「おーい九郎。これ運んでくれ」
「はい、このプリントですね」
頼んだぞ、というのは俺のクラス担任。
プリントは次の授業で使うやつだ。人数分ある。
時間は十二時五十分。今から運べば間に合う時間だ。
俺は分かりました、と答えてプリントを受け取った。
「いつもありがとな、助かるよ」
「いえ、当然のことですよ」
笑顔で答える俺。上手く笑えているだろうか。
その後特に何事もなく、クラスにプリントを運んだ。
五時間目終了後。
授業も終わったし、トイレにでも行くか。
「なあ田中、頼む、さっきの授業のノート写さしてくれ!」
チャイムが鳴り、先生が教室を出ると一人の生徒が手を顔の前で合わせながら近づいてきた。
彼の名前は栗内。授業中に良く絵を描いたり寝たりしてノートを全く取らない奴だ。
それでもって、授業後に俺にノートを見せてくれとお願いしてくる。
ちゃんと授業受けて書け、と言いたい。
「いいよ。放課後までには返してね」
「サンキュッ、恩に着るぜ」
シュパッと取って自席へと戻って行った。
行動だけはとても速い奴だ。
「ねえ九郎君、さっきの授業で分からないところがあったから少し教えてくれないかな?」
「っあ、うんいいよ。俺の出来る範囲でよければ」
次にやって来たのは、阿古川さん。
彼女はこのクラスの人気者で、狙っている男子は多い。もちろん俺もその中の一人だ。
彼女から話しかけてくれた。俺にとって嬉しいことランキング第一位に君臨する。
「あ、授業始まるね。教えてくれてありがとう」
「そうだね、どういたしまして」
去り際に、また分からないところがあったら教えてね、と囁いてきた。
俺は、今日この日この瞬間の為に生きていたのかもしれない。
そして気付いた。トイレに行けなかったことに。
「はあー」
放課後、学校を出た帰り道。
今日も、沢山引き受けた気がする。
いつからか、頼み事は俺、というよく分からない習慣ができあがっていた。
俺は、事あるごとに先生や友人に頼まれごとをしては、引き受けてしまう。
昔は、単純に人の期待に応えるのが好きだった。
中学の時は、それでうざがられていたので大人しかったが、高校に上がってから頼みごとを引き受けると感謝されることが多かった。
嬉しくなって、引き受けまくった結果、二年生で生徒会長にまでなれた。
中学の俺が聞いたら驚くだろうな。
感謝されるから手伝うのが好き。それは今も変わらないのだが、さすがに頻度が多すぎる。
少しは自分の事に時間を使いたいと思うことがこの頃増えてきた。
だけれど、これまでの期待を裏切ってしまうのでは、という考えにたどり着いて断ることが出来ないでいた。
「……情けないな、俺」
自分で自分が嫌になる。
家に着いた。直ぐにでも布団に入って眠りたい。
こういう時は現実逃避が一番なんだ。
鍵を刺し、回す。
カチャッと音がして、鍵を引き抜く。
ドアを開いて、家の中に入った……はずだった。
「ただいまー……って、は?」
思わず変な声が出た。
だって、目の前に映ったのは棚だったのだから。
棚には様々な物が置いてある。まるで、コンビニの中に入り込んでしまったかのようだった。
「いらっしゃいませ〈お客様〉」
俺が固まっていると、声が聞こえた。
そちらを見ると、レジに人がいた。
三角の帽子を被り、長いであろう紫色の髪の毛を三つ編みにして、糸目で愛想のよさそうなほほえみを浮かべている女性。
「……っ!」
俺は閉じかけたドアを開いて外へ出ようとした。
本能が告げてきた、この人はダメだと。
何がダメなんだ、全く分からない。
今すぐここから逃げなければいけないという事だけは、なぜか分かった。
「あああっと、帰しませんよ」
ドアは抵抗虚しく閉められてしまった。
体重をかけてまでドアを押したのに、押し返されてしまった。
俺はゆっくりと女性の方へと向き直る。
この人は、やばい。
なにがって、あの顔がだ。
何かを隠すように、取り繕っている顔。
普段の、俺と同じだ。いや、それ以上かもしれない。
汗が、止まらない。
ほほを冷たい水が通る。
「そんなに警戒なさらないでください」
傷ついちゃいます。と心にもなさそうなセリフを吐く。
俺は一体、どうなるんだ。
◇
いやはやまさか、逃げられそうになるとは思わなかった。
全くもって予想外だよ。
彼はたまたま見つけた。本当に偶然だった。
学校での様子を少し見ただけで分かった。ボクに似ていると。
感情を隠すという点で、共感が持てた。直接呼んでしまう程に。
「そんなに警戒なさらないでください」
彼も感じ取ったのだろう、ボクと共通する何かを。
だから、即座に店を出ようとした。そうはさせないけどね。
彼の墜ちる瞬間が見たい。
もうボクの〈お客様〉だ。
「お、俺をどうするつもりだ」
「どうするって、ただお悩みを解決しようと思っているだけですよ」
あるのでしょう、お悩み。
と問いかければ、〈お客様〉は押し黙って床を見る。
分かりやすい反応だなあ。
「話したら、帰してくれるのか?」
警戒されているな、少し話したいと思っただけなのに。
「もちろんです」
話をしたら帰すつもりだと伝える。
隠しても分かってしまうだろう、なので本心から。
〈お客様〉も分かったのだろう、少し驚いた顔をしていた。そんなに意外だっただろうか? まあいい。
「俺は……期待から、少しでも解放されたい」
これが俺の悩みだ。と〈お客様〉は言った。
「フフフ」
ボクの思っていた通りだ。思わず笑みが零れる。
ちょうど、とっておきの物がある。それを使おう。
「では、そんな〈お客様〉にとっておきの商品を差し上げます」
ボクはそう言ってレジから出て、ある商品を手に取る。
〈お客様〉の元へと歩き、手に持った物を見せる。
「それは、グミか?」
不思議そうに、怪訝そうに、眉をひそめる〈お客様〉。
その顔は、からかっているのかとでも言いたそうだ。
「フフフ、まあそんな怖い顔をしないでください」
ボクは反応が面白くて、つい笑ってしまった。口元を抑えながら、〈お客様〉に声をかける。
「これは記憶媒体の形を模ったグミです。中には〈お客様〉の求める物が入っていますよ」
種類は豊富です。と伝え、いくつか入れ物を見せる。赤、青、黄、紫、とそれぞれ色が違う。
ボクが〈お客様〉に差し出したのは、オレンジ色の入れ物だった。
〈お客様〉は警戒しながらも、受け取ってくれた。
まじまじと見つめている。
「こ、これを食べると本当に周囲の期待から解放されるのか?」
信じられない。と〈お客様〉は言った。
「先ほど〈お客様〉は見ましたでしょう。ボクが何もしないで扉を閉めたところを」
はっとした表情を浮かべ、考えるしぐさをしている。
最後の一押しとして、ボクは持ち出したグミの入れ物を消して見せた。
指をパチンと鳴らすのと同時に消える入れ物たち。
〈お客様〉は驚愕の表情を浮かべた。
これで信じてくれるだろうか。少なくとも、これまでの〈お客様〉はここまですれば商品を貰ってくれた。
そうすれば、後は記憶をいじって外に放り出すだけなのだが。
果たして、どんな反応をするだろうか。
「……いくらするんだ」
まだ複雑そうな顔をしていたが、どうやら受け取ってくれるようだ。
渋々懐から財布を取り出す〈お客様〉。
「安心してください〈お客様〉。ボク、お代は頂きませんので」
〈お客様〉はまた訳が分からないとでも言いたげな顔をした。口が開いている。
表情がコロコロ変わる、ほんと、面白い〈お客様〉だ。
「……何を企んでいる」
「フフフ、企んでるも何も、ここに来る〈お客様〉は皆、無償で商品を貰って行きますよ」
これは本当です。と付け加えておく。
信じられない、と言いたそうな顔だ。
「本当に、金は払わなくていいのか」
「ええ、もちろんです」
少し考える素振りをしてから、〈お客様〉は入れ物からグミを一つ取り出した。
そして口に入れようとして。
「あ、そうだ〈お客様〉、伝え忘れていました」
「っは! 忘れんなよっ」
手に持ったグミを口から勢い良く離して、肩で息をしながら怒鳴ってきた。
仕方ないじゃないか、本当に忘れてたんだから。
「……てへっ」
下をペロッと出して、拳で頭をコツンと軽く叩く。
こんな反応したのは、初めてかもしれない。
「お前それで許されると思うなよ」
この人間、調子が狂いそうだ。
こほん、と一拍置いてから続ける。
「このグミは全部で十個入っています。一日一つ。十日間、毎日欠かさず食べてください」
ボクの説明を黙って聞く〈お客様〉。以上です、と言って話を終えると、右手を挙げながら質問を投げかけて来た。
「もし、仮にだが、一日に二つ食べたり、食べるのを怠った場合はどうなるんだ」
質問を聞いて、その場合の展開を想像した時、ボクは思わず笑みを浮かべてしまった。
フフフと高揚した声が、ボクの口から漏れ出た。
〈お客様〉はギョッとした顔をしている。
「フ、フフ……ああ、すみません。想像してしまって思わず笑みが零れてしまいました」
「なんだ、そんな面白い展開になるのか。例えば、頭が馬鹿になるとかか?」
鼻水垂らしながら笑顔で走り回る子供の姿が想像できた。
確かにそれも面白いが、残念ながら違う。
それよりも最高に面白い事さ。
もし、〈お客様〉が言ったことをした場合。その先に待つものは。
「……死です」
淡々と、簡潔に分かりやすく。その一言を、告げる。
〈お客様〉の顔を見ると、警戒の解けた笑みのまま、固まっていた。
その表情は少しづつ、無表情へ変化する。
「おいおい、冗談だよな……」
「いえ、本気ですよ」
物には何事もリスクが付き物。
この商品も、何ら変わりはない。
「少しリスクは大きいですが、十日食べ続ければ良いだけですよ」
そうすれば、〈お客様〉の望む。期待から解放されたいという願いは、叶うのだから。
それとも……
「〈お客様〉の願いは、死を掛けるのに値しない……と言う事でしょうか?」
確かに、それだったら食べる必要はない。
「それでしたら、〈お客様〉にこの商品は必要ないですね」
ボクは、〈お客様〉の手にある入れ物を掴んだ。
〈お客様〉は入れ物を掴んだボクの腕を掴んだ。
「……おやぁ? この反応はつまり、食べるってことですか」
「少し黙ってくれ、今考えてる」
からかう様に聞けば、静かな声で一言返ってきた。
瞳は入れ物と手に持つグミを交互に見ている。
おお、怖い怖い。雰囲気が変わった。
これは、良い反応だ。
時間はかかったが、上手く行きそうだ。
結果として、〈お客様〉は食べた。
「ご利用、ありがとうございます」
そしてボクは、〈お客様〉に手の平を向けて──
◇
「あんた、玄関で何してるの」
母さんの声ではっとした俺は、周囲を見回した。
店員は、居なかった。それどころか、店の中に居たはずなのに、ここは俺の家、玄関だった。
家の中を見ると、母さんが顔を覗かせてこちらを見ている。
「あ、ああごめん。ぼーっとしてた」
俺はただいま、と言ってから二階の自室へと向かう。
部屋に入ってからカバンの中を確認した。
中には、店員から貰ったオレンジ色の入れ物が入っていた。チャックを開け、中身を確認するとグミが入っていた。数は九つ。
「……さっきまでのは現実、なのか」
確かに覚えている。店での一連のやり取り。
店員と何を話したのか、どんな表情をしていたか、店の雰囲気に至るまで。
「……現実か」
でないと、買った覚えのない記憶媒体の形をしたグミがカバンの中に入っている訳がない。それに、このグミはあの店で、店員から貰ったものに違いない。
数も店員が言っていた分ある。
十個入りのグミ、俺は一つ食べた。だから残りは……九つ。
そして、一日でも食べるのを怠れば、待っているのは……
「いや、考えるのはやめよう」
今日はもう疲れた。
何も考えたくない俺は、布団に倒れた。
そして、翌日。
「一日一つ、だもんな」
俺は家を出る前に、グミを一つ食べた。
このグミを食べることで、俺は本当に周りの期待から少しでも解放されるのだろうか。
変化は特に感じてない。
何が本当で、何が嘘なのか、分からない。
もう一つ食べてしまったのだから、後には戻れない。
もし、店員の話が本当だったのなら、食べなきゃ俺は死ぬ。
死ぬのは嫌だ。だから、俺は食べた。
味は……少し硬くてフルーツのような、リンゴを飴でコーティングしたかのような。
とにかく、よく分からなかった。
学校で食べるか考えようとも思ったが、恐らくいつも通りの、頼まれごとを沢山されてそれどころじゃなくなるという考えに行きついたのでやめた。
「行ってきます」
行ってらっしゃい、という見送りの言葉を背に受け、俺は学校へ向かった。
「田中、登校早々悪いが、これ職員室まで運んでくれないか?」
学校に着いて、廊下を歩いて教室へと向かう途中。
他のクラスの先生に出会った。
……なぜ、俺なのだろうか。そもそも教室違うじゃん。俺の周りには話している先生のクラスの生徒もいる。なのに俺に頼むということは、俺に言えば確実に運んでくれると思っているからだろう。
──面倒くさいな。
「た、田中?」
先生の声で、はっと我に返る。
……俺、今なんて思った?
「あ、すみません。ボーっとしてました」
「なんか元気なさそうだけど、大丈夫か」
「はい、大丈夫です」
一刻も早くここを離れたくなった俺は、これ運べば良いんですね、任せてください。と話を無理やり変えて先生からダンボールを受け取る。
「教室でいいですか?」
「あ、いや職員室に頼む」
先生の机に頼むな、と言い。先生は歩いて行った。
俺も職員室へと向かうことにした。
……さっきのは一体何だったのか。原因は何となく分かっていたが、今は考えたくなかった。
翌日。
「今日も、食べなきゃだもんな」
結局、昨日登校時の先生との会話以降、不審に思う出来事はなかったし、起こらなかった。
あの変な店員に出会ったことがストレスになって、変な思考回路に陥ったのかもしれない。そうに違いない。
現に、その後は何ともなかったのだから。
今の俺は、あの店員に上手く遊ばれている状態なのだろう。
どうして家に帰ったら店に入っていたのか、気付いたら家にいたのか、分からない。
グミを持っていた。それだけで、店の出来事は夢ではなく、現実なのだということは確かだ。
それにしても、このグミ。悪くない味だ。
昨日は気味が悪すぎて、食べるのも嫌だったが、今日はすんなりと食べられそうだ。
「味は、昨日と変わんないな。ま、それもそうか」
それじゃあ、学校に行くか。
その日は一日、特に変なことは無かった。
いつものように先生に頼まれ事を引き受け、友人にノートを見せ、あっという間に放課後になった。
帰りはいつも一人だ。家に帰る。
「ただいま」
「あ、九郎ちょうどいい所に、買い物行こうと思ってたんだけど、代わりに行ってきてくれない?」
えー、お使いとか疲れててそれどころじゃない。さっさと部屋の布団に入って休みたい。
そうだ、もう一人の自分に……って、そんなの居るわけないだろう。何を考えているんだ俺は……
「分かった、何買ってくれば良い?」
母さんに頼まれたお使いを済ませ、ご飯を食べたり風呂に入ったりと、後は寝るだけになったので、俺はやっと布団に倒れこむことが出来た。
「はあー疲れたー」
起きているのが面倒くさい。もう眠ろう。
瞳を閉じ、夢の世界へ意識は沈んで行く……
異変を感じたのは、それから五日後。
職員室前にて。
「田中、これ教室まで運んでもらってもいいか?」
「あ、すみません。今忙しいので今度にして貰っても良いですかね」
「え、今度っていうか、今運ぶ物なんだが……」
「あ、じゃあ他の人に頼んでください」
それじゃあ、と言って先生の声を無視し、俺は教室へと向かう。
教室へと向かう前にトイレに行きたいと思い、寄る。
そして──
「──え、俺さっきなんて言った」
俺はさっき職員室の前で、先生に次の授業で使うプリントを運んで欲しいと頼まれた。だってのに、なんて言った。断った……のか?
嘘だろ……今忙しいなんて、何もすることなかったじゃんか。
現にこうして、トイレに寄っている暇がある。それに時間もまだあるぞ。
「無意識に、そんな……」
ふと、グミの事を思い出した。
店員に貰ってから毎日食べ続け、特に変化も感じなかったので問題ないのだろうと思っていた。
「期待から、解放……」
店の中で俺は、店員にそう言ったはずだ。無意識にって事は、意識の中で変化が起きているってことなのか?
どちらにしろ、分からない。
ただ、先生に頼まれた時。
──面倒くさい。そんなことしたくない。
と思っていた。
これが、俺の求める事なのだろうか。少し、いや、だいぶ。かけ離れている気がする。
翌日の朝。
俺は、店員の言うことを聞かないことにした。
だって、このグミを食べた先にある俺は、望む姿じゃないから。
朝食べず、学校でも食べず、家に帰ってからも。
そして、そろそろ寝ようと思い、部屋に入った時。
そこに彼女はいた。
「困りますよ……〈お客様〉」
店員だった。夢とさえ思い込もうとしていた者が、今目の前にいる。
声を聞いた途端、身体中に悪寒が走った。
寒い、彼女の存在が、この部屋の気温を下げているかのようだ。
俺は何も言えなかった。正確には、口が開かないのだ。恐怖によって。
ベッドに腰を下ろしている店員は、ため息を一つ。俺にも聞こえる位の大きさでした。
「〈お客様〉なら、約束を守ってくださると思いました。ですが──」
──ボクの淡い期待だったようです。
そう言って店員は立ち上がると、俺の机へと歩いて行く。
この間も、動くことが出来なかった。いや、視線だけは動かせた。まるで、自分を見ろ。とでも言われているかのようだった。
「……人間はやはり、身勝手ですね」
店員は一つ、ある物を持って、俺の方に向き直した。
その手に握られているのは、あのグミ。記憶媒体の形をした。
「これをどうするつもりかって、決まっていますでしょ」
コツ、コツと足音をゆっくり立てながら、店員は近づいてくる。
俺の意識は、そこで途絶えた。
……気が付くと暖かくて、ふわふわした場所に、俺は居た。
「ここは、どこなんだ」
あたりを見回すも、淡い光の様な空間が広がっているだけで、他には何もない。
と思ったのだが、よく目を凝らすと、奥の方に黒い点のような物があった。
それは少しずつ、大きくなる。
大きく、大きく。そして気付いた。
大きくなっているんじゃないと。黒い点は、こちらにゆっくり、ゆっくりと近づいてきていることに。
恐怖に襲われた。全身を蝕むような、何かが内側から身体を包もうと、這いずり回る感覚に。
どれくらいの時間が経っただろうか、這いずられる感覚が消えた。
ホッと安心して前を見る。
「……せ」
目の前、互いの息が当たるかと思われる距離。
女性だった。死んでいる、と言われたら信じてしまいそうな程青白い顔。
瞳は真っ黒で、もしかしたら入ってないのかもしれない。
「よ……せ」
何かを呟いている。この近さなのに、何を言っているのか分からない。
耳元に意識を集中してみる。そうすれば、何か聞こえるかもしれないと思ったから。
何もしないよりはマシだろう。
今こうなっている原因を少しでも──
俺が、意識を少し目の前の女性から反らした直後。
「よこせ、その身体をよこせ‼」
「うわぁっ!」
ドスン、と音を立てて何かから落ちた。
いったい、あの店員といい、さっきの夢みたいなのといい、なんなんだこれは。
「どうなってんだよ……」
何も分からない。俺は、なんでこんな目に合っているんだ。
とにかく、もう朝だろうか。
起き上がろうと思い顔を上げ、俺は絶句した。
教室だった。学校の。
クラスの全員がこちらを見ている。先生ですらも。
「お、おい田中、お前今日おかしいぞ。早退した方がいいんじゃないか」
額から汗が止まらない。
現状を整理する為、先生の言う通り早退することにした。
いや、それはただの建前に過ぎない。
俺は、授業がめんどくさいと思って、早退したのだ。
家に帰り、母さんに体調を心配され、部屋で寝ると伝える。
部屋に入り、カバンを床に投げる様に置いた。
そして、机に目をやると。あの入れ物が置いてあった。
「こいつのせいで……」
入れ物を上から押しつぶすように殴った。
感触に違和感があった。
昨日の時点で、入れ物に凹凸が二つあったはずだ。
中を確認する。グミは一つしかなかった。
「昨日……あの店員に食わされたって事か」
そんなに食わせたいなら……
俺は家を出て、近くの川へと向かった。
そして、川の中にグミを入れ物事捨てた。
これでもう、無理やり食べさせようとしても無理だろう。
「あの店員の反応が楽しみだ」
食べなきゃ死ぬ? どうせ、ハッタリだろ。
家に帰ろうと後ろを振り向く。
「……これは、霧?」
川から家へと帰る道に、白い霧が立ち込めていた。
珍しいな、こんな時間帯に霧が出てくるなんて、特に気にする必要はないだろう。
家へと歩みを進める。
家にはたどり着けなかった。代わりに──
「ここは、まさかあの時の、店なのか」
以前入った時、外からではなく直接店内だった。
外を見ていなかったから分からなかったけど、霧に覆われていたのか。
つまり、俺は店員に呼ばれたという事だろうか。
「俺に、逃げ場は無いって事か」
なら、正面から打ち破るまでだ。
気を引き締め、ドアを勢い良く開けた。
その刹那、中から冬と勘違いしそうな程の冷気が流れてきた。
「う、冷たい……」
「ああ、いらっしゃい」
ツララを背中に当てられたかのような、そんな感覚に襲われる。
とても冷たい声だった。
◇
まさか、そこまでする人だとは思わなかった。
少しボクに似ているかもしれないと、期待を持った自分がバカだった。
もう……容赦はしない。
はあ、ここまで落ち着かなくなったのは何時ぶりだろうか。
……覚えてないし、思い出す気もない。
「〈お客様〉、商品を粗末に扱ったな?」
まさか川に捨てるとは、想定外だ。
〈お客様〉は答えない。ただただ震えるだけだ。
ああそうか、感情が抑えられなくて魔力が暴れてるから、当てられたか。
こういうのは良くない。
これまでの苦労をダメにする気か。
深呼吸をしよう。
息を吸って、吐く。吸って、吐く。
「……よし」
店内に吹き荒れる自分の魔力が落ち着いた。
感情を制御できる状態になったということだ。
「これは、失礼しました〈お客様〉」
あくまで何もなかったと装い、声をかける。
〈お客様〉は、扉の前で固まっていて動かない。
声が聞こえなかったのだろうか。
「さあ、〈お客様〉。どうぞこちらへ」
ボクが左手を伸ばすと、黙りながらも店の中に入って来た。
「……お前はいったい、何者なんだ」
ボクは微笑みを浮かべて、親切そうに答える。
「何を言っているのですか。ボクはただの店員ですよ」
ボクは少々お待ちください、と言い。レジ裏へと行く。
さて、どこにあるかな……見つけた。
指をパチン、と鳴らす。目的の物を呼び寄せる。
「お待たせしました」
レジ裏から再び、〈お客様〉の元へ向かう。
ボクの手に持つ入れ物を見て、顔を青ざめていた。
目を見開き、汗がほほを伝っている。
「お、お前それ、どっから……」
フルフルと震える指をボクに向けて、聞いてきた。
確かに捨てたはずなのに、と小さく言うのが聞こえた。
自分に言い聞かせ、目の前の事実から目を背ける。
嫌なことから逃げる。誰もが同じ反応をしてきたが、今日ほど見るに堪えないと思った日は無いだろう。
いつもはおろかと思いつつ、どこか楽しんでいる自分がいる。だが今日は違う、絶望とかどうだっていい。この人間は許さない。
ボクと共通しそうな点を持っている人間が、大切な商品を粗末に扱った。
それだけで、理由は十分だ。
それに、〈お客様〉はもう〈お客様〉じゃなくなるのだし、最期くらい、思いっきり送ってあげようじゃないか。
「〈お客様〉はしてはいけないことをしてしまいました。これはこの店の禁忌です」
貴方には、とびっきりの最期を差し上げます。
◇
──ここは、どこだ。
気が付くと、見知らぬ場所にいた。
いや、知ってる。なんでだ、どこで見た、いつ来た。
「……夢の場所」
学校で見た、夢の空間と同じだった。
淡い色に包まれた、暖かくてふわふわとした所。
そして奥の方に、黒い点が。
「嫌だ、あれはもう会っちゃいけない気がする」
俺の想いとは反対に、点はどんどん大きくなっていく。
この前より、速度が速い。
大きくなり、近づいてくる。
そして──
「身体を、よこせ」
黒い何かは、言った。
以前ほど近くない。
一メートル程離れている。
口は動いていなかった。頭の中に、直接ハッキリと告げてきた。
これは夢だ、少し耐えればまた目が覚めて。
「フフフ、夢なんかじゃありませんよ」
〈お客様〉、と店員の声が聞こえた。
隣に居た。気が付かなかった。
いつから、いったいいつからからそこに居た。
「……最初からですよ。〈お客様〉に目を付けた、その瞬間から」
だめだ、逃げられない。
なんで、俺が何をしたっていうんだ。何もしてないじゃないか。
こんなの、望んでないのに。
「望んだじゃないですか、期待から解放されたいって」
店員は、さも当然だという様に、ぽつりと呟いた。
俺と謎の女性の間に入り、店員と目が合う。
「だからボクは叶えることにしました、この記憶媒体型グミの中には、人間だったものが詰め込まれています」
凝縮するの、結構大変だったんですよ?
笑顔で店員は言う。
言っている意味が分からない。
つまりなんだ、俺は人を食っていたのか?
「厳密には違いますが、まあそうですね。魂の塊、とでも言いましょうか」
じゃあ、目の前にいる女性は、俺が食ったグミの素……
店員が顔の前で拍手をした。
「そうですよ、物分かりが速くて助かります。あれこれ説明する必要が一気に省けました」
笑顔が、とても不気味だった。
俺は、これからどうなるんだ。
恐る恐る、聞いてみる。実際は喋れていないので、念じるが正しいのだろうか。
「どうなるって、〈お客様〉は死ぬんですよ」
だってそうでしょう? その道を選んだんですから。
は、し、え、死ぬのか……なんで?
意味が分からなかった。だって俺、死ぬようなこと何もしてないんだぞ。
「しましたよ」
ぴしゃりとした言い方に、混乱する意識を掴み取られたかのような感覚に陥った。
急に頭の中がクリアになった。
何をしたんだ? 疑問だけが、頭の中に残った。
「グミ、捨てちゃったじゃないですか。言いましたよね、守らなかった場合。その先に待つのは死だと」
……え、でも、あれは俺を騙すための嘘なんじゃ。
店員の口角が上がった。
糸目がすっと開かれる。
黒かった。光など、希望など無いと体現しているかのような、闇だった。
「誰が、嘘だと言ったのですか。ボクは言った覚え無いですが」
じゃ、じゃあつまり、全部食べていれば、俺は助かったのか?
店員は頷く。
だ、だったら、今すぐ食べなきゃ。
頼む、最後の一つを俺にくれ!
俺は動きそうにない身体を動かそうともがく。
「……何寝ぼけたこと言っているんですか?」
その一言に、俺の思考回路は停止した。
な、なんで、最後の一つ持ってたじゃないか。何でくれないんだよ!
心の中で叫ぶ。店員は普段の糸目に戻り、つまらなさそうに聞いていた。
「〈お客様〉……いえ、貴方──」
──あの商品、捨てましたよね。
ああ、捨てた、捨てたよ! でも、あんたが持ってたじゃないか、だから食べられるだろ?
俺の事、助けてくれよ。
「あなたが捨てたのをボクが拾いました。商品はもう、貴方のじゃなくなりました」
最後まで食べられるように、手助けしてあげたのに……
残念ですと、店員は言う。
手に握るグミを見せて来る。
俺が動けないことを知ってるからか、煽るように目の前で近づけたり遠ざけたりしてくる。
「あ、最期に一つ、良いことを教えて差し上げます」
な、なんだ、もしかしてそのグミくれるのか?
俺は、一瞬の希望に瞳が輝いたに違いない。
「そんな嬉しそうな顔をされますと、ボクも嬉しくなっちゃいますね」
店員がにっこりと笑う。
良かった、俺死なないんだ。これからも生きれるんだ。
「食べても食べなくても、貴方は死にます」
笑顔で告げられた言葉を、理解出来なかった。
は、どっちを取っても死ぬ?
店員の言葉を復唱する。
「はい、貴方は死にます。正確には魂が、ですけれどね」
店員と俺の温度差は、氷と熱湯だろうか、それほどに差があったと思う。
「ボクの後ろに居るのが、グミの正体じゃないですか。全部食べるとその人の身体を完全に乗っ取ることが出来るようになるんです」
一番最初に話したルールを破ると両方死んじゃうんですけどね。
じゃあ、俺はもう、死以外の選択肢は無いって事か……
「その通りです、お望み通り、最後の一つをどうぞ」
嫌だ、死にたくない、死にたく……
◇
「ふう、少々ムキになりすぎました」
人の精神世界に入るのは、何度やっても疲れるな。
だいぶ力を消耗してしまった。
後でゆっくり休憩するとして、先にこっちだ。
「おはようございます、調子の方はいかがですか。九郎さん。いえ──」
──今はクルミさん……でしたっけ?
いつぞやかの〈お客様〉の魂。
それが今、今回の〈お客様〉だった人の身体に入っている。
何とも奇妙な光景だ。
彼……いや彼女は、両手を閉じたり開いたりしている。腕を回したりほほをつねったりと、何かを確認するように。
「正直言って、最悪よ。私はもう死んだと思ってたのに、気付いたらこんな知らない男の身体に入っているんだもの」
それに、と言って彼女はボクを見る。
その瞳には、憎悪が滲み出ていた。
ああ、良い瞳だ。今の状態だったら、絶望で得られるものはどれくらいになるのだろうか。気になるけど、この人はもうボクの〈お客様〉にはならない。
「あんたには、たっぷりとお礼しないとねぇ!」
商品棚に置いてあったペンを取り、芯を出してボクに投擲する。
ボクの眉間を狙った一撃は、果たして届くことは無かった。
距離は十センチ。それだけ残して、ペンは止まった。
「残念ながら、貴方程度の実力じゃ、ボクは殺せませんよ?」
フフフ、悔しそうな顔してる。
ボクよりも、復讐する相手がいると思うんだけどな。
「もう一人の自分……あ、今は本物の身体を持った偽物でしたね。あっちに行かなくて良いのですか?」
今となっちゃ、この人も偽物の身体を持った本物、ですものね。
いやはや、人生何があるか分かりませんねぇ。
しばらくは、この人の生活を覗くだけでも満たされそうです。
「先に偽物を、その次はあんたよ」
覚えておきなさい、と言って彼女は店を出て行った。
……もちろん扉の出口は彼女が宿っている身体の家だ。
その後、彼女がどうなったかは知らない。もうここへはたどり着けないだろうし、会うこともないだろう。
〈お客様〉と接する際のポイントとしては、嘘と真実を混ぜる事ですかね。
さて、次の〈お客様〉への接客準備を始めましょうか。
次に誰が来るのか、それはもう──決まっていますから。
店員「九郎くんはどこへ行ったのか? ですか、
フフフ、それは企業秘密です」