日付が変わってまだ二時間も経っていない寝静まった星下の街を、ガラスペンを握った少女が歩く。深夜の冷えた空に白い吐息が浮かび、そして幻のように消えていく。けれども彼女はエビネの花──ユリの花にも似た凛然さをまとって、石畳の道に小さな靴音を響かせていた。
「今日は何のニュースがあるでしょうか」
家々が立ち並ぶ区画を抜け、街の中央へと出て、こんな夜更けに灯りがついている一軒の建物の前で歩みを止める。看板には立派なゴシック体で彫られた「ロイヤル印刷所」の文字。
彼女は右手のガラスペンを軽快にまわしたあと、それを仕舞った。
「すみません」
ドアを叩くと一人の男が顔を出した。
「嬢ちゃんか、入りな」
彼女はその鈴のような声が木霊しないように小さな声で礼を言うと、男に付き従って建物の中へと入った。
パタンとドアが閉まり、外の世界にはまた星の明かりだけが残された。
廊下を奥へ奥へと進んでゆくと印刷機の重厚なプレス音が聞こえてくる。そして防音のための分厚く堅いドアを開ければ、それは腹の奥底を叩く轟音となる。
二十歳にも満たない労働者たちが整理したうずたかい紙──今日の各新聞社の朝刊──の山々を回って、男はそれぞれから一部ずつ紙束を取り出した。そしてそれを少女へと渡す。
「おら、今日の分だ」
「ありがとうございます」
男の手に硬貨を握らせる。金属が放つ輝きに目を合わせられず彼女は顔を背けた。正しい行いではない。
男は堂々と硬貨をポケットにしまった。
作業を続ける若者たちとは一言も交わさずに彼女と男は部屋を出た。そして今来たばかりの道を建物の入り口まで戻る。
ふと、前を歩く男がつぶやいた。
「配達前に見たいって……あんた、よほど早くニュースを知りたいんだな」
「リークしたりはしていません」
「付き合いも長えんだ、そいつぁ分かってる。ただ理由が気になっただけだ」
彼女が少し黙る。
「『外の世界』に興味があるだけです」
「ふーん」
男は彼女の弁明に猜疑的な相槌を返したが、それ以上は追及してこなかった。
「まあ俺としちゃあ、高く買ってくれてるんでありがてえがな。あんたの金のおかげであいつらにも旨いもん食わせられる」
男が振り返り、その表情が彼女の目に映った。
少女はあの若い作業員たち密かに羨んだ。口下手で厳ついが自分たちを大事にしてくれる上司──その逆がどんなものかを彼女はよく知っていた。
間もなく二人は玄関へと至り、彼女は「それでは、また明日」と男に告げて外へ出た。街にはまだ人の気配がない。パン屋でさえまだ眠っているだろう。
「『興味がある』なんて……下手な言い訳をしてしまいましたね」
嘘、と言うわけでもない。受け取った新聞を開けば灰色の紙面には確かに興味深い記事が散りばめられていて、それを読むのは彼女の好きなことの一つだった。
けれどもそれは朝刊を配達前に読む理由とは違う。
彼女にとって新聞は「読みたい」ものであると同時に「読まなければならない」ものでもあった。
敬愛して止まない、シルクハットの少女の姿が頭に浮かぶ。
「四年前も、始まりは新聞でした」
それ以前は新聞なんて見たこともなかったのに、今では毎日欠かさずに読んでいる。それも、配達がされる前に。
「今日は特段のニュースはないですね」
つまらなく思うと同時に、深く安心する。
彼女は荒く目を通した新聞を再び抱えるとその場で立ち止まり、遥か高くを見上げて、群星の下で白い吐息に小さな声を紛れさせた。
「読んでどうするのかという話ではあります。それは分かっています……ですが私は、私が何も知らないままにあの人に傷を負わせて、『大丈夫』なんて言わせたくはないんです」
告白は宵闇に溶けて広がっていき、無意識に力が入った腕の中で新聞がクシャッと音を立てた。
彼女は視線を前に戻し、来た道を同じように帰っていく。
今はまだ夜。儚い光ばかりの闇と寂寞の時間。
けれどもしばらくすれば朝が訪れる。日が昇り、空が輝き、陽気な声が響いて世界が眠りから覚める。
あの人も、きっと目を覚ましてくれるだろう。