注意:なんでも許せる人向け。
本文中にオリ主の挿絵があります。自分でイメージしたい人はすっ飛ばしてください
1.『スクラルタ』の手記
『フリーレン。私は君の物語の世界に産まれ堕ちてしまっていた。いまさらどうすればいいというのだろう。私は君に会うべきだっただろうか。そうすれば、全てに諦めがついたのだろうか』
フリーレンは、唐突にあらわれた自分の名前に翻訳の手を止めた。
もしかすると、からかわれているのだろうか。
いいや、そんなことはないはずだ。この状況自体、偶然が積み重なっただけなのだから。
仲間の死をきっかけに、フリーレンが旅にでてからはや数年。珍しい魔法のうわさを聞きつけて北側諸国を巡っていた道中で、突然に猛吹雪に見舞われた。
視界はあっという間に白く染まり、村落も近くに存在しない。
フリーレンは、命の危機を迎えていた。
寒さに凍えながら、一抹の望みをかけて行った全力の魔力探知。極限状態でようやっと見つけた、幻なのではないかと思うほどの幽かな反応に、フリーレンは藁にも縋る思いで足を向けた。
凍死を仕掛けながら歩き続け、世界から隠れるように建てられた、小さな屋敷にたどり着く。ぶるぶると震える手でなんとか戸を数度叩いて、そしてフリーレンは意識を失った。
目を覚ますと、茶色のくせ毛を豊かに蓄えた、琥珀色の瞳の少女が介抱してくれていた。
その少女は、寒さに震えるフリーレンをとても親切に世話をしてくれた。それだけでなく吹雪が止んだ後も、冬が過ぎ去るまでの間、快く泊めてくれることになった。
何か恩返しがしたいと言ったところ、それならばと頼まれたのは、古びた手記の翻訳依頼。
少女は記憶を失しているらしく、その手記のなかに手がかりがあるのではないかと思っていたが、この屋敷にある他の本とは違う言語で書かれたその手記を、少女は読むことができなかったようだ。
手記はとても古い言葉で書かれていた。確かにこれは、フリーレンのような長命種の魔法使いでなければ解読できないだろう。
似たような手記は書斎に何十冊と収められているらしく、もしそれも翻訳してくれるならばと、少女は報酬まで約束してくれた。独自の体系で創られた、生活のための魔法を教えてくれるだけでなく、翻訳期間中の身の回りの世話までしてくれるらしい。
フリーレンはいちもにもなく承諾し、書斎にこもり始めて今に至る。
全ては偶然が積み重なっただけのはずだった。
…そろそろインクも乾いただろうか。
フリーレンは翻訳した紙を手に取ると、古びた手記の一項目である部分に、あらためて目を這わせた。
『知らないうちに名前すら思い出せなくなっていた。
どうやら私は長く生きすぎたらしい。この屋敷をたててから、もう千年以上が過ぎている気がする。あるいはもっとだろうか。いつからか時間の流れなど意識しなくなっていた。
何千年たっても老いることはない。
飲まず食わずでも死ぬことがない。
私は理外の存在だ。誰とも同じ時間を過ごせない。そう気がついて世間を離れ、のんびりとした生活をし続けた。暮らしはあまりにも穏やかで、何もかもを忘れることができた。自分すらも、忘れてしまえた。
日がな一日、書斎にこもって魔法の研究をしたり。迷い込んだ動物たちと話しては、楽器をつくっては演奏会をしたり。温室をつくって品種改良を繰り返しては、懐かしの料理を再現しようとしたり。
まるで童話の登場人物のようだと自分のことを笑ったこともあったが、悲しいことに、今となっては笑えそうにない。
別に自分のルーツなど忘れたところで不都合はない。しかし、知らない間に自己が欠落していたと言葉を変えると、なんだか本能的な恐怖に襲われる気がした。
だからこうして手記をつけることにした。これを読み返したときに、私がどんな人間か思い出せるように。
もちろん、何百冊も書くわけにはいかないから、大事なことだけだ。忘れたくない感情や、懐かしいと思える記憶だけを残すつもりだ。
そういうわけでこうして一ページ目を書いているが、うんうんと唸り、頭を悩ませている。
私がどんな人間かという漠然とした問いをどう扱えばいいのか、わからないのだ。
他人を通じて自分を知るとか、何かの歌のように、誰かに丸投げできればよかったが、あいにく誰もかれも寿命でくたばってしまって、私の知り合いなんてどこにもいない。
つまり私が頼れるのは、すっかりぼけた自分の頭だけというわけだ。なんとも荷が重い話ではないだろうか。
ぱっと思いつくのは、名前、性別、故郷、種族。あとは似姿や、特技もいるのだろうか。困ったことに、ほとんどがはっきりとしていない。
名前、思い出せない。
性別、男とも女とも言い切れない。
故郷、だいぶ前に滅んだらしい。
種族、人間…だったらいいな。
描写できるのは、似姿と特技くらいだろうか。
似姿、これはずっと変わっていない。
若い女の身体。
茶髪でくせ毛。
琥珀色の眼。
そこそこの身長。
髪と爪だけは伸びる。
特技、長生きしたからたくさんある。
棒術、淫らな意味ではない。
魔法、特に生活系のやつ。
語学、動物とも話せる。
祝福、病気とか治せる。
料理、一家言持っている。
他にも特技は書こうと思えばいくらでも出てくるけれど、ページが埋まりそうだからやめておく。
自分のできることを書き記すのも大事だが、まず思い出したいのは過去の自分だからだ。
最初だし、遡れるだけ、遡ってみようと思う。
たしか私は、スクラルタ*1という村で生まれた。あまり豊かではない場所だった気がする。もう数千年と前のことで、国ごと魔物に(いや、人族同士の戦争だったか?)滅ぼされて無くなったらしく、よく覚えていない。
私はそこではただの村娘だった。
余分な記憶を持って産まれた普通の女。昔はそう言い切ることに抵抗があったが、さすがにもう慣れた。
両親は、どこにでもいる普通の人間の夫婦。今となっては、顔も、名前も、声も…何もかも忘れてしまった。なんて呼ばれて、なんと呼んでいただろうか。悲しいことに、わからない。
ふと、朧げな風景が思い浮んだ。
子供のころ、私が薪割りを買って出て、何本か割っただけで父に手が痛いと泣きついた。ごつごつとした手が私を撫でて、それから母に引き渡されて、赤くなった手のひらを母に治してもらった。こんなことがあった。いや、あっただろうか?
…あまり深堀するのは、やめておこう。これが妄想なのか、記憶なのか、判別がつかなくなりそうだ。
なんにせよ、私は成長が止まるまでそこで育ち、最初の夫と結婚して(させられてが正しいか)しばらく暮らした。いつまでたっても子供ができなかったから、ずいぶんと扱いが悪かった気がする。
そのまま時間がたって、何年たっても若年のまま姿が変わらないことに気がついて、私はまともじゃないという話になって…そして村を出ることにした。追い出されたんだっか? まあ結果は同じだ。
なんにせよ、私はふらふらと旅をする羽目になった。
永い旅だった。惨いめにもあったし、いろいろと苦労をした気がする。でも、楽しいことや、幸せを感じた瞬間もあった。どれももやがかかったように、思い出せないけれど。
旅の終わりに、私はこの屋敷を立てた。そうだ、思い出した。帰る家が欲しかったんだ。時の流れに打ちのめされないで済む、私の家が。
こんな大事なことまで忘れていたとは、まったくとんだやる気のない頭だ。
しかしそうか。旅か。旅があったか。
こうして考えこんでも思い出せないのならば、いっそのこと開き直ってゆかりの地でも探しに行けばいいのか。似たような光景を見れば、いろいろと記憶が蘇るかもしれない。名前だってそうだ。旅をしているうちに他人と話せば、そういえばと思い出すかもしれない。
悪くない考えだ。うん、悪くない。
自分探しの旅にでるなんて、なんだか“===”*2みたいで恥ずかしいが、それでもわくわくしている。
そうと決まれば、久しぶりに旅道具をひっぱりだしてこよう。埃どころじゃないだろうから、修繕しなくてはいけない。ああ、それから誰かと会うなら名前も必要か。せっかく思い出したんだし、故郷の名前でも借りておこう。もう誰も生きてないだろうし、怒られる心配もない。
とりあえずの仮名は、スクラルタ。そしてこの手記は、私が自分を振り返るための、さしずめ冒険の記録の一項目になるわけだ。
冒険に出る理由は、自分探しとボケ予防。なんだか、私らしさというやつを感じられて、悪くない気がした
*3フリーレン。私は君の物語の世界に産まれ堕ちてしまっていた。いまさらどうすればいいというのだろう。私は君に会うべきだっただろうか。そうすれば、全てに諦めがついたのだろうか』
少しの間、フリーレンは瞑目する。
翻訳している最中、ずっと考えていた。この手記はいったい、なんなのだろうか。
何千年前に生まれた不老不死の人間が、永い旅の果てにこの屋敷を建て、自分を忘れるくらい永く暮らし、自分を思い出すために旅に出た。
まるで御伽噺のような、荒唐無稽な話だ。
だというのに、まったくの噓っぱちであるとも思えない。この手記は、少なく見積もっても千年以上前から複雑な魔法によって保護されてきたと、卓越した魔法使いであるフリーレンにはわかってしまう。
…手記の主は、いったい何者なのだろう。
はるか昔にこの手記を書き始め、最近(百年前後の範疇であれば、フリーレンにとっては“最近”だ)ここに戻ってきて、フリーレンに向けた謎の文章を追記をした人物の正体とは、いったい…。
フリーレンのまぶたの裏に、この手記を手渡した少女の姿が浮かんでくる。
茶髪でくせ毛。琥珀色の眼。そこそこの身長(フリーレンよりはずいぶん高いが)をした、人間の若い女。手記の主が記していた特徴と一致している。
では記憶を失くす前のあの少女こそが、この手記の主だったのだろうか。
それを簡単に認めることは、フリーレンにとってははばかられることだ。人間の寿命は、長く見積もっても八十年ほど。この手記が書き始められたのは少なく見積もって千年以上も前。この手記を、ただの人間であるあの少女が書けるはずがない。
…それこそ、少女が不老不死でもない限り。
普通に考えれば、こんな馬鹿げた仮定を信じることなどできない。
不老不死の魔法は語り継がれてこそいるが、その実在は証明されていない。歴史上の多くの権力者たちが、血眼になって探したにもかかわらずだ。あの少女が不老不死であるなどと、いったいどうして信じれよう。
しかし、ありえないと断ずるのもまた、傲慢だ。千年以上を生きたエルフであるフリーレンでも、この世の全てを知っているなど、口が裂けても言うことができない。
魔法。呪い。女神。魂。
この世界には、まだ解き明かされぬ未知が溢れている。
そして、この屋敷は明らかに未知の存在だ。右を見ても左を見ても、魔法の収集家であるフリーレンでさえ見たことのないような、独自の魔法体系をした古い魔法がかけられている。
となれば、そこに住む少女もまた普通ではないかもしれない。こんな僻地でひっそりと、記憶を失くした少女が誰にも悟られず暮らし続けてきた。そう考えてみれば、不可思議な話だ。
フリーレンですら知りえない、古く厳かな未知の何かが絡み合い、屋敷と少女を残したと仮定するのならば、少女が不老不死の人間であるという、荒唐無稽な疑惑もまた……
「否定することはできない、か」
フリーレンは翻訳した紙を手に、席を立った。
きっと、あの少女は何も覚えていない。
すこし話しただけでも分かるくらい、少女は外の世界について無知だった。この屋敷から一歩も外に出たことがないという言葉は、嘘ではないのだろう。それを不思議にも思っていない以上、少女が記憶を失っているのは疑いようのない真実だ。
それを分かっていながらも、フリーレンは少女に問いかけたくなっていた。
記憶を失う前の少女が、この手記の主だとするのならば、この手記について、屋敷について、少女自身について、追記について教えて欲しい。そんな気持ちが抑えられるなかった。
はやる好奇心を宥めながら、リビングへ足を踏み入れる。
そして視線の先に少女の茶色の癖毛を見つけて、声をかけようとして……フリーレンはそのまま黙り込んだ。
ぱちぱちと火のともる暖炉の前で、少女は穏やかな寝息を立てていた。
窓の外を見れば、もう真っ暗だ。書斎にこもりきりで気がつかなかったが、夜はとうにふけていたらしい。
おおかた、少女はフリーレンが翻訳を終えるのを待っているつもりだったのだろう。
そばには読みかけの本と、眠気覚ましの飲み物が置いてあり、なんとか起きていようとした痕跡が残されている。残念ながら眠気に抗えずご覧のありさま、ということらしい。
傍にあったブランケットを少女にかけてやりながら、フリーレンは茶色の髪をそっと撫でた。
すうすうと呼吸をもらしながら、あどけない顔で眠る少女について考える。
この少女の仮名は、スクラルタ。
数千年の時を生き、記憶を失くした不老の少女。
今はただ、世界から隠されたようなこの屋敷で、一人穏やかに暮らしている。
スクラルタの寝顔を見つめながら、フリーレンはぽつりとつぶやいた。
「ま、明日でいいか…」
あくびを漏らしながら、伸びをする。
何も焦ることなどない。
どのみち、時間はたっぷりとあるのだから。