【書籍化】残影の英雄 ~俺が死んだらみんな曇るとか聞いてない~ 作:龍川芥/タツガワアクタ
『
それは10年前、突如として世界を襲った黒い霧。
各国の主要都市を覆った瘴気は有毒であり、更に『
しかし世界は滅びなかった。瘴気を吸った人間の中に、魔塵に有効な未知の力を扱える者が現れたのだ。なぜか成長期の少年・少女しか得られなかった力『
そして現在。
日本の首都・東凶を囲むように建設された、異能者を育成する三つの学園により瘴気の脅威はそれ以上拡大しないよう押し留められているが、未だ23区内は魔塵蠢く人外魔境である。
だがそんな魔境の中にも、「人の街」と呼べる場所がある。
街の名は『
「フッ、フッ――」
獣は走る。
「『ノラ』が出たぞ! 食料品を盗まれた!」
「誰かソイツを捕まえてくれ!」
背後から飛ぶ怒りの声。
それに背を押されるように獣は走る。四足で人の間をすり抜け、壁に屋根に俊敏に飛び乗って逃走する。
空の色は毒の紫。
薄く降る陽光の下、海沿いにある汚れた街を獣は駆ける。
コンクリートジャングルとすら言えないスラム街は、しかしその獣の狩場だった。
まばらな人混みは小柄な獣の障害物にはならず、道の脇に乱雑に積み上がった建物たちは俊敏な獣の足場となる。
故に、追手が追い付ける道理は無かった――その獣が広く嫌悪されていなければ。
「――ギャ!?」
どが、と獣の腹に衝撃が走った。
脇をすり抜けようとした人間に横腹を蹴られたのだ。
が、と苦悶の声を漏らして吹き飛ぶ獣、ソレが体勢を整え起き上がる前に蹴りつけた男が組み付き、獣を道に引き倒す。
「このガキ、今度は何を盗みやがった!」
「横流し品の
男が暴れる獣を押さえつけている間に追手も追い付いて来た。
獣は藻掻くが、己を押さえつけている恰幅の良い男とは3倍以上の体重差があり、その腕の拘束から逃れることは容易ではない。
骨を折らんばかりに腕を脚を掴む男の腕力。徐々に迫ってくる追手の足音と息遣い。
――危機。
「狩り」に失敗して捕まればどうなるか、獣は体で知っていた。
だから。
「グルゥ、アアアアアアアアッ!!」
獣は力の限り吠えて、己の爪で組み付いていた男の腕を切り裂いた。
「ぐあ!」
舞う鮮血。苦悶の声。
それらの一切を意に介さず、獣は力の抜けた拘束から脱して再び街を走り出す。地面に落ちていた獲物を、商人から盗んだ食料品をしかと銜え直して。
たんっ、と地を蹴り、露店のせり出した屋根から更に跳躍、配管を足場にして壁を駆け登る。
あっという間に3階建ての建物の屋上に登った獣は、眼下の道を一瞥。
「クソッ」
「相変わらずなんて素早さだ!」
追手たちに己と同じような機動力が無いことを確認し、獣はそのまま屋上を伝って逃走を再開した。
瞬時に3階ぶんの壁を駆け登る身軽さ。そんな獣を追える者は居ない――
どが! と屋上の板が捲れる。
3階建ての高さを跳躍し獣の前に現れたのは、とてもそんな身軽さなど持っていなさそうな男。
「ふぅぅ……『ミアズマ』もタダじゃねえんだが……業者らにゃ世話になってるし、ウチのシマで起こった問題を放置しとくと若頭にドヤされるしな……」
「おいチビ、人の言葉分かるか……? 大人しく捕まれば殺しは――」
大の大人だろうと震え上がるだろう脅迫。
だが男は愚かだった。獣に脅しが通じる道理などないのだから。
獣は迷いなく逃走を選んだ。
四足が生み出すその俊敏さを以て、するりと男の脇をすり抜ける――。
「――おっと……」
轟音。
それは、羽虫を潰す光景に似ていた。
衝撃が上から獣の背を貫き、腹から屋上まで抜けて建物全体に響く。
獣の胴を叩きつけた巨大な手。人間離れした膂力を見せつけた左手は、そのまま叩きつけた獣の首根っこを掴んで持ち上げる。
「人の言葉は通じねえのか……どうするかな。殺しちまっても問題なさそうだが、一応若頭に確認取った方が良いかねえ……」
獣は小さく、巨漢の腕なら片手で掴めるほど細かった。それが首であれば猶更だ。
獣が己の首を絞める手を外そうと藻掻いても、流血する程爪を立てても、太い五指はびくともしない。
万力の如き力で掴まれた獣の首からみしみしという嫌な音が響く。呼吸が出来ず苦悶の声が喉から漏れる。それに何の反応も見せず、男は空いた片手でスーツの中の無線機を取り出そうとし。
「ガアッ!!」
獣が吼え、首を絞める手に噛みついた。
鋭い牙が肉を裂き、骨に届くほどに深く食い込む。
だが。
ぎゅう、と一層強まる腕の力。
「……あーあ、ひでーことしやがるなぁ。『ミアズマ』で痛みを感じねえとはいえ怪我は怪我だぞ。獣はダメだな、やっぱ……思いやりが足りねえや……」
ふぅー、と大きく溜息を吐く男の口からは、空気と共に黒い瘴気が漏れていた。
「ガ、ァ……ッ」
獣は知っていた。口から黒い霧を吐く、瘴気と同じ匂いのする人間は危険だと。
だがもう遅い。強烈に首を締め付ける男の手は今にも骨ごと気管を圧し潰さんばかりで、獣の意識は遠くなるばかり。再び爪を突き立て激しく抵抗しようとも男の手は緩む気配がない。
「うん、やっぱ殺しとくか……こんな獣が居たんじゃ危ねえしな……」
みしり、更に込められた力が強まる。
真っ黒な痛みに呑まれていく獣の視界。その喉から吐き出されたのは弱弱しい鳴き声。
「ォ、カ、サ……」
「……うん?」
ふと男は力を緩めた。
「なんだおまえ、やっぱり喋れんじゃねえか――」
獣はその一瞬の隙を見逃さず、最後の力で再び男の手に噛み付いた。
当然、先と同じく男に痛みは無い。傷は傷ではあるが、痛みがなければ怯むことも無い。
だから、男の手から獣がするりと抜け出したのは別の理由だった。
「お……?」
男の左手、握力の要である親指。血に塗れたその指からは一切の力が失われていた。
先の噛み付きの際、親指の付け根、靭帯を鋭い牙に切り裂かれていたのだ。
獣は知っていた。これまでの命懸けの経験で人体の弱点を学んでいた。
野生ならざる知恵によって危機を脱した獣は、しかし野生そのものの衝動を以て躍動する。
即ち――命を脅かす外敵を死力で排除する為に。
「ガァッ――!!」
男の喉笛に喰らい尽いた獣は、そのまま男の頸動脈を食い千切った。
一瞬の事だった。男にはスーツの下に隠した銃を抜くような時間すら与えられなかった。
両者の命運を分けたのは「痛み」。
痛みがないから傷の重大さが分からず、また危機感を失った男と。
過去の無数の痛みに学び、また痛みがあったから死力を絞った獣。
どう、と男の――男だった死体が倒れる。
大量の返り血を浴びた獣は、何をするよりも先に大きく咳き込んだ。窒息寸前だった喉に溜まった二酸化炭素を吐き出し肺に酸素を押し込む……それは先の一撃が無呼吸で行われたことを意味していた。
本能による判断。獣の直感と知恵との合わせ技。
それにより体の大きな強敵を倒した獣には、しかし勝利の遠吠えをする余裕もない。
近寄ってくる足音。瘴気の混じった人の匂い。
獣は逃走を決めると、戦いの中で落としていた食料品を銜え直した。死体――仕留めた大きな肉には一瞥もくれずに。
獣は人肉は食べなかった。食べた事が無かったし、食べる気もなかった。それが毒――瘴気の匂いがする肉なら猶更だ。
「――ッ」
足音が近寄ってくる前に、獣は四足で逃走を始める。
見通しの良い屋上から入り組んだ路地に入り込み、狩場である街を誰よりも身軽に移動する獣を追える者はもう居なかった。
獣は走る。
「クソ、ウチのが1人殺られた!」
「ノラの奴、遂に死人を出しやがった……!」
「追え! 追って殺せ! あの
獣は走る。
背後から飛ぶ怒りの声、人間と言う天敵たちから逃れる為に。
喰う為に奪う。
生きる為に殺す。
生き延びる為に逃げる。
人が住まう海辺の街の中で、その獣は憐れなほどに野生であった。
表通りはやにわに人が集まり出していた。
ざわざわとした喧騒は更に人を呼び寄せる。家の中に籠っていた者、売れない露店の店主、そして通りすがりの者――砂鉄を集める磁石のように、人だかりは大きくなっていく。
そんな中、その男もまた喧騒に惹かれて足を止めた。
「……これは一体何の騒ぎだ?」
周囲の様子に訝しげな顔をする彼の独り言に、近くに居た中年の男が反応する。
「ああ、ノラの奴が出たんだと。捕まえようとしたヤクザのニイちゃんが殺されたらしい。こりゃ今度こそ黒服連中が駆除に動くだろうなぁ」
「――『ノラ』?」
「あんた知らねえのか? ……その恰好。成程、逃亡者か」
「……まあそんなところです」
中年の男の指摘に、彼は素直に頷いた。
彼の羽織ったボロマント、その下から覗くのは「制服」。隠しきれなかったソレを見られた以上言い逃れは出来ない。東京湾スラムに訪れる学生が持つ背景などひとつしかないのだから。
「仕事が欲しければ組合の貨物船に行け。異能者ならそれだけで歓迎されるだろうぜ」
「ありがとうございます。そうしてみます」
素直に頭を下げる礼儀のなった少年……スラム街にあまり居ない人物に好感を抱いた男は、珍しく善意と、あとは多少の損得勘定で提案する。
「俺も商人みたいなモンでな、組合には多少だが顔が利く。話を通しといてやるよ。あんた、名前は?」
その問いに。
黒髪で右目に眼帯を付けた、災玉国防学園高等部の制服を着た少年は。
「
どこか陰のある表情でそう名乗った。
【Tips】
《東凶湾スラム (とうきょうわん・すらむ)》
東凶最大規模のスラム街であり、数多の反社会的勢力が異能の力を頼りに犇めき合う規格外の悪性魔境でもある。
魔塵が積極的に狙わない海沿いに建てられた街は細長く、人々は10年前の瘴気災害前から建っていた建物などを流用して暮らしている。また海上に浮いた複数の船舶も街の一部として使用されており、地上の「港街」よりも治安・安全性共に高いので、「船街」と呼ばれスラム街内でも地位の高い組織や住民が根城としている。
「港街」の治安は発展途上国レベルで、特殊な薬物なども横行しているようだ。