【書籍化】残影の英雄 ~俺が死んだらみんな曇るとか聞いてない~ 作:龍川芥/タツガワアクタ
――物心ついた時から自分は獣だった。
鮮明に憶えている中で最初の記憶は、路地裏に捨てられた残飯を必死に喰らったこと。
鼠や蠅と共にゴミを漁り、空っぽの腹を満たしたときに、この生は産声を上げたのだろう。
二本足で立つことはしなかった。
四足の方が動きやすかったし、地面に落ちた食べ物を見つけるのにも都合が良いから。
言葉を覚えることはできなかった。
話しかけてくれる人はおらず、背に叩きつけられる怒鳴り声は聴く余裕など無かったから。
人として生きることは不可能だった。
ゴミに塗れて汚れた異形の子供は、余裕の無い街の人間たちにとっては汚い獣そのものだったから。
残飯と鼠や虫では足りず、飢えに苦しみ死にかけたときが決定的な決別だった。
空腹で倒れた路地の中、死骸に集る蟻を見て獣は学んだのだ。
「喰うか喰われるか」――それがこの世の摂理だと。
その日、初めて盗みを働いた……否、それは獣の狩りであった。
命からがら逃げ延びた先で奪った魚を喰らい、自分は遂に獣として完成した。
その日までは、母のことも朧げながらに思い出していた。顔も名前も知らぬ母との記憶は、ただ己を抱いてくれたその手の温かさと、胸いっぱいに吸い込んだ良い匂いだけ。
そのことを考えると胸の奥がやけに冷たくなった気がして、その度鳴いて母を呼んだ。ただ、どれだけ鳴いても答える声も抱きしめる腕もなかったので、そのうち母のことは思い出さなくなった。
誰かに抱かれる夢を見る代わりに、誰かから奪う方法を考えた。
胸を満たす朧げな思い出よりも、腹を満たす為の獲物を探した。
生きることに必死になるほど、生き抜くことが上手くなるほど、あの温もりを思い出す機会は減っていった。
けれど、不思議なことに。
あるいは死を覚悟するほど痛めつけられたからか。
今日は久しぶりに、母に抱かれる夢を見た――。
「……ゥ」
目を覚ます。
一瞬、まだ夢の中に居るのかと錯覚した。
体に触れる感触は、いつもと違い硬くも痛くもない。
飛び込んでくる嗅いだことも無い不思議な匂いと、それに混じった人の匂い。
聴こえてくる街の音は普段よりずっと近い。
そして、目を開けば見覚えの無い天井。
そこは室内だった。
閉じられた扉、硝子の嵌った窓……四角く囲まれた空間は逃げる為の隙間がないせいか、自分にとっては酷く窮屈に感じられる。当然、こんな場所に好んで入るハズが無い。
何かが起きている。理解したのはそれだけだが、微睡む意識を覚醒させるには充分だった。
起き上がり、自分の体を確認する。と、ずきりと全身に痛みが奔った。
「――ッ」
気を失う前の最後の記憶、黒い服を着た人間たちに捕まり殺されかけたときの恐怖を思い出し、喉から呻き声が漏れてしまう。
慌てて周囲を確認……室内に人間の気配はない。安堵し、四足で構えて状況確認を再開する。
……体が、白い。
変な匂いもこびりついている。
自分の体はこんな色では無かったハズだ。
余りにも大きな違和感は、しかしより大きな危機感によって塗り潰された。
空腹だ。
思えば黒服たちに追われる原因となったのは、街の異変を感じつつも空腹に耐えきれず狩りに出たからだ。狩りに失敗し気を失ってからどれだけ経ったのか……空腹は限界を迎えていた。何でもいいから腹に入れろと生存本能が叫んでいる。
こうなると体の色が違うことなど二の次で、食べられるものを探す為に肉体の全機能が動員される。
幸運にも、それはすぐに見つかった。
室内、机の上……食べられない皮で覆われたソレは、幾度も狩った
すぐさま飛びつき、
見知らぬ
……だが。
『このバカ犬が!』
叫び声が聴こえた気がして、びくりと肩を震わせる。
……外はどうなっているのだろう。あの扉の先には黒い服の人間たちが待ち構えていて、自分を再び捕まえて殺そうとするのでは。
そんな匂いなどしないのに、どうしてもそんな恐怖を拭えない。あの怒声を、彼等の顔を思い出すだけで、未だ尾を引く痛みが一層存在感を増して全身を苛んだ。
見知らぬ場所で食事をするか、塒へと戻るため扉を開けるか。
……迷った末、前者を選んだ。
ぴり、と食べられないつるつるした皮を破り、中の
茶色く四角い塊を食べ終えるまであまり時間はかからなかった。
床に零れた破片まで舌で掬って腹に納め、喉が渇いたので置いてあった水を銜える。こちらもつるつるした皮に無理矢理喰らいついて歯で穴を開け、上を向いて中の水を飲み干した。
腹が満ち喉が潤うと、途端に思考に余裕が出てくる。
まず気になるのは体のこと。
付着していた泥などが殆ど落ち、肌の色が白くなっている。髪や手足の先に生えた毛も色が薄くなり、随分軽くなった気がする。だがこの嗅ぎ慣れない、あんまり美味そうでもない匂いが全身に染みついているのは不快だ。
そして周囲の状況のこと。
四角い室内にあるのは、
そして、扉。ドアノブを捻り押すか引くかすればそこから出られる、というのは知っている。だがやはり、外のことを思うと全身を悪寒が包み込む。痛みと罵声を思い出し、どうしても体が動かなくなる。
……よほど酷い怪我でもしたのだろうか、自分は。殴られることも蹴られることも多々あったが、こんなことは経験したことが無い。
怪我なら治るまで隠れて大人しく耐え忍ぶしかない、と判断し、再び室内を見回す。隠れられそうな場所は……先程まで自分が寝ていた柔らかいものと床の隙間くらいか。
仕方なしにそこに身を潜り込ませながら、怪我を治す為休息を取ることにした。
部屋に漂う人間の匂いのことは、何故か目を瞑ると気にならなくなった。
がちゃり、という音で耳を立てる。
すぐに目を開ければ、誰かが部屋に入って来たのが隙間から見えた。
その人間は靴を脱ぎ、荷物を置き、そして不意にこちらに意識を向ける。
「……なんだ。出て行って無かったのか、おまえ」
言葉の意味は分からない。
分かるのは、その人間がベッドと床との隙間に潜んだこちらに気付いているということだけ。
「飯は食えたみたいだが……足りなかったのか? 何にせよ死んでないなら良かった――」
ぎしり。人間がこちらに近付いて来る。
瞬間、最近自分を襲って来た人間たちの姿が脳裏にフラッシュバックする。
『やっぱ殺しとくか……』
『このバカ犬が!』
恐怖は覚悟に。獣の四肢に力が籠る。
世の摂理は「喰うか喰われるか」――殺られる前に殺るしか、ない。
「ガァッ!!」
狭い隙間から飛び出、こちらに近付いてきた人間の喉元目掛けて飛び掛かる。狙いは首、一撃で頸動脈を食い千切り息の根を止める為の跳躍。
そんな、慈悲なき獣の強襲は。
相手がどこからか出した槍の柄を嚙ませられ。
そのままベッドに押し倒されることで失敗に終わった。
「……ッ、落ち着け。俺に敵意は無い」
――強い。
人間には右眼と右腕が無かった。それでも片腕で掴んだ槍の力で、自分は抑え込まれている。
嚙まされた槍の柄は硬く噛み砕けない。
両手で槍を押しても振りほどけなかったので、相手の槍を掴んだ手の甲に爪を立てた。
爪が人間の肉に食い込み、血が溢れる。だが槍に込められた力は弛まない。
「ガァア……ッ」
ならばと足を振り回し、立てた爪にあらん限りの力を籠める。放せと、死ねと叫ぶように。
そして。
ぼたた、と頬に血が落ちてきて、そこで初めて人間と目が合った。
「――落ち着いてくれ。頼む」
静かな、本当に静かな声だった。
深々と刺された手の甲から流血して尚、痛みに呻くことも声を荒げることもしない。顔に僅かな怒りも宿さない。こちらを押さえ付ける槍にも殺意はなく、抑え込む以上の力は入っていない。
穏やかな静止の声は、そして繊細な力加減は、言葉が分からないからこそ声音に込められたものを純粋に感じ取れて。
その隻眼――こちらを見つめる真っ黒な瞳に、獣は夜の
静かな、夜。寂しく、冷たく、しかし深くて優しい闇。
恐ろしい人間たちを眠らせ、そして自分をも眠りという安寧に誘う平等な時間。
異形の姿を責めるように照らし出す太陽に代わり、何も照らさない月を戴く無情の
ソレは、獣が知る唯一の美しい
知っている
自分を解放して立ち上がり、如何なる原理か槍を消した人間――武器を失ったその姿は隙だらけなのに、なぜか反撃を選べなくて。
そうして獣は、逃走も排除も封じられ。
何をすることも出来なくなって、逃げるように狭い隙間に潜り込んだのだった。
……『ノラ』がベッドの下に逃げ込んだのを見て、俺、
「(敵意が無いことは伝わったか)」
拾った彼女を大雑把に洗い、ベッドに寝かせ食事を置いて家を出てから8時間ほど。組合の仕事から帰宅した俺を待っていたのは落ち着ける1人の部屋ではなく、そこに居付いた猛獣だった。
「(正直、『ノラ』がまだ室内に留まってたのは意外だな……すぐに出ていくものと思ったが、ベッド下が気に入ったか? それとも)」
ワンルームの部屋にある唯一の扉をできるだけ大袈裟に指さす。
「おい、分かるか? 扉はそこだ。鍵もかかってない。そこから外に出れるぞ」
……呼びかけるが、反応は無い。警戒して出てこない、というよりは……。
「……言葉が通じねえのか。それに」
部屋を見回す。
床に散乱した
「常識も、だな」
床の水溜りから穴の開いたペットボトルの残骸を拾い上げそう呟く。蓋を開けて中身を飲む、というやり方を知らず、横から銜えて歯で穴を開け零れる中身を飲んだのだろう。知能が高いのか低いのか……。
おそらく『ノラ』は野生動物と同じだ。街全体からそう扱われ、本人もそのように育った。だから言語も知識も習得していない。まあ納得は出来る……限りある食料を盗む異形の
ならば、とプラゴミをゴミ箱に捨て、先程示した部屋の扉を開けてみる。外の風が室内に流れ込んでくるのはノラにも伝わっただろう。
「分かるか? ここから外に出れるんだが」
言葉が分からなくとも、体感でも分かるような伝え方……だが、やはりノラはベッドの下から出てこなかった。何かを警戒しているような低い鳴き声が聴こえた気もする。怪我でもしているのだろうか……俺は医者じゃないからそこまでは分からなかったしな。
異能者にとって怪我が軽いイメージがあるのは『保健室』の影響が大きい。だが治癒系の異能者の力がなければ、異能者は人より多少体が頑丈なだけだ。一般人にとって全治2ヶ月の怪我が全治1ヶ月になる程度の誤差……異形化した異能者や星五級だと変わるのかもしれないが、少なくとも俺にとってはそういうもの。
もし骨でも折っているならこの部屋に留まるのも納得は出来る。だが先の攻撃で見せた俊敏さは骨折した人間のものでは無かった気がしたが……。
まあ良い。好き好んで奴を拾ったのは俺だ。出て行かないからといって不満を言う資格などある筈もない。
「……寝るならベッド使って良いぞ。飯は出す分以上はやれん。体は勝手に洗ったが、できるなら自分で洗ってくれ……ちっ、やっぱ伝わってねえんだろうな、これ」
一応そう呼びかけながら、俺はソファに腰を下ろした。学園なら即廃棄レベルのぼろいソファだがサイズは充分、俺はこれを寝具にすればいいだろう。
持ち帰って来た
先程襲い掛かって来たノラの姿を思い出し……俺は思わず頭を抱えた。
「せめて服は着てくれねえもんかな……」
やはり常識は通用しない。
裸を厭う感性すらない獣の視線を感じながら、俺は隻腕で頭を抱えた。
ずきり、ずきり……右眼は一日中痛み続けていて。
先程刺された手の甲の傷は、とっくに瘴気で塞がっていた。
時間は流れ、夜。
影宮エイト――人間が眠りに付いた気配を感じてたっぷり30分。
身動ぎひとつせず寝息を立てる彼の様子を見計らって、ようやくノラはベッドの下から這い出て来た。
ベッド前の床に置かれた、
「……」
人間は目を閉じ眠っている……規則的な寝息や匂いから、少なくともノラにはそう見えた。
ノラはこの人間に対する警戒を解いていなかった。それは差し出された食料にも手を出さず、ベッドの下で警戒の姿勢を取り続けたことが証明している。
ノラにとってこの部屋は有用だった。
この人間は強い……あの黒服たちよりも。本気で殺しに来られれば、逃げれない限り敗死は確実だろう。それにあの黒服たちと同じような瘴気の匂いが、ほんの僅かだけではあるが感じ取れる。
あの夜を思わせる瞳は今は閉じられ、静かな声は聴こえない。ならば彼はもう只の
この人間を殺せば、しばらくこの部屋の中は安全になるだろうとノラは直感する。更にノラは異形化の影響で怪我の治りが早い……今ある食料でも5日は耐えられる、それだけあれば「怪我」も完治はせずとも、外に出られるくらいには回復するだろうという判断もした。
たべものを差し出され、殺そうと襲い掛かったのに敵意さえ向けられず、睡眠をとって無防備になるというのに己を部屋から追い出さなかった。
それらの行動に恩義を感じて手は出さない――それはあくまで「人間の価値観」。
彼女は紛れもなく、野生に生きる獣である。
ノラの根底にあるのは野生の教え。
「喰うか喰われるか」。彼女が生きた世界にはそれしか無かったのだから。
「……」
音を立てないようにゆっくりと、獣は攻撃の為の姿勢を取る。
構えは四足。狙いは首の頸動脈。跳躍して喰らい尽き、牙で血肉を食い千切って絶命させる。爪で肉を抉った感触的に充分可能だとノラの本能は判断した。
獣が鋭い牙を剥き出す。
人間は向こうを向いて寝息を立てている。
獣が四肢に力を籠める。
人間は何の反応も見せず眠ったまま。
きっと獣が飛び掛かっても、人間は何の動きも見せず殺されるだけ――。
あるいは、物音ひとつあれば違ったかもしれない。8年間魔塵と戦い抜き磨かれた生存本能と警戒心が、物音ひとつで彼を眠りの世界から引き戻した可能性は十分にある。
けれど獣は、そんな愚を犯せる程に甘い世界では生きていない。
無音の臨戦。気配なき殺意。それが野生の必須技術。
獣は知っていた……死神に足音は無いのだと。
人と獣。間違いはきっと前者にあった。
肉食獣の前で眠りこける人間など、愚か者としか言いようがないのだから。
だから、その襲撃は成功する。
「母、さん……」
ぴたり、と。
ノラの動きが凍り付いたように停止した。
人の言葉は分からずとも、その「鳴き声」だけは知っていた。その悲しみに満ちた音は、己も幾度となく口にしたのと同じだったから。
嗚呼、つまり、それは。
「喰うか喰われるか」の世界において、唯一自分を喰らおうとせずに抱きしめてくれた……そんな温かさに飢える者の、決して叶う事なき
誰かに抱かれる夢を見る代わりに、誰かから奪う方法を考えた。
胸を満たす朧げな思い出よりも、腹を満たす為の獲物を探した。
――それでも、忘れきれなかった。今日もまた思い出してしまった。
獣は、未だ獣に成り切れず。
彼女は静かに踵を返すと、乱暴に床の
ソファの上で横になった人間と、ベッドの下で丸まった獣。
今はまだ埋まらない両者の溝はしかし血濡れず、ただ微妙な距離であり続けるのだった。