私は正義実現委員会所属の生徒だ。名前はまぁ、無いようなもの。 作:みょん!
退院の日はすぐにやってきた。
それはそうだ。体の方が治ったのなら、入院しておく必要性はまったくもってないのだから。体が元気な人を入院したままにしていられるほど、この病院は暇じゃない。
――心の方であれば、それはまた、別の方だし。
「お世話に、なりました」
「あまり、無理しないでくださいね。体調に違和感があれば、いつでも相談してください」
「はい、ありがとうございました。――――――ッ!」
見送りをしてくれたセリナさんに礼をして、振り返って。
「――――――、なん……で…………」
なぜか、そこに。
イチカ先輩が、立っていた。
「なんでって、大事な妹が退院するんだったら、お出迎えするのが礼儀ってもんじゃないすか?」
誰にも会わないようにと、今は朝の六時。そして学校の誰にも退院予定日は話していない。クラスメイトにも、もちろんイチカ先輩にも。
一体、どこから漏れたんだろう。
いやそれは問題じゃない。今はまだ、イチカ先輩に会える心の準備はできていない。イチカ先輩に――どんな顔をして会えばいいのか、まだ分かんない。
「…………ッ!」
背負っていたEM-2(愛銃)も、着替え一式が入った鞄も、全てを放り投げて、私は建物の中へと逃げた。
ほんの少しのラグがあって、背後から「ミコちゃん!」と私を呼ぶ声がした。それから足音が聞こえ始める。それと同時に「病院内では走らないで――」とセリナさんの声が聞こえる。
どちらの声も聞かなかったことにして、私は病院の中を逃げた。朝早いこともあって、人はほとんどいない。今はただ、イチカ先輩から逃げられれば、それでいい。
「はっ、……はっ…………はっ……」
走って、ほんの数分で、息が切れてくる。頭の中で『そりゃ何週間も寝てたんだから当然でしょ』と囁く声がする。うるさい。だまれ。私は逃げたいの。イチカ先輩に、こんな姿、見せられないんだから!
気持ちはそう思っていても、体は次第に思うように動かなくなってくる。
この階段を昇り切って屋上への扉を開けて、出入り口の鍵さえ閉めてしまえば――と階段を昇り始めて、数秒。
「――あぅっ!?」
盛大に、こけた。
踊り場でターンしようとして、別の意識が混じってしまったんだろう、と頭の冷静な部分が分析するけれど、今はそんなこと関係無くて。
「はっ……、はっ…………っ! 昇、らな、きゃ…………イチか、先ぱ、い……が……」
「ミコちゃん!」
壁にぶつかった衝撃で息が変に漏れて、急に気持ち悪くなった。背中は痛いし、目の前はチカチカするし、気を抜いたら胃の中の物が出てきそうになる。でも、私は、動かなきゃ。先輩を悲しませるなんて、嫌だ。そん、なの、いや、だ――。
必死に手で体を起こそうとして、うまくいかなくて。急がなきゃ、と思った瞬間――。
背中に、温かい感触があった。
「ミコちゃん、大丈夫っすか!? 膝とか体とか頭とかは!?」
その声は、くらくらする頭の中でも、はっきりと耳に、胸に、入ってくる。
「はっ、…………はっ…………う”…………う、ぇ…………」
「ミコちゃん。落ち着いて、深呼吸して。ゆっくり、吸って、吐いて。もう一度」
――来ないで、と言いたいのに。手でイチカ先輩を押しのけたいのに。
背中を擦る感触で、イチカ先輩の手の、柔らかい感触を思い出したら、胸がいっぱいになって、そのどれもができなくなった。
入院していたのは一月に満たないはずなのに、その温かさが、優しさが、声が、やけに懐かしく思えて、涙が出てきそうになる。
急に走ったせいで目の前がチカチカして、気を抜くと吐きそうになる。口元を必死に押さえて、物が出ないようにと必死に自分と戦ってるところに、イチカ先輩の手の温もりは不意打ちすぎた。
吐きそうで死にそうなのに嬉しい。拒絶して逃げたはずなのに追いかけてきたのが申し訳ない。いろんな感情が私の中を巡り巡ってひとつにまとまらないまま、私はイチカ先輩の手に、体を委ねることしかできなかった。
◇◇◇
「――落ち着いたっすか?」
「…………は、い」
何度も吐きそうになって、胃の中に戻して、を繰り返して。やっと視界が元に戻ったころ、すぐ近くから優しい声がした。
顔を上げる。イチカ先輩の、眉を下げた心配そうな顔が、すぐ近くにあった。
イチカ先輩に、お姉ちゃんに、こんな顔をさせてしまったのが申し訳ない、という気持ちで胸が痛む。
体は全然動かせなくて、ここから逃げられる気配がまったく無くて。イチカ先輩に、傷のことがバレちゃうのがもう避けられないと思うと、胸に包丁か何かが突き刺さる思いがする。
「もー、退院直後に全力疾走はよくないっすよー?」
そんな私に、何故逃げた、でなく。私の体調のことを気に掛けてくれるイチカ先輩の言葉が、優しくて温かくて。もう逃げられない、と。言うしかない、と。そう覚悟を決めたはずの私の心は、イチカ先輩と離れたくない、と駄々をこね始めて。
「う…………ぅっ、イチ、か……先輩…………」
その名前を呼ぼうと声を出しただけで、涙が出てきてしまった。
鼻の奥がつんとして、視界がまた揺らいでしまう。胃の中のものじゃない、別のものがこみ上げてくる。
「あ、あぁぁぁ…………イチカ、先、輩…………。わた、し…………私ぃ…………」
言うしかない。でも何を言おうか、どう言おうか――ぜんぜん頭の中で想像もできていない私の口から出てきたのは、ただの泣き声で、イチカ先輩を呼ぶ言葉だけで。
イチカ先輩が優しくしてくれるこの瞬間が、一緒に居られるのが、もうすぐ壊れてしまうと思うと、全てが怖くて、悲しくて、嫌で、逃げたくて、消えたくて――
「ぁ、あ、あぁぁ…………ぐす、ぅ、ううぅ……」
「ああもう。泣いちゃったら綺麗な顔が台無しっすよ」
ため息のあとに聞こえたイチカ先輩の声。そして顎に触れられた感覚があったかと思うと、少しだけ顔が上がって、瞼に布の柔らかい感触があった。
ぼやけていた視界が、一気にクリアになって、イチカ先輩の顔が間近に見える。
――イチカ先輩の顔が、間近、に?
「え、――あ、――――いっ、いちっ!?」
「おっとっと。暴れないで。ハンカチが傷口とか変なところに当たっちゃうじゃないすか」
――…………、きずぐちって、言った。
「そこ、まだ触ったら痛いんすよね? なるだけ触れないようにするんで、今は暴れないでいて欲しいっす」
――イチカ先輩。それ、見えてる……んですよね?
「よしよし。ちゃあんと言うこと聞いてくれる子は好きっすよ」
――どうして。……どうして、イチカ先輩は。そんな、何もないみたいに。平気で、いられる、んですか。
「ああまた。大丈夫っすか。どこか痛むんすか?」
――私の、醜い傷跡を見ても、なんで、顔色ひとつ、変えないんですか。
「痛みがあるならセリナさんのとこに一緒に行くっすよ?」
――なんで、あなたは。普段通りの、優しい、イチカ先輩なんですか。
「ミコちゃん? おーい、意識あるっすかー?」
――なんで、私を、拒絶しないんですか。こんなに、こんなに――醜い、のに。
「…………どう、して…………」
また、鼻の奥が痛くなってくる。目の奥が熱くなってくる。歯が震える。涙が、溢れてくる。
「あ、よかった。意識あるっすね。ヘイローが見えてても意識飛んでるものかと思ったっすよ」
「イチ、カ、せんぱ、い、……っ、は」
声が震えて震えてしかたがない。喉がひくっとなって、言葉が詰まる。
「なん、で……平気、なんで、すか。こんなに、きず、酷い、の、に……うっ……なん、で……ぜん、ぜ、ん、……変わ、……ら、なっ……――――っ!」
イチカ先輩の右手は、私の左前方に映ってる。それは、私の髪の毛を掻き上げているときに見える景色だ。
いつも通りの。私が怪我をする前と同じ景色だ。
怪我をした、傷跡が残る、今と、まったくおんなじ。
「あぁ。それっすか」
そう言ったイチカ先輩は、ため息をひとつ吐いて。私の顔の間近にあったその顔を、更に近づけてきた。
それどころか。
コツンと、額に軽い衝撃と、温かい温度を感じた。
「傷があったって、なくったって、ミコちゃんは、ミコちゃんっすから」
そう言って、笑う。
「私が好きな、ミコちゃんの瞳も。私が好きな、ミコちゃんそのものも。無事、戻ってきてくれたわけじゃないっすか。それが何よりの一番っすよ」
安心したように、へにゃりと笑うイチカ先輩の顔が、吐息が掛かるほど近くにある。
「ミコちゃんがこのことでもし辛かったら、辛くならなくなるまで、私が支えるっすから。どーんと、お姉ちゃんに任せてくれていいんすよ?
あと、それのことで何か言われるようなら、姉の私がガツンと言ってやるっすよ。私の可愛い妹に何言ってるんすかって。それがティーパーティでもシスターフッドでも自警団でも、私が、殴り込みに行くっす」
「――――――~~~~、どう、して。そこ…………っ、ま、で……」
喉が震えて、言葉が、上手く出てこない。イチカ先輩は、私から頭を離して、ハンカチで私の涙を何度も拭いてくれる。でも、またすぐにぼやけてしまう。
イチカ先輩の笑顔が、すぐにぼやけて、見えなくなってしまう。
「そんなの、決まってるじゃないすか。ミコちゃんが大事だから。可愛い妹だから。それ以外に、理由なんてないっすよ」
「――――――」
今の私には、イチカ先輩が目を細めて私の方を見ているのが、辛うじて見えるくらい。
どんな表情をしてるかなんて、ぼやけすぎて見えない。けど、その声は、……間違いなく、私がイチカ先輩と一緒にいたときの、いつもの、イチカ先輩の優しい声で。
今の、私の方を見ても――変わらない声で、変わらない仕草で、接してくれている。涙が、止まるどころか、嫌ってくらいに、溢れてきて。
「わたっ、し、……イチカ、せんぱっ、いの、リボ、ン……やぶ、けちゃ、って、るし……血で、汚し、ちゃっ……っ……て……」
「私の予備が家にあるんで大丈夫っすよ」
「この、……傷、ず、っと、残……ひくっ、るって、セリ、ナさんから……、っ言わ、れて。わた、しっ、イチ、カせんぱ、い、から、……嫌、われる、って。ずっ、と、ずっ……ぅ……と、おもっ…………て、て……。も、わたっ、し……イチ、カせんぱ、いと……もう、も、う――――」
「うんうん、分かった。分かったっすから、泣かないで、ミコちゃん」
イチカ先輩の手が、優しく、私の涙を拭ってくれる。
まっすぐに、私の目を見る、イチカ先輩が見えた。
「私がミコちゃんを嫌うなんて、ありえないっすよ。だって、ミコちゃんは大事な大事な、私の妹なんすから。私は、ミコちゃんがいてくれたら、それだけでいいんすよ。
だから、ミコちゃんは一人で背負わなくたって大丈夫。そのために、お姉ちゃんがいるんすから。ね?」
「………………」
喉がひくっと震える。言葉が頭の中にたくさん出てくる。ごめんなさい、だって。すみません、だって。ありがとう、だって。私なんかに、だって。頭の中ではいくらでも言える。
のに。
「――――………………っ、は、い…………。はい……っ…………」
私が言えたのは、それだけで。
イチカ先輩はそれで十分だと言うように、私の頭を引き寄せて、私の背中を優しく叩いてくれる。体が、温かいもので包まれる気がする。
イチカ先輩の優しい香りが、私を満たしていく。
「頑張ったっすね、ミコちゃん。大丈夫。もう、大丈夫っすから」
私は、もう、限界で。溢れるものが、堪えきれなくて。
「ぁ…………~~~~~~、――――――――」
泣けて泣けて仕方が無くて。
イチカ先輩の制服が濡れちゃう、と頭の中の冷静な私が忠告してくるのに構わずに。
ただ、私は泣き続けた。
仲正イチカ✕正義実現委員会のモブちゃんの長編小説、第九話です。
ミコの体の怪我はひとまず完治し、退院の日がやってきた。
誰にも退院の日を伝えず、そして誰にも会わないようにと早朝に病院を出たミコの前には――今一番会いたくない、姉のイチカが立っていた。