【書籍化】残影の英雄 ~俺が死んだらみんな曇るとか聞いてない~ 作:龍川芥/タツガワアクタ
鳥の鳴き声と共に朝が来た。
窓の外では目覚めた街が昨日の喧騒を思い出すかのように活動を始める。
そんな外の様子とは裏腹に……
「幾日か」、と言うのは自分でも時間の感覚が曖昧だから。果たしてあれから1日か、1週間か、1ヶ月か……夢の中にいるような、生きながらに死んでいるような、そんな感覚に全身が支配されていて、日が昇った回数などまるで数えられなかった。
というより、あの日どうやって帰って来たのかも覚えていない……いや、「帰って来た」とは滑稽だ。この部屋も中の家具もわたしのものじゃない、全てはエイトのものなのだから。
あの日。
気付けば気絶していたわたしが目覚めたとき、路地に残されていたのは血の匂いと流血の跡だけだった。
わたしが■したエイトの姿はどこにもなくて。
だからだろうか……なんだか置いて行かれたような、捨てられたような気分なのは。
「……エイト」
ぎゅ、と膝を抱くのもこれで何度目だろう。ちっとも温まった気がしないのは、もっと温かいものを知ってしまっているからだろうか。
その温かいものに触れる機会は、もう二度と訪れないというのに。
「……ぅ」
涙は出なかった。いつの間にか出なくなっていた。
動く気力もなかった。ずっとソファの上で縮こまっていた。何度か暴れたような気もするが、夢の中での出来事だったかもしれない。
食欲もなかった。何度か食事した形跡はあるが、何を食べたのか記憶がない。おおかた家の中にあったものだろうけれど。
何かをした覚えもなかった。これからどうするかの展望もなかった。
嗚呼――わたしには何もない。
だって、エイトがわたしの全てだったから。
傍に居ることが生きる意味だった。
役に立つことが生きる目的だった。
その声で名を呼ばれることが、眼差しで見詰めてもらうことが、温かい手で触れてもらうことが、わたしの幸せの全てだった。
だから、わたしはからっぽになった。
何の意味も持たない伽藍洞になった。
そして、世界の全てもまた同じ様に。
エイトの「おはよう」が無い朝に意味はない。
エイトの役に立てないのなら動く理由もない。
エイトの居ないわたしの人生に、価値はない。
生きる理由が、なにもない。
生き延びたいとも思えない。
なんで生きているのか、それさえもう分からない。
一体何度こんな思考を繰り返したのか。
10か。100か。
それでも答えが出せないのは、きっとエイトが居ないから。
もしもエイトがこの場に居たら、わたしにすぐに答えを、優しさを、生きる理由をくれたハズだ。
そうだ。結局全部エイトだ。
エイトが居なきゃ、わたしは全部が駄目なのに。
そんなエイトを、わたしは――。
「――ぅ」
思考する脳を咎めるように、腹の底から喉へと気持ちの悪いものがせり上がって来て。
急いで流し台に辿り着いた瞬間、堪えきれずに。
「おえ"……げぇ……っ」
吐いた。
胃液がシンクを流れ落ちていく。
喉が痛い。お腹も。頭も。
……でも、何も起こらない。
無性に寂しくなって、その場に蹲って動けなくなった。
また、涙は出なかった。
いつの間にかまたソファで眠っていた。
窓の外は明るいけれど、日が回ったのか同じ日なのかも分からない。
別に分かった所で何かが変わる訳ではないけれど。
室内の食料は少し前になくなっていた。
それでもわたしは部屋を出る気にはなれなかった。
少しでも過去にしがみついて居たかった。
でもそれはきっと、既に消えた火で暖を取るのと同じことで。
この部屋には離れられないほど沢山の思い出が染み付いているのに、彼と2人で居たときと比べると、今はずっと暗く冷たくて。
けれど、カイコという人間は願う。
カイコの入る棺桶は、最後に眠る終の住処は、幸せの匂いが微かに残るこの部屋であるべきだ、と――。
――どんどん。
唐突に響いた扉を叩く音が、閉じかけた瞼を覚醒させた。
部屋の扉が何者かによって叩かれたのだ。更に、がちゃり、とドアノブの回る音。
「わ、鍵空いてる。せんぱーい、入るっスよー」
知らない声……入って来たのは見覚えのない若い女。いや、この匂いはどこかで嗅いだ気がするが、思い出せない。ただ本能で警戒の姿勢を取る。
彼女は薄暗い部屋の中にわたしを見つけると小さく悲鳴を上げ、その後わたしを知っていたのか警戒を解いて尋ねて来る。
「えーと、カイコちゃん、スよね? エイト先輩は一緒じゃ……なさそうっスね。えーと、カイコちゃん。その、影宮エイトさんがどこに行ったかって知ってるっスか――」
「――!」
瞬間。
わたしは女の脇をすり抜け、部屋の外へと飛び出していた。
「ちょ、ちょっと!?」
「――」
逃げる。我武者羅に駆ける。
あれだけ離れたくなかった部屋から離れていく矛盾。
それでも、無我夢中で体は動き続けた。
気付けば大通りの中。すり抜けるのも難しい往来にぶつかってようやく足が止まる。
「はっ、はっ……」
往来の中で立ち尽くす……思い出したかのように息切れの苦しさが肺を締め付ける。
行きかう人々が猜疑の籠った視線を向けて来るのが分かったが、自分の行動の不可解さに最も困惑しているのはわたし自身だった。
わたしは依然、あの部屋から離れたくなんてない。往来も、人の視線も、陽の光も喧騒も潮騒も汽笛も居心地が悪い。
それでも、あの瞬間――。
何か、致命的な何かが起こる。そう本能が強く叫んで、思わず飛び出してしまったのだ。
とは言え、当然行くあてなどない。体に力も入らない。既に途方に暮れている。
帰ろう。さっきの人間ももう去っただろう、あの部屋で眠ろう……そう、心に決めて。
――往来の中。
視界の端に、見慣れた人影が横切るのを見た。
ボロ布を外套のように纏い、フードを深く被るようにして顔を隠していたけれど。
その姿を、匂いを、わたしが間違えるハズもない。
だってそのひとは、依然わたしの全てなのだから。
「エイト――?」
立ち尽くすわたしに気付かなかったのか、人影はするりと狭い路地に消えていった。
――追いかける。
ふらつきながら、道行く人にぶつかりながら、それでも転んでなどいられなくて。
人影を追って路地に入り込む……路地の奥、角を曲がった影がちらり。
「エ、エイト!」
枯れた喉で出せる精一杯の声で呼びかける……が、届かなかったのか人影が戻って来る気配はない。
慌てて人影が曲がった角まで、足を縺れさせながらなんとか走る。
「まって、いかないで……!」
叫び、人影が曲がった角を曲がり。
光の届かない薄暗い路地裏には、人の姿など影も形も無かった。
陽炎のように消え失せたその姿を、けれど諦めることなどできなくて。
「どこにいったの……!? まってよ……!」
必死で、走る。
匂いがした気がする方へ。音が聴こえた気がする方へ。
入り組んだ路地裏を出鱈目に曲がり、時に元の場所に戻りながら陽炎を追う。
「おいていかないで……! いいこにするから! やくにたつから!」
叫ぶ。喉が裂けんばかりに叫ぶ。
あの角の先に居る彼に、あの屋根の上で待つ彼に、どこかに隠れた彼に届くように。
「エイトといっしょなら、ほかにはなにもいらないから……っ!」
無我夢中で叫び、走り。
それでも影宮エイトは現れてくれない。
叫びながら走っていたからか、何かに躓いてどたりと転んだ。
足に力が入らない。立ち上がれない。
それでも影宮エイトは現れてくれないから、わたしもまた叫ぶことを止められない。
「ごめん、なさい……っ! けがさせてごめんなさい! わがままいってごめんなさい!」
言葉は雪崩のように。
ちらついた希望によって、堰き止めていたものが決壊し。
遂にわたしは。
「ころして、ごめんなさい――」
言って、しまった。
認めてしまった。
あれからずっと現実感が無かった。否、本能が現実を直視することをどこかで拒否していた。
自分は置いて行かれた、捨てられたのだと思い込もうとしていた。
その方がまだましだったから。
だって、現実は。
「ごっ、ごめん、なさい。こ、ころっ」
フラッシュバックする
ぶるぶると手が震える。あの感触を覚えている、手が。
瞼の裏には落ちる首。耳が捉えた今際の言葉。
それらを今鮮明に、強烈に記憶として思い出す。
この幾日か、必死で遠ざけていた現実が遂に追い付いて来て。
改めて、否、遂に、馬鹿な幼子は理解させられた。
――影宮エイトは死んだ。わたしが殺した。だから、もう二度と会うことなどできない――。
ぽきり、と。
「ころ、して」
心が折れた。
否、死んだ。
エイト。わたしの全て。
それが死んでしまったのだから、死んだと理解したのだから……わたしもまた、死んだのだ。
「え、ぃ」
そしてわたしは心を喪って。
言葉もまた失って。
本当の本当に、カイコはなんにもなくなって。
「――」
……。
……。
……。
……嗚呼。
……おなか、すいたな。
影宮エイトの失踪からひと月。
『組合』の長はその報を耳にすることとなる。
――最近見なくなっていた『ノラ』が再び出没するようになった。
――食料を盗まれる被害が頻発している。
――盗みを止めようとして、何人もの人間が怪我を負っている。
それから、東凶湾スラムの街には、夜な夜な獣の遠吠えが響くようになった。
遠吠えはどこか物悲しく、子供が泣いているようだったと言う――。
獣、慟哭す。
主を失ったその獣は、憐れなほどの野生に戻った。
需要調査
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加筆修正(九瀬らとの交流などを追加予定)
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続き(漆門寺ナナ暗殺編予定)