる。

 といっても、正宗とはもう二十年以上も連絡を取っていない。(あし)(はま)(ちょう)の実家にまだ住んでいるのかどうかもわからないし、固定電話の番号も完全に忘却の彼方だ。それに、いくらめでたいニュースとはいえ、事情を良く知らない分際で渦中の人間に声をかけたりすることは、さすがにためらわれた。

 やがてメディアは興味本位のゴシップ報道に移行していった。胸糞な憶測の中に菊入という固有名詞が聞こえるたびになんだか気分が悪くなり、俺はそれ以上深入りせず情報をシャットアウトした。見伏も正宗も今の俺にとっては遠い過去の思い出でしかなく、それを無責任で下世話な話題で塗り替えられるのは許せなかった。あの頃の俺たちの思い出を、そのまま保存しておきたかった。

 そうして俺は逃げた。見伏から。正宗から。

 

   * * *

 

 月日はさらに流れた。意外と続いた平成も三十年で終わりを告げ、令和の世となった。深刻な感染症が全世界的に流行し、人は生活様式の変更を余儀なくされた。世界情勢が不安定になり、半導体の原材料が不足して、その余波は俺の工場も見逃してはくれなかった。

 工場のラインの一部が止まった。元々テレワークができない職種だから、その間は自宅待機となる。こっそりウーバーイーツを始めた同僚もいたが、工場長に見つかったらと思うと、俺にはそんな勇気は出なかった。ある日とうとう、俺も高熱が出て、嗅覚が数ヶ月間失われた。唯一の楽しみだった食事がただの義務になった。世の中からイベントがなくなり、外出が制限され、街からは人が消えた。

 

 ——前にもどこかで、こんな気持ちを味わったことがある。

 

 その気づきは不意に訪れた。冬のどんよりした曇り空の下、小雪が舞う日の夕方だった。

 

 そうだ。あの夢だ。

 見伏に閉じ込められていた夢だ。

 

 自分でも驚くくらい、夢の中の出来事が具体的に思い出されてきた。俺たちは変化してはならないと言われ、いつの日か町から出られると信じて毎日同じ授業を受け、同じものを食べ、同じラジオを聴いて過ごしていた。暑さや寒さも、味や匂いも、よくわからなかった。一体どれほどの年月をあそこで過ごしていたのだろう。夢とはいえ、よく発狂しなかったと思う。

 そんな永遠の監獄にも、転機が訪れた。最悪の形で。

 ある日一緒に肝試しに出かけたクラスメイトの女子が目の前で文字通り、姿を消した。他にも町の人たちが何人も消えて、大人たちが「この世界は現実ではない」「自分たちはまぼろしで、ここからは永遠に出られない」なんてことを言い出した。今考えると荒唐無稽な話だと思うが、夢の中の俺はそれに打ちのめされた。このまま俺は大人にもなれず、どこにも行けない。なぜか無性に怒りが湧いてきて、気がついたら大声で「嫌だ」と叫んでいた。隣にいた正宗たちはびっくりしていたが、俺はもう我慢できなかった。だけど、大人たちは俺の訴えを軽くいなしただけだった。

 

 夢の終わりのシーン、中学の校庭が自然と思い出される。いつもの鈍色の空だった。真冬なのに大して寒くない空気、校庭を何周しても上がらない息。ぐるぐるぐるぐると、ただトラックを意味なく走り続ける俺たち。ここはまぼろしの町で、俺はただのまぼろしだ。どこにも行けない。何にもなれない。

 ようやく、俺は思い出した。あの時の絶望の正体を。

 

 このまま俺は、DJには一生なれないんだ——。

 

 そこまで思い出して、俺はその記憶に驚愕した。

 待ってくれ。

 

 夢の中で。あのまぼろしのような世界で。

 俺は。

 ——〝DJ〟なんかになりたかったというのか……⁉︎

 

 

 一応、頭では、自分の思考をトレースできている。夢の中の俺は、深夜のAMラジオのDJに明らかに影響されていた。読まれたハガキの内容まで思い出せる。なにしろ夢の中で何千回と聴いたのだから。他に聴くものもなかったのだから。

 

 一方で、現実の俺はというと、中学時代から現在に至るまで、そんな発想を持ったことすらなかった。ラジオはよく聴いていたが、DJなんて、自分の適性からもっとも遠いタイプの職業だとしか思えなかった。当意即妙なトークに深い音楽知識。そういえば夢の中でも正宗が言ってた気がする。人前に出たりする仕事、苦手そうなのに、と。

 

 だけどあの時、どういうわけか、夢の中の俺は思ってしまったんだ。

 DJは、()()()()()()()()()()()()()

 それってなんか、超カッコいいなって。

 

 いや、完全に若気の至りだ。自分が何者かになれると思い込んでいる、中学生特有の()()()的な夢物語だ。馬鹿すぎるだろ、夢の中の俺。

 今の俺はもう、自分が何者かになんてなれやしないのだと、知ってしまっている。

 だけど。

 なぜか俺は、その馬鹿げた考えを一笑に付して捨て去ることが、どうしてもできなかった。今更ストロングゼロで押し流すこともできなかった。

 

 DJになってみたい——あの時、俺が感じた無謀な〝衝動〟は。

 抑えきれない心音は。

 何もかもが紛い物の、夢まぼろしの世界の中で唯一、〝本物〟なのだ、と思えたから。

 現実の俺ですら感じたことのない、生の実感を、俺は確かに感じたのだから。そして、その実感があまりに眩しかったからこそ、絶望もまた深かったのだから。

 

 あの夜、市民ホールの前で正宗に夢を打ち明けたときの、缶コーヒーの大人びた匂い。指にひっかけて回したプルタップの冷たさ。

 あるいはあの体育の授業。最後に一瞬だけ感じた冬の空気と校庭の土埃の匂い。

 何もかもがぼやけていた夢の記憶の中で、それらだけは現実と見まがうほどにありありと思い出せる。

 

 

 ——さすがにここで後先考えずに突っ走るほど、俺は子供ではない。明日からも変わり映えのしない毎日が始まるのだろう。

 しかしDJという酔狂な、けれども真剣な夢を、俺は夢の中の自分の代わりに、きちんと受け止めてやりたいという気がした。

 夢とはいえ、あの世界に閉じ込められた俺たちは、彼らなりに精一杯生きていた。もがき、悩み、焦り、諦め、苛立ち、夢見ていた。同じような閉塞感のもとで生きている俺は、いつしかそれを、他人事とは思えなくなっていた。

 

   * * *

 

 転機は予想外の早さと形で訪れた。先々週に工場に新規配属になった若作りの同僚が、意外にも俺とほぼ同年代であることがわかって、昼休みは昭和・平成の昔話でにわかに盛り上がった。

「え、じゃあ(せん)()さん、もしかしてゾンターク派っすか⁉︎」

 素っ頓狂な声で同僚は俺に漫画週刊誌の話題を振ってくる。中学生だった頃、俺たち四人組もそれぞれ四大漫画週刊誌を回し読みしていた。「週刊少年ゾンターク」を買う係は正宗だったように思う。

「いや……、俺はシュプリンゲンだったんですけど、ゾンタークは友達からいつも借りてて」

「マジすか、あの頃のゾンターク、(あい)()(まなぶ)先生の全盛期だったっすよねえ」

「ですね。『ゲンヤとエネル』とか……」

 王道バトル物のくせにやたらと哲学ネタが入るその漫画を、俺も正宗も結構気に入っていて、単行本も持っていた。歳の離れた平成生まれの後輩はぽかんとしている。

「ああ、それそれ、哲学奥儀エネルゲイア! ってね。懐かしすぎっす。俺、あれ読んで漫画家になろうって思ったんすよ。暇さえあれば絵を描いて、編集部に持ち込みしたり」

「持ち込み⁉︎ それ、すごくないですか」

 俺がまるで持ち合わせていない行動力を、素直にすごいと思った。ふと、正宗のことを思い出した。スケッチブックを持ち歩いてはいつも絵を描いていたな。

「いや、持ち込みって別に誰でもできるんすよ。あの頃ってほら、無意味に自信過剰で何にでもなれる気がするし。ま、こき下ろされて、今はこのザマっすけどね。でも、ゾンターク編集部に作品読んでもらえたの、実はちょっと誇りなんす」

 そう言って同僚はくしゃっと笑った。俺にもこの手の思い出があれば、ちっぽけな自尊心の支えになっていたかもしれない。

「って、そういう仙波さんこそ、将来の夢って何だったんすか」

 話を振られて、瞬間、言葉に詰まる。先日思い出した、DJの夢のことを考えた。でもDJになりたかったのは夢の中の自分だ。現実の俺には夢らしい夢などなかった。小さい頃は将来製鉄所で働くのだろうとぼんやり思ってたし、大学も惰性で進学した。就活は選り好みなんてしている余裕はまったくなかった。

 だけどこの歳ともなると、さすがの俺も多少の処世術は心得ている。「特に何も……」なんて返したところで、盛り下がるだけだ。漫画家を出されたのだから、こっちだってDJを出してもいいかもしれない。話の一興として。

「それが……。あろうことか、ラジオのDJなんかに憧れてて。今でいうパーソナリティってやつですかね? 笑っちゃいますよねDJなんて、ははは」

 意外にも、乾いた笑いを浮かべたのは俺だけで、同僚はしきりにうんうんと頷いている。後輩は「かっけー! 仙波さんならやれますよ!」などと無責任なことを言って目を輝かせている。

「お、いいじゃないすか、DJ。今からでもやってみたら」

 同僚も、こともなげに言う。

 おいおい、冗談で流すはずだったのに。どうして、こうなった。

「はは、やってみたらって……。ありえないですよ、いくらなんでも。芸能人ならともかく、この歳で無経験の素人を、一体どこのラジオ番組が拾ってくれるっていうんです」

 往年のラジオ番組の錚々たるパーソナリティの面々が思い出されて、俺は引きつった笑いを浮かべた。

「何も、ラジオのDJじゃなくたっていいじゃないすか」

「え?」

「仙波さんさ、DJのどこに惹かれたんすか」

「その、なんていうか……こたえのかわりに、曲をかけるっていうか……」

 この歳でこんなことを言うのは、かなり気恥ずかしい。しかし、あいにく他に気の利いた答えも思いつかない。

「だったらクラブやバーのDJだってまさにそれっすよ」

「クラブ⁉︎ それこそ無理ですよ。そんな、若い子が行くような」

 咄嗟に浮かんだのは、かつてディスコと呼ばれていたそれのミラーボールにお立ち台。それからターンテーブルを巧みに操りド派手なパフォーマンスをかます、ストリート系のイケメンたち。どちらもTVドラマの知識でしか知らない。遠い昔に聴いていたR&Bやユーロビートが脳内再生される。

「仙波さん、今どきのクラブってね、中年の溜まり場なんすわ。もろに中高年をターゲットにしてるとこも多いし」

 固定観念が音を立てて崩れていく。確かに、当時朝まで踊っていた世代は今や立派な中高年なのだ。

「セトリも当時のダンスチューンばっかだし、こないだ会ったDJ、五十代で始めたって言ってました。今ってPCやスマホでもできるから、ハードルめっちゃ下がってんすよ」

 ニヤニヤしながら同僚は続ける。「いや、でも俺、人前に出るの苦手で……」と思わず言いそうになってあわてて呑み込む。ラジオのDJになりたいと思ってた奴が言っていい台詞じゃない。とはいえ、苦手なのは事実だ。

 おどおどしているのを見透かされたのか、同僚は先回りしてくる。

「パフォーマンスで目立つとかバトルとか、あれDJのほんの一部だから。バックDJなんか、完全に裏方っすよ」

 人前が苦手であることをすっかり見破られている。

「ウェイ系ばっかだと思ってるっしょ。人見知り、多いんすよ、これが。結局ね、技術とセンスの世界すから。職人。俺らの工場と一緒」

 だめだ、うまく断る理由が見つからない。

「DJバーとかDJラウンジっていう業態もあって、こっちはフロアを沸かすってよりは雰囲気に合わせて選曲してく感じかな。仙波さん向きかもっす」

「ずいぶん……詳しいですね」

 よくぞ聞いてくれた、とばかりに同僚はドヤ顔になった。

「弟がね、兼業で週末DJやってんすよね。そうだ、今週の土曜日、弟の店に来てみてくださいよ。DJバーだから初心者でもダイジョブっす。開店前ならいろいろ話も聞けるし。ちょっとヤツにLINE送っとくんで」

「え、待っ……」

 有無を言わさず約束を取り付けられてしまった。こういう時、毅然とした態度に出られず押し切られてしまうのは、俺の悪い癖だ。

「……っし、連絡しといたっす。場所はここね」とスマホの地図を差し出してくる。

「はあ……」

 いや、いくらDJったって、ラジオのDJとクラブのDJじゃまるっきり別世界だろう、と思ったが、今更言い出せない雰囲気だ。クラブにすら行ったことのない俺が、なぜこんなことに。とはいえ、無下に断るのも気が引ける。俺は形式的に軽く礼を言った。

「ま、機材見るだけでも面白いし、話聞いてみてやっぱ違うわって思ったらもちろん今回限りでいいんで。あ、あとさ、これは大事な話なんだけど」

 同僚は急に真剣な顔つきになった。

「あくまで趣味にとどめて、血迷って本業辞めたりしたらダメっすよ。ソースは弟」

 そりゃそうだろうなと思った。俺みたいな人間がDJなんかを本業にできるわけがない。

 だけど、あくまで趣味、と割り切れば、いつだって辞められる。少し気が楽になった気がした。今週末だけ話を聞けば、浮世の義理も立つだろう。

 

 

 同僚の弟は「ガチのDJ志望者が話を聞きに来る」と聞かされていたらしく、最初からフルスロットルで説明が始まった。だけど、未知の世界の話は予想以上に面白かった。最近はターンテーブルを使わずにスマホアプリで全部こなしてしまう人もいるらしい。開店前の時間を使って機材を触らせてもらった。筋がいいねと褒めてもらえた。かつてマイベストテープを作るとき、アウトロからイントロへのつなぎを試行錯誤したことや、中学の昼休みに生徒からのリクエストテープを流す放送委員会がうらやましかったのを、ふと思い出した。

 開店後のバーの客の年齢層は意外と多彩で、しかもDJが客層や雰囲気を的確に把握して曲を切り替えていくのは刺激的だった。これも「こたえのかわりに曲をかける」行為なのだ、と感じた。

 

 同僚と弟の乗せ方が上手かったのだろう。その後も俺はDJバーに通い続けた。そのことに、俺自身が一番驚いていた。同僚と弟は当然だろうという顔をしていたが。

 クラブDJの世界は確かに、あの頃夢想していたラジオのパーソナリティとは、まるで違っていた。もっとも、ラジオのDJだって現場を見たことがないのだから想像でしかないが、それでもクラブDJは完全に、中学生の自分の想像力の埒外にあった。

 正直言って、最初は戸惑った。キラキラしたフロアは地味で気弱でヘタレな俺とはあまりに対極にあるように見えて、本当にこれが、俺がやりたかったことなのだろうか、と何度も自問した。

 だけど、本質は同じだと気づくのにそう時間は掛からなかった。

 

 そのうち隣の市のDJ講座も受講するようになり、仲間も増えた。意外にも同年代や年上は多く、俺のような一見気弱そうな人間もいて安心した。口下手ほど音楽で何かを語ろうとするのか、テクニックやアレンジがキレッキレだったりするのだ。

 MCが必要ない職人みたいなバーDJは、確かに俺の性に合っていた。スクラッチやエフェクトを多用した華麗なプレイは苦手意識がなかなか抜けなかったが、ロングミックス中心のスタイルはしっくり来る。

 

 一年後には、ようやく感染症も下火になり、かつての日常が戻って来ようとしていた。その頃には、たまに助っ人として同僚の弟の店を手伝ったり、地元の小さなイベントに呼ばれたりするようになっていた。工場で機械の扱いに慣れているからか、アナログもデジタルもすんなり覚えた。とはいえ、さすがに高い機材を揃える余裕はないから、自分の店を持たない出張スタイルが中心になった。そのくらいの距離感でやるのがいいよ、と同僚の弟は身の丈を諭してくれた。もちろん、初心者に毛が生えた程度なのでほぼノーギャラだ。

 だけど、見よう見真似でもいつの間にか、イベントをこなせるようになっている自分がいる。

 この俺が、だ。この俺がDJ。しかも、クラブの。

 それも、夢の中でそう思ったから、というめちゃくちゃな理由で。

 いまだに自分でも信じられないのだから、あの頃の俺が知ったら、きっと絶句するに違いない。

 

 俺は、実感している。

 

 この異常な世界だって、人は()()()()()()()()()のだ、と。

 

   * * *

 

「仙波、お前たしか、見伏出身って言ってたよな」

 その地名を耳にしたのは、実に数年ぶりだったと思う。

 ライブが終わって機材を片付けている俺に声をかけてきたのは、助っ人として呼んでいたDJ仲間だ。小柄で貧相な俺とは大違いのマッチョだけれど、繊細なプレイをする人だ。

「ああ、はい、中三まで見伏でしたけど」

 一度話しただけなのに、よく覚えてるな、と思う。世の中の大抵の人は、見伏に対して火災事故と神隠し事件のイメージしか持っていない。だけど彼は全国の山を歩くのが趣味らしく、一年前に会ったときにも見伏郊外のマイナーな山の名を挙げてきて、俺を驚かせた。

「見伏市の祭でさ、DJ呼ぶんだってよ」

「え?」

「うちにも話が回ってきてんだよね。仙波、行く気ない?」

 聞くと、今年の盆祭の昼の部をフェス形式として企画しているらしく、DJパフォーマンスやインディーズバンドのライブ、ロコドルのミニコンサートなどを予定しているのだという。過疎の町にしてはずいぶん攻めた企画だなと思ったが、何しろ盆祭自体が数年ぶりの開催で、ようやく世間的にもイベントを再開できる風潮になってきて、実行委員会も例年以上に気合が入っているらしかった。折しも、新見伏製鉄の跡地一帯がいよいよ再開発されることになり、取り壊される予定の遺構の一部をステージに見立てるらしい。

 見伏には三十年以上帰っていない。もう知り合いもほとんどいないだろう。

 だけど、製鉄所が取り壊される前の最後の祭であると聞いて、俺は二つ返事でDJを引き受けることにした。

 DJを始めていなかったら再開発のニュースすら知らなかったかもしれない。俺はDJが結んだ縁に感謝した。郷土愛は薄いほうだと思うが、見伏を見伏たらしめていた歴史遺産がなくなるのはやはり残念だと思えた。町のシンボルだった製鉄所がなくなれば、見伏も何の変哲もないどこにでもある地方都市になってしまうのだろう。今の俺の住んでいる町のような、国道沿いのイオンモールと駅前のシャッター街で構成される、個性のない町に。

 見伏の盆祭ってどんな感じだったっけ。確か、見伏神社の沿道に屋台がたくさん出て、花火なんかも上がっていた気がする。なのに、見伏と聞いて思い浮かぶのはなぜか冬の重苦しい曇天ばかりだ。

 

   * * *

 

「まあ、わしらはDJなんてよくわからんのですが、ともかく老若男女が楽しめるような感じでお願いしますわ」

 電話の向こうの実行委員長は懐かしい訛りで言った。

「そうですね、俺も派手なパフォーマンスは苦手ですし、BGMに徹しますよ。……見伏の全盛期を思い出せるような選曲で行きます」

 その言葉が何やら実行委員長に火をつけたらしい。

「おお、おお、ありがたい話ですわ。まさか見伏出身の方とはね。あの頃はほんとに良かった。製鉄所は夜中でも活気があって。高炉も機嫌がころころ変わって、まるで生きてるみたいでねえ。最後の吹止めのときは、もうね、全員で泣き笑いでしたわ——」

 実行委員長もかつては新見伏製鉄で働いていたらしく、見伏製鐵保存会のメンバーでもあるようで、昔話を延々と聞かされた。でも、悪い気はしなかった。こちらも忘れていたような記憶が、ずいぶんと引き出された。確かにあの火災事故の直前が、見伏のピークだったのだろう。製鉄所がなくなり、再び漁業中心の町に戻った見伏がいまだに盆祭を続けられているのは、奇跡のように思えた。

 

   * * *

 

 一両だけの単線からホームに降りると、潮の匂いを真っ先に感じた。見伏の駅は、三十年前からまるで時が止まったかのような佇まいを見せている。(かん)()()(やま)の威容も変わらずそこに在って、圧倒的な存在感で見伏の町を見下ろしている。神の山とはよくも言ったものだ、と小さい時にはわからなかった妙な感慨にしばし耽った。

 駅前は思った以上に閑散としていて、思い出と現実とのギャップに少し驚いた。思い出といっても、現実の記憶なのか夢で見た町の記憶なのか、もはやよくわからない。ただ、夢にしても現実にしても、この町を早く出て広い世界に出てみたいと思っていたことだけは、鮮やかに思い出された。

 ここから製鉄所までは結構距離があるが、駅前にタクシーは一台もいない。幸い、時間はまだたっぷりある。日差しは強いが、運動を兼ねて歩いていくことにした。シャッターの降りた商店街を抜け、中心部の(しお)()(ちょう)を過ぎ、(もも)()(ちょう)のあたりまで上って来る。足が道順を覚えている。この先には中学校があるはずだ。さすがにまだ廃校にはなっていないだろう。

 みんな、どうしているのだろうか。とっくにこの町を離れて、新しい家庭を築いて、幸せに暮らしているだろうか。クラスメイトの実家も近くにいくつかあるはずだけれど、訪ねてみる勇気は俺にはなかった。

 高台のこのあたりからは錆びた高炉がよく見える。高炉周辺の設備は、予想以上に原形を留めているようだ。高炉自体が高温高圧に強かったのかもしれないし、出火元と推定された熱延工場から離れているせいもあるのかもしれなかった。物心ついたときからそこにそびえていた高炉が、今日は煙を吐き出していないことが何だか不思議だった。高炉の姿が消えた後の見伏の風景を、俺はどうしても想像できなかった。

 

   * * *

 

 地元出身のインディーズバンドの初々しい演奏が終わり、まばらな拍手が舞台袖にも聞こえてきた。いよいよ俺の出番だ。いくら場数を踏んでも、人前に出るのはやっぱり苦手だ。足がすくむ。タイムテーブル上はライブとライブの合間をDJがつなぐ形になっており、自分以外にも三人のDJが交代で務める。ベテランのDJが務める夕方以降のステージの、あくまで前座という恰好だ。

 

 暑さのせいだけではない汗をぬぐい、機材の前に立つ。今日に備えて厳選したセトリをもう一度チェックする。よし、と小さくつぶやいてから、愛用のヘッドホンを片耳に当て、震える手をミキサーにかける。

 パイプ椅子を並べただけの観客席を一瞥する。座っているのは明らかに休憩目的の老人や、屋台の戦利品を交換し合う中学生集団などだけで、無名のDJのステージを楽しみにしている者など誰一人いない。どうせ誰も聴いていないのだ。少しだけ気が楽になる。

 

 DJをやるようになってから、DJなんて意味ないよね? と言われることがある。特にド派手なパフォーマンスもせず、ノンストップミックスを流したいだけなら、事前に作ってただ再生すれば良いのでは? と。

 そうかもしれない、と思う。特に昨今のPC機材が主体のDJプレイはそう思われても不思議はない。

 俺の人生と似たようなものだ。何者にもなれず、誰にも注目されず、ただぐるぐると過ぎていく、意味のない毎日。

 新しい家族も築かず、仙波家の遺伝子も残さず、次の世代に何かを託し未来へつなぐこともせずに、ただ生きているだけの日々。

 

 それでも。

 俺はDJに意味はあると思う。その場の雰囲気を察し、お客さんが求めている音楽を流して場を盛り上げるという大事な役割がある。その行為は、唯一無二の〝今〟を作り出す。

 つまり、こたえのかわりに俺たちDJは、曲をかけるのだ。

 それは、ただのトラック再生とは違う。

 たとえ誰も聴いてくれていなかったとしても、俺にとっての〝今〟を作り出すことは、少なくとも俺自身にとっては、意味のある行為だ。

 

 あのまぼろしの世界で。意味のない世界で。

 一度だけ心の底から、何かになりたいと真剣に思ったことがあった。

 一度だけ心の底から、怒りを叫んだことがあった。

 一度だけ心の底から、何もかもに絶望したことがあった。

 あの時の俺の声なき衝動は、俺の心音は。

 間違いなく〝本物〟だった。それだけは断言できる。

 

 だから俺は今から。

 

 こたえのかわりに、曲をかける。

 鬱屈していたあの日の俺たちに、届け。

 

 

 

 

 聴覚から蝉時雨がフェードアウトする。

 ターンテーブルが、ゆっくりと回り始める。

 

 

   【LEFT DECK】

 

 

 (いつ)()を現実に帰してから、どれほどの月日が経ったのだろう、と(きく)(いり)(まさ)(むね)はふと考える。

 

 あの日、(とき)(むね)叔父さんたちが高炉に原料を投入したことで、(しん)()(ろう)は奇跡的に復活した。叔父さんは「これからは神ではなく人の力でこの世界を維持するんだ」なんて技術屋の自負を隠しきれない様子だったけど、でも投入した原料だって結局どこから湧いて来たのかわからないじゃないか、と正宗は思った。増え続けるひび割れに対して神機狼は明らかにかつての勢いを欠いており、製鉄所の営みが焼け石に水、世界が終わるまでの悪あがきにすぎないことは、当の時宗叔父さんも気づいてはいるようだった。

 最近は空だけでなくそこらじゅうにひび割れが恒常的に発生し、そこから現実が常にちらちらと見えるようになってきている。どうも現実は今、二〇二三年であるらしい。世界は一九九九年に滅亡はしなかったようだけれど、つくば万博で見たような未来都市はどこにもなく、見伏の町はびっくりするほど変わっていなかった。というよりむしろ、すっかり寂れているようにすら見えた。

 (あし)(はま)(ちょう)の正宗の家の中にも、いつしか常にひび割れが発生するようになった。現実の菊入家には今では、老いた母が一人で住んでいるだけのようだった。世間の好奇の目に相当晒されたのか、正宗夫婦と娘はどうやらすぐに見伏を離れたのだろう。だが彼らが元気でやっているらしいことは、時折見える母の様子から察せられた。

 

 今日もひび割れの向こうでは、年老いた母が耳に小さな板をかざし、何やら快活におしゃべりしている。髪はすっかり白くなったが、豪快な笑い声は昔からまるで変わっていない。口調から、五実——いや、孫である()()と電話しているようだ。正宗はつい、聞き耳を立ててしまう。

「やめなさいよ、みっともない」

 こんな時、(むつ)()は決まって正宗に冷たい視線を向ける。他人の話を盗み聞きなんかして、ということらしい。現実の部屋の様子をそっと窺うだけでも、睦実はこちらを蔑んだような目で見る。あちこちリフォームされてはいるが、紛れもなく自分たちの家なのだから別にいいじゃないか、と正宗は毎回思うが、どうやら睦実にとってはそうではないらしい。

 

 五実のことが気にならないのかよ、と本人に面と向かっては言えないので(にっ)()に文句を垂れたことがある。新田は「女ってそんなもんだよ。女より男のほうがいつまでも引きずるらしい」なんて訳知り顔で笑った。「そんなわけあるかよ。ドラマだって未練がましいのはたいてい女だろ」と正宗は反論したが、頭のどこかで、新田の言うことは案外正しいのかもしれないな、と時宗叔父さんのことを思い浮かべた。工場の煙が止まったときも諦めなかったし、母さんのこともまだ諦めてないみたいで、何かと理由をつけてはうちにやってくる。どこまでも諦めが悪いのは菊入家の血筋かもしれないな、と思った。

 

 でも、正宗は知っている。睦実が時折、玄関にできたひび割れの奥をじっと見つめていることを。

 現実の菊入家の玄関にはいくつかの額縁が飾られていて、どこかの知らない街の点描や人物スケッチが描かれているのが見えるのだ。左下には決まって、Saki.Kというサインがある。

 それを見ているときの睦実はいつも、少し泣きそうな顔をしている。

 正宗自身も、玄関に絵が増えるたびに、つい見てしまう。そして、どんどん上手くなる、と思う。自分も絵を描くからこそ、それがよくわかる。父さんもこんな気持ちだったのだろうか、と考える。自分がいつか見たいと願っていたいろんなもの、この世界では絶対に手に入らない、心が動かされるような景色を、彼女はしっかりと目に焼き付けてくれている。そのことが、正宗はうらやましくもあるし、また本当にうれしくもあるのだ。

 

   * * *

 

 工場へと続く引込線沿いの県道を、正宗と睦実は連れ立って歩いている。

 五実がいなくなってからは、この道を通ることも滅多になくなってしまった。ここを歩いているとどうしても、五実に食べ物や絵本を持っていった頃のことを思い出してしまう。ただ、(パオ)で行き来していた当時には気づかなかったあれこれ——見伏の春の祭を彩るはずの野花がいつの間にか芽吹いてきていることや、赤電話の脇にいつも三毛猫が寝ていることなど——がわかって、正宗はどこか新鮮な気持ちを感じてもいた。あの頃は俺も睦実も、ちょっと余裕がなかったよな、と正宗は思った。あたりにひび割れが増えるごとに少しだけ春が近づき、TVドラマは少しだけ進展し、昼の時間も少しずつ長くなってきていて、この世界の終わりが近いのかもしれないが、正宗は不思議と怖くなかった。

 今や、ひび割れはこの県道のそこかしこに発生していて、世界はモザイクみたいに見える。そこから否応なしに伝わってくる現実の喧騒は、普段とは明らかに異なっていた。

 今年もまた現実の見伏に、盆祭の時期がやってきたのだ。

 現実はいつもの寂れた様子が嘘のような賑わいで、まだ夜まではずいぶん間があるのに、沿道には祭礼の提灯や幟が立ち並び、人通りも途切れることがない。遠くからは音楽や祭囃子も風に乗って聞こえてくる。

 まぼろし(こちら)側の住民もまた、盆祭のことも、そして新見伏製鉄の跡地が近く再開発されることすらもすっかり把握していて、祭のなくなった世界で少しでも祭気分を味わおうと、辺りをそぞろ歩く者も多かった。ここがまぼろしであることを気に病むような繊細な人間はとっくに神機狼に喰われ、神経の図太い人間だけが残っているのかもしれなかった。

 正宗たちも、野次馬ではある。ただし今年に限っては、現実の製鉄所の見納めという意味合いが強かった。もちろん、まぼろしの世界では製鉄所はなくならない。大勢の従業員が今日も高炉を動かし、世界の終わりを一日でも引き延ばそうとしている。しかし沙希の世界で新見伏製鉄が取り壊されるという事実に、睦実は少なからぬショックを受けていたようだった。沙希が、製鉄所での暮らしを覚えているかどうかは、わからない。だけどせめて、俺たちだけは忘れないようにしよう、と睦実をなだめて連れてきたのだった。

 工場に近づくにつれ、人通りがさらに多くなってきた。ふたつの世界の人混みが重なり合い、混ざり合って、正宗は少し酔いそうになった。

「人、多いな」

「お盆だもの。街を離れた人たちも帰ってきてるんでしょう」

 睦実は当然でしょという顔をして、

「それにお盆って、死者が帰ってくるとも言うし」

 と、冗談なのか本気なのかわからない調子で続けた。

「死者……か」

 むしろ時が止まった自分たちの方が死者なのかもしれない、と正宗は思った。そういえば五実が来た日も去った日も盆祭の日だった。お盆の時期には、何か異界への門のようなものが開くのかもしれない、と正宗は久しぶりに中学生らしいことを考えた。

 

 製鉄所の門のところまでやって来た正宗は、敷地内に佇む見慣れたツーショットに気づいた。新田と(はら)だ。並んでひび割れの中の立て看板か何かを眺めたり、「写ルンです」で互いを撮り合ったりしている。正宗が声をかけようとするのを、睦実はそっと制した。

「邪魔しちゃ悪いよ」

 あの告白から何年経ったのかわからないが、新田と原はもはや熟年の夫婦のような雰囲気を醸し出している。自分と睦実も他人からはそう見えているのかも知れない、と正宗は苦笑した。

 現実の製鉄所の敷地内は、草ぼうぼうだったはずなのにきれいに整地され、屋台からは美味しそうな匂いがまぼろしの世界まで漂ってくる。沢山の家族連れやアベックが談笑しながら、思い思いに祭を楽しんでいる。見伏中の制服を着た男子生徒の集団がふざけ合いながら歩いている。制服が三十年間変わっていないことも驚きだが、一人が歌っていた下品な替え歌が(ささ)(くら)の持ちネタとまったく同じだった。どこか風貌も笹倉に似ている気がした。

 第五高炉の方から風に乗って、現実のバンド演奏の音が聞こえてくる。荒削りな演奏に青臭い歌詞を聞いていると、昔、土曜の深夜にやっていたアマチュアバンドのオーディション番組の記憶が急に呼び覚まされた。

 

 ——(せん)()が好きだった番組だ。

 

 アマチュアバンドが勝ち抜いて前回の勝者と対決するという趣向の生放送で、深夜ラジオの花形DJたちが司会や前説を務めていることも、人気のひとつだった。正宗のクラスでも、感化されてバンドの真似事をするやつらが続出した。

 

 仙波。

 その名前を口の中でそっと発音して、正宗はほろ苦い気持ちになる。

 仙波が実は結構な音楽好きであることに、正宗は気づいていた。

 ——あいつは決して、自分でバンド組んだり、ライブに遠征したり、蘊蓄を垂れ流したりするような奴じゃなかった。音楽野郎特有の鼻持ちならない感じとかは全然なかった。そもそも自分から音楽の話を振ってきたことなんて、ほとんどない。

 だけど、中学入学祝いに買ってもらったヘッドホンをすごく大事にしてて、一人の時には猫背をいっそう丸めてよく曲を聴いていた。新曲が生まれない世界になってしまってからも、過去にエアチェックした曲を様々に組み合わせて、何通りものマイベストテープを作っていた。一度ダビングさせてもらったけど、流行りの曲からマイナーな洋楽までが詰め込まれたテープは絶妙な選曲で、オートリバースのタイミングまで考え抜かれていた。いつもはにかんだような表情で自信なさげにしか話さないから、新田や笹倉は気づいてなかったかもしれないけど、あいつは音楽に関しては、すごいやつなんだ。

 だから仙波からDJになりたいって聞いたとき、驚いたけど、本気で応援したくなった。

 それに、もしほんとに仙波がDJになれるなら、自分だって、いつかイラストレーターになれるかもしれないって気がしたんだ。

 

 だけど、仙波は消えた。

 夢を持ってしまったからこそ、この世界から消えたのだ。その夢がここでは決して叶えられないとわかってしまったから。

 父さんの遺したノートに書いてあった、アリストテレスだか誰かが言ったという言葉を思い出す。

 ——希望とは、目覚めている者が見る夢なのだそうだ。

 目覚めている者とは、現実の人間のことなのだろうか。だとすれば、こちらの世界の人たちは皆、目覚めていないのかもしれない。

 目覚めていない者が見る夢は、希望ではない。俺たちが見る夢は、絶望にしかなれないのかもしれない。

 

 

 妙に感傷的な気分になった正宗の周囲を一陣の風が、夏特有の草いきれと共に通り抜けた。気がつけばアマチュアバンドの演奏はいつの間にか終わっていた。

 現実の蝉時雨だけが、うるさいくらいにあたりを包み込んでいる。

 何だか時間が止まったような気がして、その場に立ち尽くしていると、やがて再び音楽が流れ始めた。

 イントロを耳にした途端、正宗は息を呑んだ。

 その快活なサウンドは、ラジオで正宗が散々聞き飽きたナンバー、『神様が降りてくる夜』だったからだ。

 

 女性歌手の甘ったるい歌声が始まると、ラジオで読まれていたハガキの内容が嫌でも思い出された。正宗はあのハガキの相談内容が嫌いだった。なんだかあのスカしたDJの声まで聴こえてくるような気さえする。だけど、と正宗は仙波の顔を思い浮かべた。むかつくのはハガキだけであって、曲にもDJにも、別に罪はないよな。

 見回すと、こちら側の世界の空気もさっきまでとは明らかに違っていた。いきなり聞き慣れたヒット曲が流れてきたのだから無理もない。小学生が「神様ダンス! 神様ダンス!」と叫びながら踊り始め、母親に「やめなさい!」と叱られている。ふと横を見ると睦実が、どこか愛おしそうなさみしそうな顔つきでその光景を眺めている。

 曲はいつの間にか『神様が降りてくる夜』のサビから、違う曲のAメロに変化していた。曲の切れ目がまったくわからなかったことに正宗は驚いた。今流れているのも、九十年のヒットチャートを賑わした曲だ。人々も口々に、何か小声でささやいたり、合いの手を入れたりしている。

「また知ってる曲。……ふふ、懐メロ特集でもやっているのかしら」

 睦実も、少し可笑しそうに呟く。

 だが、そのとき。

 正宗の耳は、別の音を捉え始めていた。まさか、気のせいだ、と思う。目をつぶって音に集中する。しかし、気のせいではなかった。

 その音は、曲が変わってもずっと流れ続けている。

「仙波……?」

 

「え?」

 怪訝な顔をして睦実は正宗の顔を見る。

「まさか……、仙波……なのか?」

「ちょっと、何言ってるの」

「睦実、聴こえるだろ……? 曲の合間にラジオの音がするんだ。仙波がいつも聴いてた、あのラジオが」

 よく耳をすますと、深夜ラジオのDJがハガキを読む声が切り出され、曲のリズムに同調する形で繰り返し挿入されている。それがサンプリングという音楽技法であることを、正宗はまだ知らない。

《受験つながりで、ラジオネーム、よく寝る子羊さんから——》

《DJ NAOTOさんこんにちは、はいこんにちは——》

《今は逃げ場がない感じ——》

《どこまで行っても暗闇って感じで——》

 同時にひび割れからは次々と一九九〇年のヒット曲が、エンドレスで流れ続けている。

「でも、だからって仙波君だなんて」

 睦実は正宗の言うことがまだ飲み込めていない、という顔をしている。しかし正宗の表情はいつしか確信めいたものに変わっていた。

「いや……、これ、やっぱり仙波だよ。だって、おんなじなんだ」

「え……?」

「曲順がさ……仙波が作ってたテープと——」

 それは確かに、仙波がかつて正宗に貸してくれたカセットテープとまったく同じセットリストだった。仙波がテープを作っていたのは、見伏に閉じ込められた後の話だ。完全に退屈しのぎの産物だ。だからその曲順は、現実の誰も知らないはずなのだ。()()()()()()()()()。偶然にしては出来過ぎな話だった。

「…………」

「あいつ、言ってた。こたえのかわりに曲をかけるって。だから、これは、仙波が——」

 そこから先はもう、声にならなかった。

 肩を震わせ、髪を揺らして嗚咽する正宗の背中をそっとさすりながら、睦実も放心したようにつぶやく。

「本当に、仙波君なの……? だったら、だったら……。もしかしたら……」

 消え入りそうな声で睦実は続ける。ひび割れの奥を見つめるその表情は少し、祈りに似ていた。その表情を、正宗は前にもどこかで見たような気がした。

「ねえ、もしかしたら……、そのべーも……」

 睦実の声は、少しだけ震えていた。

「ああ……」

「他の消えた人たちも……正宗のお父さんも……きっと、どこかで——」

「うん……」

 これが本当に仙波だなんて証拠はない。(その)()だって、どうなったのかはわからない。(とう)(さん)は、そもそも現実では事故で死んでいるはずだ。

 それでも、正宗も睦実も、心に浮かんでしまったその考えを、もう捨て去ることはできなかった。まぼろしだった彼らの思いは、決して消えたわけではなく、未来に、現実に届いたのだと思いたかった。

 ()()()()()()()()()()()に、なれたのだと思いたかった。

《でも、もし高校受かったら、なんて関係ない。私、変わった——》

《だから……お願い、——俺たちに届け……!》

 繰り返されるラジオのDJの台詞は、正宗に焼き付いた記憶と、細部が少し違っている気がした。

 それが元のDJ NAOTOの声なのか、別の誰かの声なのか。

 もはや正宗にはわからなかった。

 

 

   【MIXER】

 

 

 DJブースからは延々と、九十年前後のヒットチャートのコンピレーションが流れ続けている。ノリの良いダンスチューンや爽やかなドライブソングが絶妙なつなぎで次々と繰り出される。

 現実の世界の者は、足を止めて当時の思い出話に花を咲かせる。

 まぼろしの世界の者も、足を止めて流行の最先端に体を揺らす。

 

 今や現実もまぼろしも、区別なく渾然一体となっている。どちらの住人も思い思いに盛り上がり、祭の熱と高揚はひとしく二つの世界を満たしている。やがて遠くから祭囃子の太鼓の低音も響いてきて、サウンドスケープに華を添える。

 それは、〝見伏の一番いい時期〟の、つかの間の再来だった。一四〇年の歴史を誇る新見伏製鉄の、最後の輝きだった。

 

 緊張は、とっくに吹き飛んでいる。

 見伏(フロア)全体が沸いているのを腹の底で〝実感〟しながら、DJ SEMBAは。

 ただ一心に回し続ける。

 

 誰かに届くかどうかはわからない。それでも。

 こたえのかわりに、曲をかける。

 それが、DJの使命なのだ。

 

(了)   

 




【あとがき】
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・「ゾンターク」「ゲンヤとエネル」「愛知学」は映画に出てきましたが「シュプリンゲン」はさすがに創作です。サンデーに対してのジャンプということで。
・バンドの番組は『三宅裕司のいかすバンド天国』を想定しました。司会の三宅裕司さんや前説の岸谷五朗さんは当時のAMラジオ(在京キー局)の平日22時台のDJでもあります。
・映画にも登場する『神様が降りてくる夜』は当時のバラエティ番組『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』で使われており、「神様ダンス」というものが流行ったそうです:https://www.youtube.com/watch?v=blLTSwoF0xw
・地名等は一応原作準拠のつもりです。
・そのべーは完全に力量不足で自分には描けませんでしたが、彼女の想いも報われていてほしいです。

・この「こたえ」は唯一解ではないと思っています。白状しますが、仙波の暗い半生は作劇を優先した二次創作者のエゴです。完全に自分のスキル不足なので、申し訳ないことをしたなと。仙波君、力及ばず、すみません。本当はもっと良い人生送っている世界がどこかにあってほしいと思わずにいられません。

Pixivにも同時投稿しています:
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=20933755

PDF・EPUBダウンロードはこちら:
https://a-out.booth.pm/items/8163242

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