ミリしら転生者がアドステラで好き勝手やるだけの話 作:冬に生まれたかも
2人の男女が向かい合っている。
片方はその顔を耳まで赤らめて、もう一方は全身から滝のように汗を吹き出して、そのどちらもが動かない。
耳が痛くなる程に静寂が響いた。
どちらかが何かの動きを見せれば、それが決定的に流れを決めてしまうと言う緊張感。
しかし、両者の狙いは一致していた。
2人はただイレギュラーなこの状況において、何時もの日常の雰囲気を取り戻したかった。
急激な変化には痛みが伴う。ミオリネにそれを良しとする覚悟など、ない。
無理もない。そのタイミングが急に目の前に現れるなど夢にも思っていなかったのだから。
ようやくできた自分の居場所をそう易々と変わって行くことを受け入れられる人間がどれ程いるだろうか?
ミオリネは自分の力だけで手に入れた居場所を守りたかった。
ミオリネは父親からの庇護の代償に、多くの自由を奪われてきた。だから自分には何も無いと思っていた。
だけど面接に向かって進んだあの日からはどうだ?
そこで多くのものを得た。かけがえのない絆も、生き甲斐も、前に進む希望も。
そして今までは持ち得なかった弱さも。
ミオリネはその孤独を気高さに変える強さがあった。なのに集団の中に、ぬるま湯の中に受け入れられてしまった。
1番辛いのは、何も持っていないことだと思っていた。
だけど違った。
本当に辛いのは得た物を失うことだと気付いた。
だから、この張り詰めた空気を壊す言葉を探そうと頭を回そうとするのに、心が着いてこない。
今のミオリネの脳は目から送られて来る
タオルと前髪によって影になって見えない、恐らく額から吹き出したであろう汗が頬に浮かぶ水滴と1つになって顎まで流れていく。
そうして顎先に溜まって大きくなった水滴は、肌を離れて地面へと落ちる。
それを首を動かさずに目だけで追いかけると、視界に入ってくるのは自分には無い喉仏、筋張った首筋、浮き上がった鎖骨。
そして、出会って直ぐの頃のパイロットスーツ越しに見た時とは違う少し厚みのできてきた胸筋と、うっすらと割れた腹筋。
そこには、ホルダーになると父に啖呵を切ったあの日からの
更に下へと動く瞳が、エランの下半身を隠す真っ白なタオルを捉えたところで理性が脳に働きかけて、視線を目元まで戻す。
そうすれば、また見つかる頬を流れる雫。
そして視線は下に流れて、また上に戻る。
ミオリネはその目を閉じられ無いまま冷静さを取り戻そうと必死に頭を振り絞っていた。
そうして何れだけの時間が流れたのだろうか?
フリーズした2人の間で先に動き出したのはエランだった。
「エランの部屋で何をしてるんだい?彼なら今はいないよ?」
同じ声で、同じトーンとペースで話せばエランと強化人士の違いに気付ける人間などいない。
エランは土壇場においても、その度胸で完璧に4号の話し方を模倣してみせた。
が、この作戦には致命的な点が存在する。
「いや、アンタさっき自分のことをオレって言ってたじゃない」
「あ」
と、突然の事態にテンパっていたエランのまあ的外れな作戦は当然のように失敗に終わったが、空気を日常に戻したい思いはミオリネも同じなので、これを冗談に変えて雑談を通して段々と雰囲気を変えていく。
「まったくアンタらしく無いわね。そんなに疲れてるの?」
「ハハハ、そんなとこかな」
共同作業だ。
会話だけでもいつも通りの内容に戻していく。そうして何ラリーかを終える頃には、雰囲気を和やかなものに変えることに成功していた。
「いい加減、そろそろ服を着てきなさいよ」
「ハハハ、ごめんって。ちょっと待っててな」
そうやって、何とか一大事を乗り越えてエランは服を取りに洗面台まで戻っていく。
そして
「てかそのジャージ、オレのだよね?」
「何言ってるのよ。奪えば全部なんでしょ?もう私の物よ。嫌なら取り返してみなさい」
「良いよ。分かった分かった」
「ん、それで良いのよ」
なんて雑談を交わしながら着々と片付けを進めて行く。
進めて行く……
「ねぇ、これの続きは何処よ?」
「それが最新刊だよ」
続かなかった。
今や2人揃って、ぐだぐだとソファに並んで駄弁っている。
エランは知らないが、ミオリネは汚部屋の住人なのだ。そんな彼女が来たところで掃除が進むはずもない。
と言うか「片付けの手伝いをしに来た」なんて口実でしかなくてミオリネは、シャディクとの雑談の中で
自分は休憩時間に突撃された事がない。
──同じ会社で働いているのに。
何処で暮らしているのかも知らなかった。
──会話の中で話題にも出されなかった。
なんで合鍵を持っていない。
──4号ですら持っているのに。
だから泊まったことも無い。
──3人で徹夜でゲーム大会って何よ。皆んな忙しいくせに。
元カノが居たなんて聞いていない。
──エランは……私のなのに……
だから今日のミオリネはそういった思い出を獲得しに来たのだ。
出だしこそハプニングに見舞われたが、シミュレーションは完璧だ。
此処に何があって、シャディクや4号とどんな時間を過ごしていたかなんて全て予測した。その為に強盗と見紛うほど室内が荒れるコラテラルダメージはあったがそんな物は瑣末な事だ。
この後の予定も決めている。
今日は帰らない。
絶対に泊まっていく。
晩御飯を食べて、学園生活について話し合って、朝までゲームをするのだ。
他の誰かがエランと過ごした時間で自分も経験していない物なんて今日で無くしてやる。
シミュレーションは完璧だ。
「晩飯どうする?」
「食べてくわ。作りなさい」
「なに?冷蔵庫の中まで確認してたの?」
「アンタ、自炊してた何て意外よね」
「人生を楽しむコツは自分で決められる範囲を広げることさ。作ったげるから大人しくしててね」
「どういう意味よ」
「散らかすなってことさ。できる?」
ほら、こうなった。
そして目の前に出されたのはレトロな喫茶店で提供されるようなオムライスで、ローテーブルの上に並べられると部屋全体が上品に見えるはずだった。
そこがいつも通りの整頓された部屋で、そこに居るのがスウェット男とジャージ女でさえ無ければ。
「嫌味なくらいに美味しいわね」
「だろ?そのケチャップ、ミオリネから貰ったトマトで作ったんだぜ?」
「なら美味しくて当然ね」
「はいはい、あとそれ食べ終わったら帰れよな」
「嫌よ」
「えぇ……」
「今日は泊まってくから。それともこんな時間に1人で帰らせる気?」
「わがまま言わないの。ちゃんと送ってくからさ」
「却下ね。この後はまた会話を楽しんで、それから朝までゲームするの。そう決まってんのよ」
「えぇ……はいはい、分かったよ。仰せのままに」
この後の流れは何度も組み立ててきた。
雑談に戻して、次はエランが一向に責めてこないグラビアの件を持ち出して彼の女の趣味を笑ってやるのだ。
慌てたら揶揄って、ノってきたら知らなかった内面にグングン踏み込んで、ついでに下品な感性も矯正してやって、それで、それで、人間関係の話題に広げて学園生活の話に移行するのだ。
寮生活で、どんなことをしたいのかとか、どんな人を勧誘するのかとか、パイロット科は大変そうねとか、経営戦略科の授業なんて退屈そうだとか。
途中で会話が詰まることが有ったら、部屋中に転がっている工芸品とか本棚に有った小説の話題で盛り上がって、それらの勉強はしてきたからエランは楽しいはずだ。
もしくは、家捜し中に見つけた楽器の話題も振ってみるのも良いかも知れない。
どんな歌が好きなのかって。
私はピアノが弾けるのよって。
アンタはピアノは弾けるの?って
できないなら教えてあげるわよって。
学園に通うようになったら寮に置いて一緒に演奏するのも楽しいかもねって。連弾もしてみましょうって。
シミュレーションは完璧だ。
「それでい──
だが、そこでエランがミオリネの言葉を遮る。
「でも徹夜は無しね、明日も仕事でしょ。シーツは変えとくからベッドはミオリネが使って良いよ」
「アンタは何処で寝るのよ」
「4号のとこかな」
「嘘ね」
「何がさ?」
寝室へ向かおうと立ち上がったエランに声をかけて動きを止めさせる。
首を捻るエランに無言で圧力を放ったままミオリネが近づいてくる。
そして彼の胸ぐらを掴んで屈ませるとミオリネの手がエランの頬に触れる。
それにエランが声を上げる前にジャージの袖口を掴んで萌え袖にしたミオリネが、エランの目元を強引にゴシゴシと擦る。
そうして現れたのは青いクマだ。
「いつから気付いてた?」
「かなり前から移動中、眠らなくなったでしょ。その時から怪しいと思ってたのよ」
「それで?」
「で、アンタの家の中を漁ったら出てきたのはコンシーラー。これで確信に変わったわ」
「他の女の子のかもよ?」
「アンタの肌と同じ色だったわよ」
「ハハ、良く見てるねオレのこと」
「そう言うの良いから。どうせ眠れないなら付き合ってあげるって言ってるのよ。優しさは素直に受け取りなさい」
依然ミオリネは圧力を放ったままだ。
了承するまで側から離れないつもりらしい。
「ミオリネはオレと初めて会った日のこと覚えてる?」
「何よ突然。覚えてるわよ、当然じゃない」
至近距離で目を合わせて話す。
そのエランの瞳は疲れの色を見せずに輝いている。いつもそうだ。大事な話をする時は、この澄んだ瞳を向けられる。
初めて会った時、GUND技術の資料を渡された時も、夕焼けに照らされて学園に通う未来の話をした時も、ホルダーになると啖呵を切った時も。
この瞳だ。まるで心の内全てを覗かれているような。
「その時言ったよね?オレは社長に忠義を尽くすって。あの言葉に嘘は無いよ」
「何が言いたいのよ」
「ミオリネが何に焦っているのかは知らないけれど、オレは既に君のものってことさ」
見抜かれていた。
自分が此処に来た本当の理由を。
あの日から、他者から口を出されて、踏み込まれて、どう思えば良いのか分からなくなったエランとミオリネの関係性の名前。
彼との関係を考える時に邪魔をする父親への反抗心と、稚い独占欲を。
エランは、仲間で、親友で、家族のようで、父親みたいに頼りになって、兄みたいに引っ張ってくれて、弟みたいに手が焼けて。
エランは私のだって……思ってる。
この過積載の感情を目の前の相手に触られて心の処理が追いつかなくなる。
ミオリネは放っていた威圧感も何処かへ飛ばしてしまって震えながら後ろに下がって距離を取ろうとする。
が、それを気付かぬ内に腰に回されていた腕に阻まれて近い距離をキープされる。
「逃がさないぜ」
この顔を知っている。
父に呼び出されたあの日に、向かう途中で見せたまるで獲物を目の前にした獣のような笑顔。
こんなの知らない。
ミオリネが目を合わせた事があるのは、キラキラ輝く星のような瞳だ。ギラギラと輝く飢えた獣のような目を向けられたことなんて無い。
心臓がドクンドクンと大きく波打つのが聞こえてくる。
首筋が汗で湿る。
頬が紅潮する。
瞳が震える。
「オレとミオリネの関係はずっと変わらないって思ってたけれど、ミオリネは今日この先に進みに来たって思っていいのかな?」
「ハフ……ハフ……」
何かを言い返さなければと、懸命に出そうとする声が音にならず、無意味に息だけが漏れていく。
ただ、ミオリネの瑞々しい桜色の柔らかい唇が力なく震える。
本当に辛いのは得た物を失うことだ
急激な変化には痛みが伴う。ミオリネにそれを良しとする覚悟など、ない。
ないのに、状況が、目の前の男が、それから逃げることを許さない。
腰に回された腕がミオリネを掬い上げるように抱き寄せて、鼻と鼻が触れる距離まで顔が近づく。
口から発した音が肌にも振動が伝わる距離。ただ呼吸をするだけで吐息が当たって集中力が乱される。
「ほら、頑張って。ここから先はミオリネから進まないと届かないよ、唇」
背伸びを強要されて、
顔を逸らすことを許されず、距離をとることも許されず、腕の中はまるで檻の中のようだった。
何がシミュレーションは完璧だ。
ミオリネは自分からこの男の部屋に、獣の檻の中に入っておきながら、この展開への対応策を用意してすら、想定してすらいなかった。
目の前の彼に性的な欲求が有るのは知っていたのに、それが自分に向けられるなんて、少女が夢見るような、告白されて、デートをして、手を繋いで、キスをして、そんな甘いプロセスを挟まずに、溶けるような熱が向けられるなんて、思ってもいなかった。
そうして何もできずに震えていると突然、その腕から解放される。
支えをなくした体は下へと落ちて、ペタンと女の子座りになる。
そして、何が起きたかも分からずに目の前の男を見上げる。
目と鼻の先に腰を下ろして胡座をかいたエランはコツンと音を立てて額をミオリネの額と合わせてきた。
「どうしたの?怖くなっちゃった?」
なんて言いながらエランは顔を離すと、ミオリネも後ろに手を突いて、膝を上げて何とか少しだけ距離を離すことに成功する。
そうすると今度は長くて細いのに男の物だと分かる指が首元まで迫ってくる。
そうして、上着のファスナーの引手まで辿り着いた指はゆっくりと摘み上げたそれを下ろしていく。
「な……なに…してるの…ょ…」
「んー?ミオリネが言ったんでしょ。取り返してみなさいって」
消え入りそうなか細い声を、何とかかけても止まる様子を見せないエランをミオリネは太腿の内側をもじもじと擦り合わせながら見つめることしかできない。
「ほら、どこまで脱がせて欲しいの?いつもみたいに命令しなよ。社長命令よって自分の口でさ」
「ェ……ァ…ェ……」
言葉が作れない。
これから起こる関係性の変化への恐怖や困惑と僅かな期待で揺れる瞳は瞬きを忘れて、涙が
肩が震えて、体全体が縮こまっていくのに、顔だけは下げられない。
そうして震えながら、されるがままでいて抵抗を見せずにいる、赤らめた顔でエランから目を離さないミオリネにエランは、ニコッとミオリネが知っている暖かい笑顔を浮かべて手を胸元からパッと離して立ち上がる。
「ハハハ、イジめすぎちゃったかな?」
「へ?」
「これに懲りたらオレの部屋に気軽に来たらダメだぜ?」
「え、ええ」
弛緩した雰囲気に、もう自分を脅かすものは無いと安心してポロポロとミオリネの目から涙が
「本当に分かってる?」
「グスッ……分かってるわよ」
「あー、やりすぎたな……ごめんなさい」
そうエランは背筋を伸ばしたまま、いつもの流すような謝罪と違って深々と頭を下げて謝った。
「ウゥ……上司に謝る時は、すみませんか申し訳ありませんでしょ。私は社長よ」
「はい、申し訳ありませんでした。……でも次また此処に来たのならミオリネは、オレのものになりに来たって判断するからな」
それだけ言って寝室を整えに行くエランを見送ってミオリネは、理解した。
今、自分はエランとの間に明確に線を引かれたのだと。
その線を彼の側から超えてくることは無い。彼との関係性が変わるのは自分が彼に進んだ時だけだ。
変化を恐れて踏み出せないことを見抜かれて、何時迄もベルメリア・テクノロジーズの中で出来たぬるま湯に浸かっていたいと思っている弱さを見抜かれて、その上で線を引かれたのだ。
そう茫然としていると遠くからガチャリと鍵の閉まる音が聞こえてきた。もうエランは此処から出て行ってしまったのだろう。
1人残された部屋の中で起こった事態に感情が追いつかないで、必要なことだけをして無機質な時間を過ごした。すっかり冷めてしまった料理を平らげて、シャワーを浴びて、持って来ていた寝巻きに着替えて、床に就いた。
寝具からはエランの匂いは感じられずに、ただリネンの爽やかな香りだけが漂っていた。
だからミオリネは心を落ち着けて、そっと目を閉じたのだった。
2人の関係は停滞を選ばされた。
後日、ミオリネから合鍵を回収する際に、エランの部屋で何があったのか要領を得ない説明を聞いて、朧げに全体像を把握したシャディクは独りごちる。
「エラン……汚したな、ミオリネを」