ソリテールと一緒に暮らすようになって、どれくらいの時間が過ぎただろうか。案外、一年も経っていないような気がする。日記を書いていたころは……日記と言いながら別に毎日書いていたわけではないけれど、例えば身近な石だとかに毎日傷をつけて、時間の経過をしっかりと把握していた。けれど、アウラとの再会以来、完全に時間感覚を失ってしまった。
魔王様が倒されて何年経ったのかを調べればすぐに分かるのだけれど。
「さてと。朝ごはんだよ。簡単なものだけれど」
食事を用意してソリテールに振る舞う。そういった日常が、今は愛おしい。そこにアウラがいないことが、何よりも虚しい。
ソリテールが座っていた椅子のすぐ横にあるテーブルに朝食を運び、フォークとナイフも清潔な布巾に包んで置く。
ソリテールは読んでいた魔導書から顔を上げて、お礼を言った。こういった当たり前の行動の一つ一つにお礼を言ってくれるのが、ソリテールの良い所だった。相変わらず、あまり性格がいいとは思わないけれど、変なところで行儀がいいと言うべきか。
ソリテールは知ってはいたけれど研究熱心で、賢い。以前から人間との会話――正しくは自らの研究が出来る事を幸せだと語るだけの事がある。
彼女の希望を受けて日本語の読み書きを教えたところ、会話は以前教えたことがあったとは言え、あっという間に覚えてしまった。
「今日の予定を覚えてる?」
朝食はフレンチトースト……この世界にフランスは無いから、ドロールトーストと名付けても誰も怒らないよななんてくだらない事を考えていると、ソリテールが言った。
「ソリテールの研究でしょ? 覚えているよ。村を一つぶっ潰すんだよね」
「……平気なの?」
「なにが?」
「…………」
それきりソリテールは黙ってしまって、俺は何度も質問を繰り返したのだが、答えてくれることは無かった。
■
村の襲撃をソリテールがしている間、俺は逃げた人間の足止めや口封じが担当だった。
村の出口にやってきたのは三人だけ。男女と小さな女の子の、たぶん家族だ。
逃げて来た人間の足を確実に潰して、ソリテールを待つ。ソリテールは村の中で彼女の研究をやっているだろうから、のんびりと。
「なんで……お願いします……許してください」
ソリテールと少しでも離れている時間が耐え難くて、正直、何か命乞いの様なものを話し続けている村人たちの声はほとんど聞こえていなかった。ひたすらにソリテールが来るのを待って、一日千秋なんて言葉があるけれど、俺にとって一秒がこれまでの生涯に匹敵するほどに長く感じられる。
「ドロール。それで全員?」
やってきたソリテールに、すぐに抱き着く。ソリテールは俺にキスをしてくれた。
どこか唖然とした表情でこちらを見ている村人たちに、なぜか優越感を持った。
「私とお話しましょう?」
家族の方を向いたソリテールは手を合わせて、可愛らしく言った。
「まずはお名前を聞いてもいい? それと生い立ち。君たちは家族なのよね……? 血は繋がっているのかしら。あまり顔立ちが似ているようには見えないわ。そうだ、今朝は何を食べたの? お昼は何を食べる予定だった? それから――」
ソリテールが研究をしている間、俺はなんとなく空を眺めていた。不自然なほどに青くて不快だ。子供の描いた絵の空みたいに一色で塗られて、雲ひとつ浮かんでいなかった。
「ドロール」
ソリテールから不意に声を掛けられる。
先ほどから悲鳴が聞こえていた。血の腥い、吐き気を催す嫌な空気が広がっている。辺りが朱い濃霧に包まれているみたいだ。一度瞬きすると、世界は綺麗なままで、血の霧なんてものは存在していなかった。どうやら幻覚を見ていたらしい。
地面には綺麗な血が池のように広がっていたけれど。
「どうしたの?」
「ドロールは魂の研究をしているのよね? 役に立つかもしれないわ」
ソリテールは、俺が足をつぶした家族の内の二人……娘と父親を殺して、母親の四肢を切り取っていた。女性は、先ほどからうわごとのように謝罪と命乞いとを繰り返していて、もうソリテールが研究できなくなったらしい。
「ああ……そうか……俺は魂の研究をしていたんだっけ?」
そう。アウラを生き返らせるために、魂の研究を続けていた気がする。
もう自分の魂というものを感覚的に理解出来て、やっぱり人間のそれと一緒だという事までわかっているから、新しいサンプルは必要なかったのだけれど、せっかくソリテールが譲ってくれるというのだから、研究しないと勿体ない。
「じゃあ、殺すか」
なるべくゆっくりと殺して、魂が抜け出るところを観測しないといけない。ソリテールの剣を受け取って、女性の胸に向ける。なんだか違和感。
違和感の正体を探ろうと、一旦目を瞑る。
あの日の光景が蘇った。胸に大きな穴を開けられて、そこからぼたぼたと肉と臓器を零しながら、口の端から血を垂れ流し、悲しそうに笑ったアウラの姿。アウラを失ったときの悲しみと、無力感。自分の無能さを嘆いて、しかも愛娘が死ぬ原因を作ったのがほかならぬ俺自身だと悟って、耐えがたいほどの、あの感情を何と言うのだろうか。自分に向く殺意は、きっと何か人間の言葉では言い表せない、未知の衝動だった。
急に目が見えるようになった気がする。今までの、どこか映画を眺めている感覚と違って、現実だったと理解した。
目の前でうつろな顔をして、ぶつぶつと言葉を垂れ流している女性が、今まさに俺のせいで家族を失って、これから己の命すらも奪われようとしているのだと、やっと理解した。
急に胃の中身が逆流して、女性に吐瀉物をかけてしまった。女性は汚いものを見るように、「うわ……うわ……」と体についたそれを気にしているのが、どうにも場違いなようで、また現実味がなくなる。
吐き癖みたいなものが出来ているらしい。ずっと吐いていたから、戻しやすくなっていたんだ。
「ドロール……」
「あ……あ……ごめんなさい……出来ません。殺せないです…………」
だらだらと涙を垂れ流す。鼻水と一緒に胃液が出て、異臭がした。
俺はやっと罪悪感を理解できたんだ。
漠然と分かった気でいたけれど、今までは理解していなかった。きっと、俺の前世の人間たちも、この世界を生きる無辜の民も、真に罪悪感を理解している人は多くない。
これでソリテールに見限られたらどうしよう。殺さなきゃと、使命感の様なものが湧く。
それでも殺せない。胸を裂くような痛みを人に与えるこの恐怖は、両方味わって初めて悍ましい。
「あの……ソリテール……えっと……」
でも、俺にはもう、ソリテールが必要だった。ソリテールに見捨てられたら、俺は生きていけない。
人間一匹殺せない俺を、ソリテールが捨てるのは簡単に想像できた。
ソリテールは俺に近づいて、両手で俺の頬を包むようにして力強く挟んだ。身体を擦りつけるようにして、ゆっくりと時間をかけて、まずは舌を出して見せた。それから、俺の閉じた唇を舌でこじ開けてキスをした。
吐いたばかりで汚い。ソリテールを汚してしまうと思って、慌てて後ずさりするが。
「ん」
すぐに追いかけてまたキスをされた。
「ごめんなさい。ドロールは何も考えなくていいの。私に選択を委ねてくれればそれでいいわ。今は……そうね。しばらく向こうに行ってて?」
「あ……やだ…………そんな……」
「……あなたを捨てたりしないわ。じゃあ、目を瞑って?」
言われたとおりに目を瞑ると、両耳を手で塞がれた。それでも、肉を裂く生々しい音と、溢れるはらわたの臭いは隠しきれなかった。
ソリテールと再会したあの日の夜以降、俺はソリテールと性行為をしていない。今でもあの日の事を思い出すだけで、やっぱり自分の事が嫌いになる。もしも子供が出来たら、アウラとは別の自分の家族を、俺は受け入れられない気がした。
ソリテールにもそのことを話したけれど、もともと魔族には家族なんて概念はないでしょうと言われて、それからあなたがしたい時に言ってくれればいいと付け足された。
その晩も、ソリテールと一緒のベッドに入って眠る。ソリテールがいつも本当に眠っているのか、俺は知らない。俺は眠る習慣があるし、毎晩眠る。アウラもなるべく人間として育てたのだから眠っていた。ただ、ソリテールはどうなのだろうか。俺が眠った後、寂しい思いをしていないといいな。
ソリテールの身体に性的な魅力は感じるし、つい触れてしまう。胸に手を当ててみたり、腰から尻、太ももにかけてを撫でてみたり。やっぱりソリテールは俺にされるがままになっているので、急に罪悪感を覚えてやめる。
「自分のものだなんて思えないよな……思いたくもないし」
「どうして?」
「人間は手に入れたものを軽視しがちだし、それゆえに失う印象があるから……」
「そういった話はたまに聞くわ。人は手に入れたものを失わないと大切だと気が付かないって、定型文みたいなものを。人間の物語でも、直接言っているのも、聞いたことがある」
人間の習性。考えてみれば、自分の手元にあるものをずっと気にしていたら新しいものを探しに行けない。人間の生存にその方が有利だったからこそ、手に入れたものをどこか雑にしてしまうのだと思う。
魔族にはあまりそういった習性がない気がする。もしも平穏に、今あるものだけで幸せに生きようとした時は、魔族の方が優れているのだろう。そこに人間が大切にしている精神性がないだけで、余程精神構造も魔族の方が優れているような気がした。
ソリテールはまたいろいろと考え事を始めてしまった俺に気が付いたのか、優しく頭を撫でて。
「今日はゆっくり休みましょう?」
「うん……そうする。おやすみなさい……」
■
その日ドロールは寝言を言った。ソリテールの言う寝言というのは、彼が眠りにつく直前のうわ言の様なものも含まれているから、それは意味のない言葉ではなくて本心が漏れ出たものなのだと思う。
今日も体を求められることは無く、ただ寝苦しいからという理由で互いに裸身であれども、汗一つ浮いていない綺麗な肌のままで、ソリテールはドロールの頭を撫でていた。
「うぅ……アウラ…………ごめんなさい」
彼の精神が限界に達していることは、あの日すぐに分かった。今でも眠るたびに涙を流して、必ずアウラの事を言う。
そのことにソリテールは複雑な感情を持った。自分では理解がまだできないものでも、僅かに顔をのぞかせつつあるのが面白い。
あの日、間違ってもドロールに死んでほしくなくて、完全に支配下に置こうとした。そういう考えに至った自分の思考が、今ではあまり理解できていない。
ソリテールは確かに、ドロールに好意を抱いている。それは友達に持つものと同じで、けれどそれを最大限に強くした感じ。死んでほしくはないけれど、彼や人間の言う愛情とは何かが違う。もしもドロールを犠牲に自分が助かるのなら、迷わずそうするだろう。
「まずは、マハトの所に連れて行こう」
罪悪感というものを全く感じたことが無いけれど、ある程度は知識として把握できている。そのうえで、それを感じやすい人間と感じにくい人間がいることを知っていて、目の前の人間がどちらか判断することも出来た。ドロールの持つ罪悪感は、今まで見た人間と比較しても強い方だ。
もうドロールが共存を望むことが無さそうで安心している。そもそも、強い目的意識すら持てなくなっている様子だ。
マハトも、きっと真に共存を望んでいるわけではない。罪悪感を理解する結果として、共存を望む未来があると言うだけの事。ただ、共存が危険な思想であるという結論に変わりはなく、可能ならばマハトを殺してしまいたい。ドロールとの共闘ならば不安はないが、この状態のドロールがマハトとの戦闘で役立つとは思えない。が、上手く利用してマハトに罪悪感を持たせれば、今度はソリテールの方が有利になる。
「……?」
なんだか違和感を感じて、ソリテールは首をひねる。不思議な感じがした。言いようのない不快感。
どうして? いま、ドロールを利用しようと考えた時に、何か――
「アウラ……ごめんなさい……」
またドロールがつぶやいて、ソリテールは止まっていた手を再び動かして、彼の身体を撫でてやる。
友達と一緒にいると楽しい。人間とのお話で多くの事を知れると幸せになる。
不思議とドロールの側は、それらを常に感じられているみたいで、居心地がよかった。
もう死んだ魔族の名前をずっと呼び続けていることに、変な苛立ちがある。理由は分らない。たぶん、意味のない行動を取る愚者へと感じるもの。間違ったやり方で延々と試行錯誤をする鈍間を見た時に感じるものと一緒なのだと思う。
「大丈夫よ。私のドロール……ふふ」
頭を撫でて、頬ずりして、こっそりキスをして。
不思議な笑いが零れて。
またドロールが小さく寝言を言った。
「ごめんな……フリーレン……」
「……………………へぇ」
次回はたぶんクリスマス明けです。よいクリスマスを。
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